②廃墟に佇む絶望
「美神さん!?」
叫びながら目を開いたとき、視界に飛び込んできたのは折り重なって倒れている薄汚れた柱だった。
訳も分からずに上体を起こすと、下半身が瓦礫に埋まっている。
倒れている電信柱の狭間に埋葬されているかのような状態だった。
柱がこちらに転がってこないように気をつけながら、柱の狭間から抜け出して立ち上がると体中に痛みが奔る。
瓦礫や石に埋もれながら眠っていたのなら、それも仕方ないだろう。
その痛みを堪えながら大きく伸びをして眠気を追い出すと、ようやく意識が鮮明になって視界がクリアになった。
分厚い曇がかかった空は灰色で明るくはなかったが、周囲の状況を確かめるには十分だった。
「おい、マジかよ………」
見渡す限り、俺が埋まっていた場所と変わらぬ瓦礫の山が散乱する光景が広がっている。
原型を維持している建物は疎らになり、大方の建造物は竜巻に吹き飛ばされたかのように壁や天井が剥がれ、完全に倒壊した物も少なくない。
道路にはガラスやコンクリートの破片が散乱し、電信柱も尽くなぎ倒されている。
その廃墟の群は、日本史の教科書に載っていたある写真の光景に酷似して。
「まるで終戦直後の東京じゃねえかよ」
不意に孤独感で体が震えた。
軽く歩き回ってみても人の姿はおろか、生き物の気配すらも感じられず、廃墟と化した街からは孤独に包まれたかのように沈黙と寂寥が漂っている。
重苦しい空気の中を一頻り歩いた後、俺は座れそうな場所を見つけて腰を下ろして深く溜息をついた。
どうやら見る影もなくなってしまっているけれど、どうやらここは東京のようだった。
目覚める寸前の光景が目に浮かぶ。
美神さんの死体と海に落ちる俺、そしてノーダメージで東京に向かった究極の魔体。
あれが現実なら東京はとっくに滅んでる筈だ。
にも拘らず俺はこうして生きている。
そしてあの奇妙にリアルな感触を伴った夢。
あの夢はルシオラが見せていたのだろうか。
“そうよ。私が幻覚を使って夢を演出したの。サイコダイブでヨコシマの意識に入り込んでね”
「ルシオラ!?」
突然聞こえてきた声に、俺は反射的に立ち上がると目を凝らす。
耳に届いたその声は紛れもなく魔体との決戦直前に消えてしまった筈の少女の言葉。
けれどいくら目を凝らしてみても視界には誰も映らない。
空耳かと落胆しかけたその刹那、ルシオラの声が今度ははっきりと聞こえてきた。
“慌てないで、ヨコシマ。私は今もおまえの霊体構造の中にいるの”
「そう、なのか?
それなら、どうして俺と話せるんだ?
そもそもなんで俺が生きていられるんだ?俺達は、あのデクノボーに負けたのに」
“えーとね。ヨコシマが助かったのも、私が今でもヨコシマと話せるのも、この場所のおかげなの”
言われてもう一度見てみるが、辺りには瓦礫以外に何もない。
「此処が?」
“目を瞑って、よーく霊感を働かせてみて”
言われたとおりにして見ると、
「───!?」
俺の霊感に圧倒的な霊的エネルギーが漂っている気配が響いてきた。
この感じ………隊長が電気を変換して作り上げたあの力強い霊力や魔神から放たれた威圧的な魔力とも違う。
確か、少し前に何度も間近で触れた事があるような。
“気がついた?これ、ヨコシマが破壊した魂の結晶とコスモプロセッサーの名残よ。
此処はコスモプロセッサーがあった場所。注意してみれば分かるけど破片が瓦礫に混じって転がってるわ。
あの時ね、気を失ったお前を助けようと強く想ったせいか、消えかけていた私の意識は咄嗟に双文珠を発動させる事が出来たの。
そしてヨコシマの体は私が思い浮かべた一番安全な場所に転移したってわけ”
「安全?どうしてこの場所が?」
“それは………”
その時俺は、すぐ傍で何かが動く気配を感じて振り向いた。
視線の先には古代の祭器として使われた人形に良く似た物体が首だけになって転がっている。
続いてプルトニウムの臭気が僅かに鼻を刺してくる。
「ど、土遇羅!?」
変わり果てた姿はコスモプロセッサーの破壊に巻き込まれたせいだろう。
もはや自力では動けぬ体を恨めしげに見やりながら何を言おうとしているものの、口にあたる部分が壊れているせいか俺には何も聞き取れなかった。
「ルシオラ。これが理由なのか?」
“ベスパと戦った時になんとなく感じたの。
アシュ様は自分に尽くした部下を自らの手で殺すような真似はしないんじゃないかって。
勿論理性のないアシュ様が土遇羅様の事を考えるかどうかは分からなかったから一か八かの賭けだったけれど、どうやら正解だったみたいね”
言われて気がついた。
確かにこの付近は廃墟と化している。
だが主砲が発射されたのなら大地は削られ、埋め立て地からは海が露出して、瓦礫すら残らなかった筈だ。
なのに土遇羅が転がっている場所の周りは、原型を留めた建物すら残っている。
“私がこうして生きていられる理由なんだけどね。ヨコシマは此処で結晶を破壊したでしょう?”
