「やあ、おはよう。シンジ君」
目を開けると、眼前にはカヲルの顔が広がっている。シンジの眠気はポジトロンライフル並みのスピードで吹っ飛んだ。
「……何やってるの? カヲル君……」
「君を起こしに来たんだよ」
目の前でにっこりとほほ笑むカヲル。時計を見ると、時刻は朝の6時半ちょうどであった。カヲルの顔を押しのけ起きあがる。
「まだ6時半じゃないか。集合は9時だったよね」
「そうさ。でも今日という日が楽しみでね。つい早起きしてしまったのさ」
昨日バズーカで吹っ飛ばされたはずのこの少年。まだまだ余裕はありそうだ。
「ふう、じゃあ僕、朝ご飯食べてくるから。カヲル君は適当に時間つぶしていてよ」
「あ、僕も朝食に同伴していいかな。朝は抜いてきたから」
「(そこまでして起こしに来なくていいよ……)」
シンジは心の中でため息をついて立ち上がる。
「つれないね、シンジ君。君の寝顔をおかずにご飯を食べるつもりだったのさ」
「気色悪いことを言わないでよ!!! あと心の中を読まないでよ!!」
「おはよう、シンジ」
「ああ、おはよう、母さん」
「うム」
台所に行くと、ちょうどユイが朝食の配膳をしていた。そして当たり前のように椅子に座るカヲル。
「ごめんね、カヲル君。シンジったらねぼすけで、助かるわ」
「いえいえ、僕としてはシンジ君の寝顔を見れて役得でしたよ」
二人の爽やかに会話が朝を彩る。シンジはこの一連の流れのどこにツッコミを入れるべきか攻めあぐねていると、食事をしていたゲンドウが自分をじっと見つめているのに気がついた。
「……どうしたの? 父さん」
「シンジ、出発は何時だ」
ほっぺたにご飯粒をつけたゲンドウが尋ねる。なぜサングラスを付けている。
「9時に集合して、それから出発だよ。まだたっぷり時間はあるね」
ゲンドウはそうか、と短く応えて食事に戻った。ほっぺのご飯粒には気づかない。
「お父さん、ほっぺにお弁当がついてますよ」
「む。すまんな、カヲル君」
その言葉にカヲルはにこりと爽やかスマイルを浮かべる。おかげでひげ親父の暑苦しさが中和された。
今日の朝の献立は、ご飯とみそ汁、納豆、卵焼き、冷奴である。シンジとカヲルは手を合わせて食事に取り掛かった。
「おや、ユイさん、お醤油きれてますよ」
「あ、悪いけど注ぎ足しておいてくれないかしら? えっと、どこにしまったっけ」
「たしか、大皿の棚の下でしょ? ……ああ、ありました。こっちもそろそろ無くなりそうですね」
「じゃあ買い物に行かないといけないわねー。ゲンドウさん、今日はお仕事ないんでしょ?」
「ああ、付き合うよ、ユイ」
「お父さんがいると心強いですね、ユイさん」
「そうよー。重い荷物もいっぱい持ってくれるんだから」
「フ……問題ない」
微笑ましい談笑が目の前で繰り広げられる。そんな空間で、シンジはひとり虚数空間にぶち込まれたかのような疎外感に包まれていた。
「(……僕っていらない子なんだ)」
「そんなことないよ、シンジ君」
「だから人の心の中を読むなあああああ!!」
「さて、」
朝食を食べ終え、シンジは席を立った。
「じゃあ僕は準備してくるから、ちょっと待っててね」
そうカヲルに告げながらシンジは食器を流し台に持っていき、あくびをひとつ吐いて今を後にした。
今はしばしの沈黙に包まれる。ユイはお茶を三人分注ぎ、テーブルに持っていくと同時に自分も席に着いた。
「カヲル君」
ずず、とお茶を一口飲むと、ゲンドウは口を開いた。
「此度の旅行は冬木、か。何か企みがあるのなら事前に教えてほしいのだが」
「企みだなんて……そんな大それたものはありませんよ」
ゲンドウの詰問を、カヲルは笑って受け流す。
「でもね、カヲル君。あの場所は私たちにとっても、あなたにとっても特別な場所。いい意味でも悪い意味でも近寄りたくないところよ。そんなところにわざわざ行くのだから、何か目的があるのでしょう?」
ユイはゲンドウとは対照的に優しい口調で問いただす。その言葉にカヲルもさすがに笑って受け流すことはできなくなった。
「まいったな。ユイさんには勝てませんね。……そうです。僕が冬木を選んだのは。もちろん目的があるからです。ただ、目的については話すまでもないし、話すつもりもありません」
カヲルはきっぱりと言い張る。ゲンドウとユイはその言葉に目を光らせた。
「なるほど。それならば私たちは何も言わん。だが、」
