最初に目に飛び込んできたのは奇妙、としか表現しようのない無数のオブジェだった。
十にも、二十にも折り重なり、折れ曲がったそれは何なのか。脳では理解していても、それを受け入れることは、彼らにはどうしてもできなかった。信じたくなかった。
――血の涙を流しながら、もはや枯れ果てた叫びをあげながら、禍々しく槍を振るう彼の憤怒も。
――たった一枚の羊皮紙を片手に、力なく四肢を冷たい石壁へと投げ出した彼の空虚も。
――ただひとつ、報復だけを望み、黒い背中を追い続けた彼の憎悪も。
――心を押し殺し、思考をも殺し、それでもゆっくりと火を放った彼の心も。
ベルフラウは泣いた。
声をあげるどころか、表情を変化させることすらできず、ただ小さく口を開けたまま、その見開いた両の瞳から尽きることのない涙を流していた。
レックスは嘆いた。
何故、彼はこんな生を歩まなければいけなかったのか。無茶なことだとわかっていても、自分はどうして彼を救える場所にいなかったのかと悔いた。
カイルは怒った。
国というものに腹が立った。世界というものを殴りたくなった。運命というものを彼は信じていなかったが、そんなものがあるなら跡形もなく叩き壊したかった。
ソノラたち、カイル一家の者もそれは等しく持ちえた想いだったのだろう。表情は違えど、その裏に秘めた憤りは誰の目にもあきらかだった。
――そして、悪魔が現れた。
悪魔は笑う。悪魔は哂う。悪魔は嘲う。
その悪魔は本当に楽しそうで、本当に嬉しそうだった。そう――本当に嬉しそうに笑いながら――。
――イオスを殺した。
「ふざけんなーーっ!!」
我慢の限界を超えたカイルの拳が、悪魔――メルギトスの嘲笑を映し出す水晶を粉々に叩き潰した。だが誰一人として、それを咎める者などいなかった。その水晶玉の持ち主であるメイメイさえも、仕方ないか、といった表情でため息をついている。
皆がしんと静まっている中、一番に声を張り上げたのはやはりカイルだった。
「おい、メイメイ! あの胸糞悪い悪魔野郎はどこにいる!! あいつだけは一発殴るだけじゃ気がすまねぇ! マジでぶっ殺してやる!」
「あーもう、落ち着きなさい! こーなるのはわかってたから見せたくなかったのに……どーすんのよ、イオス!」
「すまん。だが、これ以上正しく僕自身を伝えられる方法もなかった。それで……信じてもらえたか、アズリア?」
メイメイの矛先を向けられたイオスは、そう言ってレックスの隣に立つアズリアへと言葉をかけた。
イオスの言葉が指すのは、帝国がイオスを切り捨てたこと、という事実に対しての証明。皆が注目する中、視線を落としたままのアズリアは蚊のなくような声音で口を開いた。
「……して……」
「……」
「どうして……何故、貴公は我々を、帝国を恨まないのだ……? 貴公の地獄のすべての始まりは……祖国に裏切られたことだろう。何故……」
「何故、か。そう問いかけてくるということは、僕の言は信じてもらえたんだな」
「……信じる。本当に、すまなかった。我が国は、貴公を見殺しにしたに等しい」
アズリアは我が事のように沈痛な表情を湛え、両手、両膝を床へと付け、深々と頭を下げる。声を荒げていたカイルも、彼女の隣にいたレックスも、あのアズリアがこのような行動に出るとは思わなかったのか、固まったように動けなかった。
(……そっか、アズリアだからか)
それでも思考が停止したのは一瞬で、彼女の性格を良く知るレックスはすぐにアズリアの気持ちが理解できた。
ただ家名を継ぐために軍属になったわけではない。父が、祖父が、代々守ってきたこの国を、民を守りたかったから。そんな誇り高い軍人になりたかったから。そうアズリアが語って見せたことを、レックスは思い出した。
(守りたかった国、信じていた国に捨てられた人が目の前にいるんだ。国に仕えることを誇りに思っているアズリアには、自分がやってしまった罪のように感じるんだろうな)
だから彼女は、せめて頭を下げた。身ひとつの彼女にはそれしかできることはない。だから、精一杯の誠意を伝えようとしているのだ。
『ごめんなさい』と。
イオスからはアズリアの表情は確認できないだろうが、その想いは間違いなく伝わっているとレックスは思う。
レックスはふっと頬を緩めると、いまだ姿勢を崩さないアズリアの隣に腰を下ろし、同じように両手を床についた。
「レックス!? なにを……」
「俺からも謝る。帝国がイオスにやったことは絶対に許されることじゃない。イオスも許せるものじゃないと思う」
