—小林氷咲side—
小鳥の囀りが聞こえて、ゆっくりと目を開けた。
布団に包まったまま、辺りを眺めた。
閉められているカーテンが、朝日を受けて淡く光っていた。
夢うつつから、次第に意識が覚醒していく。
習慣とは、どうしようもなく煩わしいものだ。
内心は、さながら蝸牛のように布団に隠れていたかった。
しかし眠ろうとしても、習慣を原則としてきた目は閉じようとはしなかった。
致し方ないと、徐に身体を起こした。
窓際に近づいて、カーテンを開けた。
身体全体に日光が当たり、眩しさに目を細めた。
普段はその爽快さを感じながらのびでもするのだが、そんな気持ちではなかった。
寝苦しい一夜が明けても、答えや結論が出る事はなかったのであった。
自問自答を繰り返した。
神々しさ溢れる彼女の隣に、愚かなる己は立っても良いのであろうか。
そんな疑問が、心の奥深くでうごめいていたのだ。
物を置き過ぎるのは、好きではなかった。従って内装は簡素である。必要最低限の物があればそれで良かった。
窓際に置かれた鉢植えに、日光が注がれていた。
サボテンの棘が、やたらに痛々しく見えた。
けだるい身体に鞭打って、身嗜みを整えた。
土曜日の休日である。
しかし、どこかに赴く目的がある訳ではなかった。
これも長年の習慣であると言えよう。
こなさなければ、気持ちが悪くなってしまうのだ。
ふと気づくと、テーブル前の座布団にあぐらをかいていた。
呆けた状態で、テレビを見つめ続けていたようだ。
壁に掛けられた時計が、正午を少しだけ過ぎたのだと伝えていた。
苦笑した。
どれだけテレビを見れば気が済むのだろうか。
見ていたはずの映像は、記憶に微塵も残ってはいなかった。
終始、色々な記憶が呼び起こされていたからだろう。
エヴァンジェリンさん。茶々丸さん。エヴァンジェリンさん。茶々丸さん。
その度に胸が痛んだ。
まるで、キリキリと万力で締め付けられているような痛みであった。
しかし、堪え難き苦痛には思えなかった。
そんな日常に、慣れてきてしまったのだろうか。
もしくは結果はどうであれ、昨日の茶々丸さんとの会話が、罪悪感を揉みほぐしてくれたのかも知れなかった。
困ったものであると言えた。
心痛を罰として受け入れようと決意していた。
それなのに、これでは罰となりえないではないか。
定まらぬ頭を抱えて、悶々と時間だけが過ぎていく。
そして、一つだけ気づいた。
答えや結論の類いではない。
だがしかし、こんな現状を憂いているだけでは、前にも進めないだろうし何も変わらないと思えたのだ。
けだるい身体を叱咤して、足早に部屋を出た。
寮から学園都市へと歩く間、至る場所に春を見つけた。
涼しい風に触れて、植物の生命の息吹を感じた。
当てなどなかったが、ただ歩き続けた。
思考が、徐々に収束していくのを感じた。
このまま塞ぎ込み、自暴自棄になるだけで、良いのだろうか。
これには結論が出た。
否である。
ならば俺は、何のために、何を為すべきなのだろうか。
エヴァンジェリンさんのただならぬ想いに報いるためには。
茶々丸さんを想い続ける資格や度胸を得るためには。
ある場所に着いた。
茜色に染められた空の真下、河川敷だった。
人影はなく、水面に数羽の鳥が浮かんでいた。
遠めに、壮大なる橋を確認した。
一件の元凶。
停電の夜の橋だった。
それを眺めながら、感慨深く頷いた。
憎々しい気持ちには、ならなかった。
溢れ出ているであろうマイナスイオンが、作用しているのだろうか。
傾斜がかった草むらに腰を落とした。
まさに、センチメンタルと言えた。
自嘲ぎみに苦笑がこぼれた。
その時だった。
背後から聞き覚えのある声が響いてきたのだ。
「ヒサキさん、こんにちは」
顔だけ向けて確認した。
それはネギくんであった。
いつもの子供用のスーツではなく、休日だからだろう。ラフな格好をしていた。
満面の笑みで、こちらを見つめていた。
ふと、停電の夜の記憶が思い起こされた。
