ひとりはイヤ…
…
眠ることが出来ないワタシは、なんとかシンジの五感を遮断する方法を会得した。
そうしておいて、何も考えないようにして過ごすの。
シンジが寝ている間、ワタシは独りぼっちになる。
孤独には慣れてるはずなのに、間近にシンジの鼓動や息遣いを感じていると寂しくってしょうがない。
だから、引き篭もる。何も感じなければ、孤独も感じない。
強ければ、独りでも生きていられると思ってた。でも、実際には強ければ強いほど…ううん、強がれば強がるほど、独りぼっちになっていったような気がする。
ほとんど一心同体と言っていいほどにシンジを身近に感じられる今では、だからこそ独りで居るのがつらい。
これは、ワタシが弱くなったんじゃないと思う。
ワタシが、孤独ってモノをよく解かってなかったから。自分から周囲を拒絶して他人を遠ざけておく程度のことを、孤独だなどと思い込んでたのね。
孤独でないことを味わってなお、放り込まれる孤独とは、比べ物にならないもの。
何も考えないようにしているはずなのに、ついつい思索が脳裏を満たす。
独りぼっちで考えるのは嫌。時間が経つのが、遅くなるもの…
…
『こんな夜中に、何してんの?』
シンジが起きてるらしいことに気付いたワタシは、後先なしに声をかけてしまった。…きっと、嬉しかったんだと思う。
『…アンジェ?』
途端に、シンジの心臓がきゅっと縮こまったような気がした。
えっ? ワタシ、なんかイケナイこと、した?
…
こんなに真っ暗なのに、シンジは明かりもつけずになにやら水に手を浸している。かすかに見える周囲の輪郭から、バスルームだと判った。
シンジは、洗面器で白い布を洗ってたらしい。この肌触りは… ブリーフ?
…
『シンジ、アンタまさか…おね』
「違っ!…」
ワタシの声を遮るように上げられた否定は、だけど言い切られることはなく…
止まってたんじゃないかと思わせてた心臓が、遅れを取り戻そうと早鐘を打ち鳴らす。シンジの頬が、急速に熱をおびる。額から流れ落ちるのは、ねっとりとした脂汗だった。
心外だと言わんばかりの口調から、おねしょではないのだろうと思う。だけど最後まで言い切れなかったのは、夜中に大声を張り上げることへの遠慮じゃあなさそうな…?
シンジの視点は安定せず、酔いそうになる。ちらり、ちらりと視線が左に振られるのは、なにかの葛藤の表れかしら?
…
オンナノコじゃあるまいし、オトコノコが夜中に下着を汚すなんて…と考えてて、一つだけ思い当たった。保健体育の時間にそう云うことを習ったような気がするし、ワタシだって14歳のオンナノコなんだから、歳相応に耳年増だった。
『 …キモチワルイ』
反射的に漏らした言葉ほどには、本気で嫌悪を覚えたってワケじゃない。ただ、シンジの男の部分を見せつけられて、相対的にワタシが女だってコトを突きつけられたことに対する拒絶だった。
シンジが嫌なんじゃなく、男と女というモノ、自分が女だって事実に嫌悪を覚えた。自分という存在に、外しようのないオンナって云う枷がついてるのに耐え切れなかったの。
なにより、肉体を失くしてシンジに憑りついてるっていうのに、未だに女であることへの嫌悪を捨てきれてない愚かな自分が嫌だった。
しばらく、自分への憎悪で固まってたんだと思う。気付くと、常夜灯だけのシンジの部屋。
シンジの手からぽとりと落とされたのは、たぶん、固く絞ったブリーフ。
なげしに掛けてあったハンガーから制服を引っ攫ったシンジが、無言で着替えてく。
『…シンジ?』
滅多に使わないグリップバッグを取り出して、黙々と財布やSDATを詰め込み始めた。
『…何してるの?』
静かに部屋を後にしたシンジが、足音を殺して玄関へ…
『ねぇ、ドコ行こっての…?』
靴を履いて、一瞬だけ廊下の奥。きっとミサトの部屋のほうを、見やった。
『ちょっと待って!さっきのは違うのっ!』
だけど、伸ばされた手はためらいなく開閉スイッチを押す。
『シンジ!お願い、ワタシの話しを聴いてっ』