「退役したお前が謝罪しても何にもならん! 私は誇り高き帝国軍人として……」
「それでも!」
上体を起こしたアズリアと入れ替わるように、レックスは額が床に付かんばかりに頭を下げた。そして、アズリアの言葉を遮り叩き付けるように言葉を続けた。
「俺はアズリアを本当にすばらしい人だと思ってる! だから、帝国を捨てたとしても、アズリアのことまで嫌いにならないで欲しい!」
「レックス……」
「俺はアズリアにもイオスにもカイルたちにも争ってなんか欲しくない! だから……」
「あー、ちょっと待ってくれないか、レックス」
頭上よりかけられた声に、レックスは顔を上げるが、そこには彼の予想とは違い、イオスはばつの悪そうな顔で頬をかいて立っていた。そして何か言葉を捜すように視線を浮かしながら口を開く。
「とりあえず、全く気にしていないといえば嘘になるが、僕はもう帝国を恨んでもいないし、復讐しようとも思っていない。もちろん、君の言うとおりアズリアを嫌うこともないし、争いたくないと思っている。そこは安心してくれ」
「……そうか、よかった」
「うむ。それで……とりあえず、ふたりとも楽にしてくれないか? ふたり並んで目の前で正座されるというのは……」
そこまで言ってイオスは困ったように腕を組む。イオスの不可解な態度にレックスとアズリアのふたりは首を傾げるばかりだ。やがて、そんな三人の構図がおかしくて我慢できなくなったのか、スカーレルが口元を押さえ、笑いを堪えながら爆弾を投下した。
「センセってば、そうしてるとまるで隊長さんをお嫁にくださいってお願いしてるみたいよ」
「へ……ええっ!?」
「ああ、確かに」
「すばらしい人、とか言ってたしね。きゃー! 先生ダイタン♪」
「嫁……っ、レックス!!」
「ええっ!? 俺のせい!?」
「きっぱりとお前のせいだ!」
つい先程までの重たい雰囲気はどこへやら。わりと広いメイメイの店を所狭しと逃げ回るレックスに、追いかけるアズリア。
イオスの意図とは違ったが、これならアズリアも変に責任を感じたりすることもないだろうと思い、イオスは内心胸をなでおろした。そんな彼の傍らに、いつの間にか小さく袖引く少女の姿があった。
「どうした、ベルフラウ?」
「……何故、笑っていられるのですか? あんなに、あんなにつらい日々があってどうして……」
本当に心配そうな表情で、泣きはらした目のままそう問いかけてくるベルフラウに、イオスは自分でも柔らかく、自然に微笑みを返せたと思った。それがやはりくすぐったくも嬉しくて、イオスは思わずベルフラウの金髪へと手を伸ばし撫で付けた。そうしながら、万感の想いを込めて呟く。
「君のおかげだ」
「えっ……?」
「本当に、君のおかげなんだよ」
心底、わからないという表情になるベルフラウのあどけない姿に、イオスは目を細める。
自分のために、喜び、怒り、泣いてくれる人がいる。それはずっと孤独だった彼にとって、どんな良薬にも勝る最高の癒し。イオスは名残惜しげにベルフラウの髪を最後に撫で付けると、いまだ痴話喧嘩をしているふたりへと近づいていった。
*****
「……なあ、レックス」
「ん?」
辺りはそろそろ日が海平線に隠れ、オレンジ色の遮光が木々の陰を伸ばしきる夕暮れ時。
イオスの不透明な出自を各々に消化した者たちは、明日、集いの泉に集まることを約束し、解散となった。一応、捕虜の身分であるアズリアは、こうしてレックスにラトリクスへと連行されている。手錠どころか、縄一本でさえ彼女にはかけられていなかったが、レックスは良く知るこの女性が逃亡する可能性など皆無だと、ただふたり並ぶように森を歩く。
「あの男、イオスのことだが……あの記録をどう思う?」
道すがらそう問いかけられたレックスは、いやなものを思い出したように顔をしかめ、それでも真摯な声音でそれに答える。
「疑問はいくつかあるけど、すべて実際にあったことだと思う。アズリアだって、あれに嘘があったとは思えないだろ?」
「ああ、少なくとも虚言はないだろう。私が聞きたいのはその疑問だ。おそらく、私も海賊たちも、お前と同じ疑問を持っている」
お互い顔をあわせることなく、ただ歩を進めながらの会話は続く。気持ち遅めの歩調のまま、レックスは言葉を返す。
「……なんでイオスは『生きて』るんだろうな……」
「そうだ。あの記録で最後に見たのは、間違いなく『死んだ』あの男と高笑いする悪魔で終わっていた。記録していたのがあの占い師だとしても、どうしてやつは生きて、何故この島にいる?」