「シンジやアスカちゃんたちに怪我がないように、ね」
「わかっています。そのようなことは、決して」
その言葉にゲンドウはうム、と頷いた。だが、ユイはまだ納得がいってないようで、いぶかしげな視線をカヲルに投げかけている。
「……今回は、あの三人にも協力を呼び掛けています。というより、仕事の依頼ですけどね」
すぐに思い当たる節があったのか、ユイはそれなら大丈夫ね、と疑惑の槍をひっこめた。
「ただ、危険が伴うのも確かです。そこで、お二人にも協力していただきたいのですが……」
「ええ、喜んで」
「問題ない」
ゲンドウとユイの了承が得られると、カヲルは二人にそれぞれ封筒を差し出した。
「この封筒の中の書類に全てが書かれています。説明している時間はないので、この書類で確認してください」
「わかったわ。カヲル君も気をつけてね」
「ええ」
二人は封筒を受け取ると、すぐにポケットへと忍ばせた。同時にシンジが引き戸を開けて台所へ入ってきた。もちろん制服ではない。青のラインが入った白のポロシャツとデニム生地の半ズボンを穿いている。荷物は黒のスポーツメーカーのリュックに入れているようだが、派手な装飾もなく、いかにもシンジらしい地味なファッションだった。ちなみに、カヲルはモザイク長の写真がプリントされた、タイトなTシャツに、程よく色落ちしたスキニーのジーンズを穿いている。さらに彼の鞄は余りに有名な外国のブランドの手さげのバッグだ。二人並ぶとなんともアンバランスな違和感を覚える。
「準備、終わったよ。待たせてゴメン」
「気にしないでいいよ、シンジ君。じゃあ、行こうか」
鞄を持って立ちあがる。二人は揃って玄関へ向かう。ユイも水道を止め、手を拭いて玄関へ向かった。ゲンドウは無言でその後に続いた。
「忘れ物はない?」
「うん。大丈夫だよ、母さん」
と、言いながらもシンジは荷物のチェックを始めた。このあたりは母親の血である。
「なら、出ようか」
「待て、シンジ」
ゲンドウは、行ってきます、と家を出ようとするシンジを引きとめ、ひょいと何かを投げてよこした。
「うわっ」
それを慌てて受け取る。カヲルも何事かとそれを覗き込んだ。
「……なに、コレ?」
「これはジュラルミンケースだね。ジュラルミンとはアルミ合金の一種で、強度に優れてとても軽いから航空機等耐久性が求められる素材に使われる代物さ」
淡々と説明するカヲル。ケースは小さめのパソコンほどの大きさで、軽量、という割にはずしり、とした沈み込むような重さがある。
「餞別だ。持っていけ」
フ、と不敵にゲンドウは微笑んだ。その顔を見てシンジはげんなりとする。
「餞別って……別に四、五日家を空けるだけなのに。……ところで父さん、コレ、何が入っているの?」
「秘密だ」
「え?」
「それは秘密だ、シンジ。いいか、それを勝手に開けてはならん。お前に本当に困ってどうしたらいいかわからない、という時が来たら、それを開けろ」
シンジは手元のジュラルミンケースを見る。何だか危険物を抱えているような気がしてきた。
「本当に困った時って言っても、そんなの来なかったらどうすればいいのさ」
「その時は開けずに私に返すのだ」
シンジは呆れかえった。この夫婦は我が親ながら考えていることは全く分からない。
「わかったよ、じゃあ、行ってくる」
「はい。気をつけてね」
ニコニコと笑顔で夫婦はシンジとカヲルを送り出した。ばたん、と玄関のドアが閉められると、二人の顔からは笑顔が消え、無言で台所へ戻りカヲルから受け取った封筒を取り出した。
「……」
封筒の中から一枚のディスクを取り出す。そのディスクをパソコンに差し込みデータを展開してみると、一見無意味な記号の羅列が延々と表示された。
「……暗号だな」
「ええ。……ちょっと待って、これ、見たことがあるわ。確か、私たちがゲヒルンにいた時の―――」
妻が謎を解き、夫がキーボードを叩く。たん、とエンターキーを押すと、記号の羅列の一行分が英語へと変化した。
「よし、このペースなら解読まで2時間、というところだな。ああ、冬月先生に連絡しておいてくれ。仕事をしばらく休むとな」
「またお小言を言われるけど、仕方ないわね。ああ、久し振りに血が騒ぐわ。2時間と言わず、1時間半でやってしまいましょう、あなた。もちろん、終わったら買いものよ」