「………ああ」
苦い思い出が蘇る。
自らの手で彼女の復活の可能性を絶ってしまった俺は自分を責めるしかなくて。
“コスモプロセッサーや究極の魔体の動力を賄うエネルギーの量は途轍もなく膨大でね。
だから結晶が破壊された後も、そのエネルギーの残滓は場所に色濃く漂っていたの。
そしてそのエネルギーが倒れていたヨコシマの肉体と魂に少しだけ作用して、ヨコシマの中で消えかけていた私の人格が活性化したのよ”
「それじゃあ、生き返れるのか!?」
“分からないわ。
今の私の魂はヨコシマの肉体と魂に吸収されない程度に独立性が保てているだけ。
それにヨコシマの霊体構造から離れれば多分直ぐに消えてしまうと思う”
「そっか………」
その返事に少しだけ落胆したけれど、それでも俺は彼女が消えずにいてくれる事実に嬉しくなる。
エネルギー結晶を破壊して、ルシオラの声が聞こえなくなった時の絶望感の大きさは、とても忘れられるものではなくて。
呼吸が苦しいほどの悔恨と悲しみで俺の胸は張り裂けそうになるほど痛くなり、だから俺はあの時初めて人目をはばからずに号泣したんだ。
それに比べれば、ルシオラの声を聞いて、彼女の存在を感じられるだけで、俺の胸には熱いものが込み上げてくる。
「良かったってのも変だけど、お前が生きていてくれて、俺は………」
“私も嬉しいわ、ヨコシマ。こうしてまたお前と話せるなんて夢にも思ってなかった。”
俺の中に居るせいか、彼女の喜びが心地よい波動となってダイレクトに伝わってくる。
そのせいか俺は無意識に思い浮かべてしまう。バトルスーツを身に付けたルシオラが、穏やかに澄んだ眼差しで俺を見つめている姿を。
僅かに甘い空気が流れる。
しばらく無言で感慨に浸った後、それでも俺は一番聞きたかった事を口にした。
「俺が美神さんと、その………あの夢を見ていたのはやっぱりルシオラが?」
はっきりとは覚えていないが、パピリオの眷属の花粉を吸い込んで気絶した時、俺の意識の中にルシオラが入り込んで事があった。
今、思えば夢の中で感じた違和感は、サイコダイブしたルシオラに怒鳴られた時の体験に良く似ていた。
“ヨコシマが想像した通りよ。
ヨコシマがアシュ様に撃墜されて気絶してから、私はヨコシマの意識にサイコダイブしたの。
だからヨコシマの意識は私が幻を交えて演出した夢を今までずっと見てたってわけ”
「どうして、そんな事を?」
聞かない方が良い、そう訴えてくる声を無視して尋ねた。
目覚める直前にフラッシュバックしたあの残酷な光景を、夢だと思いたくて尋ねずにはいられなかった。
“あの時私の復活の可能性がなくなって、その直後に美神さんが死ぬ様を見せ付けられて………。
ショックを受けたヨコシマの精神は崩壊寸前まで追い詰められたのよ。
だから私はヨコシマの心の中から美神さんが絡む願望を、リアリティーを伴った夢という形で作り上げたの。
ヨコシマの意識が、美神さんが死んだという事実から目を逸らせるためにね”
一瞬で体中の血が凍りついたかのように冷え切った。
寒い。全身が痺れるような寒気に冒され、膝や歯の根が震えだす。
“最初はうまくいったわ。
ヨコシマの精神は美神さんが死んだ事を一時的に忘れてくれて、そのおかげで崩壊寸前だったヨコシマの心もなんとか立ち直れそうになったの。
本当はもう少しだけ夢を見ていて欲しかったんだけど、駄目だったわね。
幻では視覚情報は誤魔化せても触覚まで似せる事は出来ないから、ヨコシマは私が作り上げた虚構に気付いて自分で夢から覚めてしまった”
ショックと悪寒のせいで卒倒しそうになりながらも、俺は彼女の言葉を反芻する。
教えられた内容は、夢であって欲しいと思い続けたあの場面そのままで。
だから俺は、あの夢の中でフラッシュバックした光景をもう誤魔化しようもない程はっきりと思い出していた。
「やっぱり夢じゃなかったんだ………。ルシオラ、美神さんは…………死んだんだな」
“断言は出来ないわ。でもあの傷は人間の肉体の構造から考えれば即死したとしか考えられない”
多分、俺に気を使っているのだろう。
ルシオラはゆっくりとした口調で、でも確実に情報が伝わるように言葉を選んでいる。
やがてルシオラの説明が終わると、俺は黙り込んだまま廃墟を見つめた。
強烈な圧迫感に胸が苦しい。けれど不思議と涙は出なかった。
多分俺は、心のどこかで美神さんの死を認めてしまっていたのだろう。
ルシオラが見せてくれた夢の助けがなければ、きっとその事実を認める前に俺の心は潰れていたけれど。
不意に自分の身勝手さと軟弱さに憤りがこみ上げて、感じていた悪寒を消し去った。
なんて情けねえ様を晒してるんだよ、俺は!
