2001年2月25日 日本帝国 帝都・東京 霞が関・財務省主計局
「―――255億ドルですってぇ!?」
霞が関の財務省主計局、その局会議の席上で主計局総務課長が、悲鳴の様な声を張り上げた。 司計課長、法規課長や、課長級分掌官の主計官達も目を剥いている。
上席に座った主計局長はむっつりしたまま黙りこくり、局次長が渋い顔で吸っていた煙草を灰皿の上に揉み消して、部下の課長・主計官達を睨みつけながら言う。
「・・・例の『HI-MAERF計画』、その接収予算として急遽、255億ドルを都合しろとの閣議通達だ。 どうやら米国が相当額を、吹っ掛けて来たらしい」
「―――SSC(日米安全保障高級事務レベル協議)の外務省の連中は、一体何をしておったのですか!? 冗談で済まされる額では、到底ありませんぞ、局次長!」
「そうです! それに市ヶ谷(国防省)の連中もです! まさか向うの言い値を飲んできたなどと、そんな話では到底、承知できませんぞ!? どうなんだ? 調査課長!?」
話を振られた主計局調査課長が、これまた渋い表情で応じる。
「・・・最初は500億ドルとか、抜かしおったそうだ。 外務省も国防省も、あらゆる人脈や組織を総動員して向うを切り崩して、やっと半値まで値切り倒した」
事実だった。 当初、米国務省から提示された額は約500億ドル、日本円(日本帝国圓)で約1250億円と言う巨額な要求だった。
流石のそのままの提示額を本国へ要求する訳にも行かず、SSCの外務官僚と国防官僚達は青ざめた。 そしてあらゆる手段を使ってでも、値切り倒す事に奔走したのだ。
国防省などは配下組織の情報本部から、海外謀略工作を専門とする特2部(第2特別工作部)まで動かし、かなりイリーガルな切り崩し工作を展開した様だ。
それだけではなく、国家憲兵隊特殊作戦局や情報省特務(特務情報調査部)と結託して、国内外で誘拐・脅迫・密殺と言った裏工作まで行ったと、霞が関では噂される。
「国家憲兵隊の、右近充中将が動いたのだろう? あの人が動いたら最後、米国内でも死人の1ダースや2ダース程度は軽く出ただろうなぁ・・・
国内でも在留外国人子弟の誘拐・行方不明事件が多発している。 誰がやったか公式発表はない。 だが誰がやったか、知っている者は知っている。 報道は決してされないが」
「それだけじゃない。 米国内のユダヤ・ロビーを動かす為に、外務省の国際情報統括局の藤崎統括局長が動いたそうだ。 米議会を動かす為に、イリーガルな事もやったらしい。
モサド(イスラエル諜報特務庁)と接触して、特2部や情報省特務、憲兵隊特殊作戦局との間を、彼が取り持ったんだよ。 藤崎さんの奥さんは、右近充中将の奥さんの妹だ」
「確か、大日本食品工業の重役の妹だったな、あの軍需企業の」
「軍需だけじゃないさ、今や手広くやっている。 合成食料生産プラントの開発・生産・販売等のプラント関連事業から、化学工業まで手広くな。
米国のデュポント社とも提携して、最近じゃ軍需・民需の各種火薬製造や、農薬・塗料まで・・・そう言えば、対レーザー拡散被膜の研究開発や生産もしているな」
「・・・立派にコングロマリット、『死の商人』か。 米国財界とのパイプは、その線か?」
「判らん。 が、否定できない。 ・・・おい、今はそんな与太を話している時か?」
そうだ―――今は255億ドル、その巨額の予算を何処から捻出するかだ。
既に2001年度予算は、先月下旬に国会で予算審議が行われている―――筈だが、例年の如く与野党の対立で、2月末になっても予算審議に入れていない。
既に予算案は出来上がり、大臣折衝を終えて政府案さえも昨年末に完成しているのだ。 どこからそんな巨額の予算を追加できるものか。
「―――補正予算は?」
「理由をどうつける? 理由だよ! まさか『横浜の牝狐のおねだりで、補正予算を追加したいのですが』等と言う気か? それこそ君、霞が関では生きていけないのだぜ?」
「まったく・・・首相が強引に閣議決定しただって? 六相会議(首相、内務相、国防相、軍需相、蔵相、外務相)でも、首相以外の閣僚は反対したのだろう?」
「らしいな。 米内国防相と白須軍需相(白須市朗)は、特に強硬に反対したようだね。 即日、辞表を叩きつけたって言うな」
「で、後任の阿南海国防相と小山軍需相(小山直登)か。 阿南海大将は政治的には無色だが、陸軍部内の実力者だ。 国粋派の抑えが利くからか・・・」
「小山さんは国鉄総裁や、運輸大臣もしていたな。 今は帝国製鉄の社長で、鉄鋼統制会理事長か。 官とも民ともパイプが太い人だ、前任者ほど癖のない人だな」
六相会議のメンバーでも有る最有力閣僚2名が、職を辞してまで反対した巨額の出費。 年明け早々に稼働を開始した、国連軍太平洋方面総軍横浜基地がその発端だった。
横浜基地内のAL4計画本部、そこは日本帝国が誘致した国連主導の『対BETA大戦極秘計画』の本拠地である。 しかし、そこには厄介な問題もあるのだ。
AL4計画本部自体は、命令系統は国連軍後方支援軍集団・研究開発団の指揮下に属する研究組織である。 同時にその潤沢な研究予算は、誘致国である日本帝国政府の負担。
今回の話は、その横浜基地からの事前研究開発計画案として、かつて米国が開発を進め、その後はほぼ放置状態となっていた『HI-MAERF計画』を接収する、と言うものだった。
命令系統を遡り、国連軍・軍事参謀委員会の内諾を経て、N.Y.の国連米国政府代表団、国連日本帝国政府代表団の双方に打診が入ったのが、先月の末。
そして今月早々に、米国国務省からSSC、及び在米日本帝国大使館へ『売却要求額』の提示が為されたのが、2月5日と言う速さ。
どうやら米国は、日本が端から飲めない巨大な金額を、吹っ掛けて来たようなのだ。 日本側は即座に政府へ通達せず、まず関係省庁が事前に動いた。
外務省や国防省、情報省による静かな、そして時に凄惨な裏工作の結果、半値まで値切ったのが2月20日の事。 その時点で首相の耳に入った。
閣議や六相会議、与党内での議論も、半値になったとは言え、その様な巨大な金額は飲めないと、ほぼ反対意見で纏まりだした時、首相が強引に決定してしまったと言う。
「そもそも首相は何故、そんな無茶な決定をしたんだ?」
「わからん。 色々と噂は飛びかっちゃいるが、どれも噂に過ぎん」
「将軍家が、久々に我を張ったとか。 横浜から技術提携枠の拡大を、内諾させたとか? 有り得ないな、両方とも。 将軍家が現実政治から遠ざかって、もう何十年経つ?
