第1話
月、ネルガルドックにて
「エリナ、補給は終わったか?」
「ええ、さっき終わったところ」
背後からの声に、長身の女性が振り向いた。切れ長の瞳が印象的な、東洋系の顔立ち。
エリナ・キンジョウ・ウォン。月ネルガルドックの最高責任者である。
声をかけてきた男を捜して、エリナは視線を巡らせた。
機動兵器の影の下で目が止まった。黒一色の男がいる。声をかけられなかったら、そこにいることにすら気づかなかっただろう。闇に紛れる姿格好以上に、希薄な存在感が脳の認識を妨げる。
男に近寄りながらエリナは続けた。
「でも整備が終わってないわ。北辰との決闘での損傷が思ったより激しいって報告がきてる」
暗がりから顔を出そうとしない男に向かって、ちょっぴり非難するような口調で言った。
あまり心配させてくれるな、と。
「苦労をかけるな。すまん」
だが、男の言葉には罪悪感は感じられない。
いくら危険でも、男にとってあの戦いこそが本懐であり、本懐を遂げずして男の生はなかったのだ。避けることはできず、また避ける気もなかった。
戦いを恐れる優しかった青年が、この三年間ひたすらに求めた復讐だった。
「よして。今さらそんなことで謝るような関係じゃないでしょ?」
「そうだな」
男女間でのこの類の会話は、聞きようによっては艶やかな話であるが、溜息とともに吐き出される声にそんな色は含まれない。
この2人の関係とは何だろうか。
愛人関係、雇用関係、同志関係・・・・、どれも違う気がする。もっと別のものだ。
2人に通い合う気持ちは、単純なものではない。だが、少なくとも愛ではないことは確かだった。
そう、きっと愛ではない。それはアキトとエレナ両者の暗黙の了解だった。
「これからどうするつもり?いつまでもこんなことしてられないわよ」
火星の後継者の首領は逮捕拘禁されている。まだ残党がいるが、その駆逐もたいした手間ではない。
あと一度か二度は波乱があるだろうが、方向としては、これから地球圏は安定期に入るだろう。そうなれば連合がテロリスト・テンカワアキトを放置するはずがない。宇宙軍にはアキトと縁が深い人間がトップにいることもあり、手心を加えてもらえるかもしれないが、統合軍はそうはいかない。内部から多数の火星の後継者への造反組を出してしまったことで統合軍の面目は丸つぶれだ。テロリスト・テンカワアキトを逮捕することで、汚名返上を図るかもしれない。
もしこれからも大っぴらに動くなら、軍から追われることも覚悟しなくてはならない。
エリナは、そういった事態になるのではないか心配しているのだ。
アキトの返答はエリナの予想を裏切るものだった。
「何も」
「何も?どういうこと?」
「全ては終わった。北辰を殺し、火星の後継者は壊滅だ。ユリカの救出も成功した。テンカワアキトも既に亡い。何もやることはない」
再び戦争に赴く気がないことは幸いだが、その無気力さには失望する。
夢に向かって邁進していたあの好青年の面影どころか、強烈な意思でもってブラックサレナを駆っていた戦士の気概も感じられない。
この青年に訴える何かが、まだあるはずだ。一縷の望みに賭けてみた。
「でも補給を頼んだじゃない?行くところがあるんでしょ?」
「ああ、ラピスがな。宇宙に出たいそうだ」
「ラピスが?」
アキトの隣に目を向けた。暗がりに1人の少女が立っている。自らをアキトの一部であると公言してはばからない少女。ラピスラズリ。
