『馬鹿かお前は』 その言葉を掛けられ、斑鳩は怒りよりも何処か痛快な気持ちになった。(俺に向かって馬鹿と言うかよっ………!) 五摂家として敬われ、傅かれることはあっても馬鹿呼ばわりされたことはない。生まれて初めて馬鹿にされ、しかし斑鳩は楽しげだった。 そんな彼の心情など知りもせず―――おそらく知っていても気にもしないだろう―――三神は問いかける。『いいか?―――不安にならない奴がいるものか』 三神は宣う。それは道化としてでなく、狼としてでも無く、三神庄司としての言葉。かつて夫であり、父であった男の言葉。 自らが体験し、得たものだ。「『俺』だってそうだった。当時、権力も金もある程度持ってはいたが、何もかもが不安だった。『俺』みたいな存在が、人の親になっていいのかとな」 外法を以て世界の理から外れた道化。そんな存在が、果たして誰かと結ばれ、あまつさえ人の親になって良いものかと、本気で悩んだ。 ―――だが。「口先しか取り柄のないこんな父親でもな、あいつはきちんと生まれ、立派に育ったよ。そりゃフラフラもしたさ、危なっかしい時も確かにあった。だがあいつは自分の夢を見つけ、それに向かって走り出した」 その時に三神は決めた。自分の人生はここなのだと。最早、『次』は無いのだと、自らに課した。 自分は『あの世界』で天寿を全うし、『この世界』で全てを終わらせるのだと。 だから三神庄司はひた走る。 生きる為にではなく、死ぬ為にでもなく。 ただ自分の人生を終え、後かたづけをする為に。 ここに至るまでに得た罪を、出来うる限り清算する為に。 三神庄司は、己が終焉のその瞬間まで―――走り続けるのだ。「お前はどうだ斑鳩昴。少なくとも『俺』よりも教養を身につけているお前は、いずれ生まれて来るであろう子供に何をしてやれる?」 問い掛けに、斑鳩は考える。 分からない。 金も権力もある。人が一人成長していくだけの環境は整えられる。だが、斑鳩に生まれると言うことは、子の人生を縛ると言うこと。斑鳩という名を背負わせること。 ―――それでいいのだろうか。 問い掛けに対する答えは応と否。 斑鳩として生まれた以上、その名の責務を背負うのは当然のこと。自分自身そうして来たし、ある種の洗脳だろうが、それが当たり前だった。 ―――仕方ない。 そう諦めもあった。 だが否と思ったのは何故か。 ―――分からないのだ。(俺は………何で疑問に思うんだ?) 自問する。 斑鳩の妻に宿ってしまった以上、生まれてくる子は斑鳩の宿命を背負う。それは当たり前の事で―――だが、何故ここまでそれに抵抗を覚えるのか。(俺が親でないからか?俺自身が斑鳩を選んだ訳じゃないからか?) 斑鳩は、自分の家を選んだ訳ではない。 無論、誰だってそうだ。産んでくれる親、生まれて育つ家を選べる訳がない。そしてそこで生まれた以上、無関係にはなれない。 彼の場合は、ただ単に生まれた家が普通以上に厳格で、権力の塊であっただけだ。 それを嫌った訳ではない。疎んじた訳でもない。 しかし昔から、時々ありもしない妄想をすることがあった。 自分が普通の家の出だったら、と。 ありふれた一般家庭の出で、幼い頃からよく注意されたこの伝法な口調を使う事に躊躇いも覚えず、普通に学校に行って成長して徴兵されて衛士になって。(それでも楓に出会って、恋に落ちて―――結婚してたのかな) そして子供が出来たのだろうか。 愚にも付かない妄想だ。我が事ながら情けなくなる。『―――分からないか?斑鳩昴』 少し考え込んでいたからだろう。三神が問いかけてきた。「―――ああ。分からねぇ………分からねぇよ」 言った時に気付く、自分を取り繕う事すらしていなかったと。しかしそれを聞いた三神は苦笑して。『それが本当のお前か。まぁ、いいけどな』 いいか、と彼は前置きする。