らんらんと目を輝かせる妻に、ゲンドウは邪気のない優しい微笑みを浮かべた。
「ああ、わかっているよ。ユイ」
結局、カヲルとシンジが駅に着いたのは8時47分であった。集合時間は9時、そして電車の出発時間は9時28分である。時間にそれほど余裕はない。だが、まだ二人の少女の姿はないようだ。
「まいったね。また遅刻をするんじゃないかな。あの二人」
シンジは不安げに時計を見た。アスカは朝に強いので遅刻することはあり得ないが、レイは低血圧なので反対に朝に弱い。もしかしたら起こすのに手こずっているのかもしれない。
「仕方ない。アスカちゃんとレイが来なかったら、僕たち二人で旅行と洒落こもうか」
「え」
きゅぴん、とカヲルの目が光る。
「うん、二人には申し訳ないけど、仕方ないよね……」
「い、いやいや。一本くらい電車を送らせてもいいじゃないか」
「僕だって心苦しいけど、計画は絶対だ。僕は悪くない。僕たちは二人の屍を越えて、新しい世界の扉を開くんだ」
「あ、新しい世界って……」
ふふふふ、とカヲルは不気味に笑う。シンジの額に一筋の汗が伝った。
それからシンジとカヲルはベンチにアスカとレイを待つことにした。夏休みといえど、今日は平日の朝であるので携帯電話をかけながらせわしなく歩くサラリーマンや、部活道具を抱えて駅のコンビニで買い物をする学生など様々な人が二人の座るベンチの前を通り過ぎていく。目の前の道路にタクシーが止まり、サラリーマンを乗せていった。そしてまた違うタクシーがベンチの前の道路に止まる。そんな光景を3度ほど見た時、ギャギギギギギという映画のカーアクションシーンでしか発生しえないような車の限界に挑んだ駆動音が聞こえてきた。
「―――ぁぁぁたぁぁああすううううけえええええええてえええええええええええ!!!!」
救急車のドップラー効果のように明らかに人間の悲鳴がこちらに近づいてくる。そのあまりの恐怖にシンジは腰を浮かせた。
駅に飛び込んできたのはごく普通の軽自動車であるが、運転が尋常ではない。ドリフトしながら駅に進入し、そこから急加速でシンジたちのほうに突っ込んでくる。
「こっちに来るね」
「ちょ、えええええええええええ!!!???」
あと10メートル、というところで自動車はハンドルを切り、横向きのままシンジたちの目の前で急停止した。タイヤからは白煙が上がり、アスファルトにはくっきりタイヤの跡がついている。
「ちぇっ、まにあっちゃったね」
「え?」
がちゃり、と運転席のドアが開く。そこから出てきたのはアスカの母であるキョウコだった。
「おはよう、シンジ君とカヲル君。ごめんね。この子たちったらいつまでも喧嘩して出発しようとしないんだから」
キョウコは後部座席のドアを開ける。すると荷物と一緒に白目をむいた少女が二人転げ落ちてきた。
「おやおや」
「今朝もバストのサイズとウエストの細さで競い合ってるんだから。あきないわねえ、この子たちも」
シンジは二人の美少女が火花を散らし睨みあっている姿を容易に想像することができた。アスカはバストでレイに勝り、レイはウエストでアスカに勝る。どちらがよりプロポーションに優れ、かつ魅力的であるのか事あるごとに争うのだ。その数10や20では下るまい。余りにも同じことを繰り返すものだからいい加減うんざりしたシンジが「五十歩ひゃっ」と口に出した瞬間彼の意識は彼方へ飛んでいた。気がついた時、シンジは保健室だった。
「まったく。何か一つに夢中になると他は何にも見えなくなるのね。もっと自分を客観視できるようになってもらいたいわ」
遠くからパトカーのサイレンが聞こえる。アスカが猪突猛進なのは間違いなくこの母親の血であろう。
「キョウコさん、追手が来ましたよ」
「あら、まいたと思ったのに。司法の犬風情が、存外にしぶといのね。腹立たしいわ」
ドアを閉め、キョウコは颯爽と運転席に乗り込む。一部の無駄のない動作でエンジンをかけ、パワーウィンドウを開いた。
「じゃあ、アスカとレイをよろしくね、カヲル君。シンジ君も、体に気をつけるのよ」
キョウコはそう言ってウインクすると、ギャギャギャギャギャとタイヤを鳴らして去っていった。その10秒後にパトカーがなにやらスピーカーでわめきながらキョウコの車の後を追って行った。
「さ、僕らも行こうか。もう時間だよ」
「うん、そうだね。いちいち突っ込んでたら時間はいくらあっても足りないからね……」