ネギくんが、女子中等部の担任の教師なのだと聞いた時は、素直に驚いた。
神楽坂さんは教え子であると発覚した時は、愕然とした。
内心、疑問が浮かばざるを得なかった。
その幼さで教員免許を取得するのは不可能ではないのか。
というか、列記とした違法ではないのか。
しかし、直ぐに頷けた。
あの学園長が、決断したのだろう事は明白であったからだ。
さながら、菩薩様の如き素晴らしきご老体である。
止むに止まれぬ事情があったのだろうと窺い知れた。
深くは聞かなかった。
気にはなったが、言いたくはない事柄の可能性もあるからである。
感嘆の息を漏らしながらも、心に決めていた。
まだ幼さの残るネギくんが教師として頑張っている。
それならば、自らも負けぬように勉学に励まなければならないのだ。
素直に思えた。
微力ながら、年長者として出来うる限りで応援しよう。
目前に、歳相応の無邪気な笑みが在った。
それは穢れなく、どこか暖かいものを感じた。
「こんにちは。
河川敷まで用事でも?」
「いえ、散歩を兼ねた見回り中です」
ネギくんが隣の草むらに腰掛けた。
心からの声が出た。
「そうか。
休日なのにね。
まさに教師として素晴らしき行いじゃないか」
「い、いえ、当然の事をしているだけですから」
ネギくんが、照れ隠しするように笑った。
感嘆の息を漏らした。
真面目であり、なんと好感の持てる少年なのだ。
ネギくんくらいの歳の頃には、俺は泣き虫であった。
肩口に座る死神に怯え、迫りくる不運に恐怖していた。
それなのに、目前の少年は教師をしているのだ。
辛い事などもあるだろうし、本当は学校に通わなければならない歳だと言うのに。
事情はわからないが、その教師としての姿勢に純粋に感動していた。
ふと、肩口を見遣った。
当然の如く、小さな死神は腰掛け笑みを浮かべていた。
俺も慣れたものであると、苦笑を隠せなかった。
ネギくんが言った。
「ヒサキさん、どうかしたんですか?」
「え?」
反射的に声が飛び出した。
次のネギくん悲愴を漂わした声が、罪悪感に苛んでいた心を震わせた。
「なにか、背中が悲しそうだったので……」
その言葉に、自然に口が空いていくのを感じた。
辺りを沈黙が支配していた。
ネギくんの表情が曇った。
変な事を言ったとでも思ったのだろう。ばつが悪そうに、こちらを見つめていた。
この表情が指すのは一つの感情からだろう。
それはただならぬ心配という感情。
脳裏に、色々な優しき記憶が再生された。
エヴァンジェリンさんは守ろうとしてくれた上に、優しいと言ってくれた。
茶々丸さんは、優しく寄り添ってくれた。
ネギくんは、現状、心配から不安そうにしてくれていた。
涼しい風が、水面を揺らした。
茜差す河川敷を、数羽の鳥が羽ばたいていく。
それを眺めながら、思えた。
愚かな俺のために、真剣に心配してくれる人達がいる。
自らの都合を度外視して、優しくしてくれる人達がいるのだ。
誤解をさせてしまった少女でさえ、未だに優しいと言ってくれているのだ。
途端に馬鹿らしくなった。
罪の意識を感じて塞ぎ込むなど、それこそが、まさに愚かな事であるのだと。
現状、俺の為すべき事は一つであると言えた。
俺が塞ぎ込む事により、皆を不安にさせる。
それこそが、途方もなく罪深き事だと思えた。
それならば、皆を安心させるように笑おう。
無理矢理でもなんでも良い。
エヴァンジェリンさんに報いるためにも、心から笑おう。
彼女は心優しき女性だ。
情けない俺の姿を見せては、より一層の悲しみを生むだろう。
茶々丸さんの隣に立つためにも笑おう。
辛気臭い奴が、彼女の隣に立ってはならないからだ。
心にはまだ多少の痛みはあるが、不思議にも笑えた。
ネギくんが心配そうにしていたが、目を丸くした。
唐突に笑い出したからだろうと思えた。
「ネギくんありがとう。
きみと、みんなのお陰で、俺はまた笑う事ができそうだ」
「えー!