『―――分からなくていいんだ。斑鳩昴』「―――え………?」 我ながら、間の抜けた声が出たと思う。『お前が悩んでいるのは、どんな人間であれ、人の親になるのなら誰でも一度は通る道だ』 三神は言う。それは勿論、自分も通った道だと。『迷えよ。悩めよ。その為に今、お前の前には暗闇が来ているんだ。そしてそれを抜けた後にこそ、生まれた子供を抱く腕と、愛す心がお前に備わる。その時になってやっと、命の意味ってのが分かるはずだ。父親になるって意味が分かるはずだ。そしてそれを護りたいと、導きたいと思うはずだ』 三神は言う。それは勿論、自分も思った事だと。『案ずるより産むが易し、とはよく言ったものでな。お前が今悩んだり不安に思っていることも、実際に子供が生まれれば割と簡単に吹き飛ぶよ。経験者が保証しよう。素直に生まれてきてくれた事を喜べるはずだ』 三神は言う。それは勿論、自分も喜んだ事だと。『大体、母親に比べれば、父親に出来ることなんざたかが知れている。そんなどうでも良いことで悩んでるぐらいなら、嫁さんの世話でもしてろ。そっちの方が余程建設的だ』 三神は言う。それは勿論、自分が失敗した事だと。『そしてもし―――生まれたその子が、いつか自分の家のことで悩むのなら、導いてやれるのは親だけだ。その苦労を知っているお前だけだ。いいか?斑鳩昴。お前が親として何を成せるのかは―――子供が自身の悩みとして教えてくれる。だから親であるお前は、その時に導いてやればいい』 そして三神は言う。それは勿論、自分がしてきたことだと。口先しか能のない親が、辿々しくも導き、そして子供はそれに応えて自分で歩き出した。 後は、ただその背中を見守ってきただけだと。「―――俺は、迷っても、悩んでもいいのか?」『不安に思っても、立ち止まってもいい。その後に前を向いて走り出せるならな』 返事に、優しさはない。「―――俺は、恐れても、何も出来なくてもいいのか?」『挫けても、泣いてもいい。その後に歯を食いしばって走り出せるならな』 返事に、甘さはない。「―――俺は、人の親になっても、いいのか?」『いいか?言い古された言葉だが、為になる言葉だからよく覚えておけ』 だが。『親ってのはな、子供と一緒に生まれてくるんだ』 経験者としての、確固たる自信があった。 三神は思う。 『武』と名付けたあの子供が生まれた時、初めて自分もあの世界に生まれたのだと。この腕に抱いた瞬間、初めてこの世界で骨を埋めたいと思ったのだと。 そして一人前に育て上げ、彼が自立して―――三神は、親として最低限の役目を終えた。(『俺』の人生は、確かにあそこにあったんだ) 幸せだった。時間の流れさえ忘れた。例えBETAと戦いながらでも、終生軍から離れることが無かったとしても、三神庄司という人間が生きる意味を見つけ、最後まで生き抜いた証があの世界にはあるのだ。 そして―――その生涯を終えた。 確かにそれは病死というあまり立派なものでは無かったが、あれは自己責任だ。自分で望んで生きて、望んで死んだのだから、それまでBETAに殺され続けた三神としては大往生も良いところである。 だからこれは夢の続き。 終焉を迎えるまでのロスタイム。 生き散らかした自分の後かたづけ。(だから、『私』は走り抜けなければならん。それが―――あの人への、最後にして最高の恩返しだ) 知り合えた時間はたったの二週間。だが、その後を生きる術を彼は教えてくれた。三神庄司という衛士の方向性を、彼は叩き込んでくれた。そして最後に―――彼によって三神は救われた。 小さく、通信越しに苦笑が聞こえる。『親は、子供と一緒に生まれてくる―――か。良い言葉じゃねぇか』「随分分厚い化けの皮を被っていたようだが、それを被り直さなくてもいいのか?」『はっ。もうバレちまってるんだ。