今まで見てきた夢は俺の身勝手な妄想じみた願望で。
俺が美神さんにそういう事をする光景を見るのは、ルシオラにとって不愉快だったに決まってる。
なのに、それでも彼女は、俺の為に………。
「ルシオラ、俺────」
“待って、ヨコシマ。パピリオが近くにいるわ。今、こっちに向かってる。
ヨコシマの意識が起きたおかげで霊力の出力が上がったから、それに気がついたみたい。”
その声に釣られて西の空を仰ぐと、人知を越えた巨大な魔力が接近してくるのが辛うじて霊感に引っ掛かった。
────ゴォォォォ
続いてこちらに向かって、唸りを上げながら高速で飛行する影が見える。
豆粒よりも小さかったその姿は、けれどあっという間に近付いてきて。
「ヨコシマァァァァ!」
「ぐっ」
俺を見つけるな否やパピリオは一目散に飛んできて、その勢いを全く緩めずに体当たりするように抱きついてきた。
その衝撃に空気が肺から押し出される。
それでもなんとか尻餅をついただけで、無事に彼女の小さな体を抱き止められた自分を誉めてやりたくなる。
「い、生きてたんでちゅね。私、も、もうだめかと………」
そんな俺の体勢にも拘泥せず、パピリオはむしゃぶりつくように俺の腹部に顔をうずめながら声を震わせた。
そっと背中に手を回すと、蝶の少女の小さな体の痙攣が伝わってくる。
「パピリオ………」
少女が泣いていた。彼女は、俺の姿を見て、俺の為に泣いていたのだ。
だからその涙がうれしくて、こんなにもパピリオに心配をかけてしまった事が申し訳なくて、俺は思わず少女の小さな体を抱きしめた。
「ヨコシマ………ヨコシマ………」
少女の体は燃えるように熱く、零れる涙は炎の様に俺の心を焦がしていく。
嗚咽に混じって彼女の哀しみと喜びが伝わってくる。それは彼女の抱える絶望の闇と希望の息吹。
相反する2つの激情を胸に秘めながら、幼い心は己を支える縁を求めて力の限り俺の体にしがみ付いている。
「パピリオは、俺は、大丈夫だから」
幼子をあやすように優しく彼女の背中を撫でながら、抱き合っていた体を離してパピリオの顔を覗き込むと、彼女の瞳から流れる真珠の様な涙の雫がその瑞々しい頬を濡らしていた。
「何が、あったんだ?」
潤んだ瞳を見つめると、パピリオの顔がくしゃっと歪む。
視線を落として口を閉じる姿は哀愁に塗れ、さながら主人からはぐれて見知らぬ場所に迷い込んだ子犬のようだった。
やがて彼女はぽつぽつと喋りだした。
「私、ヨコシマがあの装置を壊した後、ベスパちゃんとルシオラちゃんを復活させたくて霊体片を探していたんでちゅ。
でも全然見つからなくて、そのうちヨコシマがアシュ様にやられたって聞かされて。
理性を失くしたアシュ様の攻撃で、霊体片がありそうな場所は東京タワーもろとも吹き飛んじゃって。
だからベスパちゃんも、ルシオラちゃんも、再生できる可能性はもう全然なくなっちゃって…………」
「ルシオラとベスパが再生?」
“私達はある程度以上の量の霊体があれば、死んでからしばらくの間は再生できるのよ”
「じゃあ、霊体片さえあればルシオラは復活できるのか!?」
ルシオラの言葉に、俺は思わず彼女の肩を力いっぱい掴んで問い掛けた。
けれど答えはない。
逸らされる目。項垂れた顔。パピリオは唇を噛んだまま何も言わず。
それは俺が抱きかけた希望に対する明確な答えだった。
彼女の肩から手を離すと、重苦しい沈黙が立ち込める。
やがてパピリオは搾り出されるようにくぐもった声を出した。
「それが、私の眷属に捜させたんでちゅけど、霊体片は全然残ってなくて…………。
霊体が欠片も残らないくらい完全に消滅してたらもう駄目なんでちゅ」
「そっか」
“仕方ないわ。それに、もしも今私の魂が切り離されたら、ヨコシマの霊体構造がどうなるか分からないもの。
どのみち私の肉体の再生はもう不可能よ”
肩を落とした俺の中でルシオラの声が聞こえてくる。
静かに澄んだ口調。
落ち着き払った波動からは動揺など微塵も感じられはしない。
彼女はもうとっくに覚悟を決めて、諦念を持って受け入れていたのだろう。
でも俺には、その強さが哀しかった。
「パピリオ。ルシオラは────」
“待って、ヨコシマ!”
せめてパピリオに俺とルシオラの事を伝えようと口を開いた時、ルシオラの声が焦ったように割り込んできた。
「ヨコシマ?」
「あっ、いや。何でもない」
驚いて上擦りそうになる声を抑えながら返事をすると、俺は蝶の少女に気付かれぬように自己の中に意識を向けた。
(パピリオに話したら駄目なのか?)
“まだ待って。
現状だと余程レベルの高いテレパシストじゃない限り、ヨコシマ以外に私の声を聞くのは多分無理。
それに今は安定してるけど、私の人格は霊体構造の中の残滓にすぎないのよ。
もしかしたら直ぐに消えちゃうかもしれない。だからもう少しだけ様子を見させて”
(消えちゃうかもしれないって、マジなのか!)
