とある日の午後、薔薇の宮のアトリエにて、パレスナ嬢は机に向かって絵を一心不乱に描いていた。 午前中はモルスナ嬢がここに来て、線画の指導をしていた。今はそれを踏まえて一人で練習を行っているのだ。 だから私はパレスナ嬢の会話係として、物珍しい話題を選んで彼女に向かって語りかけていた。 フランカさんも興味深げにそれを聞いている。ちなみにビアンカは仕事が休みのため、カードを持って青百合の宮のハルエーナ王女のもとへと向かっている。初心者のビアンカは、一対一で勝敗を決める決闘競技ではなく、複数人数で共に魔物撃破ポイントを溜めて世界樹を育てるという、この世界独自の協力型競技を好んでいるらしい。「ですから、蟻人は『幹』を牛耳る世界樹の支配種族です。しかし、直接的な動物人種の支配者ではないのです」 今日の私の話題は、『幹』と蟻人について。地上の人間に開示できるような情報を選んで披露している。「蟻人は女王蟻人によって生み出され、女王蟻人に従います。女王に従う蟻人には、動物人種を支配しようとする思いはありません」 ふんふん、とインクをつけたペン先を厚紙に走らせながら、パレスナ嬢は相づちを打つ。 相変わらず私の話を聞きながら絵を描くという器用なことをしている。受験生が勉強をしながらラジオを聞くようなものだろうか。「もし動物人種の支配者がいるとしたら、この女王蟻人とその頂点の女帝蟻になるでしょう」 そう言って私は話を締める。地上では蟻人は滅多に姿を見せないから、珍しい話になっただろう。その眷属である蟻や羽蟻は人々の生活に密接に関わっているのだが。 そんな話を聞いていたパレスナ嬢は、ペンを走らせる手を止めずに感想を述べる。「いつかは蟻人の絵も描いてみたいわね。どうにかして会えないかしら」「王族になれば目にする機会もあると思いますよ。王族って、人と『幹』との橋渡し役ですから」「そうなの? 今から楽しみね」 私の返した言葉に、嬉しそうに喜ぶパレスナ嬢。 やっぱり、国王との結婚が決まっているような言動を彼女はしている。 彼女の一方的な思い込みとは思えない。城下町で、国王もそれらしいことを言っていたからな。 となると、どういう経緯でそこまで決まったのかだ。後宮に入ってから二人は仲を深めたのか、それともそれ以前から仲が良かったのか。 私は、そこのところをパレスナ嬢に聞いてみることにした。 と、思ったそのときだ。アトリエの扉からノックの音が響く。パレスナ嬢が入室を促しフランカさんが扉を開けると、そこには宮殿の門番をしているはずの女護衛のフヤがいた。「トリール様がこれからいらっしゃるそうです」 そう簡潔に述べるフヤ。それを聞き、パレスナ嬢は「あら」とペンを動かす手を止めた。「ずいぶん急ね」「先方もそれを詫びていました」「ま、構わないわ。もっとみんなにも気軽に訪問してほしいし。さ、フランカ。歓迎の準備をしましょう」 そう言ってパレスナ嬢が立ち上がる。ちなみに今の彼女の格好は、絵の具を使わないとあってか汚れた簡素なドレスではない。このままお客様と面会しても大丈夫だろう。 私はパレスナ嬢と一緒に来客室へと向かい、彼女の身だしなみをチェックする。 ちなみにフヤの言っていたトリール様とは、王妃候補者の一人で、牡丹の宮の主である。 確か、ココッタ公爵家というところの分家の出で、親は公爵家の領地の一部を任される伯爵だったか。 歳は十五歳と若い。 そのような情報をパレスナ嬢に改めて確認して時間を潰していると、やがて伯爵令嬢が到着したようだった。 フランカさんに案内され、来客室へと令嬢と、お付きの侍女が入室してくる。それをパレスナ嬢は満面の笑みで迎えた。「ようこそ、トリール。歓迎するわ」「ごきげんようー。これ、お土産の焼き菓子ですー」 おっとりした感じの令嬢が、布袋をパレスナ嬢の前のテーブルへと置いた。「あら、ありがとう。助かるわ。貴女のお菓子、ここの宮の皆に人気よ。焼き菓子は日持ちするし嬉しいわ」「それはよかったですー」 私はパレスナ嬢の斜め後ろに立ち、改めて令嬢を観察する。