「キミの業は既に<魔人>としての限界に達しているわ」
そう告げたのは美しい、本当に美しい少女だ。
人ではもはや及ぶべくもない。それでも当てはめるならば、年の頃は十六、七、艶やかな長い褐色の髪をして、太陽のような笑顔を浮かべている。
此処は<闘争牙城>、<魔人>たちが欲望のために『決闘』を行う閉鎖世界。
そして少女こそはその主、<天睨>のイシュ。七柱を除くうちでは最上位の魔神にして、一説には進化の女神であるともいう。
「超える方法は一つしかない。でもそれは今ここでは根本的に成り立たない。これ以上はどれほど磨いたところで至ることはない」
彼女は謡うように告げ、笑顔のままに問う。
「どうするのかしら、<妖刀>」
「し、ぃれた、こと」
<妖刀>は迷わない。
「斬る。おれは斬るのみよ」
余地などない。そんなものは生れ落ちたときには既に失くしていた。
無理も道理も踏み越えて、望むものはただ一つ。
「おれは一筋の斬撃となるのだ」
「そう」
イシュは底抜けに明るい笑顔を、曙光のような微笑みへと揺らめかせた。
「だからボクは大好きよ」
風が生温い。
沈んで久しい太陽のぬくもりが、まだそこに残っているのだろうか。
いずれにせよ<妖刀>は個である。その願いに誰の理解も必要とはしない。
端山武神流とは最強との妄想に取り付かれた男が名乗った、幼子の理で編まれた流派である。
上段から力一杯斬る、相手は死ぬ。すべてがその調子なのだ。
そしてその最秘奥こそは剣気金剛法・斬泰山。泰山を斬ると名付けられたこれは、型すら存在しない。ただ己の最高を行うという、それだけのものだ。
初代のものも、父親のものも、<妖刀>のものも、おそらくは妹のものも全てが異なっているだろう。
しかし皮肉にも、これだけは真の武と言えた。
武にたった一つの解など存在しない。力も技も、環境も心も何もかも、すべてを包括して、せめて己にとっての最強を顕すことが出来るだけなのだ。
そして<妖刀>にとっての最秘奥は斬撃に至るまでの道標に過ぎない。願い、求めるものはその先にある。
ゆらゆらと夜を行く。
中天には金色の月が満ち、無人の浜を煌かせていた。
寄せては返す白波の、声も耳打つ子守唄。さくりさくりと砂を踏み、歩を進めれば出会う男、一人。
「暑いが、いい夜じゃのう」
二十歳も随分と越えているか。癖のある髪を適当に縛り、シャツの上に着物を纏い、袴はベルトで留めて裾をブーツに突っ込んでいる。
和洋折衷と言うもおこがましい。いい加減で無茶苦茶な、だが不思議な調和のある出で立ちではあった。
それには暢気な表情も一役買っているだろう。鷹揚でちゃらんぽらんで、男女を問わず妙に引き付けられる。
いずれにせよ<妖刀>に興味はないが。
「けんご、は……じょれつ、い、いちぃい」
枯れ木の如き姿がひ、ひ、ひ、と笑う。
男もからからと笑った。
「いかにも、わしが水守師直よ」
「斬る」
<妖刀>はその手に一振りの、細い細い月にも似た刀を呼び出す。愛刀『ツクヨミノザンキョウ』だ。
此処へは、この男に会いに来た。
<夜魔>が敗れたことは、興味はなくとも耳に届いている。それを成し遂げたのが<竪琴>の処刑人であることも。
あれに敵う<魔人>などほとんどあるまい。それほどの力を有している。
しかしそれでも、処刑人は日本屈指にして神官派最強としか評されない。
その理由こそが、この目の前の男なのである。
剣豪派序列一位、水守師直。誰もその強さの果てを知らない。それがため、理解できぬ者には逆に侮られる。侮られながらなお、随一であると見る者が多いのだ。
<妖刀>は踏み込む。言葉は要らない。斬ると宣言したことすら気まぐれじみた雑念に過ぎない。
何もかもを断ち割る斬撃は音もなく、目にも映らず、しかし虚空だけを分かつ。
男はふらりと身を引き、刃の触れぬ場所にいた。
見切られた。
<妖刀>は歓喜する。この斬撃は誰よりも速く、鋭く、防いだ者はあっても、かわし切った者などなかったというのに。それをこうも無造作に、鮮やかに。
見切られること、そのものは問題ではない。見切り、見切られることすら前提であるのが<妖刀>の棲む領域である。