“焦らないで、順調ならあと数日でヨコシマの体は私の霊基に馴染んで安定する筈よ。そうすればもう心配ないわ。
でも他者の霊体構造の中にある人格が独立性を保ったままでいられるなんてホントに偶然の産物なの。
だから、お願い。私の存在がヨコシマの中で安定するまでは黙ってて”
(………分かったよ)
会話を終えると内面に埋没していた意識を素早くパピリオに戻す。
少し不安げな顔で俺を見ているパピリオの態度を解そうと、俺は軽く笑って話題を変えた。
「それで、パピリオ。究極の魔体が動き出してからもう結構時間が経ったみたいだけど、アシュタロスはどうなったんだ?」
「えーと、今は心配いらないみたいでちゅ。とりあえず詳しい事情を知ってるやつがいる場所に案内するでちゅ」
「よし、頼むぜ」
そう言いながらパピリオに手を伸ばそうとした時、彼女の背後に横たわる物体が目に入った。
「あっ」
すっかり忘れていた。涙目でこちらを見ている苦労人の中間管理職の事を。
土偶羅は何かジェスチャーするように首だけとなった体を左右に激しく振っている。多分、一緒に連れて行け、と言いたいのだろう。
「えーと、パピリオ。土遇羅があそこに居るんだけど」
「あー、ホントだ。土遇羅様、生きてたんでちゅね」
彼女は土遇羅の所まで駆け寄ると、嬉しさと懐かしさが混じった表情で壊れかけたその体を慎重に持ち上げた。
「俺はいつでもいいぜ」
振り返って準備は大丈夫かと問い掛けてくる少女の眼差しに頷くと、パピリオは左脇に土遇羅を抱えながらもう片方の手で俺の体を掴む。
「いきまちゅよ」
雄雄しく宣言すると彼女は、抱えている俺と土偶羅の重さなど物ともせずに虚空に向かって飛び上がった。
パピリオに連れてこられた場所は俺が目覚めた所とは違い、以前訪れた時の様に人間と活気に溢れていた。
フォーマル姿の人達が忙しそうに、殆ど傷のない屋内の中に備え付けられた設備に向かって何かの作業をしている。
巨大なモニターを睨みながら、手元の端末でデータを入力している人。
受話器を手に矢継ぎ早に指示を飛ばす人。
何らかの備品の入ったダンボール箱をどこかに運んでいる人もいる。
「都内全域の霊的パワーが集中する都庁の地下か。まさか此処が無事だとは思わなかった」
思わず口を突いてでる言葉。独り言のつもりで呟いたそれに背後から返答がきた。
「究極の魔体はあの主砲を日本では一発も撃たなかったんですよ。
ですから東京も地上はほぼ壊滅しましたが、地下の施設の大半は生きています」
振り返ると軍服を着てベレー帽を被ったジークが佇んでいる。
「ジーク。お前も無事だったのか」
「はい。流石にあの主砲を喰らっていたら、復活は無理だったでしょうが」
久しぶりに見るその顔には隠し切れない疲れが見えた。
目の周りには隈が浮かび、頬は肉が落ちてげっそりとしている。
本調子に戻るにはまだまだ時間がかかるのだろう。
けれどジークはそれを振り払うように苦笑する。
「横島さん、とりあえずこちらへどうぞ」
言うと彼は踵を返した。
俺は慌てて、軍人らしくきびきびと歩き出すジークを追いかけてそのまま隣に並ぶ。
「ここについた直後に、パピリオが土遇羅のボディーの修理を頼みにどこかに行っちまったんだけど、大丈夫なのか?」
「心配ないですよ。もう何度か来てますから迷子になる事はないでしょう」
会話を交わしながらしばらく歩くうちに、俺達は2m程の長さのカプセル群が並ぶ部屋へと辿り着いていた。
近付いてカプセルの中を覗き込んでみると、見慣れた女性の寝顔が目に映る。
「小竜姫様!ワルキューレ!ヒャクメ!」
思わず俺はカプセルに手をついて呼びかけたが、その瞼はピクリとも動かない。
そうだ。あの時ワルキューレと小竜姫様とヒャクメは、合体した俺と美神さんが攻撃を仕掛ける隙を作り出す囮として魔体に接近したんだ。
けれどバリアを破る術を持たない俺達の特攻は、蟷螂の斧のように虚しく。
霊波砲の斉射を浴びた3人は、俺同様に深く傷ついた筈なのだ。
「大丈夫なのか、ジーク?」
「心配いりません。
幸いにも僕が東京湾に漂っていた3人を回収した時には、誰も命にかかわる傷は負っていませんでした。
今はもう傷自体は既に癒えていますし、このまま此処で霊的エネルギーの供給を受けていればいずれ目を覚ますでしょう」
その言葉にようやく安堵した。
美神さんが死んでしまった光景が余りに鮮烈だったから、俺以外の全員が死んでしまったのだと思いこんでいた。
でも良く考えれば、小竜姫様もワルキューレも逆天号の直撃を受けてもなお復活できたのだ。
死に難いという点については、人間とは比較にならない程優れているのだろう。
緊張を解いて息を吐き出すと、俺は近くにあった丸椅子を引き寄せて腰を下ろす。
ジークも俺と同じように椅子を引き寄せてカプセルの傍らに座った。
無言のまま俺達はカプセルを覗き込んだ。
3人の体躯は以前の様に人並みの大きさに戻っており、その呼吸は熟睡している時の様に穏やかで。
けれど彼女達の体中に散在する無数の傷痕や火傷の痕は見るからに痛々しく、彼女らの体から発せられる霊圧も弱々しい。
一通り様子を確かめると俺はジークに向き直った。
パピリオが言っていた詳しい事情を知ってるやつとはジークを指しているのだろう。
聞きたい事が山ほどあり、ジークもそんな俺の様子に気がついているようだ。
「ジーク、教えてくれ。俺達が日本海で負けてから、一体アシュタロスはどうなったんだ」
「まず今日の日付ですが、横島さんや姉上達が決戦を挑んだ時から既に74時間が経ってます」
「3日以上が………それじゃあ魔体の燃料は」
「はい。究極の魔体は3時間ほど前にエネルギー切れになって、今はハワイ沖で停止しています。
あと30分経って日本時間の10時になったら、人類側の残存戦力による一斉攻撃が始まる予定です。
魔体のボディー自体はそれ程の強度があるわけではないので、攻撃が始まればすぐに木っ端微塵になるでしょう」
まず驚きがあった。やつのスピードと主砲の威力なら、3日あれば全世界の陸地が消え去っていてもおかしくない。
なのにジークの口振りでは、究極の魔体は人類を滅ぼす事が出来ず、相当の数の人間が生き残っているようだ。
「あいつが小笠原諸島から姿を現してから3日経ってんだよな。どうやって時間切れに持ち込んだんだ?