先代の将軍家さえ、政治に干渉させなかったんだ。 当代の将軍家など、ただの見栄えの良い神輿に過ぎんさ。 なにせあれだけ、見目麗しい乙女とあってはな!」
「それに横浜の線も無い、あの牝狐が余程の得が無い限り、そんな事に応じる訳が無いからな! あの女は日本人じゃない、ただの『学者人』さ。 自分の研究以外に意味は無い」
そして再び現実を見ると、もう溜息しか出てこない。
「補正予算を組むにしても、財源はどうする? 増税か?」
「馬鹿な、これ以上の増税を行えば、国民生活は完全に破たんする。 全国民が難民化するぞ、それを食わす予算の土台も無くなる、論外だ」
「補正予算が無理なら、どこかを削らなきゃならん。 既に国会審議に出した予算案を再提出か! 前代未聞だ、日本帝国始まって以来の、緊急事態だぞ」
「それを引き起こしたのが、あの馬鹿な横浜の牝狐とは! 泣けて来る・・・で? どこを削る?」
「削れる枠は、限りなく限定されるな・・・」
総務課長の言った一言に出席者全員が、思わず首筋に冷たい感覚が走る気がしたのは、偶然ではないだろう。
馬鹿げたテロに遭う危険を冒してまで、予算を組み直すのか? それとも首相の指示に、真っ向から反発するか? 後者ならば今後、霞が関でのポストの保証は無い。
「・・・2001年度の一般会計予算は、4541億4000万円(1ドル=2円50銭の『帝国圓』) その内で予算の大きいのは、社会保障関係費の6.5% 他に国債費も6.5%
次いで食料安定供給関係費が4.5%・・・他は精々が1%前後だ。 社会保障関係予算と、食料安定供給関係予算を全額削っても、255億ドルは無理だ」
「国債関係予算は、絶対に維持せにゃならん。 今や国家収入のうち、公債収入が46.8%を占める。 逆に税収は42.5%と、半分を割った。 残りは特別会計からの編入だ」
「特別会計予算枠で、幾らか削れないか? 分散させれば255億ドルなら、何とか捻出できるだろう?」
「それこそ馬鹿を言うな。 特別会計予算は、2001年度は1兆6000億円だが、社会インフラ再整備や食糧供給、エネルギー供給予算はギリギリの線で各省庁を宥めたんだ。
ただでさえ、一般会計予算では雀の涙なのだ。 特別会計予算枠に潜り込ませているからこそ、まだ国家を維持出来るのだぞ? それを、どうやって削ると?」
皆が押し黙る。 答えはもう出ているのだ、だが誰もそれを口にするのが恐ろしかった。 個人的に命を狙われる可能性もあるが、何よりこの国を防衛出来なくなるかもしれない。
もしそうなったとしたら、自分達は亡国を呼び込んだ愚かな官吏の実例として、後々まで歴史の物笑いになるだろう。 何よりも、国家財政政策の専門家としての自負もある。
何人かが手元の資料に目を落とす。 そしてその数字を血走りかけた目で追いかける。 一般会計予算の実に72.5%、特別会計予算の30.52%を占める、巨額の予算枠に。
「次年度国防予算総額・・・総額で8171億5715万円、ドル換算で3268億6286万ドル。 米国国防予算の半分近い巨額だ。 ここからならば、255億ドルを十分削減出来る」
「だいたい、7.8%の減額か・・・連中が飲むか?」
「新任の国防相次第だろうな、そこは。 どこまで部内を抑え切れるか、その手腕次第だ。 もし駄目なら、本気で明日から俺達には警備が張り付く―――軍人テロから守る為に!」
「一般会計の国防予算、3292億51500万円。 特別会計予算の国防整備事業特別会計が、4883億2000万円。 しめて8171億5171万円。
一般会計と特別会計を合わせた国家予算全体の、実に39.8%を占める国防予算・・・軍部が騒ぎ出す姿が見えて来て、泣けて来るな」
部下達の結論をそれまで黙って聞いていた主計局長が、徐に口を開いた。
「・・・それで上申する。 最悪、兵備局長(国防省兵備局長、戦争遂行の国家計画を掌握)とは、俺が刺し違える。 いいな、君等。 腹を切るのは、俺が最初だ」
2001年3月10日 2030 日本帝国 千葉県松戸 陸軍松戸基地 第15旅団
「―――Mk-57は不採用?」
将校集会所の上級将校用サロン、そのカウンターバーで周防少佐が、隣に座る同僚に聞き返した。
「不採用と言うか、採用見送りと言うか、採用する予算が無いと言うか。 元々、中期防(中期国防力整備計画)に捻じ込む予定は、BK-57だったらしいから、影響はないけどね」
旅団G4(兵站幕僚)兼・補給部隊長の増田少佐が、忌々しそうな表情で言葉を濁す。 周防少佐も、薄々気づいていた。 部隊の来年度予算枠の、急な見直し命令が出た時点で。
周防少佐が舌打ちしつつ、娑婆ではまず普通には手に入らない本物のモルト・ウィスキーを喉の奥に流し込む。 増田少佐もバーボンを半ば自棄気味に飲んでいた。
「・・・本当だったのか、国防予算削減の話は。 増田さんは知っていたのか?」
「俺も経理局(国防省経理局)の同期から聞くまでは、半信半疑だったがな。 本当だ、政府の閣議決定・・・いや、首相の強硬な決定だそうだ」
「どうしてそこまで、横浜に肩入れ出来るんだ? 首相は確信でも有るのか? 確かにAL4計画がポシャったら、日本は大損だ。
これまでの投資も回収できずに、次のAL5計画・・・今はアメリカが進めている計画に吸収される。 投機市場に手を出して、大負けして破産するパターンだ」
AL4―――『オルタネイティヴ第4計画』 帝国軍内でも少佐以上の階級の者にしか、その名前さえ明らかにされていない、国連主導の国家的・超国際的プロジェクト。
一般には、『国連軍横浜基地の研究組織』としか、情報公開されていないのだ。 勿論、周防少佐にしても増田少佐にしても、情報アクセス権限の壁で全てを知る立場に無い。
だが大尉以下の将兵と比較すれば、その概要だけでも情報を知り得る者として、横浜に対しては余り良い感情を持っていない事も事実だった。 増田少佐が話を続ける。
「・・・『HI-MAERF計画』か。 当時から奇天烈な計画、と言われたヤツだろう? それに巨額の国家予算を投じて接収したとしてだ、それでAL4計画が成功するのか?