「ラピス、どうするつもり?」
ラピスが自発的に行動を起こすこと自体珍しく、アキトの今後のことを抜きにしても、ラピスが何を考えているのか興味があった。
考えにくいが、観光にでも行くつもりか。もしそうだったら、自分も有給をとって付き合おう。イネスも誘って。
・・・・・・ラピスの答えはエリナを失望させるものだった。
「どこか遠くへ行く。もうアキトはやることがないと言った。わたしはアキトと一緒にいたいだけ。だから誰にも邪魔されないところに行って、ずっと2人でいる」
他者の否定。この少女もだいぶ回復したと思っていたが、やはり心の傷は癒えていないようだ。
マシンチャイルドとして過酷な人体実験に供されていた彼女は、救世主であるアキト以外には心を開いていない。例外は、彼女のパートナーAIのヤゴコロだけだ。
「ラピス、そんな簡単に結論を出すものじゃないわ」
「そうね。お兄ちゃんを独り占めだなんて許さないわよ」
エリナの背後から声がした。
「ドクターか」
Dr.イネス・フレサンジュ。本名アイ、ただし姓は不明。アキトの主治医にして機動兵器設計主任、戦艦設計主任である。何が専門なのか周囲の人間にはわからないほどの膨大で多岐に渡る知識を持つ。もしかしたら本人にも自分の専門がわからないのかもしれない。
「今後について、話があるわ。ネルガル会長も来てるから会議室に来てちょうだい。ユリカさんの予後についても説明するから」
それじゃ、とろくに挨拶もせずに歩いていく。
「イネスが説明を後回しにするとはな。何か重要な話らしい」
「そうね。ラピス、さっきのことは後に話をしましょう。ドクターにも異論があったようだし」
「やあテンカワ君。まずはおめでとう、と言うべきなのかな?」
会議室の上座に陣取った落ち目の大関スケコマシは、開口一番にそう言った。
おめでとう。祝いの言葉。
アキトを復讐に駆り立てていた全てに決着がついたことは、それなりに祝福に値するものだったかもしれない。
ただ、失ったものを全て取り戻せたわけではない。
「さあな」
失った時間。心と体。もう取り戻せない。アキトには既にユリカを求める情熱はない。
高熱で猛り狂っていたマグマが冷えて固まるように、もはやテンカワ・アキトの心にユリカへの情熱の炎が灯ることはないだろう。
ユリカのために命を賭けたのは本当だ。だがそれは理不尽な略奪に対する怒りだった。愛を奪われた故の復讐であり、その愛もこの三年で凍てつき、復讐という行為への暗い執念だけが残った。
テンカワ・アキトは死んだ。それは掛け値なしの本音なのだ。
かつてテンカワ・アキトだったものは、今は別のものに成り果てている。
過ぎ去った時代を思い、アカツキは天を振り仰いで目を閉じた。
再びアキトに視線を戻すと、イネスとエレナがアカツキを険しい目つきで睨んでいた。
妻を奪われ、五感を失い、長年の夢だった料理人になる道を絶たれた人間に対して、おめでとうはないでしょ?
「少し無神経だったかな?すまない」
2人の無言の非難を浴びて、アカツキは謝罪した。
「かまわない。終わったことだ」
マントの中でしがみつくラピスの頭を撫でながら、アキトは謝罪を受け入れた。
「そうかい?ありがとう」
(ラピスとの接触を図っている。無意識であったとしても、人とのつながりを求めているのか?)