艶やかな黒髪を伸ばして後ろに流しており、白いドレスと合わさってとてもその立ち姿が映えていた。「ま、座って座って」 パレスナ嬢が着席を促し、素直に椅子へと座るトリール嬢。それを確認したフランカさんは、トリール嬢の持ち込んだ布袋を持って部屋を退室していった。 お茶を淹れに行ったのだろう。お茶請けにあの焼き菓子を出すのか。「今日は遊びに来たのかしら? 私はいつでも歓迎よ」「いえ、違うんです。実はですねー」 トリール嬢は首を振ってパレスナ嬢の言葉を否定し、言った。「午前中、陛下とお茶をしておりましたら、『王宮侍女タルト』なるお菓子を知っている侍女さんが、ここにいると聞きましてー」 おい国王、なに話してんの? そんなに気に入ったのか『王宮侍女タルト』の話。 『王宮侍女タルト』とは、メイズ・オブ・オナー・タルトという前世のお菓子のことだ。以前、そのお菓子の話を侍女宿舎でしたところ、何故かその話が国王まで伝わったことがある。 パレスナ嬢には話に心当たりがないのか、不思議そうな声を出す。「『王宮侍女タルト』? 知らないわね。キリン、何か知ってる」「はい、知っています。私が情報の出所ですね」「そうなのですかー?」 私の言葉を受けて、トリール嬢の表情がぱあっと明るくなる。 『王宮侍女タルト』の何がそんなに聞きたいんだろう。「実はですねー、私、お菓子作りを趣味にしていましてー」「トリールの作るお菓子は甘くて美味しいのよ。お茶と一緒にいただくと最高なの」 トリール嬢の言葉に、そう補足を入れるパレスナ嬢。 ほうほうそれはそれは。甘い茶菓子を作るというのは、この国では最先端の道を行く分野である。 砂糖や蟻蜜を茶に入れ甘くして飲むというのは広く行われているが、渋い茶で甘いお菓子をいただくというのは、あまり行われていない。 このトリール嬢、なかなかの探究者に見える。貴族令嬢ながら、なかなか変わった趣味をお持ちだ。って、この後宮に来てからこんなことを思ってばかりだな。「そこで、私の知らない『王宮侍女タルト』というものに興味を覚えて、ついやってきてしまったのですよー」 トリール嬢はそう告白した。私は「そうですか」と、それに頷く。 ここで、お茶の用意をしたフランカさんが室内へと入ってくる。すでにお湯は沸かしていたのだろう。素早い対応だ。 二人にお茶が配られていくのを見ながら、正直に私の持っている情報を出すことにする。「しかし私、『王宮侍女タルト』を食べたことはあっても、レシピまでは詳しく知らないですよ」「どういう料理かを教えてもらうだけでいいのですー」 なるほど。作れなくても未知のお菓子は気になると。 私はトリール嬢に説明を始める。「そうですね。まずタルトというお菓子の種類があります」「それも初耳ですー。『タルト』ですかー」「タルト生地という麦粉と卵で作った生地に、フルーツなどを載せて焼くお菓子です」「その『タルト生地』の作り方は知っていますかー?」「ええ、大丈夫ですよ。まず用意するのは――」 私は魂から前世の記憶を引き出して、タルト生地のレシピを説明した。「なるほどなるほど、美味しいのができそうですねー」 にっこりと笑ってトリール嬢は喜ぶ。 私は前世で友人の菓子作りを何度も手伝ったことがあったし、今生でも世界各国を巡って様々なレシピを集めてきた。世界のレシピ集とでも銘打った本を出せそうなくらいには知識がある。 そして、トリール嬢はさらに私に尋ねてきた。「それで、『王宮侍女タルト』というものはどういうものなのですかー?」「そうですね。食べたときに受けた説明によるとですね、カッテージチーズと砂糖と卵を混ぜた具材をタルト生地の上に載せて焼いたものらしいです」「それ、材料ほとんど判ってるじゃないですかー」 魂の記憶を読み出してみると、そうトリール嬢にツッコミを入れられた。「分量とかは不明ですよ。だからレシピは知らないです。それに、チーズって解ります?」「ええ、チーズなら知ってますよー。うちの宮殿にもストックしてあります」 おおう、この国じゃ一般的じゃない食材のチーズまであるとは、本格的だな。 