大いに疑問だよな。 だいたいが『アレ』は米国が当時、戦略航空機動要塞(WS-110A)の開発計画としてスタートしたんだ。 横浜がどうして『航空機動要塞』を必要とする?」
「そこだよなぁ・・・AL4は専属の戦術機甲連隊まで保有している、いや、していた。 かなり消耗している様だが。 研究機関が何故、そこまでの兵力を欲する?
実はこの間な、市ヶ谷に行ったんだ。 統幕(統帥幕僚本部)2部国防計画課の、広江中佐に呼び出されてね」
「統幕の国防計画課? そんな所に、何しに?」
「用件はプライベートの野暮用だよ、広江さんは新任当時の上官でね。 俺も嫁さんも、世話になっている人だから・・・
で、世間話をしていたらな、統幕内でも、国防省内でも、AL4計画に関する国連との協定見直しを! って声が、日に日に大きくなっているそうだ」
オルタネイティヴ計画は、国家誘致の国際的プロジェクトだが、その実行予算は誘致国負担が原則だった。 その『成果』に対する分配比率は、国連と誘致国間の協定で決定する。
AL4計画誘致時、日本国内上層部でもその奇天烈な内容を、疑問視する声が大きかった。 それを強引に説き伏せ、批判の声を封印して日本誘致に成功させたのが、現首相の榊是親。
「いや、確かに対BETA大戦での勝利、それの先鞭をつける為の計画、と言う重要性は俺も理解している。 その計画に巨額の予算を投入しなければ、と言う事もな。
だが広江さんから聞く限りでは、『分配』は今まで殆どまともに『支払われていない』らしいな。 横浜の牝狐、何やかやと駆け引きをしては、ほぼ独占しているらしい」
「そこだよな。 ほら、周防さん、アンタが去年に実射試験に立ち会ったって言う『試製99型電磁投射砲』、あれのコアブロックは横浜からの物だが、依然ブラックボックスだ。
協定では『対BETA大戦の根幹、乃至、大量破壊兵器に繋がる可能性のある技術以外の軍事転換可能技術は、可及的速やかに誘致国へ無償提供する』とあるのだぜ?」
「無償もなにも、もともと日本の金で開発した技術だろう? あの基地の研究人員だってそうだ、帝大の各研究室や企業の研究部門から、有無を言わさず強制徴募だぞ?
そんな姿勢に反発して、職を辞した研究者がかなりいるらしい。 で、その中の少なからぬ人達が、本土防衛戦の混乱の最中で犠牲になって、還らぬ人となった・・・」
「帝国の学会や企業の研究者の中には、軍以上に横浜の牝狐を嫌悪している学者や研究者が多いのは、それも原因だな」
頷いた周防少佐は、さてここから先を話して良いものか? と少し思案した後で、身を屈めて増田少佐に近づき、小声で話し始めた。
「・・・ここからは、完全にオフレコだ。 漏らすなよ、増田さん。 接収計画ではな、向うの研究開発メンバーもこぞって寄こせと、そう言っているらしい」
「・・・本気か!? あの牝狐は!? BETAの侵攻に晒されていない米国から、極東の最前線である日本に、幾ら命令でもやって来る物好きな研究者が居るかよ!?」
「だよな・・・その辺の『安全保障』も込みの、米国の提示額だったらしいが・・・どうやって値切った事やら・・・」
「・・・所で今の、どこからのネタだ?」
「・・・市ヶ谷」
「・・・くわばら、くわばら。 俺はさっさと忘れる事にするよ」
2001年3月12日 日本帝国 帝都・東京
「ええっ!? サクラマスが二切れで15円!? 一切れ7円50銭じゃないのよぉ! オジさん、高いよ! 高い、高い! もっとまけてよ! せめて11円!」
今日は良いのが入ったよ!―――そう言われて、『じゃ、買おうかな?』と思ったものの、これは高い。 ちょっと高いんじゃないの?
別に旦那に甲斐性が無いって訳じゃないけど、家計を預かる身としては、納得できないな。 そう思ったら、勝手に口が値引き交渉を開始していた。
「ってもなぁ、長門の奥さん、ウチも仕入れが上がっちまってなぁ。 税金は上がるし、仕入れ値は上がるし、売値は値切られるし、参るよ、ホント。
・・・って、ちょっとまった、長門の奥さん! 11円じゃ、こちとら商売上がったりだよ! 勘弁してくれよ! せめて14円50銭だよ!」
「あら? この前に東口の『魚盛』さんじゃ、二切れで11円50銭だったわよ?」
「・・・周防の奥さぁん・・・何ヵ月前の話だよ、そいつぁ・・・14円! これ以上は無理!」
「ううぅ~・・・じゃ、12円! そっちのワカメも買うからさぁ? ね? オジさん、お願い!」
「参ったなぁ・・・周防の奥さんも、長門の奥さんも、常連のお得意様だしなぁ・・・13円50銭でどうだ!?」
「でしょう? オジさん、常連客は大切にしなくちゃ。 ね? だからお願い、12円50銭ね?」
「はあ・・・周防の奥さん、アンタって町内でも評判の美人さんだってのに、上手いねぇ・・・よっしゃ! オイラも江戸っ子でい! 13円! 一切れ6円50銭! これでどうよ!?」
「うーん、どうする? 祥子さん?」
「そうねぇ・・・それでいいかしら? あ、オジさん、代わりにそっちの蜆、ちょっとだけ、おまけしてね?」
「はあ・・・カアチャンに怒られるぜ・・・」
帝都の一角の商店街。 BETA大戦の統制下でも、まだ少しは自由販売が続いていた。 しかし帝都や食糧事情に比較的余裕のある、東北・北海道だけの話だが・・・
ここもそんな場所だった。 近くには『国連国際難民区』があり、その近くなら色々な国の食材(合成食材だが)や料理も食べる事が出来る。 国内難民区より治安も良い。
周防少佐夫人の周防祥子も、長門少佐夫人の長門愛姫も、日常の買い物は家の近くのこの商店街で良く済ませる。 町内会や国防婦人会でも評判の良い2人は、馴染みの店も多い。
「アラ、祥子ちゃんに愛姫ちゃん! 今日はチビちゃん達、どうしたのさ? おうちで、お寝んネかい?」
魚屋の女房―――『魚重』の小母さんが店の奥から姿を見せ、2人に笑って話しかけた。 婦人会の『重鎮』で、2人ともお世話になっている、気風の良い小母さんだ。
「あ、魚重の小母さん。 ええ、実家の母が来ているの、妹も学校が今日はお休みだからって。 直嗣も祥愛も、お祖母ちゃんと叔母さんに遊んで貰っているわ」
「ウチは、お義母さんが来ているのよ。 ほら、前に話したじゃない、旦那の弟が九州の部隊から、こっちに転属になって。
で、お義母さん、義弟に会いに疎開先の仙台から出て来てね。 なんせ、ウチの圭吾は初孫だから。 長門のお義父さんも、お義母さんも、もうメロメロなのね」
「そうかい、そうかい。 何にせよ、赤ん坊は大切に育てなきゃだめだからね! あ、ちゃんと白身魚や貝を食べてるかい? 肉はダメよ? あれはダメだからね?