―――今更手前ぇの前で被ったところで、仕方ないだろうよ』 斑鳩は伝法な口調で、しかし穏やかに笑う。『―――礼を言うぜ三神。俺にはまだ親になる実感は湧かねぇが、覚悟の方向性は分かった気がする。全ての迷いが吹っ切れた訳じゃねぇが、走り出せる気がする』 そして、気配が変わる。 ただの気安い青年から―――一匹の鬼へと。『だからそろそろ―――決着と、行こうぜ?』 自らの悩みの決着を得た『斑鳩の蒼鬼』は、今こそその本領を発揮する。 動いたな、と紅蓮は思う。 いきなりオープンチャンネルで問答を始めた二人を訝しげに思いながら、しかし彼は見逃した。ここしばらく―――正確には、斑鳩の妻が懐妊した時から―――彼の様子がおかしいのは付き合いの長い紅蓮も理解していたのだ。 それが何であるか、大体の所見当は付いていたが、身分の差がある。相談されたのならばともかく、こちらから問いかけ私生活に踏みいるのは斯衛の本分ではない。もしも軍務に支障が出るようであるようならば干渉するが、少なくとも公人としては斑鳩は今まで通りに勤め上げていた。 だから、紅蓮であっても動くことが出来ずにいた。それは、彼が率いる第16大隊の副隊長である月詠真耶であっても同じだった。 故にこそ、斑鳩は一人で悩んでいた。 誰にも相談せず、出来ず、ただ自分の中で悩みを燻らせ続けていた。 だが―――。「三神庄司、か………」 斑鳩と似たような二面性を、あの道化は持っていた。おそらくは『俺』と自称したのが偽らざる彼自身なのだろう。 そしてあの助言。「やはり、ただの若造ではないな」 無論、紅蓮とて白銀や三神の境遇を疑って掛っていた訳ではない。しかしながら、白銀はともかく三神が得た経験はまだ話されていない。少なくとも、白銀と同じ―――あるいは、それ以上の人生を送っているのは想像に難くなかったが、まさか子供まで作っているとは思わなかった。 そして、世の男親が必ず感じるであろう不安を、彼は斑鳩から取り除いて見せた。 彼が半生被り続けた仮面を、剥ぎ取って見せた。 だからこそ紅蓮は思う。 あの道化。あるいは―――。「昴の―――朋友になるやもしれんな………」 そして、鬼と狼の決着の時が来る。「ちぃっ………!」 あの一連の会話の中で、おそらくこちらの位置をついでに探っていたのだろう。抜け目のないことに、宣言と同時にいきなりこちらに向かって長距離噴射跳躍をしかけてきた。 当然の如く、機体性能差から考えて正面からの殴り合いは無謀だ。故に三神は距離を取ろうと長距離噴射跳躍で逃げるが―――やはり機体性能差でじりじりと追い上げてくる。 仕方なしに牽制として跳躍と同時に倒立して機体を背後に向け射撃するというアクロバットで足を止めようとするが、斑鳩機は左右に極短噴射する事によって機体を振り、弾幕を避ける。 しかもそれが仇となって、更に距離が縮まる。(拙いな………) 跳躍倒立で目視したが、敵は既に突撃砲を手にしていなかった。手にしていたのは長剣。それも二刀流だ。 本来、その様な使い方は機体の関節を著しく損耗させ、且つその自重から攻撃速度の低下に繋がるのだが―――。(蒼の武御雷だからな………) 何しろ個人用に改造された機体だ。長剣特化仕様として、二刀流も負担無く出来るようになっているのかも知れない。 その上、相手がやけに殺る気満々なのが背中越しでも分かる。かなり本気だ。気分的に、戦術機を使った鬼ごっこである。その証拠に―――。『待ちやがれ三神ぃっ!』「お上品なのを止めたのは良いが極端すぎないか!?」 舌打ちするが状況は変わらない。このままではいずれ追いつかれ、近接戦に持ち込まれる。もしも機体性能差がなければ、三神とて迷うことなく打って出られただろうが―――XM3も無い状況で、それは厳しいどころの問題ではない。