あの主砲とバリアを使われたら、たとえ核ミサイルを何発ぶつけたって意味がない筈だろ」
「ええ、その通りです。人類の攻撃も、最高神の方々の御力でも、やつのバリアを突破する事はできませんでした。
ですが魔体も万能ではありません。知能を失っていたやつは人間界を攻撃する過程で数々の弱点をあっさりと露呈しました。
結局それが敗因となりました。
オカルトと軍事の戦力を集中させた人類は起死回生の作戦を仕掛け、その弱点を突いてハワイ沖での時間稼ぎに成功したのです。
尤も、もしアシュタロスが完全に知能を失っていなかったら、その作戦はこうもうまくはいかなかったでしょうが」
まるでもう何もかもが終わっているかのようなジークのあっさりとした口調。
それに戸惑いを感じながらも更に言い募ろうとした時、小竜姫様達の霊圧が膨れ上がった。
慌ててカプセルに目をやると、3人の瞼が痙攣している。
「っと、姉上達が目覚めたみたいですね」
ジークが立ち上がってカプセルの端についているボタンの1つを押すと、カプセルの蓋が開いた。
やがて3人がゆっくりと目を開いて上体を起こしだす。
少しだけ目を瞬かせると俺達を見る。
「此処は………ジークと横島か」
「私、また都庁地下に。でもどうやら助かったみたいなのね」
「人間界は無事なのですか?」
少しだけ不思議そうな顔で己の体や部屋に目をやって命が助かった事を悟ると、3人は俺と同じように状況を問い質してきた。
「それは」
何か言おうとしたジークの目が壁時計に止まる。すると彼は口を閉じて床に置いてあった妙な装置、おそらく魔族の軍から支給されたアイテムだろう、のカバーを開けて何やら操作し始めた。
「おい、ジーク。一体何を────」
「待ってください、もう10時になります。そろそろ総攻撃が始まります」
目をやると確かに時計の針は10時を刺そうとしていた。
────グウゥゥン
ジークの操る機械からはパソコンの電源を立ち上げた時の鈍い駆動音に似た音が聞こえる。
一見すると大き目のノートパソコンのようなその装置。モニターやキーボードに酷似した部分もある。
やがてジークがいくつかコマンドを入力すると、モニターには究極の魔体が映し出され、俺達は思わず息を呑んでその映像に見入った。
「横島さん。ラジオをNHKに合わせて点けてください」
そう言ってジークはモニターから目を離さないまま携帯用の小型ラジオを放ってきた。
慌てて受け取ると、俺は周波数をNHKに合わせる。
ジークがわざわざラジオを点けさせたのは、都庁地下にあるテレビがもう碌に映らないからだろう。
地上の様子を見る限り、人工衛星を覗くTV用アンテナや発電所、送電網等の大半は壊れて使えなくなっているはずだ。
スイッチを入れるとすぐに音が聞こえてくる。
だが電波の状態は余り良くないようで、聞き取り辛くて何を言ってるのか良く分からない。
仕方なく、雑音が入るのを承知でボリュームを最大まで上げた。
『ザザザザザザザ…………間もなく総攻撃を開始します。
敵性体は現在活動を停止しており、再開する事はない模様です………ザザザ………よって破壊は容易だと予想されております』
今度はノイズ混じりに硬い声が聞こえてきた。
わざわざ攻撃開始時間を告げて実況紛いの事をする理由は、東京の惨状を目にしたせいで何となく分かった。
停止してからもう3時間以上が過ぎてるそうだ。なのに攻撃を引き伸ばしたのは、魔体の破壊を大々的に知らしめる為だろう。
それはつまりそこまでしなければいけないほど、魔体は派手に暴れまわって恐怖を撒き散らしたという事なのだ。
「始まります」
時計の長針が12の文字に重なったその刹那、聞こえてくるジークの言葉。
モニターに目をやると、ハワイ沖の浅瀬に停止している究極の魔体に何かが突き刺さって爆発した。
轟音と共に火球が膨れ上がる。対地ミサイルだ。それに続いて何十発ものミサイルが次々に魔体へと降り注ぐ。
爆発音と衝突の際に出る閃光が引っ切り無しに伝わってくる。
「効いてるんだな」
見る見る間に魔体の体が削がれていく光景を見ながら俺はポツリと呟いた。
分かっていた事だが、強いという言葉が陳腐に感じられるほどに圧倒的だった魔体も、燃料が切れればただの頑丈な置物だった
魔体の腕が吹っ飛んだ。
胴体にも穴が空き、ぼろぼろと崩れだす。
…………何かの冗談のようだ。
俺達が一太刀も浴びせられなかったあの魔体が、訓練用の案山子みたいに為すがままに壊れていく光景にはまるで現実味が感じられない。
だが遂にアシュタロスの体が埋まっている首がもげて、やがて魔体のボディーは完全に崩壊して海に沈んだ。
『ザザザザザ………今、現地から発表がありました。
午前10時17分………ザザザザザ………多国籍軍はハワイ沖で停止した謎の物体を…………。
この三日間、世界中を震撼させた巨大ロボットのような物体を……ザザザ………破壊することに成功いたしました。
我々の…………勝利です………繰り返します……ザザザザザ……我々は勝ったのです』
────うわぁぁぁぁぁ
やったぁぁぁぁぁ
その瞬間、あちこちから歓声が聞こえてきた。
息を潜めてラジオに聞き入っていた此処の職員達の声だろう。
このラジオ放送によって、彼らはようやく究極の魔体の襲撃とやつが齎す理不尽な死の恐怖から開放されたのだ。
「これで、アシュタロスは、死んだんだな…………」
呟いた声は驚くほど平坦だった。
まだ実感が湧かない。
あの時、圧倒的なパワーを誇示しながら明確な殺意をぶつけてきた魔体の恐ろしさは今も尚この胸に巣食っていた。
本当にこれで終わったのか?