それと豆腐! お豆腐食べなさい! 合成でもいいからさぁ! 根菜もしっかり食べないと。 それに淡色野菜や緑黄色野菜も・・・しっかり、お乳飲ましてやんないとね!」
気風が良いと言うか、何と言うか。 典型的な下町のおっ母さんではあった。 その後、2人は野菜屋を回り、豆腐屋に寄って買い物を済ませた。
どうやら両家の夕食は、同じメニューになる様だ。 夕暮れ時の商店街を2人して歩いていると、途中の玩具屋で小学生くらいの男の子が数人、ショーケースを覗き込んでいた。
「だーかーらー! ミツ、お前は『陽炎』なの! 『不知火』は俺!」
「なんでだよぅ、たっちゃん・・・僕も『不知火』がいいよぅ・・・」
「ミツは『陽炎』だな。 たっちゃんが『不知火』だったら、俺は『疾風』!」
「ケンちゃん、『疾風』買うのか? だったら俺、『流星』な!」
「シンジは海軍好きだなぁ・・・あれ? 『撃震』はぁ?」
「え~? 『撃震』って、もう2線級部隊ばっかじゃん! 帝都第1師団とさ! 『鋼の槍』連隊とか、あ、14師団も『不知火』と『疾風』だぜ!」
「そうそう。 こないだ松戸に配備されたって話の、第15旅団も『不知火』だしさ!」
「誰が何て言っても、俺は海軍機だね! 『流星』が、すっげー、かっけーんだぜ!」
どうやら、新発売になった模型を誰が、どれを買うかで騒いでいる様だ。 日本も最前線国家の例に漏れず、国民の娯楽は少ない。
そんな中で子供達、特に男の子達にとって1番人気なのが、帝国軍の各種兵器の模型だった。 海軍の紀伊級や大和級戦艦。 陸軍の90式戦車。
なかでも陸海軍の戦術機模型は、特に人気が高かった。 そんな様子を見て、祥子も愛姫も微笑ましそうに笑っている。 彼女達の息子も、あの年頃になればあんな風に・・・
その内に、『陽炎』を押し付けられた少年が、泣きべそをかき始めた。 どうやら『不知火』か、『疾風』が欲しかったようだ。
「あらあら・・・って、祥子さん? ・・・あ~あ・・・」
見ると祥子が、その少年達に近付いて行った。 私もたいがい、お節介焼きって言われるけど、祥子さんも結構お節介焼きよねぇ・・・等と思いながら、愛姫は苦笑する。
「・・・ほら、泣かないの、光雄君。 男の子でしょ?」
「あ、周防のおばさん」
「コンニチハ」
「長門のおばさんも。 こんにちはー!」
近所の子供達だった。 『おばさん』と呼ばれる事には、まだ20代の内は内心でちょっと傷つくけれど、それはそれ、子供の事だし勘弁しましょう。
「みんな、どうして『陽炎』がイヤなの?」
「え~? だってさ、他は国産機だよ! でも、『陽炎』はアメリカのF-15じゃないか。 周防のおばさん、知らないの?」
「そうだよ、アメリカの戦術機なんてさぁ、カッコよくないよ! それにさ・・・そんなの持ってたら、学校でバカにされちゃうよ・・・」
どうやら反米感情は、こんな無邪気な年頃の子供達の無意識まで、浸食していた様だった。 祥子も愛姫も、内心は暗澹たる想いだった。
「そうなの? ゴメンね、おばさん、よく知らなくって。 でも、おばさんは『陽炎』も大好きよ?」
「ええ!?」
「どうしてさぁ」
「変だよ、そんなの・・・」
子供達の抗議の声に祥子は、まだ泣きべそをかいている男の子の頭を優しくなで、他の子達に優しく微笑んで言った。
「だって、『陽炎』も『不知火』も、『疾風』も『流星』も、みぃーんな、この日本を助ける為に、戦っているのでしょう?
兵隊さんは、『陽炎』にも、『不知火』にも乗って、戦ってくれているのだもの。 だからおばさん、『陽炎』も大好きよ?」
ちょっと、バツが悪そうに押し黙るヤンチャ坊主たち。 そこへ愛姫がフォローを入れた。
「おばさんも、『陽炎』好きだな。 ねえ、知ってる? おばさん家の長門のおじさん、昔にちょっとだけ『陽炎』に乗って戦ったのよ。 あ、周防のおじさんも一緒にね」
本当はF-15Cだったらしいけどね。 内心でそう思いつつ、それは子供達に言っても仕方ないでしょう、と省略する。 祥子も愛姫も、ここでは『近所の優しいおばさん』だから。
その話に、軍国体制下日本の男の子達は、途端に目を輝かす。 周防のおじさんと、長門のおじさんは歴戦の衛士で、あの第15旅団の大隊長をしている。
帝国陸海軍衛士の中でも、トップエースと呼ばれる一部の衛士達は、特に小学生くらいの男の子達にとっては、身近なヒーローだったのだ。
「ほんとう!? すげぇ! すげぇ!」
「周防のおじさんも、長門のおじさんも、京都や横浜で戦ったんだよね!?」
無邪気にはしゃぐ子供達だったが、その内に『不知火』を買うと主張していた、気の強そうな男の子が、泣きべそをかいた男の子に向かって言った。
「じゃあ・・・『不知火』は、おまえにやるよ、ミツ。 俺は『陽炎』でいい」
「・・・ホント!? たっちゃん!?」
「お、おう! 兄ちゃんが前のモデルの『不知火』持ってるし! それに・・・『陽炎』も、日本を守る戦術機だしな! ね? そうだよね? 周防のおばさん、長門のおばさん」
「そうね、ええ、達男君の言う通りね」
「そうそう。 だから、ほら、光雄君も泣いちゃダメだぞ? 男の子だろ? ね?」
その後、元気にはしゃいで走り去った子供達を見て、祥子と愛姫もちょっと苦笑する。 商店街を歩きながら家路に。 まだちょっとだけ距離が有る。
「やれやれ・・・泣いた子が・・・ってヤツよね?」
「ふふ、あの年頃の男の子って、あんなものでしょ? ウチの弟も、そうだったし」
「あ~・・・私は上が3人とも、兄貴ばかりだったから、あまり判らないや。 でもなんか、複雑よね。 あんな小さい子達まで、無意識に反米感情持っているんだもん」
「そうねぇ・・・主人もこの前、ちょっと愚痴を言っていたわ。 『メディアの報道が、実態と乖離し過ぎだ』って。 ウチの人は、駐米経験もあるし・・・」