夜明け間近の夜気は冷たかったけれど、シンジの手足の冷たさを強調するばかりで…
『違うの!さっきのは違うの!お願い、ワタシの話しを聴いてっ』
踏み出したシンジの足音が、全ての終わりを告げる鐘の音に、聞こえた。
****
始発の環状線に飛び乗ったシンジは、大音量でSDATをかけっぱなしだった。夜になってぶらついたのは、喧騒うずまく繁華街。そうして辿り着いたのは安っぽい映画館で、効果音ばかりが盛大なB級スペクタクルをオールナイト上映していた。
その選択のどれもが、語りかけようとするワタシへの拒絶の表れかと思うと、無性に悲しくなった。
≪ だめです、津波がきます!秒速230mで接近中! ≫
ぼんやりとしていたシンジの視界が、急に焦点を取り戻す。視線の先に、いちゃつくカップル。
≪ 先生!脱出しましょう! ≫
やにわに立ち上がったシンジが、ロビーに避難した。
…やっぱり、気にしてんだ。
長椅子を見つけて横になったシンジは、ほどなくして寝息をたて始める。
いつもなら孤独を苛むだけのシンジの寝息が、なぜか嬉しかった。
呼びかけても応えてくれないことは変わりがないのに、寝ている今は不可抗力だからと己を誤魔化すことができる。
偽りの安息だと判っていても、縋りつかずには居られない。噛みしめるようにシンジの鼓動を数えて、夜を明かした。
****
前日とは打って変わって、シンジは静かな、人影のないトコロをさまよった。山、田んぼ、ひまわり畑…
『…』
ワタシは、シンジに呼びかけることすら出来なくなってたわ。
静かな場所で話しかける言葉は、砂地に水を撒くような虚しさでワタシを打ち据える。シンジが、ワタシを拒絶してるんじゃなくて、ワタシを無視してるんだと思い知らされて…、哀しい。
拒絶なら、少なくとも招かれざる存在として認識されてんだもの。存在の認識すらしてもらえないことを思えば、それですら…
「ああ、一度でいいから、思いのままにエヴァンゲリオンを操ってみたい!」
焚き火の炎の向こうに、バカケンスケ。
「やめた方がいいよ。お母さんが心配するから」
「ああ、それなら大丈夫、俺、そういうの居ないから。…碇と一緒だよ」
バカケンスケなんかと普通に会話を交わすシンジの姿に、シンジの心の中には、ワタシが居ない。ということを痛感させられた。
『お願いシンジ!』
狂おしさに突き動かされて、再び口を開いた。
『ワタシの話しを聴いて!ワタシを無視しないで!謝るから、謝るからっ!』
何度も繰り返した言葉を、今また。
『だからワタシを見て!ワタシを無視しないで!』
ワタシの声は届いているはずなのに、
『死ぬのは嫌。自分が消えてしまうのも嫌』
遮りようのない心のコトバなのに、
『お願いシンジ!ワタシを殺さないでっ!』
シンジは眉一つ顰めなかった。
『…いや』
イヤなのに。
『嫌…』
嫌いなのに。
『…イヤ…』
…シンジの傍に居たいのに。
『独りはイヤぁ…』
…居場所がなくて、閉じ篭るしかなかった。
****
…ひとりはイヤ
何も感じない状態のはずなのに、違和感がなかった。
それはつまり、感覚を遮断しようがしまいが、今のワタシにとっては違いがないってコト。
…
失ったモノの大きさに、今さら気付く。この茫漠な虚無が、ワタシの全てだなんて…
なにもかも取りこぼしたかのような喪失感は、もしかしたら死 そのものなのかもしんない。
死をイメージすると、必ず思い出すのが、天井からぶら下がってたママのこと。
嬉しそうなその顔が、とてもイヤだった。だから死ぬのは嫌。自分が消えてしまうのもイヤ。私を消したからママは嫌。ママのこと見捨てたパパも嫌!パパみたいなのばっかりかと思うと男の子も嫌!みんなイヤなの!
誰もワタシのコトを護ってくんない。一緒に居てくんない。
だから、一人で生きると決めた。ワタシは一人で生きる、と。パパもママも要らない!一人で生きるの。ワタシはもう泣かないの!
でも、嫌なの!辛いの!
ひとりはイヤ…
1人はいや、 ひとりは嫌、 独りはイヤぁ!