(相手が大人しくしている間に仕留めきれなかったのが、私の敗因だな………) ある程度削ったものの、致命傷にまで至れなかった。当初の予定では、最低限機動力を奪って、後はこちらのフットワークで翻弄しつつ仕留めるつもりだったのだ。 その前に―――鬼が本気を出し始めた。 参ったな、と思う。 中長距離では勝負を決められない。中距離ではXM3無しでは射撃精度が落ちるし、長距離は三神自身が苦手だ。 となると―――近距離しか選択肢が無くなる。(相手の土俵に入るしかないとは………何とも情けない選択だ) しかし他に選択肢がないのも事実。 ならば後は―――身を削り合うだけ。 仕方ない、と呟いて三神は機体を反転させる。そして―――。「征くぞ斑鳩ぁ―――!」『来いよ三神ぃ―――!』 最大速度で二機が接敵する。 三神は得意の高速二次元機動を以て、36mmをばら撒きながら斑鳩の移動速度を下げ、進撃進路を限定させる。 しかし斑鳩はこれを必要最低限の機動で避けつつ三神に肉迫した。無論、避け切れずに何発も被弾するが、それすらも読んでいたのか、戦闘機動に支障がなかった。 そして二機が交錯し、瞬時に互いの背後に回ろうと旋回機動を取るが、流石に武御雷の名は伊達ではない。交錯後の慣性をそのまま旋回速度に回して、三神を左の横合いから捕らえる。『貰ったぁっ!』「ちぃっ!?」 振り上げられた右主腕に握られた長刀が恐るべき速度で振り下ろされる。三神もそれに反応して機体を捻らせて回避運動を取るが、僅かに遅い。ガスン、という衝撃と共に、左主腕の突撃砲が寸断された。 幸い、左主腕そのものは無事なようだが、唯一勝っていると思われる射撃武器が使えなくなったのは痛い。 機体を後退させつつ、残骸となった突撃砲を捨てて左主腕をフリーにし―――。『逃がすかよ………!』 鬼の追撃が来た。 今度は左主腕に握られた長刀だ。先に振るった長刀の慣性を利用しての、大上段の一撃。しかも極短噴射跳躍を使っての高速の踏み込み付きだ。「させるか………!」 さしもの三神もこの状況から逃げることは出来ない。だが、防ぐことは出来る。右主腕に『逆手』で握った長刀を振るわせ―――そして予想外の結果が出た。 交錯した二本の長刀の内―――三神の方だけ折れたのだ。「なぁっ―――!?」 振るった一撃はいつもの速度も重さも無いものだった。それでも同じ長刀だ。防ぐぐらいは出来るはず―――という三神の予測を振り切って、斑鳩が振るった長刀は三神のそれを押し切った。 先程よりも強い衝撃が三神を襲う。網膜投影の機体ステータスを見れば、右肩から下が真っ赤だった。間違いなく、斬り落されたのだろう。 更には―――。『―――これで終いだ………!』 左主腕を振り下ろす事によって身を半身に移動させ、斑鳩は右手にした長刀を引き、突きの体勢に入る。 そこから繰り出される一撃は、まず間違いなく三神が操る不知火の管制ユニットを正確に刺し貫くだろう。 ―――詰んだ。 そう思う。 だが―――例えこれがただの模擬戦であったとしても―――その瞬間になって灯るものがある。 三神庄司は因果導体故に、真の意味で死ねない。何度死ぬ経験を味わっても、まだみっともなく生きている。生き汚いと自分でも思う。しかし、そんな自分を生かした恩人の為に、三神はそれを受け入れた。 自分が最後まで足掻かなければ、自分を救う為に死んでいったあの人に申し訳が立たない。 だから彼は―――例え詰んでしまった状況であっても諦めない。「『俺』はなぁ………!」 三神は奥歯を噛み締め、補助腕を使ってナイフシースから短刀を抜き放ち、左主腕に『逆手』で握らせる。「どんな時でも―――」 そして振り切り、無くなった右主腕の慣性を更に流し―――。「タダで死んでやる訳にはいかないんだよ………!」 裏拳の要領で相手と同じく管制ユニットを狙う。 