「あ、そうだね。 直衛はアメリカ、結局2年近いんだっけ? ウチの主人も言ってたなぁ・・・ウチの人は、欧州が長いけれど」
日本国外は、前線配備された中国大陸(満洲)と、他は朝鮮半島しか経験の無い祥子と愛姫には、彼女達の夫の不満が半分判って、半分実感できない、そんなもどかしさが有った。
彼女達の夫が最近愚痴っているのも、別の理由が有る。 さっきの男の子達の反応がそうだ。 帝国陸海軍は、徴兵の他にも志願入隊枠を広げていた。 質の高い戦力維持の為に。
そして若者を惹き付けるのは、どんな時代でも『偶像』という手法は有効な手段のひとつだ。 国営放送での、軍の宣撫番組。 雑誌の広告。 映画のコマーシャルフィルム。
そこには勇壮な艦砲射撃を行う戦艦群や、砲列を並べ猛射を浴びせる戦車隊に併せ、突撃を敢行する戦術機隊の勇壮な姿もフィルムに映っている(事実は大半が『ヤラセ』だが)
そんな中で、陸海軍戦術機甲部隊の『エース』達の1人として、彼女達の夫も映像の中に収まっていたのだ。 出撃前のリラックスする姿、訓示を行う姿、戦術機に乗り込む姿。
「あれって大半が、戦術機部隊については、国防省兵備局広報部派遣のカメラマンが撮っていたわねぇ・・・」
「そうだよねぇ、あの出歯亀精神には、ホントに敬意を表したくなったよね。 最前線基地まで出張って来るんだもん。 祥子さんも、結構撮られたクチじゃ無かったっけ?」
「・・・ええ、中尉や大尉の頃に。 主に女子学生向けの、志願募集記事の一環でね・・・」
「一度、衛士強化装備姿の全身写真を、全国の衛士訓練校受験募集ポスター用に使われたもんねぇ。 あれって、結構剥がされたりしたしねぇ? にひひ・・・」
「ちょ! やめてよ、愛姫ちゃん!? お、思い出したくもないわっ! ああ、恥かしいったら・・・!」
「いえいえ、全国青少年の身近なヒロインですよ、祥子さんも。 うんうん・・・どんな『ヒロイン』かは知んないけどね?」
「なによ・・・自分だって緋色と2人で、中等学校用の衛士訓練校募集記事に、強化装備姿を晒した癖に・・・あれって、主に10代半ばの男の子用の記事写真なのよっ!?」
「あった、あった、そんな事も! 緋色ってばさ、あの女武者が顔を真っ赤にして恥じらっちゃってさぁ、面白かったよー?
いやぁ、それにしても私も、罪な女よねぇ。 ごめんねぇ、私のファンの少年諸君! もう奥様なのよ! あはは!」
一見豪快だけど、こう見えて繊細な所の有る女性なのよ? でも、結婚して子供を出産してから、豪快さが増したんじゃないの? 内心で年少の母親仲間を心配する祥子だった。
それからも内心は、ちょっと沈みかけな気分を引きずって歩いていると、ふと甘味屋が目に入った。 このご時世で甘味屋も、かなり商売は上ったりだ(砂糖や塩は配給制)
だがいつの世の中でも、どこかに抜け道は有るようだ。 政府も強圧な取締はしていない、国民感情に配慮したものか?
「・・・ちょっとだけさ、寄っていかない?」
気分転換に、甘い物でも食べていこうよ。 愛姫の目がそう言っていた。 現役時代(今は育児休職中)、その細身の体のどこにそんな、と言われた『暴食娘』は健在の様だ。
「うーん・・・私は良いけど。 愛姫ちゃん、お姑さん、待ってらっしゃらないの?」
「大丈夫! 『久々だろうし、帰りに寄り道でもしてらっしゃい』って、お墨付き貰ったし。 今頃は圭吾にメロメロよ、お義母さん」
「はあ、流石。 愛姫ちゃんて、そちらのお姑さんのお気に入りだし。 『長男の嫁』が、お姑さんとこんなに仲が良いだなんて」
「そっちのお姑さん、厳しいの?」
「お義母さん? いいえ? とても優しいお義母さんよ。 お義姉さん達も善い人だし。 もう私、周防のお家じゃ末娘扱いよ・・・」
「祥子さん、長女だから新鮮なんじゃないの?―――あ、ウィソちゃん、こんにちはー! 席、空いている?」
店に入って、愛姫が馴染みの店員の少女に声をかける。 振り向いた少女は明らかにアジア系だが、少しどこか、日本人とは違う雰囲気の少女だった。
「あ、愛姫さん、いらっしゃい! 祥子さんも。 お席、空いていますよ、奥どうぞー!」
よっこらしょ―――割と年寄り臭い掛け声で椅子に座った愛姫が、メニューを見る。 と言っても殆ど種類は無いのだが。
「うーん、何にしよ? 最中?」
「そうねえ・・・」
「あ、そうだ、今日は白玉団子が入っていますよ?」
「本当? じゃあね、私はお汁粉にするわ」
「あ、私も、私も!」
「お汁粉、ふたつですね。 ナラン姉さぁん! お汁粉ふたつー!」
『はぁい!』
奥の厨房から、また若い女の子の声が聞こえた。 数分後、久々に味わう甘味に表情をニコニコと崩す2人の夫人は、クルクルとよく動く少女を見て、ホッとした声で言った。
「良かったわ。 ウィソちゃんもナランちゃんも、本当に頑張っているみたいだし・・・」
「そうねぇ、旦那2人がいきなり『商店街で女の子2人の働き口、有るか聞いてくれないか?』何て、言い出した時は・・・」
「愛姫ちゃんってば、『圭介ー! アンタ、早々に浮気する気かー!』って、ウチにまで聞こえたわよ?」
クスクスと笑う祥子を軽く睨んだ愛姫だが、店員の少女2人を見て柔らかい表情で話し始める。
「・・・92年の北満州。 思い入れの深い場所だもの。 そこで旦那2人が関わった事のある、難民の女の子2人。 そりゃあ、やっぱり妻の出番でしょう?」
「2人とも、本当に良い娘だし。 ここの小父さんも『良い娘を紹介してくれて、有難うな!』って言ってくれたし・・・」
周防少佐と長門少佐が、まだ新任少尉だった約9年前。 北満州での任務で護衛したモンゴル系難民の一団、その彼等が、流れ流れて、帝都の国際難民区で暮らしていたのだ。
