File_1924-09-001E_hmos.
僕の名はサノ。
その日も、深夜の東京を散歩していた。
業平橋。工場街大島町。柳橋。
気分もよく、いつもより遠出した。昼間の雑踏が嘘のよう。
寝静まった都会は、静かで、幻想的な魅力をたたえている。
僕はこの時間がとても好きだ。
表通りはだいぶ綺麗になってきたけど、裏へ入るとまだまだ震災の焼け跡が痛々しい。
もう、一年経つんだな。
栗原橋のたもとで、一人の紳士が、欄干にもたれかかって、気分悪そうにしていた。
どうしました?大丈夫ですか?
吐きそうなのかと、背中をさすっているうち、紳士は呻きながら、倒れた。
あ、誰か呼んできます、たしか交番が向こうにあったはず……
駆け出してすぐ、叫び声が、後ろから、聞こえた。
振り向くと、二人の男が、紳士を抱きかかえている。
連れがいたのか。
二人の男は、こちらを凶悪な目付きでにらみつける。
紳士は、ぐったりと支えられ、意識もないようだ。
お連れさんですか。その方、だいぶ具合悪そうなんで、しばらく寝かせてあげてからの方が……
「とっとと帰んな。余計なことすんじゃねえ」
二人の男は、見た目も労務者風。明らかに、不釣り合いだ。
せめて紳士から「もう大丈夫だよありがとう」とか一言いってもらえれば、僕もすっきり退散できるのだけど。
もやもや考えながら立ちつくしていると、しびれをきらした二人が、紳士から手を離した。
生気のない塊が、ズサッと地面に転がる。
顔面を打ちつけたはずだが、声も上げない。
まるで、死んでいるようだ。
いきなり顔を殴られた。
二人のうち、大柄な方が。容赦なく。
痛みを感じる前に、驚きで頭の整理が追いつかなかった。
次のパンチが飛んでくる。
その腕をすかさず掴んで投げの一本をくらわせた。
神戸一中を卒業するまでだけど、柔道やってたせいか、咄嗟に体が動いた。
投げられた大男は尻餅をついたまま、驚いている。
もう一人は、構えだけはとっていたけど、向かってくる気配はなさそう。
紳士は依然、ぴくりとも動かない。
にらみあいは数秒だったろうか。
小さい方がこちらを牽制している間に、大きな方が紳士をかついで、立ち去っていった。
ふう。厄介なことに巻き込まれてしまった。
服の埃をはたいていたら、胸のあたりが濡れていた。
ガス灯の下では色に自信が持てないが、手にねとつくその液体は、どうやら血だ。
さっき投げ飛ばした男のものではないと思う。最初の紳士か。
え、じゃあ、僕が声をかけた時にはもう、刺されていたのか。瀕死だったのか?
これはかなりまずい状況ではないか。
立ち去る前に、周囲を見渡す。目撃者はいない。遺留品がのこってないか。
コインが転がっているのをみつけた。とりあえず拾っておく。あとは、ゴミと小石だけだ。
厄介ごとはごめんだよ。そそくさと、その場から離れる。
亀井戸あたりで、尾けられている気がした。
よく巡査に「こんな時間に何をしとるのかね」と誰何され「靴の裏を見せろ」とか言われるのは何度か経験しているが、今日は勘弁だ。手と服にはまだ血がついている。
巡査ならまだしも。さっきの暴漢の仲間だったら最悪この上ない。
日頃から散歩しているので、ひと気のとくに少ない、隠れやすい場所なら、いくつか覚えがないこともない。
路地に入り、ちょっと奥まった建物の影にそっと身を潜め、息を殺した。
追跡者は、ひとりか?いや、何人かいるようだ。
そいつらはしばらく周辺を嗅ぎ回っていた。
音を立てないように気を付けているのがはっきりと感じられる。これは、警察ではない。
こわいよう。泣きそうになってきた。
けど、疲れも出てきて、たぶんほんの一瞬だけど、眠った。
サイレンの音で気づく。近くで、火事でもあったようだ。
腕時計を見る。暗くて見えない。
周囲に気を配る。
そろそろ、大丈夫では、なかろうか。
追跡者の気配も、もう、しない。
見極めがついてから、そっと抜け出した。
なるべく暗い細い路地を選んで、遠回りしながら、下宿へ帰り着く。
時折、灯りの下で時刻を確認したのだが、部屋の時計では3時近くになっていた。
僕の腕時計は、2時間40分ほど遅れていた。出かけるときは正確に合っていたのをはっきり確認しているので、きっと、乱闘のときに動いてしまったのだろう。
ポケットから、拾ってきたコインを取り出す。
10銭硬貨だと思ってたけど、違った。大きさはそのくらいなのだけど、これはなんと、3枚の磁石だったのだ。
しかも、見たことのないほど強い磁力で、ぴったりくっついており、力を入れないと引き離せない。
不思議だなあと思いつつ抽斗に入れておく。
手と服を念入りに洗い、寝た。怖いのでしばらく散歩は控えよう。
朝はギリギリまで起きれず、役所まで全力疾走した。
僕はいつも、昼休み、机に突っ伏して30分の仮眠をとる。
仕事から帰って食事をすませたら、部屋ですぐ2時間ほど眠る。
それからは散歩したり本を読んだり漫画を描いたり好きなことを存分に楽しんで、明け方にまたちょっと、寝る。
下宿では僕がいつ出かけて戻ろうが、すでに慣れていて気にもされない。こんな三分割睡眠法が、僕の元気の源だった。
そのリズムが、この日から、狂ってしまった。
帰宅したとき、部屋の鍵はかかっていた。
朝締めて出たから当然だ。そして、飛び散らかった布団や寝間着も、朝のままだった。
窓にも鍵がかかっており、そこに吊しておいた、血を洗った外出着も、そのままだ。
にもかかわらず。
机の抽斗に入れておいた、磁石だけが、消えていたのである。
夢ではない。もともと記憶力には自信があるし、ふしぎな磁石だなあと矯めつ眇めつしてから、蔵ったのだ。
誰かに侵入された?
