「さあ、着いたよ」
荷物を持って電車から降りる。時刻は11時30分。すでに日差しが昇り、ぎらぎらと輝き始めていた。
「――やっっっと、着いたあー!!」
うーん、と背伸びをするアスカ。シンジも荷物を置いて軽く伸びをした。都合2時間ほど電車に揺られていたわけであるが、普段これほど長い時間乗り物に乗ることはないため疲れを感じていたのだ。
「まずは荷物を置きに行こうか。ここから歩いてすぐだよ」
カヲルが歩きだす。レイもアスカも素直に後に続いた。いつもなら彼女らがカヲルの言うことに従うことなどほとんどないのだが、さっさとホテルに行きたいという気持ちが強いのだろう。シンジも荷物を担いで歩きだした。
目の前に冬木の町並みが広がる。カヲルによるとここは新都、と呼ばれる地域であり、川の向こうの住宅街とは違ってショッピングモールやレジャー施設などはこちらに集中して作られているらしい。確かに見渡せばこじゃれたレストランやブティック、映画館などがある。
「そこの角を曲がったらつくよ」
カヲルが指をさす。まだ歩いて2,3分ほどしかたっていない。
「近い、近いって……本当に近いのね」
「なんにせよ、はやく荷物を置きたいわ」
「まあまあ、もう目のm」
シンジは角を曲がった地点で立ち尽くした。あとに続いたアスカとレイも息をのむ。目の前にはいったい何階建てかもわからないほど巨大な建物、そして黒塗りの高級車が止まっているとんでもないホテルがあったのだ。
「……カヲル君」
「なんだい?」
「まさか、ここ?」
「そうだよ」
改めて、おそらくこれから自分たちが宿泊するのであろうホテルを見る。さっき駅から出た時、近くに大きなビルがあるなあ、と思ったのだが、これだったのか。ニコニコするカヲルの横で、シンジはたまらない不安に襲われた。
「ちょっと、遠野グループのホテルじゃない。私、てっきりビジネスホテルかと思ってたのに」
「みんなの驚く顔が見たくてね」
大成功、と言わんばかりな笑顔のカヲル。アスカも、まあいいけど、と呟いた。どこに泊まるにせよ、ぼろいホテルよりグレードの高いホテルがよい、そう考えているはずである。逆に庶民派のシンジは完全に怖気づいてしまった。
「ねえ」
ちょんちょん、とレイがアスカの肩をつついた。
「遠野グループって?」
「ええと、私も詳しくはないんだけど、日本でも有数の資産家らしくて、分家筋を従えて不動産業を中心に財界で大きな影響力を持っているらしいわ。ここは彼ら御用達の一級ホテルね」
へえ、とレイが感心する。もともと抜けたところのあるレイは、ビジネスホテルだろうが一級ホテルだろうが自然にふるまうだろう。だが、不幸にも小心者のシンジはアスカの言葉にさらに体をこわばらせることになった。
「(ふふふ。緊張してるね、シンジ君。これだよ、シンジ君のこのリアクションが見かたったん――)」
「カヲル、涎たらしてないでさっさと行くわよ」
グーでゴツンと叩かれるカヲル。あんたもよ、とアスカは脅えて放心状態のシンジの首根っこをつかんでホテルへと歩き出した。
「ご予約頂いておりました渚カヲル様ですね。こちらにお名前をご記入ください」
カヲルが受付で手続きを済ませる。一階のフロアはロビーとレストラン、バーで構成されており、体育館の半分はありそうな広さにシンジは緊張のあまり心臓が口から飛び出そうであった。
「ア、アスカ。あれ、見てよ」
「ん?」
シンジの指さす先には、バーで何やら高そうなコーヒーを口にしながら新聞を見ているおじさんがいる。
「あのおっさんがどうかした?」
「うん、なんだか、すっごく偉そうだよ」
「……知らないわよ、そんなこと。ただのおっさんでしょ」
呆れ気味にアスカが言う。
「だって!! こんなすごそうなホテルだよ!? いいの!? たかが中学生なんかが宿泊して――」
シンジは半ば錯乱状態である。