なんとなく釈然としないものを感じながらも、目を閉じて深呼吸する。
視界が闇に閉ざされると代わりに聴覚が鋭くなる。そのせいか誰かの上げている歓声が鮮明に伝わってきた。
それで俺はようやく理解した。アシュタロスの死を。
目を開けると、ワルキューレ達もモニターから目を離している。そのまま俺達の視線は自然とジークに集まった。
俺はまだこの3日間の顛末をまるで知らないのだ。
そして、何より。
「ところでジーク、おキヌちゃんは?此処には居ないようだけど、みんなハワイに行ってるのか?」
途端に彼は視線を落として唇を噛み締めた。その肩が僅かに震えている。
…………嫌な予感がする。
でも聞かないわけにはいかなかった。
「おい、どうしたんだよ?みんながどこにいるのか知らないのか?」
思わず語気を強めてジークの肩を掴もうとした瞬間、冷静で威厳のある声が横合いから響いた。
「ジーク、答えろ。GS達はどうした?
そもそも私達が魔体に挑んで返り討ちになってから、情勢はどう推移したのだ?」
軍人らしい感情を感じさせないワルキューレの問い掛け。
上官の指示が絶対である軍人の性ゆえか、俺の質問には沈黙を続けたジークは漸く口を開いて話し始めた。
「究極の魔体は1日で世界中の大都市を壊滅させました。
NY、LA、シカゴ、パリ、ロンドン、北京、上海、モスクワ等は主砲の直撃を受けて跡形もなく消えたそうです。
ですがその時のデータを基に、人類は3日目に反撃を開始しました。
これまでの行動パターンから魔体が優先的に狙うのは人口の多い場所だと予想されました。
故に主要都市の壊滅後、アシュタロスが人口の集中する孤島に襲い掛かる事を予期した人類はハワイにアシュタロスを誘い込んだのです。
その為に彼らは残存していた軍隊の内、ほぼ全ての動員可能な戦力をハワイに展開。
つまり、すこしでも長くアシュタロスを足止めする為に兵士とハワイの住民の命を魔体をおびき寄せる餌にしたのです」
「それで?」
「あの主砲とどんな攻撃も防いで敵の接近を許さない無敵のバリアを持っていた魔体にも、2つの弱点がありました。
1つはバリアを展開したままでは主砲が撃てない事。つまり主砲を発射している間だけは、魔体は無防備になります。これは、おそらく魔体のバリアが宇宙と宇宙を繋げるという原理を利用しているからでしょう。バリアを張ったままでは、その影響で主砲もあらぬ方向へ飛んでいってしまうようです。
そしてもう1つ。霊波砲を斉射している間は魔体の移動速度は著しく遅くなる、という事です。残念ながらこの場合はバリアを張ったままでも攻撃が可能でしたが。
つまり数で包囲するような形で接近して飽和攻撃を仕掛ければ、魔体は主砲を撃つ事が出来ず、動きを止めて斉射で応戦せざるをえないのです。
それ故に、戦闘機、戦闘ヘリ、爆撃機、駆逐艦、潜水艦、イージス艦等が一撃離脱を繰り返しながら波状攻撃を仕掛け、霊能力者の方々も輸送ヘリに同乗しながらそれを支援しました。無論その目的は燃料切れになるまで魔体を足止めすることです」
そこで一息吐くと、ジークはベレー帽を被り直した。
それで軍人らしい思考と感情の制御を取り戻したのだろう。ようやく落ち着きを取り戻した様子で、あいつは話を続けた、
「作戦開始は今から約31時間前です。そしてその直後にある事が判明しました。
何故か魔体は霊能力者の方々が乗る戦闘ヘリを何よりも優先して狙ってきたのです。まるで霊能力者に憎しみを抱いていると言わんばかりに。
おそらくみなさんにコスモプロセッサーを破壊された事への怨念によるものでしょう。
それでも志願者は誰も怯まずに、むしろ進んで囮役となって他の損害を軽減する為に魔体の攻撃を引き付ける役目を請け負いました。
おかげで、足止めに必要な航空戦力や艦隊は参戦した霊能力者の方々の殆どが戦死されるまで全滅を免れて攻撃を続けられたのです。
そして攻撃開始から20時間後、人類側の戦力が2割を切った所で最高神の降臨が間に合いました。
最終的に人類は魔体停止のリミットが8時間を切るまでやつをハワイ沖に足止めすることに成功し、そして最後の8時間は最高神の方々が魔体の主砲を防ぎ続けてくれました」
「8時間?」
「諸々の影響を考慮すると最高神の方々が人間界に居られるのは8時間がぎりぎりらしいのです」
耐え切れなくなって俺は強引に2人の会話に割り込んだ。
「ジーク、回りくどい事はいいんだ。俺が知りたいのはおキヌちゃん達の事なんだよ」
「………………世界中から志願した霊能力者の方々も戦うために現地に乗り込みました。
そして、その9割が囮となって戦死したそうです。
美神美智恵女史らオカルトGメン所属の方も、唐巣氏や伊達さんら民間から協力していた方々も、最後の1人までもが囮を続け、そして攻撃開始から約17時間後に魔体の霊波砲を浴びて、日本からの志願者は全員戦死いたしました。生存者は……………1人もおりません」
そこまで言うと淡々としていたジークの声から力が抜けた。
一泊の沈黙の後にヒィと息を呑む声がする。多分小竜姫様だろう。
ギリッと歯軋りする音はワルキューレだな。
どこか他人事の様にそんな事を思いながら俺の意識はジークの言葉を理解する事を拒んでいた。
気がつけば走っていた。制止の言葉が聞こえた様な気もしたが、よく覚えていない。
必死になって現実味のない言い訳を内心で並べて。
全くジークも悪趣味だな。こんな時に冗談を言わなくても良いじゃないか。
くそ真面目なお前の言うジョークが面白いわけがないだろう。
まるで信じていない事を何度も何度も胸に言い聞かせる。