****
そこに戻れば孤独を突きつけられると知っていて、でも、この虚無にも耐えられなくて…、遮断していたシンジの五感を受け入れた。
だけど、それは、ワタシが弱くなったワケじゃない。
ワタシは、もともと弱かったんだ。それに気付かない…ううん、気付きたくなかっただけで。
自ら孤高を保っていると嘯いて、寂しいのは、自分が選び取ったからだと己を誤魔化していた。寂しいのは、選ばれた者ゆえの苦悩だと虚勢を張っていた。
だけど、今は… 自分が弱いと自覚した今は…
だから、拒絶されてもいい、無視されてもいい。ただ、他人の存在を感じられるだけで、それだけでよかった。
「この2日間ほっつき歩いて、気が晴れたかしら?」
「…ええ」
狭くて、暗い空間だった。視線は何を求めるでもなく、下方に。
「エヴァのスタンバイできてるわ。乗る? 乗らないの?」
「叱らないんですね、家出のこと。当然ですよね、ミサトさんは他人なんだから」
目の前には、切り取られたように照らされた床。コントラストが質感を削いで、硬度を増している。
「もし僕が乗らない、って言ったら、初号機はどうするんですか?」
伸びた影は、きっとミサトの。
「レイ、が乗るでしょうね。乗らないの?」
「そんなことできるわけ無いじゃないですか。彼女に全部押し付けるなんて。大丈夫ですよ、乗りますよ」
「乗りたく無いの?」
「そりゃそうでしょ。第一僕には向いてませんよ、そういうの。だけど、綾波やミサトさんやリツコさ…」
「いい加減にしなさいよ!」
ミサトの怒声に、シンジが思わず面を上げた。向けた視線の先に、肩を怒らせたシルエット。
「人のことなんか関係ないでしょう!嫌ならこっから出て行きなさい!エヴァやアタシたちのことは全部忘れて、元の生活に戻りなさい!アンタみたいな気持ちで乗られるのは、迷惑よ!」
ミサトの言い草はあまりにも自分勝手で、思わず…
『むりやり乗せておいて、このうえ心まで思い通りにしよっての!』
声に出してしまった。
『アンタに、シンジの何が解かるって言うのよ!』
あらん限りの思いを、
『向いてないって解かってんのに、人のために戦えるなんて立派じゃない!充分に、立派じゃない!』
ぶちまけてしまった。
『後ろ向きだろうが消極的だろうが、シンジはエヴァに乗って、戦ってるじゃない』
シンジの心の傍に、ワタシは居た。戦うさまを、ずっと見てきた。
『自分の心を押し殺して、人のために戦ってるじゃない』
そうして解かったことは、ワタシたちがよく似てるってコトだった。
双子のようにそっくりって意味じゃない。ワタシたちは二人とも心の中に欠けたモノ、満たされずに餓えてるトコロがある。その欠けたモノのカタチや意味は違っていても、そこにエヴァが嵌り込んでいるって点で、ワタシたちは同じだった。
『なんで、このうえ。心までアンタの望みどおりに変えなきゃなんないのよ…』
生きて一緒に生活している時は、そんなことに気付かなかった。ううん、むしろシンジを蔑んでたわ。なまじ同じところがあるだけに、却って他の部分の違いに耐えられなかったのだろうと思う。
同族嫌悪って、ああいうのを言うのかしら?
『…アンタの罪悪感を、シンジのせいにすんじゃないわよ』
ワタシに、ワタシに身体があれば…
こんな心を土足で踏みにじるようなマネ、させないのに。
…
……
ぽつり。とシンジが呟いた。
誰にも聞き取れないほどに、小さく。
でも、ワタシには判る。五感を共有してなくても判っただろうと、思う。
名前を、呼んでくれたのだ。
…
『 … シンジ ? 』
ミサトへの罵詈雑言とは打って変わって、おそるおそる。
「アンジェ、…ごめん」
…
『…わっ、ワタシこそ…』
さっきとは違う理由で、無性に自分の身体が欲しかった。そうしてシンジと向き合いたかった。ワタシの言葉に篭った万感の想いを、ココロの言葉は却って伝えてくれないだろう。
「1度考え出したら…、ここに来てからのこと全てが嫌になって」
決してアンジェのことが嫌いになったとか、そういうわけじゃないんだ。と、思い出したようにココロの声に切り替えて。
『こんなに心強い味方がいて、僕はなにを迷ってたんだろうね…』
自分で自分が嫌になるよ。って、つぶやきは、ココロの声と口中で同時に。
そうね。アンタのその内罰的なところ、嫌いだったけど… 嫌いだと思ってたけど…
いきなり両肩を掴まれて、乱暴に揺すぶられた。
「シンジ君、大丈夫?」
…酔うどころかバーティゴに陥りそう…。これ、早めにナントカしとかないと…
「…まさか精神汚染じゃ!?」
独りごと言ったり、ミサトを無視して黙り込んだり。傍目から見れば不気味だったのだろう。容赦なくシンジを揺さぶるミサトの目が真剣だった。
「 …ミサ トさん」
声までシェイクされて、なんだか滑稽ね。くすくす笑っていると、笑い事じゃないよ。とシンジの抗議。まっ、ミサトのバカ力で揺すぶられりゃあねぇ。
「なっ何? 医療部行く?」
揺さぶるのをようやく止めたミサトの、目をまっすぐと見上げて。
「人のために、エヴァに乗っちゃダメですか?」
ゑ? っと、ミサトのまぬけ面。
「僕には向いてませんよ、そういうの。恐いですし、やりたいとは思いません。でも僕にしか出来ないというなら、やるしかないじゃないですか」
「それでいいの? シンジ君」
ぎゅっと握りしめられた両肩の痛みに、シンジが顔をしかめた。そのことに抗議しないのは、シンジも見たからだろう。ミサトの、あまりに悲痛なその表情を。
いったい、シンジに何を見てるって云うの? ミサト…
「僕にだって、守りたいと思うモノは有るんですよ」
「守りたい者?」
「ええ、たとえば家族とか」
見上げた視線はまっすぐで、ミサトはあろうことかほんのり頬を染める。
たとえば…。と呟いたシンジが、右の掌を胸に当てた。
ちょっとシンジ、それどういう意味なの? ちゃんと言いなさいよ!
アンタのそういうはっきりしないトコ、大っ嫌い!!
****
…
……
2日ぶりに帰宅したシンジを待っていたのは、ブリーフに生えたカビだった。
つづく
2007.05.16 PUBLISHED
.2009.01.01 REVISED