攻撃手段は互い刺突。距離はどちらの攻撃も有効射程。違いがあるとするならば、リーチと速度。 長刀は長く、短刀は速く。 停滞する一瞬。 そして―――。 煌武院悠陽は自室から襖を開けて、夜空を眺めていた。 虚空には冷え込みだした時節もあってか、輪郭がはっきりと分かる月。その月を見て、思うのはやはり自分の妹のこと。(冥夜………) 胸中で呟き、手にした人形を両手で包む。白と紫の布で人の形に作られたシンプルなその人形は、かつて数日だけでも姉妹が共に過ごせた証。 悠陽が彼女を思う日は多い。だが、今日はまた違った意味で彼女を思う。それには数時間前に白銀が話した別の世界の御剣冥夜が影響している。 この世界とは違って、平和な世で、やはり家柄に縛られていた彼女。 この世界と同じように頑固で実直で―――そしてやはり国を、国民を思っていた彼女。 そして―――世界や仲間の為にその命を燃やし、去っていった彼女。 いくつもの彼女を聞いた為か、悠陽自身も自分の事が気になった。しかし、白銀曰く悠陽とは『前の世界』でしか会ったことが無く、そして会ったのも極短い時間であった為か『立派な人でした』としか言わなかった。 そんな中、模擬戦を終えた三神と斑鳩、そして紅蓮が現れた。話を聞くところに寄ると、どうやら二人の勝負は引き分け。しかし、そのレギュレーションを聞いて皆は唖然とした。 蒼の武御雷対ノーマル不知火。 試合結果こそ同時大破―――引き分けではあるが、前提を考えると三神の粘り勝ちであるのは誰もが理解した。 皆が半ば呆然とする中、当の本人は、そろそろ遅くなってきたから帰ると言い出し、そして協議の結果を聞かせて欲しいと悠陽に尋ねた。 事の次第、それから諸処に対する建前もある為に、11月11日の対応は三神の案を採用することを、彼等がシミュレーター室に向かった段階で決まっていた。 その旨を伝えると、三神は満足そうに頷き、後の対応は鎧衣を通してやりとりすると言い残し、白銀と共にその場を去ろうとした。 ―――そして、悠陽はそんな彼を呼び止めた。 『前の世界』での自分は、どうだったのかと。 そう尋ねる彼女に、三神は少しだけ瞑目した後―――悠陽の前で跪いた。今までの道化の様な態度とは百八十度違う態度に、皆が驚く中、しかし彼は流暢に言葉を紡ぐ。『―――殿下。「前の世界」の殿下は、確かに御立派であられました。私の交渉術など足下にも及ばぬ発言力。見る者を魅了する立ち居振る舞い。そして、何よりも慈愛の心を持ってらっしゃいました。しかしながら、それは今後日本で起こりうる悲劇を経験し、乗り越え糧としたからこそ。心に傷を負い、それでも前を向いた結果として手に入れた強さなのです。しかし―――私は、「この世界」でその悲劇を起こさせません。いえ、起こさせる訳にはまいりません。故にこそ、殿下が「前の世界」の殿下程強くなる為には、とても長い時間が必要になるでしょう。しかしながら、理由こそ伏せますが―――それでは間に合わないのです。私共が悲劇を回避する為に歴史を変えれば、殿下の成長を待っている時間は無くなってしまうのです。故にこそ―――故にこそ努々御覚悟下さい殿下』 これより続くは茨の道。最上の未来へと辿り着く為の、後戻りできぬ一本道。それを歩むと言うならば―――。(―――覚悟を。身を削りながらでも、前へと進む決して揺るがぬ覚悟を) 悠陽は三神の告げた言葉を繰り返す。そして―――最後の言葉を思い出す。『殿下。―――貴方の妹君は、もう成長を始めておりますよ?』 その言葉は、悠陽の心を強く響かせた。 実際に会ってはいない。時折上がってくる報告や白銀から聞いただけだ。だと言うのに、悠陽は何処か近くで御剣を感じていた。 そして、そこに彼女の成長。(―――冥夜。そなたは前を向いているのですね?