再会したのは、ひょんなきっかけだった。 周防家の自家用車(既に15年落ちの中古車)の修理を出した、自動車修理工場で働く難民出身の少年整備工が、周防少佐を覚えていた。
しかし9年ほど前の話だ、周防少佐は最初判らなかった。 今が18歳だとしても、当時は幼い9歳だ。 判れと言う方が、無理が有る。
『・・・もしかして、周防少尉?』
最初、そう声を掛けられた時は、周防少佐もキョトンとしたものだ。 何せ8年から9年ほど前の階級で、いきなり呼ばれたのだから。
訝しむ周防少佐に、ようやく9年近い年月の事を思い出したその少年整備工は、はにかみながらこう言った。
『覚えていないですか? 92年の5月です、あ、もう6月に入った頃だったかな? 黒竜江省の依安の近くから長春まで、俺の一族を護衛して送って貰いました。 ユルールです』
『・・・えっと・・・まさか、あのユルール!? モンゴルの、遊牧民の一族に居た、あのユルールか!?』
『はい! そのユルールです! まさか会えるなんて・・・あの時は、本当に有難うございました! 俺、お陰さまで今も生きています。 親爺から聞いたんです、俺。
あの時、爺様を説得してくれたのは、『スオウ』って名の日本の若い衛士だったって。 お陰で一族は、BETAに喰い殺されずに済んだのだって。 だから、日本に感謝しろって』
『なんと、まあ・・・よくぞ・・・よくぞ無事で! 立派に成長して! 良かった、良かったよ、ユルール・・・』
そう言う訳で再会した2人だった。 その後も長門少佐を交えて交流が続いたが、その時に相談を受けた話が、妹達の働き口だった。
『国際難民区は、日本政府の援助金が少ないんです。 政府の援助金は、ほとんど国内難民区に流れてしまって、国際難民区には・・・
だから、俺達は本当に働かないと、食っていけません。 でも、ウィソもナランも、働き口が見つかんなくって。 俺とオユンの給料だけじゃ、食ってくだけで・・・』
『俺もユルールも働き口が見つかって、何とか家族を食わせるのは出来る様になったんです。 でも、妹達の学費までは・・・ムンフ姉さんの給料合わせても、そこまでは・・・
せめて自治学校(国連難民自治学校・小中一貫)は、卒業させてやりたいんです。 夜学だから昼間働いて・・・ ナランは14歳で、ウィソも13歳になりました、働けます』
ウィソの兄のユルールは18歳、自動車修理工をしている。 ナランツェツェグの兄のオユントゥルフールは17歳、地元の土建会社で土木建設作業員の職に就けた。
オユンとナランの姉のムンフバヤルは20歳で、国連難民高等弁務官局アジア・太平洋難民事務支局の東京弁務官事務所で、補助事務員の職についている。 だがやはり貧しかった。
そこで件の、『長門の旦那さん、浮気か!?』事件に繋がる(一時期、町内で噂になった) 今ではウィソもナランも、甘味屋の評判の良い看板娘だった。
「この前にね、オユンがウチの人に相談に来たのね」
「オユン君が? 圭介さんに? 何て?」
「軍に志願した方が、良いのかなって。 ほら、国際難民でも、軍に志願すれば帰化申請権利を与えられるじゃない? あの子、お姉さんや妹の為にって・・・」
「そう・・・実はユルール君もね、この間、ウチの人に似た様な事を言ったの」
「へえ・・・で? どう言ったの、直衛は?」
「もうねぇ・・・『馬鹿野郎! ユルール! お前が居なくなって、どうやってウィソを守ってやるんだ! 兄貴だろう、お前は!』って、もういきなり雷を落としちゃって。
あんまり大声だったから、直嗣も祥愛もびっくりしちゃって。 2人とも大泣きしてね、大変だったわ。 その日は1日中、ブスっとしていたし、ウチの人・・・」
「あはは、ウチの人も似た様なものよ。 何も言わずに、いきなりゲンコツでゴンッ! で、『お前、姉さんと妹、捨てる気か!?』って。 ・・・ちょっと、惚れ直したかな?」
「はいはい、ご馳走様・・・あら、もうこんな時間? そろそろ出ましょうか」
「そうね。 ウィソちゃん! お勘定ねー!」
「はぁい!」
看板娘の少女を見て、2人の妻達は夫の言う事は正しい、そう思った。 戦う理由は人それぞれ、千差万別。 そして戦う場所も様々。
銃後でこうして働く事も、最前線で戦う肉親や恋人、夫や友人達の、心の支えになるのだから。 甘味のエネルギーと回復した気分とで、祥子も愛姫も、足取り軽く家路についた。
「ふぅん、圭介もねぇ・・・」
当直明けの自宅、周防少佐こと、周防直衛は数日ぶりに自宅で妻の手料理に舌つつみを打っていた。 妻の祥子が、ご飯をよそおってくれる。
今夜はサクラマスの塩焼き、菜の花の芥子和え、蜆の汁物に切干し大根の卵焼き。 そして最近食べ始めた玄米飯。 周防家は和食の頻度が高い。
「似た者同士ね、あなたと圭介さんって。 愛姫ちゃんも言っていたわ、中等学校からの腐れ縁は、伊達じゃないねって」
クスクスと笑う祥子。 夫の直衛と隣家の主の長門圭介は、中等学校時代から衛士訓練校、新任少尉に国連軍時代、そして今に至るまでの腐れ縁の親友同士だ。
「宜しい事じゃないですか、直衛さん。 そんなお友達は、なかなかいませんよ? それにその・・・ユルール君とオユン君でしたっけ? 家族思いの良い子達よね」
「はあ。 初めて会ったのはもう、9年近く前ですが。 その頃の素直さを失わずにいてくれて、嬉しいモンです。 散々、苦労して来ただろうに・・・」
「18歳と17歳でしょ? 日本人だったら徴兵年齢かぁ・・・でも、誰かが働いてくれなきゃ、だし」
「春には、笙子先輩も看護専科学校よね? やっぱりそのまま軍に残るの?」
「うーん・・・できれば、4年の任期終えたら、民間の病院で看護婦したいなぁって。 雪絵ちゃんは?」
「私は女子師範学校を受験するつもり、将来は小学校の先生になりたいな。 深雪姉さんも進学しているし」