「いいのよ。どんなホテルだろうが、私たちはきちんとお金を払っているんだから、それに見合う対価は受け取る権利はあるでしょ?」
「アスカ、私たちお金払ってない」
「細かいことはいいのっ! カヲルが払うって約束だったんだから」
ひとりカウンターで受け付けの手続きを済ませるカヲルに、哀愁の色が帯びる。
「だからね、いちいちビクビクしないでドーンと構えてればいいのよっ!」
どすん、とソファーに座りこむアスカ。彼女らしいさばさばした意見に、シンジはあんぐり口を開けた。地球が滅びる頃になっても、きっと自分は彼女のようにはなれない。が、そのようなアスカの前向きさを、シンジは心から尊敬していた。
「そうだね。いつまでもこんなじゃ情けないよね。うん、僕もアスカみたいに前向きになれるよう頑張るよ」
「ふん」
素直なシンジの言葉にアスカは顔を赤らめる。そこへ手続きを済ませたカヲルがやってきた。
「お待たせ。じゃあ部屋に行こうか」
荷物を持ち上げ歩きだす。
「部屋って言ってもさ、何階なの?」
「35階だよ」
「……え?」
「だから、35階」
「そんなに上なの?」
レイが若干嫌そうな顔をする。
「エレベーターで行くから問題ないよ。それより――はい、部屋の鍵」
カヲルはレイに鍵を渡す。アスカではなかったことにはもちろん根拠がある。
「君たち二人の部屋だよ。僕とシンジ君は同じ部屋だから」
「――」
アスカとレイの胸中に嫌な予感がよぎる。この男をシンジと同じ部屋に入れていいものか。
「ちょっと」
アスカがカヲルの肩をぐわし、とつかむ。しかし、カヲルはアスカが次の言葉を出す前に言葉をかぶせた。
「心配性だね。男女4人で旅行に来たのなら、男二人、女二人の部屋分けをするのは当然じゃないかい」
「何言ってるの。一人部屋あるでしょ」
えええ、と呆れるシンジ。カヲルは肩をすくめた。
「おいおい、このホテルで一泊するのにいくらかかると思ってるんだい? そんなにいくつも部屋は借りることはできないよ」
「あ、それ、僕も気になってたんだ。一体いくらするの?」
カヲルはえーっと、と宙を仰ぐ。
「シンジ君のお小遣い10年分くらいかな」
「――じゅう! ねん! ぶん!!!」
シンジは即倒しそうになった。いったいゼロがいくつ並ぶのか。
「だから、文句はないよね? 二人とも」
カヲルは爽やかな笑顔で釘を刺す。
「ぐっ……!」
「ぬかったわね」
敗北をかみしめる。戦闘力はアスカとレイのほうが上だが、策謀術はカヲルのほうが勝っているに違いない。そして最終的に被害をこうむるのはシンジであるということは、本人が一番理解していた。彼にできることと言えば、己が身に災厄が降りかかる前に迅速にその空間から脱出することである。しかし、彼はその最後のチャンスを見過ごしてしまった。
「シンジ!」
「はいっ!!」
ビクリと震えるシンジ。その肩にアスカの手が置かれた。
「シンジは嫌よね? こんなナルシスホモと同じ部屋なんて――」
否定即死也というメッセージを無言で発するアスカ。シンジはただ首を縦に振るしかなかった。
「ほら見なさい。本人が嫌がってるじゃないの」
レイは思った。流石にそれはやりすぎなのでは……? 普通の人間ならここでアスカに屈するであろうが、変人カヲルの大木の幹を超える精神力は決して折れない。
「じゃあ、シンジ君、彼女らの部屋で寝るかい?」
「――」
「――」
「――」
爆弾が投下された。三人は凍りついたように固まる。悶々と、シンジと同じ部屋で夜を過ごす妄想を脳内に展開する。
「――」
「――」
「無理ね」
レイが結論を出した。思春期真っ盛りの中学生にとって、男女同じ部屋で寝るなどという行為はある意味拷問に等しい。シンジは根が真面目であるため彼女らと同じ部屋などけっして承諾しないし、アスカは恥ずかしがり屋なのでシンジの前で寝顔など晒せないだろう。