前を向いて、歩き始めているのですね?) 本当は、国連に渡したくなかった。人質になど、させたくなかった。某国や城代省の干渉が無ければ斯衛に入れて、可能な限り速く昇進させて、側に置いておきたかった。そしてそれこそが、自分と妹が時間を共に出来る方法だと―――そして強くなる方法だと思っていた。 しかし、彼女は自分で歩いている。 他人が選択肢を狭めたのだとしても、自分で敢えてそれを選び、自分でそこに進み―――そして成長を始めているのだ。 省みて、姉である自分はどうだ。 三年前に国民の大半を、国土の大半を喪っても動かず、未だお飾りの将軍である自分は―――あの時から、何か成長できているのだろうか。(いいえ―――何も、何も変わっていない。私は、何も変われていない………) では、どうすればいいのか。 心を痛めるだけでなく、手を伸ばし、国民を救わんとする為には、自分はどうすればいいのか。 分からない。分かりはしない。 その悲劇を経験していない煌武院悠陽には分からない。「私は―――何をすればいいのでしょうね?冥夜―――」 その問い掛けに応える声は無く、国を想う少女の懊悩は虚しく夜の帳に消え行くのみだった―――。(―――これで粗方仕込めたな) 香月に報告を終えて、白銀と別れた三神は自室の執務机に足を放り出し座って煙草を吹かしていた。 思うのは、今日の交渉。 当初の予定通り、11月11日に実弾演習を取り付けた。時間や場所などの細かな調整は追って鎧衣を通して行なう。 紆余曲折はあったが、終わってみれば三神の思惑通りの結果だ。予想していた最上の結果である。これでしばらくは、根回しなどの忙しさからは解放されるだろう。(次は香月女史の疑似生体―――そしてヴァルキリーズの育成) 11月11日までまだ二週間余り残している。疑似生体の方はこのまま行けば予定日までに間に合う。問題なのは―――。(ヴァルキリーズを何処まで伸ばせるか。それと―――基地の雰囲気) 香月への報告の後、三神は白銀にそれとなく聞いてみた。以前、彼が207B分隊を戦場に持ち込むと言った時から薄々気付いていたことを、だ。(―――予想通り、捕獲はさせないようにするか) 『前の世界』で、香月は11月11日にA-01にBETAの捕獲命令を出した。結果として幾らか損害は出たものの、捕獲自体は成功。後に捕獲したBETAはXM3のトライアルで解放され―――基地内の空気を引き締めるのに一役買った。 しかし、白銀にとっては忘れられないトラウマである。 何しろ、恩師を二人も死なせ、幼馴染みを死なせ掛ける原因となったのだから。 彼がその事について、香月に対しどう思っているのかは分からない。しかし、彼はその悪夢を再現させない為に、原因から取り除くことを決めたのだ。 無論、ヴァルキリーズの損害も頭には入れていただろうが、あの何かと甘い少年のことだ。何よりも恩師の生存を願ったに違いない。(まぁ、いいだろう。―――それが武の願いなら、私は叶えるだけだしな) ただし、基地内の雰囲気改善については案はあるものの少々骨が折れるので、それには白銀に付き合って貰うことにする。 香月女史を説得するのにまた何か材料が必要かも知れないな………と不安に思いつつ、三神は吐息と共に紫煙を吐き出す。 そして―――。(―――さぁ、仕込みは終えて幕は開いた。後は―――どう演じるかだけだ) そして狼は走り抜く。 白銀武の前に続いている道を、三神庄司の全てを賭けて護り抜く。 例えその先に―――。「―――『俺』自身がいなかったとしても、だ」 そして今こそおとぎばなしの幕は開く。 『あいとゆうきのおとぎばなし』を走り終えた希望と。 『あいとなげきのおとぎばなし』を走り続ける夢が織りなす―――。 『ゆめときぼうのおとぎばなし』が―――。