では、あのあと下宿まで追跡されてしまっていたのか?
大家さんに念のため聞いてみたが、日中、来客もなければ、物音も特にしなかったとのこと。
この部屋にいるのも怖いが、外出してるうちに、なにかを仕掛けられるのはもっと怖い。
出かけて拉致される危険を考えたら、ここだったら大家さんが証言してくれる。あるいは警察を呼びに行ってくれる。最悪でも巻き添えになってくれる。犯人たちにとっても、障害になるだろう。
その夜は、窓や扉に罠をしかけ、本でも鉛筆でも、ちょっとでも動かせば僕にはわかるようにしておいた。
怖かったけど、疲れきっていたので普段より長く眠った。
翌朝、普段どおり出勤し、普段どおり昼寝して、帰宅。
すべての仕掛けを確認したが、異常はなかった。
磁石も、やはりどこからも、出てこなかった。
翌日も、その翌日も、同じようにした。
緊張感がもたない。飽きてきた頃だった。
彼が現れたのは、土曜日の午後。
帰宅して、ほどなく、お客様ですよと、大家さんから呼ばれた。
すらりとした、背の低い少年だった。
日本人と西洋人の混血かな?という印象を第一に感じた。
確実に初対面だし、例の暴漢とコインに関わる人物だとしか考えられなかった。
伝令かな。親玉のところまで、連れていかれるのかな。
「部屋へ上がらせてもらえますか。お嫌なら、外でも構いませんが……」
ちがった。なんのつもりだろう。その前に確認だ。
……磁石を持っていったのは、貴様か?
「ええそうです。だから勝手は知ってます。あとはサノさん、あなた次第」
そこまで言われたら観念するほかない。
部屋に入れたとたん、いきなり早口でまくしたてられた。
「この配列ですよ。一番左がカエサルで、西遊記、八犬伝、巌窟王。ヴェルヌ、ウエルズ、ガーンズバック。これ、オリジナルの書かれた年代順に並べてあるんでしょう?気付いたときは背筋に電流が走りました。それに続けてここ十年ほどの冒険探偵怪奇小説がびっしり。栞代わりのメモがいっぱい挟んであって、ほらほらこれなんかどれだけ読み返したのかと思うくらい手垢がついてる。最高ですよこの本棚。もう、これはまるで、初めて元素周期表に出会ったときのような気に……」
褒められてるのか?同時に心の中をまさぐられてるような気にもなった。
いたたまれず、急に恥ずかしくなる。顔が赤らみ、手と足が震えだした。
「……その反応は、転生者でもないようですね。ますますうれしい。僕の名はコダマ。磁石を持っていったのはすみませんでした。あれは我が社にとってきわめて重要なもので。あれだけは即刻、工場へ戻さなくてはならなかったものだから……」
???会社勤めしているのか、君は???
「それよりサノさん、あなたはすばらしい。あの夜からずっと監視させてもらっていたのだけれど、お仕事にはまったく興味なさそうなのに自分の生き甲斐はしっかり持っていて譲らない。徹底した自己管理能力を備え、武術の心得もあり、スパイが求められるすべての要素を身につけている。私と一緒に働いてくれませんか?」
……?!?!?!!?
「私の世界ではあなたのような生き方をオタと呼ぶ。それはそれはすばらしいものだ。サノさんに充実した人生をお約束します。仕事でもプライベートでもお近づきになりたい。実は友達が欲しかったんです。友達になってください。本音はそれです」
思考が追いつかない。スパイ?君はスパイなのか?え、僕もスパイにならないかって?いや探偵小説はいっぱい読んでいるがそれだけでスパイになれるわけじゃないと思うんだけどあとなんだったかお友達がなんとか?ああわからん。早口すぎてまったくついていけないんだがとりあえず私を抹殺しにきたのではなさそうだということだけはなんとなく伝わった。変で不思議な人だけどあれ名前なんてったっけ。
外が薄暗くなるまで、いろいろ説明された。
最初の紳士は産業スパイで。
二人の暴漢は、追跡の過程で会社に雇われた殺し屋で。
あの夜のサイレンは、死体を焼死に見せかけるための放火事件で。
磁石の正体はネオジムという、いまの時代には存在しないはずの工業品で。
時計が狂ったのもそのせいだ、とか聞いたはずだけど。
それから。
未来の話も。