見える、聞こえる、臭う、肌に触れる。光も音も大気も何もかもを一つの世界として捉え、既に内にある。ゆえに判るのだ、ほんの些細なものまで、何もかもが。もはや高次の新たな知覚、五感を断たれたとて何ら問題とならない。あとは斬れるところから斬ればよい。自在である。
だというのに、なぜ避けられたかが分からないのだ。感覚が届かない。
己の剣が<魔人>の極みにあるというならば、すなわちこの男は<魔人>を超えている。
それでこそ、甲斐がある。
<妖刀>は何も恐れない。斬ることだけを願う。
「せっかちじゃのう」
じゃれかかられた、程度の口調でぼやき、師直の手にも刀が現れる。くすんだ得物だ。
そして再び仕掛けたのは<妖刀>だった。
捉えた世界が揺らめく。その中で、敵手だけが捉えられない。そこにいる、見えている、聞こえている、それでも刃は空を切る。
異能。否、ただ避けただけだ。ひょいと。逃さぬ組み立てであればそれを知っているかのように根元を崩し、返す刃がこちらを浅く穿つ。
痛みなどない。<妖刀>にとって、すべては斬撃と成るための糧に過ぎない。
世界が色を失う。
既に己自身すら認識しない。斬撃が自己を知る必要はない。
純化する。純化される。
端山武神流。妄想であった最強、ありえるはずのない一撃必殺。
斬撃になりたいと初めて願ったのはいつだったろうか。まるで覚えていない。
家族はいたはずだ。欠片も覚えていない。
何も覚えていない。かつての名も、喜びも苦しみも何もかも。
これまで糧として来た者も忘れ、今ここに対峙している相手が誰なのかも判らない。
手にした剣も判らない。
勝敗など知らぬ。
斬撃だけがあった。
ただ一つにすべてを捧げ尽くした。
声はない。
しかし、いかな名となるかは決まっていた。
“<斬神>”
『フツ』とはものを断つ音。
<妖刀>はここに、<斬神>と成った。
月下、皓々たる光に星々は幽か瞬く。
「妙なことをするのう。わしが斬る。ぬしが斬られる。ぬしが斬る。わしが斬られる。ただそれだけじゃ」
こともなげに呟き、斬を斬にて切り落とさんとする。
<妖刀>なる<魔人>はもう存在していない。その枯れ木めいた、死体めいた肉体も、手にしていた刃さえない。
在るのは斬撃である。標的を断ち割る力である。極限まで純化されたこれは、理の底から万象を斬り捨てる。
命でもって受けることはできるだろう、存在の根源まで二つに割られてなお尽きなければ。
あるいは、もう一つだけ手立てはある。
まさにそれを為す。逃れようもないこれを、師直は斬った。こちらもまた万象を断ち切ってのけたのだ。
斬と斬、勝ったのは存在の全てを斬撃とした<斬神>。
刀が折れる。鮮血が溢れる。しかしそこまで。地を踏み締める足は揺るがない。
双眸は変わらず飄然と、屈託なくからからと笑った。
「わしもくらうんあーむずが欲しいのう。かっこええ」
肉こそ穿てど、命には届かない。袈裟に走った傷は既に消えている。
「なかなかに佳き仕合であった。人間じゃったら死んでおったわ」
手には再び刀、即席で創った粗悪な代物。月明かりにもくすんで、美しさなど欠片もない。
<竪琴>剣豪派の中でも特に強力な<魔人>は名刀の名で呼ばれる風習がある。天下五剣を始めとした彼らは序列を入れ替えながらもその名を轟かせている。
しかし序列一位だけは外れている。誰も相応しい銘を思いつかなかったのだ。
それでもいつしか、あだ名はできた。
<数打>の水守師直。粗悪な刀でもっていかなる銘刀をも下す、<竪琴>最強の名である。
「とはいえ……少々物足りんのう」
<数打>は居つかない。ふらふらとあちこちを彷徨い、気侭に過ごす。言うことなど碌に聞きもしない。その剣と同様にあまりにも自由すぎる。
許さざるを得ないのは、敵に回らないというだけでも充分な価値があるからだ。
水守師直の業は、人であったときから人も<魔人>も超えている。天賦の才すら足元にも寄せ付けぬ男が<魔人>の肉体を得たことの意味を理解できぬ<竪琴>ではない。
「やはりぬしじゃ、ぬしだけじゃ」
天を仰ぐ。
懐かしさを滲ませながら、にやりと笑った。
「いつか、本気のぬしと戦りたいのう、名和雅年よ」