「深雪先輩、今は専攻科(短期大学相当)だっけ」
直衛と祥子の夫婦だけでは無かった。 祥子の母と、妹の笙子。 そして何故か直衛の従妹の雪絵(周防雪絵)が遊びに来ていた。
「・・・ところで雪絵、お前、笙子ちゃんと同じ学校だったのか?」
「うん。 あれ? 直衛兄さん、知らなかった? 私と笙子先輩、仲良いんだよー?」
「知らん。 笙子ちゃんからも聞いてない」
「あ・・・言うの、忘れていました。 ごめんなさい、お義兄さん。 仙台から転校して、入った合唱部の後輩なんです、雪絵ちゃん」
「ふぅん・・・」
赤ん坊は、直嗣は義母が、祥愛は笙子と雪絵が2人であやしている―――と言うより、それが主目的の様だ。
「ほぉら、直嗣。 お祖母ちゃんですよー?」
「お母さん、あまり抱き癖つけないでね・・・」
「祥っちゃん、お姉ちゃんと遊ぼうねー」
「先輩、お姉ちゃんじゃ無くて、『叔母さん』・・・」
「・・・雪絵ちゃん!?」
「ひゃあ!」
家の中が賑やかなのは、良い事だ。 綾森のお義母さんも、久々に孫達に会えて嬉しそうだし―――ああ、今度の休みには、親爺とお袋に子供の顔を見せに行くか。
黙々と夕食を食べながら、周防少佐はそんな事を考えていた。 昔は思いもしなかった、自分が結婚して、子供が生まれて、一家の主として・・・
「・・・新任少尉だった頃の俺に、もし教えたら、あんなヤキモキは無かったんだろうな」
小さく呟いて苦笑する。 なにせ周防少佐は、新任少尉として初配属になった中隊で、当時1年先任だった女性少尉に初対面で『一目惚れ』したクチだ―――今の夫人なのだが。
「え? なに? あなた、何か言った?」
「・・・いいや。 祥子、おかわり」
「あ、はい―――はい、どうぞ」
「・・・ん」
少なくとも、自分には生きる理由が有る。 戦って生き抜く、最も大切な理由が有る―――大義でも、名分でも無い。 自分の理由は、今ここにある。 そう思った。
不意に玄関の呼び鈴が鳴った。 誰かしら、こんな時間に―――妻の祥子が、不審そうに呟いて玄関へ出る。 とは言え、まだ夜も8時ころ。 隣家の嫁さんかも。
そう思っていたら、玄関先で祥子の驚いた様な声がした。 誰だ?―――そう思っていると、祥子の後ろから1人の若い海軍士官が現れた。 周防少佐を見て、笑っている。
「こんばんは、義兄さん―――これ陣中見舞い、一杯飲もうよ」
その海軍士官―――周防少佐の義弟、妻の祥子の実弟である綾森喬海軍中尉が、日焼けした顔に笑顔を浮かべて、手にしたボトルを掲げて笑っていた。
「ったく・・・お袋と笙子が来ているなんて、予想外だったよ」
周防少佐はウィスキーグラスを傾けながら、義弟の喬がぼやく様を笑って見ている。 長期の海外作戦から帰還しても、実家に顔も見せない息子。
それが、蓋を開ければ義兄の所で飲んだくれようとした息子に、義母がえらく怒っているのだ。 宥めるのに苦労したが、なに、孫の面倒を見ていて貰えば機嫌も直る。
「はは、お義母さんも、直嗣や祥愛に会いたくて仕方が無いんだよ。 なにせ初孫だし、その辺は判ってあげろよ。 笙子ちゃんも春には軍の専科学校だしな・・・
まあ飲め。 どうせ今夜は水交社(帝国海軍将校・准士官の親睦・互助組織・兼・オフィサーズクラブ。 飲食・宿泊も一流ホテル並み)で独り寝だろ? 泊まっていけよ」
「いいのかい? 義兄さん。 姉さんがまた、煩いぜ?」
「構わないよ。 俺が祥子に言っておくし」
「・・・義兄さん、結構、姉さんの尻に敷かれていると、僕にはそう見えるんだけど?」
「夫婦円満の秘訣だよ。 はは、上陸してレス(海軍隠語で『料亭』の事)にも泊まらず、ってのも海軍士官としては、どうかと思うけどな―――いつ、戻って来た?」
「しっ! 声大きいよ、義兄さん! 今夜は綺麗ドコロに振られてさ―――5日前だよ、横須賀に戻ったのは。 ウチの5戦隊と4航戦、それに2駆戦が去年の暮れからさ。
分派されてクラ海峡防衛の助っ人だよ。 大東亜連合には『明星作戦』じゃ、少なからぬ戦力を出して貰っているしね、相互軍事協力体制の一環さ。
海軍じゃ、北はソ連とオホーツク海にベーリング海。 南は統一中華と南シナ海や東シナ海。 大東亜連合とは南シナ海やアンダマン海、そんな海域での協力をね・・・」
「陸軍も同じさ。 で、クラ海峡、あっちはどうだ? あそこが陥落すると、洒落にならん」
いきなり生々しい話だが、軍人同士こんなものかもしれない。 周防少佐は東南アジア方面での戦闘参加歴はない。 逆に綾森中尉は東・南シナ海での支援作戦の経験が有る。
「まあ・・・今の所は大丈夫なんじゃないかな? 一番近いのはマンダレー(H17:マンダレーハイヴ)だけど、1500km以上距離が有るからね。 BETAも精々、旅団規模だよ。
海峡の最狭部はたった44kmしかない、半島の両側から支援砲撃が出来る。 『出雲』の主砲で撃てば、タイランド湾から半島を飛び越して、アンダマン海に着弾するよ」
「そりゃ、まあ・・・戦艦の主砲だしな。 ロケットアシストだと、100km以上だしな」
「それより義兄さん、気になった事があってさ・・・」
「ん? 向うでか? 何だい?」
向うで甥や姪をあやしている母や姉、妹をちらりと見て、喬が声を小さくして義兄に話しかける。
「MSC・・・米海軍海上輸送司令部、つまりアメリカ輸送軍だけど。 ゴーファー・ステート級が3隻とMPS-3(海上事前集積船隊・西太平洋戦隊)が、ジャカルタ沖に居た」
「・・・別段、不思議では無いんじゃないのか? MPS-3はグアムとサイパンに配備された戦隊だろう?」
「いや、おかしい。 だったらどうして、大東亜連合内に? MPSは米軍が遠征部隊を動かすのに、事前に戦略物資を作戦域に集積するのが任務だよ?