未知なる味を想像しているのか、トリール嬢はうっとりとしている。そして、その笑顔のまま私に向けて言った。「じゃあ、せっかくですから、これから『王宮侍女タルト』を作りませんかー?」「えっ、作るんですか? 詳細なレシピもないのに」「そこは挑戦してみましょうー。侍女さんもお菓子にお詳しいということは、お菓子作りをやったことがあるのですよねー?」「ええまあ、それははい」 そんな感じで話が決まってしまった。 それに、茶菓子の焼き菓子を一人、美味しそうに頬張っていたパレスナ嬢が乗ってくる。「面白そうね! 私も行くわ! お菓子は作れないから味見役しかできないけれど」「はい、歓迎しますー」 パレスナ嬢の言葉を受けて、トリール嬢は嬉しそうに両腕を広げた。「ああっ、後宮は未知のお菓子でいっぱいですー。この間もキリン飴というものを教えてもらいましたしー」 っておい、カヤ嬢にククル。キリン飴の通称がこんなところに広まっているじゃないか。 私はすぐさま訂正すべく、トリール嬢に言う。「その飴、正式にはトラキオという国のトンサヌ・アラキーオンというお菓子です」「そうなのですかー。覚えましたー」 正直長くて覚えにくい名前なのに、即座に覚えてくれるとは良い子だな。 そのままキリン飴という通称は忘れてくれ。「では、侍女さんよろしくおねがいしますねー。初めてお会いした方ですよね? 私、トリールと申しますー」「キリン・セト・ウィーワチッタです。キリンが名前です」「ああっ、ということは貴女がキリン飴の伝道者ー」「ええまあ、それもはい」 キリン飴の通称はなかなか払拭できそうになかった。◆◇◆◇◆ パレスナ嬢とフランカさんと共に牡丹の宮に訪れ、私は侍女から子供用の料理エプロンを渡される。 侍女のドレスで菓子作りをするのもここの侍女達は慣れているのか、皆一様にエプロンを着けていた。まあ侍女のドレスはスカートがふわふわしていないから、どこかに引っかけるということもないだろう。髪の毛は侍女帽を被ることで大丈夫、と。 私はうきうきとした様子のトリール嬢に連れられ、厨房へと入る。そこで私達は手を丁寧に洗うと、まず始めに材料を用意することになった。 食材庫は、なんと地下室だ。地下室など、薔薇の宮の厨房にはなかったはずなのに。 そこのところをトリール嬢に尋ねてみると。「お菓子作りを趣味にしている私が後宮入りするのに合わせて、今年に入って新しく増設されたらしいですー」 そんなことまでするのか、国側は。本格的だな後宮って。魔法道具がそこらに使われているし。 地下の食料庫は、魔法の照明で照らされていて明るかった。「地下の密閉空間なので温度が一定に保たれるので、食材の保管に向いているのですよー」「確かに、暖房も焚かれていないというのにどこか温かいですね」 今は冬だ。雪も降るので、暖房がなければ食材が冷えすぎてしまうということもあるだろう。ここではその心配がないのだ。「キリンさん、見てくださいー。チーズですよー」 トリール嬢が指さす先を見ると、そこには棚に丸い大きなチーズがどんと置かれていた。ゴーダチーズである。 ああ、素晴らしい。これ、ラクレットオーブンで炙って溶かして、豪快にパンに付けたりして食べたいな。 思わず酒が飲みたくなる感想が浮かんでしまうが、即座に頭から振りほどき、今はお菓子の材料集めに集中する。とは言っても他人の食料庫なので、私は探し出した材料を持つことしかできない。「今回使うのはカッテージチーズですから、ミルクから作りましょうか。毎朝新鮮なミルクが届くんですよー」 王都周辺では酪農が盛んだ。牛を巨大化して子象サイズにしたような巨獣が家畜化されており、それから絞れるミルクが人々の食卓に上がっている。ここ後宮でもその恩恵を受けているのだろう。「わ、キリンさん力持ちですねー。こんなに小さいのに」 向日葵麦の麦粉袋を持ち上げたときに、そんなことを言われる。 確かに、この見た目でこの腕力は初めて見たら驚くだろう。 だが、多分トリール嬢も力持ちだと思う。