だとしたら、望みはある。昔のようにはなれなくても、これから先はまだまだ長いのだ。
言葉が途絶えた。
アカツキは失ったものに思いは馳せ、アキトは沈黙を好む。リンクしているラピスも同様だ。
イネスはアキトを観察していた。妙に痩せたところもない。顔色も悪くない。立っていてもふらつかないということは、スーツの平衡感覚補正も正常に作動しているようだ。
痺れを切らしたのはエリナだった。
「それで、話って?」
「ええ、そうだったわね」
イネスが我に返り、壁に埋め込まれているリモコンのボタンを押した。
天井に一筋の切れ目が入り、そこからホワイトボードが降りてくる。カシュっという圧搾音が響き、ボードが固定された。
白衣の内ポケットから取り出した黒のマーカーで何やら書き付けていく。
「まずは朗報。ユリカさんは無事よ。遺跡とのリンク切断も完了。遺跡に埋め込まれた後のことは覚えてないみたいだけど、それは当たり前。記憶の混乱もなし」
ユリカ無事、経過順調。ホワイトボードにキーワードが書き込まれていく。
「火星の後継者の残党狩りはルリちゃんがやってるわ。ユリカさんも復帰次第、ナデシコCに乗船予定」
アカツキが後をついで説明する。
「南雲という男が影で立ち回っているんだよね。資金の集まり具合、勢力拡大の速度からして、遠からず決起するだろうね。だけど、ナデシコの敵じゃない。あの2人も現役復帰で3人でチームを組んでるし、サブロウタ君も加わっているから、かねてからの懸案だった機動兵器戦でも引けをとらない。任せて安心ってところだね」
ホワイトボードに、「火星の後継者残党の南雲が決起」「ナデシコの兵力が充実」等々が書き加えられる。
再びイネスが口を開いた。
「まあ、要するにルリちゃんとナデシコがいれば宇宙情勢は心配ないってことね。で、本題に入るわ」
ホワイトボードに書かれていたキーワード群をぐるっと囲い込んで、円を描く。その隣に「解決」と書いた。ちょっと離れたところに、「軍」と書いて円で囲む。
「問題は軍の動向ね」
「解決」の群から矢印を引っ張って、軍の囲いに結びつける。
「宇宙軍は大丈夫。ミスマル提督以下、ムネタケ提督、アキヤマ提督のトップ3は穏健派だし、こっちの事情も知ってるから手心を加えてくれる。その他将官もルリちゃんに好意的だわ。アキト君のことは正直あまり面白く思ってないでしょうけど、排除しようとまでは考えないはず」
軍の囲いの中に、2つの円を書く。1つは宇宙軍、もう1つが統合軍。
「だけど統合軍がさぁ、テンカワ君を引き渡せってうるさいんだなぁ、これが」
長い前髪をかきあげつつ、アカツキは嘆息した。
「内部から造反者を大量に出してしまって、統合軍の面目はまるつぶれ。次期連合議会で統合軍の軍縮が決議されるのは確実。となれば、それまでの間になんとしても手柄を上げて少しでも汚名返上をしなければならない。とはいうものの、造反組が大量に資金や兵器を持ち出したせいで統合軍の戦力はガタガタ。火星の後継者残党狩りには参加できない。となれば、アキト君を狙ってくるのは自明の理だったわけだけど・・・・・・」
いくらアキトが卓絶した機動兵器パイロットであっても、補給がなければ戦えない。統合軍はそこを突く。
ホワイトボードにネルガルという囲いが描かれ、統合軍から赤線で矢印が引かれる。
「ただちにテロリスト・テンカワアキトを引き渡すべし、さもなければネルガル月支社に攻撃をしかける、と来たもんだ。猶予はたった3日。当初の予定では時間稼ぎをして統合軍の縮小決議まで粘る予定だったんだけど、向こうの偉い人は世間体とかあんまり気にしないタイプだったみたいなんだよね」
統合軍からネルガルへの矢印の上に、オドロオドロしい書体で脅迫と書かれる。イネスは凝り性なのだ。
「それで?ネルガルとしては俺を差し出す、という線で決定したのか?」
月臣君やプロス君、ゴート君にも同席してもらうんだったな。怖くて仕方ないよ・・・・・
別段、アキトが殺気を込めて睨むだとか、声を荒げて詰め寄るだとか、そういうことをしたわけではない。だがそれでもアカツキは怖かった。もしアキトがその気になれば、一瞬で自分を殺せる、ということを思い出したのだ。もちろん、アキトはそんなことはしないと分かっているが、その力がある人間を前にして挑発するような言動は少々軽率だったか、と冷や汗を流した。