自分を騙さなければ立っている事すら不可能になってしまうから。
だから俺はただ我武者羅になって美神事務所に向かって廃墟の群の中を走り続けた。
あそこにいけばきっと誰かがいる、きっと誰かが迎えてくれる、そう思い込みながら。
「ここ、美神事務所、だよな?」
答えなどないと分かっていながらも俺は思わず声に出していた。
目の前には、他の建物と同様に廃墟と化した建造物がある。
だがそれでも何となく見覚えがある。間違いない。
耐震。耐火。そして霊的な防御に優れた美神事務所が、俺の目の前で無残な姿をさらしていた。
辛うじて倒壊は免れているものの、建物の3分の1は何かに抉られたかのように綺麗に消失している。
塗装は大半が剥げており、内部は外から見えるだけでも滅茶苦茶になっている事が分かる。
何よりも人の気配が全く感じられない事が全てを表している。
美神事務所は、いつも温かかった俺達の大事な場所は、壊れた玩具の様にぼろぼろに崩れかけていた。
「うそだ、嘘だろ………なあ、頼むから嘘だって言ってくれよ!!」
思わず我を忘れて叫んでいた。
その時、小さな声と余りにも馴染みが深い波動が俺に届いた。
この場所でもう数え切れないくらい聞いてきた声。
[横島さん………生き、て………おられ………たので…す…ね]
「大丈夫だったか、人工幽霊一号!待ってろ、すぐ霊力を分けてやるから!!」
[いいえ、もう………無駄……です……]
頼りない声で話す人工幽霊の霊波が電球が明滅するようにぶれている。
まるで風前の灯。
なのに力なく答える人工幽霊はその時確かに嬉しそうに笑ったのだと、何故かそんな気がした。
[もうす…ぐ………わたしは………消え……ま…す。でも………その…まえに……あなた……に……これ………を]
消え入りそうな声の懇願。
人の感情を推し量ったり、場の空気を読むのが下手な俺にさえはっきりと分かるほど、必死の想いが伝わってくる。
[おねが……です………これを………どう…か………見て……だ……さ…い]
その声に促されるように、俺は唖然としたまま事務所の中に足を踏み入れる。
予想通り事務所の中は目も当てられないくらいにぐちゃぐちゃだった。
家具や事務用品が散乱している中で、テレビだけが綺麗に残っていた。画面にはひびすら入ってない。
電源を点けてみようかと近付くと画面が明るくなった。
[4人の方が………二日前に残したメッセージが………入って……ま…す]
途切れ途切れの声が聞こえてくる。同時にテレビからも音声が流れてきた。
これが、こいつが死に体になってもずっと守り通してきたものなのか。
何か言おうとして、止めた。人工幽霊が黙って見て欲しいと願っているのは明らかだった。
一瞬たりとも見逃すまいと画面を注視していると、やがて見覚えのある人間の姿が映った。
タイガー寅吉。
あいつはまずエミさんや同僚達に短く感謝の言葉を述べると、クラスメート達にも伝えたい事を告げた。その大半は、制御できない精神感応能力のせいでずっと怪人扱いされてきた自分に人間として接してくれた事への感謝だった。
そして最後に少し恥ずかしげに、でも胸を張りながらあいつは言った。
「魔理さん。わっしは多分戻れんと思っておりますケー。その時は、どうか、わっしの他に、誰かを見つけて、幸せになってつかーさい」
最後にはもう何を言ってるのか良く分からないほど口調が乱れていた。
きっとタイガーは嗚咽を堪えているのだ。あの巨体に似合わず、タイガーは俺達の中で一番温厚で気が小さい。
それでもあいつは逃げなかった。逃げれば生き残れたのに。志願しなくたって誰も責めなかっただろうに。
一言も泣き言を漏らさずに惚れた女に精一杯の言葉を残して、最後まで泣き顔を見せぬように我慢して。
「ったく、お前は影が薄いんだから、逃げたって誰も気付かねーよ。なのに格好つけやがって」
だからこそ俺は毒づかずにはいられなかった。たとえそれが何の意味もなかったとしても。
タイガーが退いて、2人目が現れる。
雪乃丞だった。
既に故人となっている母親への感謝や俺と戦えなかった無念を淡々と述べる。
そして最後に、雪乃丞もタイガーの様にあいつにとってこの世で一番大切な人に言葉を残していた。
「かおり。お前は俺には過ぎた女だったぜ。できれば生き延びろよ」
いつもみたいに悲壮感や恐怖を微塵も感じさせずに、にやりと笑う雪乃丞。
あいつらしい真情のこもった簡潔な言葉。
でも俺には分かっている。
あいつがあんな不敵な顔をして死地に赴こうとしているのは、自分の最後の姿をできるだけ格好良く弓さんに伝えたいからなんだって。
それに悪ぶっていても、あいつは俺よりも遥かに義理堅い性格なのだ。唐巣のおっさんと比べても遜色ないだろう。
だからこそこの男が志願しないわけがないとは思っていた。
でも。それでも。ハワイになど行かず、生きていて欲しかった。
「結局GS資格試験の引き分けの決着の約束も、8年前のミニ四駆全国大会の再戦の約束も果たせなかったな」
胸に後悔の木枯らしが吹きすさぶ。
こんな事なら何だかんだ理由をつけて逃げ回ったりせず、試合ってやれば良かった。
そうすりゃきっと、あいつも俺も少しだけ心残りが減ったのに。
3人目はピートだった。
あいつは学校の連中に世話になった事に感謝を述べ、アン・ヘルシングにも簡単に別れの挨拶をする。
それが終わると、あいつがオカルトGメンとして活躍する事を待ち望んでいるブラドー島の人達に別れと励ましの言葉を告げた。
「僕は先生や美神さん達と会って、こそこそと己の境遇を偽らずとも人間社会でやっていけるという自信が持てました。