菓子作りやパン作りって、めちゃくちゃ腕力使うからな。菓子好きのようだけれど体形はスレンダーなので、見た感じは細腕だが。 そして私達は『王宮侍女タルト』の材料を持って地下室から上がり、菓子作りを始めた。ドレスの上にエプロンをしてである。「まずは私は『タルト生地』作りからですかねー。キリンさんは、チーズを作ってくださいー」「了解しました」 カッテージチーズの作り方は簡単。ほどよく温めたミルクにお酢を入れて混ぜ、固まるまで十分ほど待ってから布でこすだけ。 ほいほいほいっと。 簡単な作業なので、横目でトリール嬢の作業を眺める。 的確で速い。さすが言うだけあってプロだわ。 そうして菓子作りは進み、トリール嬢はチーズや砂糖の分量に頭を悩ませながら、オーブンで焼く直前まで作業が進む。 そして、とうとうオーブンでの焼きあげだ。「このオーブンすごいですよねー。魔法の火がついて、薪いらずとか、温度調節が楽で楽で。美味しく焼けるので、お菓子作りがより楽しくなりますー」 心底楽しいといった表情で、トリール嬢が言う。 やがてタルトに火が通り、美味しそうな匂いが厨房に漂い始める。 そして、焼き始めてから二十分ほどでトリール嬢は、オーブンからタルトを取り出した。「おおー、しっかりできてますねー」「ええ、大丈夫そうです」 私達二人は、互いの視線を合わせ、明るい顔で笑った。 さあ、午後のティータイムだ。 侍女達がお茶の用意をし、私達二人は来客室にタルトを運んだ。「待ってたわ!」 来客室では、パレスナ嬢が私達の登場を今か今かと待ち受けていた。 テーブルにタルトを並べ、牡丹の宮の侍女がお茶を淹れていく。「今日は薔薇の宮の侍女さんもお客様ですからー。是非食べていってくださいー」 トリール嬢はそう言ってフランカさんを着席させた。もちろん私も座っている。せっかく作ったのに食べられないとか悲しいからな。 お茶をするときには食前の聖句を唱える必要はないので、トリール嬢の「ではいただきましょうー」という合図で、タルトを口へと運ぶ。 その味は……。「美味しい! なるほど、これが二人が言ってたチーズ味ね!」 パレスナ嬢が感心したようにそう言った。 うん、美味しい。口の中にチーズの味が広がって、砂糖の甘さがそれに調和して舌を楽しませてくれる。タルト生地の独特の食感も懐かしいものだ。 というか、前世のイギリスで食べたメイズ・オブ・オナー・タルトより、はるかに美味いぞこれ。「何か足りないですねー」 しかし、レシピなしでこの味を作りだしたトリール嬢は、そんな感想を述べた。「おそらく、柑橘類の香りが足りていないんだと思いますー。香り付けをした方が良かったですねー」 なるほど。それでどれだけ良くなるかは私には解らないが、きっとより美味しくなるのだろう。 パレスナ嬢は美味しそうにタルトを食べている。満足したようだ。 そして、さらにトリール嬢は言葉を続けた。「でも、『タルト』、いいですねー。上にどんなものを載せて焼くか、想像が広がっちゃいますよー」「美味しいのができたらお裾分けお願いね」「もちろんですー」「私も珍しい食材が手に入ったらすぐに知らせるわ」「ありがとうございますー」 そうパレスナ嬢とトリール嬢は話し、二人で笑みを交わした。 そうしてお茶の時間は終わり、私達は牡丹の宮を後にすることになった。 私は厨房の後片付けを手伝うと言ったのだが、侍女さん達に「それは私達の仕事ですので」と拒否された。料理を作って後片付けをしないってなんだか気が引けるな。というか、掃除下女に任せないんだ侍女さん達も。 薔薇の宮に帰ったら、すでにビアンカが青百合の宮から戻ってきていた。 そこでパレスナ嬢はビアンカに、牡丹の宮に行って『王宮侍女タルト』を食べたことをうっかり話してしまう。 当然ビアンカの反応は……。「どうして私の分を残してくれなかったんですかー」 と、ぷりぷりと怒った。 それをなだめるために、パレスナ嬢はトリール嬢の置いていった焼き菓子でなんとか機嫌を取ろうとするのであった。 今日も薔薇の宮は平和である。