こうして部屋決めについてはカヲルの思惑通りに事が進んだ。敗北の色に染まるアスカを見て、シンジはカヲルの器の大きさを感じ取っていた。ごく普通の中学生を基準に測れば、アスカもレイも中学生離れした資質を備えている。しかし、それはあくまでも中学生としての範囲である。カヲルはそのような物差しを越えた、別次元の領域にいるとしか思えない。いち中学生の自分では量り切れぬ、底知れないカヲルの奇妙な魅力に、シンジは憧れにも似た感情を持っている。
そして、そんなカヲルが、なぜ自分と友だちでいてくれるのか。カヲルにとって、シンジの魅力とは何なのか。シンジはわからないでいた。
だからか、シンジは気付かない。この旅行の真の目的とは何なのか。カヲルはなぜシンジたちをこの町に連れてきたのか。違和感はあった。父と母の反応、ずしりと重たいジュラルミンケース、これらがシンジの心の奥底に引っ掛かっている。しかし、シンジはそれを取り出すことはない。彼はまだ、彼の日常の中に生きているからだ。
「じゃあ、今から20分後に一階のロビーに集まってくれ。昼ごはんと食べに行こう」
「どこに行くの?」
「駅のそばにショッピングモールがあるんだ。そこで適当にレストランでも入って食べようじゃないか。他にもブティックやレジャー施設もあるし、退屈はしないと思うよ」
「その後は?」
「シンジ君お待ちかね、さ」
轟、とシンジのほうから風が吹いた。見ればまるで某野菜人が、穏やかな心から激しい怒りによって目覚めたかのような迫力を醸し出している。
「――カヲル君。何時に向かうんだい?」
しゅおんしゅおんしゅおんという謎の擬音とともに、シンジのまわりをオーラが覆う。
「そうだね。5時ごろ、一度こっちに戻ってから向かうよ」
「そうか。期待しているよ、カヲル君」
シンジはそう言い残し、自分の部屋へと歩いて行った。残された3人は、シンジのキャラがまだ安定していないことに不安を覚えつつ、各自の部屋へ戻るのだった。
それから、荷物を各部屋に置いた4人は必要最低限のものを持ってホテルを出た。今朝は早起きし朝食が早かったため、まず昼食をとる流れになった。カヲルのおごりで好きなレストランに入る、いうことであったので、先ほどの復讐とばかりにアスカは妙に値段の高そうな店ばかりを挙げた。しかし、夕食での感動がどうとかシンジが力説しだし、だいぶん興奮してきたので昼は結局ファストフードになってしまった。
「まったく、せっかく奢ってくれるっていうのに……なんでファストフードなのよ」
ハンバーガーをほおばりながらアスカがぶつくさと愚痴を言う。
「だから何度も言ってるじゃないか!! 夜には素晴らしい料理が待っているんだ……もし、昼にいいモノを食べてしまったら、その感動が薄れるじゃないか!」
「碇君、気持ちはわからないけど、とりあえず落ち着いて」
立ちあがるシンジをレイが諌める。
「まあまあ、それよりもこれからどうする? 五時までまだ十分に時間はあるよ」
時計は午後1時45分を指している。
「そうね。じゃあ――」
4人はわいわいとこれからの予定の打ち合わせを始めた。とはいえ、アスカとカヲルが案を出し、レイとシンジが相槌を打つという形ではあるのだが。
ふと、カヲルが店の片隅に目をやった。昼過ぎのファストフード店は若年層の客で賑わっている。その雑踏の奥を見やるように、カヲルは目を細めた。
「どうしたの? カヲルくん」
シンジが不思議そうに声をかけた。その言葉に、カヲルはいつも通りの笑顔で、振り向いた。
「何でもないよ。それより思いついたんだけど、向こうのショッピングモールでアスカちゃんを置き去りにするってどうかな? 僕の予想だと、はじめは強がっているけど、だんだん涙目になってシンジくんの名前を呼ぶと思うな」
「OK。あんたはここで眠りなさい。永遠にね」