ですから皆さんも恐れないでください。たとえ僕が死んでも皆さんは新しい時代に入ることが出来ます。人間の方々と共に」
最後まで笑顔のまま、ピートはメッセージを締めくくった。
本当に、里帰りでもするかのように穏やかに。
「いちいち言う事が気障なんだよ、ピート。何百年も生きてるくせにあっさり死にやがって」
次々と再生されていく画像は大切な人達が残したメッセージ。
もはや会えない彼らの言葉を聞くたびに胸が締め付けられていく。
そして4人目。最後に画面に現れたのはおキヌちゃんだった。
一目見た瞬間、俺は自分の目を疑った。
画面の中のおキヌちゃんは、外見には特に変化はないのに、それまで見たこともないくらいに綺麗だった。
彼女は、可愛いとか、美しいとか、そういった物を超越したかのように清らかで侵し難い雰囲気を湛えていた。
やがておキヌちゃんはいつものように優しげな口調で話し始めた。
六女のクラスメートに友愛の言葉を。
この近所の幽霊達に諧謔混じりの別れの言葉を。
自分を引き取ってくれた氷室家の人達に感謝の言葉を。
一通り話し終えるとおキヌちゃんは、そっと胸に手を当てた。その瞳が潤み、顔に血が上って頬が赤くなっている。
そのまま5秒程経った後、おキヌちゃんは何かを決意したかのように軽く頷くと、お日様の様な笑顔を浮かべながら口を開いた。
「本当は直接会って伝えたかったんですけど、死んだら会えるかどうか分からないから、こちらにも言っておきます。
横島さん…………私、生き返る前から、ずっとあなたが好きでした」
稲妻に直撃された時みたいに俺の体が激しく震えた。
舌が痺れてうまく動かない。
力が抜けて座り込みそうになる。
一気におかしくなってしまいそうな痛みが俺の胸に奔った。
「もしまた会う事が出来れば、今度は決して躊躇いません。そして絶対に負けません。
誇りを持って、心から言えます。好きです。大好きです、横島さん」
おキヌちゃんが俺の前で笑ってる。哀しそうな、けれどどこか照れたような顔で。
きっとあの子は、俺の顔を思い浮かべながら言葉を紡ぎ、それに向かって笑顔を浮かべているんだ。
「来世でもまた、美神さんと、横島さんに……会いたい………です」
その内心は死の恐怖に脅え、親しい人間を亡くした悲しみに打ちのめされていたはずなのに。
その瞳からぽろぽろと涙を落としながら、それでもおキヌちゃんはいつも俺に安らぎをくれたあのほんわかとした笑顔のままで。
その笑顔があまりにも綺麗だったから。
俺は何があろうとも一生忘れないと感じていた。画面に映っているおキヌちゃんの笑顔と、俺を好きだと告げた彼女の言葉を。
唐突におキヌちゃんの姿が消える。メッセージが終わったのだろう。もう画面は暗くなっていた。
それでも四人が残した言葉は忘れられるはずがないくらい鮮烈に胸に刻まれて。
「ちくしょう………ちくしょぉぉぉぉ!」
狂おしい程の遣る瀬無さに突き動かされ、絶叫が俺の喉から迸った。
まるっきり気付いてなかったわけじゃない。あの子が俺に向ける眼差しに特別な意味が込められていた事を。
なのに………それなのに!
俺はあんなに俺の事を大切に想っていてくれたおキヌちゃんに何もしてやれなかった。
彼女を助ける事も。元気付ける言葉を掛けてやる事さえも。
不意に人工幽霊の言葉が聞こえてくる。
[これ………で………思い残す事は………もう…あり…ませ……ん]
ああ、もういい。
何も言わないでくれ。
頼むからお前まで俺を残して死なないでくれ。
[よこし………ま……さ…ん…………生きて……くだ…さ………]
けれどそんな俺の思いも虚しく、人工幽霊一号のか細い声は消えていき、そしてその霊波が完全に消えた。
この瞬間、美神事務所は廃墟となったのだ。
瓦礫の野原に微かな風が吹いた。その小さなベクトルに押されて、固まっていた俺の体が倒れそうになる。
吹けば飛ぶような、って言葉はきっとこんな状態を指すのだろう。
だってどう頑張っても体に力が入らない。胸がむかむかして吐き気がする。
少し動いただけで呼吸が乱れ、思考が散った。
やがて空っぽになった頭に、厳然たる事実が無慈悲に流れ込んでくる。
────みんな、死んだ。
俺だけが、生き残った。
認識した刹那、猛烈な悔恨と罪悪感がのしかかってきた。
目の前が真っ暗になって何も、ルシオラの声さえも聞こえない。
「あっ……ああっ………うぐっ」
濁った何かが全身に満ちて、体中を這い回る。
まるでムカデが体内で蠢いている様な悪寒と気持ち悪さに全身が痙攣する。
震えに耐えられずに力が抜けてバランスが崩れた。無意識のうちに膝を落として両手を突く。
その時、冷たい何かが頬を撫でた。
先に泣き出したのは空だった。
目を上げるといつの間にか顔を曇らせた空が、俺の内心を代弁するかのように涙を流し始めていた。
その涙は徐々に激しくなって、遂には眩い閃光と共に悲鳴のような泣き声を上げた。
「うわあああああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!」
木霊する稲妻の轟音につられるように、俺の喉からも叫びが漏れる。
一度泣いてしまえば、もう止まらなかった。
「ふざけんなよ!
こんなっ!美神さんもおキヌちゃんもいない世界で!!
俺に………何を支えに生きていけって言うんだよぉぉぉ!!!」
けれど頬を流れる俺の涙は雷鳴の轟と激しく地面を叩く雨音の中に消えていき。
感情に任せて泣き喚きながら叫んだ言葉に答える者はなく。
仰いだ天はどす黒い雲に覆われて何も見えなくて。
いつも俺の傍で俺を明るく照らしてくれた数々の光は……………もうどこにもなかった。