「正直、迷ってるんだよねぇ。もし普通に逮捕されるんだったら裁判があるわけだし、そこでいくらでも君の事情を説明できるから、陪審員の良心をがっちりキャッチすることも可能だし、統合軍が軍縮もしくは解体されるまで粘ることもできるけど、統合軍に逮捕されたら軍事法廷だからアウトだね」
「どう違う?」
「へ?」
(ああ、そっか。彼は軍属になったことがなかったか。つい数年前までは軍とは無縁の民間人だったんだから、こういう軍事的な基礎教養は知らなくても無理はないかもしれないな)
アカツキがそれはね、と口を開く前にイネスが喋りだした。彼女は説明するチャンスを逃さない人だ。
「説明しましょう。本来の軍事法廷っていうのは軍規違反をした軍人を裁くための法廷なんだけど、困ったことに弁護人はこっちで指定できないし、裁判自体も非公開なの。最悪なのは、それまでは無罪と規定されていた事項についても、有罪判決を出すために新しく規定を作って過去に遡行して適用することもありうるっていうことと、民間人を強引に法廷に立たせることもあるってことね」
なぜか法律にも一言を持っているイネス。これでますます彼女の専門がわからなくなってきた。
「つまり統合軍は軍事法廷でアキト君を裁こうとしてるってわけね。しかも期限を三日に切ってきた。通常の裁判でアキト君の口からクリムゾンと火星の後継者とのつながりを暴露されたら終わりだから、クリムゾンも統合軍を後押しするでしょうね。となれば、逮捕されれば間違いなく非公開の軍事法廷で死刑判決、そのまま即日死刑執行になるのは目に見えてる」
「じゃあどうしたらいいのよ?アキト君を差し出すなんて絶対に許さないわよ!」
エリナが歯をむき出しにして唸った。美人が台無しだ。
ラピスはAIに命じて、ひそかにエリナの吼える瞬間を激写した。後でアキトに見せて、エリナの正体を教えるのだ。そうすればアキトもエリナの匂いを漂わせるのをやめてくれるだろう。
「だからどうしようか迷ってるんだよ。いっそのこと正面きってネルガルの社運をかけて統合軍と全面戦争をやってみるか、それとも宇宙軍に助けを求めるか、アキトなんて知りません、とシラをきるか」
「シラを切ればいいんじゃないの?」
「アキト君がネルガルの子飼っていうのは、火星の後継者が逮捕されて口を割ったからもう知れ渡ってる。シラを切るのは無理だね。現実的なのは宇宙軍に助けを求めるってところかな。民間会社に不当な圧力をかけてるから何とかしてくださいってね。後は圧力団体の1つか2つくらい使って、連合議会に圧力をかけちゃおうか。でも議会に借りを作るとあとあと尾を引くんだよね」
はぁ困った、と頭をかきかき、アカツキがため息をついた。元々取引があり個人的な人脈もある宇宙軍に助けを求めるのはまだしも、政治家に渡りをつけるとなれば献金が必要になり、その政治献金を渡す根拠について株主総会で説明しなければならない。もちろんアキトのことを話さずにだ。それに政治家とパイプを持ったら、それ一度きりでさようならというわけにもいかない。付き合いは長くなるだろう。厄介なことだ。
「オレはどうすればいい?」
アキトがつぶやいた。自分の所業が法的に許されないことであることは分かっていたが、ここまで面倒なことになるとは思っていなかった。考えが甘かった。
全てが終わった今、自らを司法にゆだねることも厭いはしない。だがネルガルには借りがある。ネルガルにとって不利な結末にしたくない。
「ラピス君と宇宙に出るんだって?・・・・しばらく延期してくれないかな。君がいないと、万が一統合軍と正面衝突になった場合に戦える人材がいなくなるし、君だって僕らの支援を受けられない。各個撃破される危険は避けなくちゃ。そこでちょっとしたプレゼントがある。ドクター」
イネスはホワイトボードに新兵器と書き、白衣に包まれたふくよかな胸を押し上げるように腕を組んだ。
ラピスは自分の胸を見下ろし、エリナは負けてないことを確信した。
「で、北辰戦には間に合わなかったけど、ブラックサレナの後継機ができてるわ。ブラックサレナは損傷して使えないから、乗り換えてもらうことになります」