カヲルはレイを、シンジはアスカを肩に担いで、二人は駅のホームへと向かった。
「あーーーーーーーーーーもうっ」
窓の外で景色が鮮やかに流れる。シンジたちは無事に遅れることなく列車に乗ることができた。とはいえ、女の子を二人抱えた男二人が4人分の乗車券を持って改札口を抜けようとした時は、駅員に止められそうになったが。今は二人がけの席を向かい合わせて座っている。
「死ぬかと思ったわ。はやく警察につかまってしまえばいいのに、あのスピード狂」
アスカとレイは列車の中で目を覚ました。それ以来ずっとキョウコの愚痴を言っている。
「まあまあ、それよりもお菓子でもどうだい?」
「何これ……『ねるふ煎餅』……? あやしいわねー」
「初めて見たわ」
アスカとレイはしげしげと袋を観察する。手に取り、ひっくり返し、振って中の音を聞き、匂いを嗅ぐ。
「おいおい、まるで毒物扱いじゃないか。確かにこのお菓子はその辺には売ってないけど、とても美味しいんだよ。だからわざわざネルフ本社から直接取り寄せてもらってるんだ」
「なんなのよその会社」
カヲルはアスカから袋を取り上げ、ばりっと袋を開けて煎餅を一枚取り出す。
「シンジ君もいるかい?」
「ありがとう」
シンジも煎餅を一枚取り出し、カヲルに倣ってばりばりと齧りだした。
無言でアスカとレイを見ながら煎餅を齧る男2人。
「……1枚頂戴」
「私も」
四人で煎餅を齧る。ふとシンジは窓の外を見た。彼の心には父と母の言葉がずっと引っかかっている。「冬木」という町について何の記憶もないし、聞いたこともない。普段は重たい荷物を家庭空間に持ち込むことのないシンジの両親だが、珍しく見せたシリアスな顔がシンジの脳裏に焼き付いていたのだ。
「あら、意外といけるじゃない」
「だから言っただろう。美味しいって」
カヲルは1枚ぺろりと食べたアスカに袋を差し出す。
「おや」
カヲルの目線がシンジのほうへ向く。
「どうかしたかい? シンジ君。あまりお腹はすいていなかったかな」
シンジの意識が戻る。考え事をして、煎餅を持ったままボーっとしていたのだ。
「あ、そうじゃないんだ。冬木ってどんなところかなあって考えてて」
あはは、と取り繕う。カヲルは難しい顔をして、考えを巡らせた。
「そうだね。実は冬木という町はね、パワースポットとしても有名なんだよ」
「パワースポット?」
聞きなれない言葉にシンジは首をかしげる。するとアスカが二枚目の煎餅を咀嚼しながら答えた。
「何らかの未知の力にあふれて、そのおこぼれを頂戴できる土地ってやつよ。カヲル、あんたがそんなのに興味を持つなんて知らなかったわ」
ちらりとアスカはカヲルを見る。それにつられるように、レイも興味深そうにカヲルを見る。
「まあね。これから長い夏休みがあるんだ。少しでもパワーを溜めておかないと後が持たないんじゃないかな」
誰かさんたちに振り回されるからね、とカヲルは余計なひと言を付け加えなかった。実に賢明である。
「……どういう意味かしら?」
アスカがカヲルをジト目でにらむ。
「別に」
今度はアスカの目が光った。まるで巨大な人型汎用決戦機が暴走するときのように。
「もう、二人ともやめてよ。せっかくの旅行なんだから。それよりカヲル君、その冬木のパワースポットについてもっと聞かせてよ」
もの言いたげなアスカを無視して、カヲルに続きを促す。そうだね、とカヲルは話を続けた。
「なんでも、冬木の土地のどこかに聖杯が眠っている、という話があってね」
「聖杯ぃ?」
再びアスカが口をはさむ。
「聖杯って、あの聖杯伝説の聖杯なんでしょ? なんで日本にあるのよ」
「僕に言われても困るさ。なんでもその聖杯を見つけることが出来たらなんでも願いを叶えてくれるらしいよ」
おお、とレイが感嘆する。
「じゃあ冬木についたら聖杯探索ね!」
「そんな某憂鬱な女子高生みたいなテンションに……」
カヲルの話の真偽はともかくとして、シンジは聖杯について聞いた時妙な感覚に襲われた。はて、昔々きいたことがあるような、そんな記憶の小さな突起がのどに引っ掛かったといえばいいのだろうか。自分だけであろうか、そう思い他のメンバーの顔を見渡すと、レイと目が合った。何枚目かわからない煎餅を手に持ち、先っぽを唇の先で加えてかたまっている彼女の姿にほっこりとした気分になり、まあいいかと疑問を飲み込んだ。