それにゴーファー・ステート級はT-ACS8(貨物揚搭能力強化型輸送艦)だ、余程のデカブツを揚陸・・・それも、十分な港湾施設が無い場所に出張って来る艦種だよ。
あの位になると、MPS1個戦隊で兵員1万7000、戦術機輸送力は100機以上だ。 戦車も70輌は運び込める。 陸軍の1個戦術機甲師団のレベルだよ? どうしてアメリカが?」
「・・・戦術機や戦車を、揚陸していたのか?」
周防少佐も声を小さくして、義弟に尋ねる。 いずれ海軍筋の情報として入って来るだろうが、今は生のホット情報だ。
「いや、戦隊主計長(海軍中佐)が上陸して、MPS司令部に表敬訪問したのだけどね。 もっぱら弾薬食料・燃料関係で、戦術機も戦車も全く無かったと。 どう思う? 義兄さん」
グラスを傾けながら、少し無言で考え込んでいた周防少佐だが、『あくまで私見だぞ』と前置きしてから話し始めた。
「直接的には、大東亜連合内への影響力増大が目的。 大東亜連合のバック、と言うかスポンサー、と言うか同盟者の日本への揺さぶり、かな?
それにしては中途半端な内容だ。 あの国はやると決定したら、徹底的に、合理的にやる。 米軍内と言うより、政府か議会か・・・いずれにせよ、まだ綱引き状態なのだろう」
「米国内の、主導権争い? どちらかのフライング、って事?」
「フライングと言うより・・・ブラフ、かな。 日本と、同調しているかどうかは別として、対立勢力に対しての。 ま、上が考える事だ。
それより、おい、ヤングオフィサー。 まだまだ、覚える事は山ほどあるぞ? 『オールウェイズ・オン・デッキ』 そんなキナ臭い事を考えている余裕は有るのか? ん?」
「・・・ちぇっ、義兄さんと飲んでいると時々、士官室士官(海軍大尉以上)と飲んでいる気分になるよ。 義兄さん、ホントに陸軍かい?」
「はは・・・ウチは結構、海軍一族でも有るからなぁ・・・ん? と言う事は、叔父貴も今夜あたり、家に帰っているか・・・」
「周防司令官? 司令官なら、うん、今日は上陸した筈だよ。 艦隊旗艦で会議が有って、そのまま帰宅した筈・・・」
喬の乗艦、戦艦『出雲』は第2艦隊第5戦隊の旗艦を務め、第5戦隊司令官は周防直邦海軍少将(2000年12月少将進級)で、周防少将は、周防少佐の叔父だった。
「そうか・・・おおい、祥子! 直邦の叔父貴ン家に電話ー! 雪絵がウチに来ているって! 叔父貴、今夜は家だってさ!」
「あ、はぁーい」
「ええっ!? お父さん、帰ってくるのっ!? まっずーい! 怒られるぅー!」
妻の返事と、従妹の焦る声が聞こえる。 苦笑しながら、義弟のグラスにボトルを注ぐ。 海軍士官御用達の銘柄は、コクが有って飲みやすい。
「義兄さん・・・今のって、司令官のお嬢さんだよね?」
「ん? ああ、叔父貴のトコの雪絵だ。 喬君は、直秋は知っているよな? アイツが長男で、その下に今は女子師範学校に在校中の、深雪って長女がいる。
深雪の下に海兵(海軍兵学校)の3号生徒(1年生)で、直純って次男がいるんだが、雪絵は直純の下、叔父貴の末っ子さ。 だもんで、我儘でなぁ・・・」
そう言う義兄を、喬も可笑しそうに見ている。 何と言っても、義兄自身が3人姉弟の年の離れた末っ子なのだから。
「直秋さんで思い出した、欧州各国、特に英国と西ドイツにフランス、海軍力の増強を加速させたよ」
「うん、まあ大陸反攻にはまず、沿岸部の確保が最重要だからな。 俺も昔にあの辺りで戦ったけど、欧州と地中海方面って見方をすると、海岸線が半端無く長い。
どこに重点を置くかだが、洋上兵站や緊急展開能力、大規模上陸作戦での揚陸能力に支援能力・・・そろそろ、陸軍機を戦術機母艦の艦載戦術機に、ってのも無理がなぁ・・・」
「“タイフーン”だっけ? 海兵のクラス(同期生)で戦術機に行った奴がさ、この前飲んだ時に呆れていた。 海軍機と陸軍機とじゃ、そもそも設計思想が違うのにって。
それにほら、最近、帝国の海軍機メーカーも販路攻勢、かけているらしいよ。 米国企業と結構、競合していると聞いた。 米議会が煩く言ってこないかな?」
義兄弟で話す内容としては、味気なく殺伐としたものだが、同じ軍人同士では話題も偏るものか。
「ま、キナ臭い話はここまでだ。 おい、もっと飲もうぜ。 喬君、佳い女は出来たか? 恋人だよ、恋人」
「な、なんだよ、いきなり・・・居ないけどね」
「なんだ、なんだ、色気の無い。 なんなら紹介するぞ? ウチにも若い独り者のWAC(陸軍女性将兵)はいるからな。 それともアレか? 軍人以外の方がいいか?」
「ぶふっ!」
「だったら俺の従妹はどうだ? 年上になるが、藤崎の家に志摩子って従妹が居る。 従兄の俺が言うのも身贔屓かもしれんが、器量良しの美人だぞ、今は小学校の先生だ。
それかさっきの深雪でも良いぞ、司令官のお嬢さん、嫁に貰わんか? 話つけるぞ? まさか、雪絵とか言わんだろうな? まあ、君がそっち好みなら、叔父貴に話してやるが・・・」
「ちょ、ちょっと待ってよ、義兄さん! 雪絵ちゃん、笙子より年下だって! 勘弁してくれよ! もう酔ってるよ、この人!」
2001年3月15日 日本帝国 帝都・東京 衆議院本会議場
「やれやれ、前代未聞でしたな、今回の予算審議は・・・」
「まったく。 こんな迷走状態では、与党に政権を任せられませんなぁ」
「アンタの党は、海の向こうから結構、貰っとるんじゃないの?」
「何の話か、判らんね。 それよりも、政権交代だよ、政権交代!」
「白々しいね、あの党も。 口では国粋的な事を言いながら、実際はニューヨークの腰巾着さ」
「アンタんトコは、その昔は北京詣でに精を出してたじゃないの」
「はん! もう台北に吸収されて、落ち目の連中さ。 この国は官僚と軍部を上手く使ってナンボだよ」
「・・・あんたの党こそ、白々しいよ。 にしても、横浜か。 接触しておいた方が良いな、それに米国内のAL4派とも・・・」