戦争が始まる。いつだって争いは唐突だ。これもまた運命。諦め受け入れ、先に進もうじゃないか――。
碇くん、年寄りの目をしてないで止めて、と助けを求める少女の声は、届かない。
ファストフードの一角でシンジたちを静かに見つめる視線があった。青のジーンズに無地のシャツ、スポーツメーカーの野球帽を目深にかぶり、サングラスをかけている。注文したフライドポテトには手を付けず、ブックカバーをした文庫本を開いている。が、視線は文字に落ちていない。
彼を視界に入れた人は、「人が座っている」という情報のみ受け取り、それ以上彼を詮索することはないだろう。
――この男は、風景と化していた。
時折、サングラスから鋭い眼光が覗く。体は透き通りそうなほど不自然に気配がないのに、その視線は不気味な光を帯びている。
とはいえ、それに気がつくものはいない。仮に、彼と同じ世界を生きる人間がいたとしても、彼という日常の異物に気がつくことはないだろう。
この男は、「人を見張る」という一点において、ずば抜けた能力を持っていた。
だから、シンジたちはその視線に気づかない。まわりの人間も彼という存在に気をとめない。
男には目的があった。ただ1つの目的のみ、男の意識は向けられていた。
余計な思考も感情も動かすこともなく、淡々と己の任務をこなす。それは、10mほど先に座っている4人の中学生を見張ること。
シンジたちが立ちあがると、遅れて男も立ち上がった。彼は食事には全く手を付けず、テーブルに放置した。
理由は明確である。
彼にとって任務中に最も避けるべきことは、体調に異常をきたすことである。
任務中はほとんど何も口にしない。睡眠もとらない。その代わり、己に活動に制限時間を設けている。任務は、制限時間の中でのみ行われる。
彼は自分の能力が、そして自分のやり方が一流であることを自負していた。
決して油断せず、与えられた仕事は機械のごとく冷徹にこなす。ゆえに、己の技量には絶対の自信を持っている。自信が揺らぐということは、相手に付け入る隙を与えるということだ。決して驕りではない。
今回もそうだった。油断もない。慢心もない。いつもの通り任務を遂行する。それだけのことだった。
――しかし、悲しい哉。何事にも、上には上が存在する。
少なくとも、彼に落ち度はなかった。彼は己の能力に見合う働きをした。実力以上は必要ない。その代わり、実力を出し切らねば意味はない。男はそれを自身の哲学としていた。
男は、携帯電話を取りだし、任務の途中報告をした。何も問題はない。任務は順調だ。
繰り返し言おう。彼は己の仕事に絶対の自信を持っていた。だから彼は気付かなかったのだ。
己を見張る、もうひとつの視線に――
『――俺だ。ああ、この回線は問題ない。そうだ。駅から男がひとり君たちに付いている。――もとよりそのつもりさ。しばらく泳がせておく。君たちはいつも通り行動してくれ。……ん? 相棒か? 今はアジトを探っているよ。あいつはこういった仕事は苦手だからな。じゃあ、もう切るぞ。――今夜だったね。君の指示通り動くさ。心配いらないよ。では』
ぶつん、と音を立てて回線が閉じられた。携帯電話を閉じ、ポケットにしまいこむ。もちろん、携帯電話で会話をしていたのではない。通常回線で通話をするなど、危険すぎるのだ。
「カヲル君」
呼びかけられ、カヲルは振り向いた。そこにはシンジが怪訝な顔をして立っている。
「どうかした? 電話していたみたいだけど……」
「うん、ちょっとホテルから連絡があったんだ。大浴場についてのことさ」
「ふーん。でも、早くいかないと、置いて行かれちゃうよ。ほら」
シンジの指さす先には、アスカとレイが遠くで手を振っている。
「ごめんごめん。さあ、行こうか」
ぽん、とシンジの肩をたたき、カヲルは歩きだした。ちらりと、影に潜む男に目を向けて――