「そうなんだよなぁ。九死に一生を得たのだとしても、イオスはなんでこの島にいるんだろう。あんな経験をしたイオスが、何の意味もなくこんなところにいるはずがないんだ」
なら目的は何なのか。自分たちがこの島を訪れたのは事故。アズリアがいうにはイオスは突如、何もない空間から現れたのだという。戸惑ったそぶりも見せなかったことから、事故ということはないらしく、喚起の門の誤作動という線も消えた。
イオスがこの島に来た意義を推測するのは無理と判断したレックスは、それならばと別の方向から彼の目的を考えることにした。
「俺たちはイオスの過去を垣間見たわけだけど、あんなことになったらアズリアはどうする?」
「無論、あのメルギトスとかいう外道を討つ。忠誠を誓った国が悪魔に操られ、その実滅んでいたなどこれ以上ない屈辱だ」
「でも、あの悪魔は強かった。イオスでも全く歯が立たないくらいに」
「ならば自身を鍛え、強き力を求め……なるほど、そういうことか」
「うん、きっとイオスは何らかの力を求めてこの島にきたんだと思う。この島にある力っていえば……」
「魔剣か!」
アズリアは思いついたように声を上げるが、それとは対照的にレックスは口元に手をやって数秒考え込んだ後、やんわりとその考えを否定した。
「その考えはちょっと短絡的かもしれない。それにイオスは魔剣のこと自体は、この島にきてから知ったようだし、執着している様子もない」
「……確かにやつの行動は魔剣を得る方向には向いていないな」
「これは俺の勝手な考えだけど、イオスは強さを求めていても、単純な力は求めているわけではないと思う。アズリアもなんとなくわかるんじゃないか?」
「何故、そう思う?」
足を止め、逆に問い返されたレックスは、強い西日を受けながらも輝きを失わない強い意志を湛えた彼女の双眸に、『ああ、やっぱり』と、レックスは自身の考えの正しさを認めた。
「似てるんだよ」
「え……」
「アズリアとイオス。帝国がイオスを切り捨てたと知ったときのアズリアと、死人のようなに生きていたあの記録のイオス。こうして強い意志の光を湛えるアズリアの綺麗な瞳と、俺がこの島で出会った活力に満ちたイオスの不屈の瞳。本当にそっくりだ」
「な……」
物語るようにそう述べたレックスの言葉に、アズリアは絶句するしかなかった。
どう反応してよいのかわからず右往左往しているそんなアズリアを見て、レックスはまるで学生時代みたいだと思い返しながら言葉を続けた。
「だから、アズリアはイオスの気持ちがわかるんじゃないかなって。俺、ふたりのこと好きだからさ。わかりあってくれると嬉しい」
「な、な、何を言っている! お前の言うことは無茶苦茶だ!」
「そうかな?」
「そうだとも!」
「……」
「……」
ぷいと顔を戻したアズリアは、無言のままずんずんと進んでいくが、それが怒りによるものではないことは誰の目にも明らかだった。この島に来て忘れかけていた、友人の懐かしい一面を確認できたのが嬉しかったのか、レックスは本当に楽しそうに脚を動かし、その小さな背中を追い駆けた。
「アズリア早いって。もうちょっとゆっくり……」
「とろとろするな! 大体お前は昔から……」
西日の差す森の中を、ふたつの影法師がどこか楽しげに進んでいく。今だけだとしても、こうしてただの友人に戻って談笑できることにレックスは心の底から喜んだ。
あとがき
……。……。……本当に申し訳ありませんでした。
二ヶ月。そう二ヶ月もです。二ヶ月も未更新で、音沙汰のなかった青箒です。
スランプなどという上等なものではありませんが、書いても書いても納得がいかず……立て込んでいたこともあって更新できませんでした。
改めまして、本当にお待たせして申し訳ありません。
もはや初期とは物語の視点から場面まで、全く原形をとどめておりません(本当は場面をかえず、病室のまま話を続けるつもりでした)。ですが、それだと全く話が思うように進まなかった(主にアズリアが思い通りに動いてくれない)ので、思い切って場面を変えてみた次第です。
我ながら強引な場面転換だなと思いながらも、なんとか皆様にお披露目できる形には仕上がったかなと。……錯覚ですね。
本当に今回は更新頻度、内容ともにお叱りを受ける覚悟はできております。
本来、習作のような形でよそ様のHPに作品を投稿するなど失礼千万ですが、お叱り、ご意見を糧に頑張る意志だけは持ちえておりますので、どうかお許しください。
最後になりましたが、こんな私を待っていてくださった皆様に感謝の気持ちを述べたいと思います。
本当にありがとうございました。