ぼ、僕は何もしてませんよ!」
慌てる様は、さながら小動物のような愛らしさを孕んでいた。
苦笑してから言った。
「ネギくんは心配してくれたんだろう?」
「は、はい」
「たった、それだけと思うかも知れない。
些細な事だと言えるかも知れない。
だけどそれは、俺が何よりも欲していた想いと言えたんだよ」
それから談笑は続いた。
夕日の真下に、笑い声が響き渡っていた。
ネギくんのような弟がいれば良いのにと感じるほどに、打ち解けられた。
ネギくんが、来日して教師をしている理由には驚きを隠せなかった。
何やらマギステルマギとかになるために修業にきたらしい。
吸血鬼語か何かだと思われるが、理解はできなかった。
質問しようとは思ったが、ネギくんの熱い瞳に水を差すようでとりあえず頷いておいた。
そしてもう一つの目的に驚愕した。
なんと、行方不明になってしまった父親を探すためだというのであった。
吸血鬼の家族の形態に関しては知らないが、それは普通とは言えないだろう。
まだ親に甘えたい年頃だろうに、不安を押し殺して、健気に父親を想う少年。
感慨深くなり、微かに目が滲むのを隠せなかった。
俺も不運ばかりに見舞われてきた。
同類故の感情だろうか。
内心、応援したい気持ちで一杯であった。
自嘲ぎみに笑った。
「俺も昔から命がけの不運にばかり見舞われてきてね」
ネギくんが、静かに頷いた。
「何度、死にかけたかわからない。
頭がパンクするほどに、悩み苦しんだよ。
でも、俺は麻帆良学園に来て変わる事ができた。
ネギくんもそうだし、エヴァンジェリンさんに茶々丸さん、学園長に高畑先生、学友達に助けられてここまで生きてこれた」
心からの言葉が出た。
水の流れる音が、心地好く響いた。
「だからこそ、ネギくん。
支えてくれた人達に報いるためにも、夢だけは捨ててはならないんだ。
きみが父親を探す夢を望むというならば、俺はできうる限りの支援を約束するよ」
ネギくんが、感動したのか強く頷いた。
「は、はい!
ありがとうございます!」
その声は強く、辺りの空気を震わせた。
俺は微笑むと頷いた。
夕日が落ち行こうとしていた。
どんな事情があるにせよと思う。
目前の少年はまだ幼い。
父親が見つかる事を切に祈った。
そして、本当の意味での笑顔が、少年の口許に浮かびますように。
—ネギside—
土曜日の休日。
僕は浮き浮きとした足取りで、散歩を兼ねた見回りをしていました。
学園都市に春が賑わい、好ましい喧騒が響いていました。
来週の火曜日には、今でも待ち遠しくある修学旅行に向かいます。
エヴァンジェリンさんからある事を聞いていたんです。
京都に、ナギが住んでいた家があったはずだと。
これまで、霧に包まれたように掴めなかった手がかり。
その霧が、晴れたかのような印象を受けました。
ですが、それだけを重要視してはいけません。
しっかりと生徒達を引率し、学園長から頼まれた密書も渡さなくてはならないからです。
決意を新に、頷きました。
ふと周囲を見ると、いつの間にか河川敷にまで来ていたようです。
茜色の日差しが暖かく、遠めに大きな橋が見えました。
それは決闘の舞台となった橋でした。
つい先ほどのように、濃密な記憶が思い返されました。
停電の夜の事です。
僕達は協力して、苦しみながらも勝利を手にしました。
絶対的とまで思えた、強者のエヴァンジェリンさんに、辛くも勝利したんです。
はっきりと言ってしまえば、僕はほぼ何もしていません。
重要な大部分は、ヒサキさんがしてくれたからです。
あの時は無我夢中でした。
どこかで見守ってくれているヒサキさんに笑われないように、全身全霊をかけて戦いました。
魔力比べの勝負が始まった時、何度も諦めそうになりました。
ですが僕は諦めませんでした。
僕のために協力してくれた、優しき人達の顔が力をくれたんです。
その度に奮い立ち、魔力を込め続けました。
そして、それからの事態の急速な推移には、困惑しました。
突如閃光と共に爆風が起きて、気づいた時には吹き飛ばされていたんです。
困惑しましたが、事態を確認しました。
エヴァンジェリンさんが湖へと落下していくのを、視界に捉えました。
どうやったかはわかりませんが、ヒサキさんが倒してくれていたように思えました。
その思考を一旦途切り、無我夢中で落下するエヴァンジェリンさんに手を伸ばしました。
その腕を掴んだ時、僕は新な尊敬の念を抱きました。
なんと、ヒサキさんも腕を掴んでいたのです。
本当に優しい人です。
僕のために戦ってくれて、敵だった僕の生徒まで救ってくれて。
情けなくも魔力が安定せず、僕までもヒサキさんに助けられてしまいました。
抱かれながら思いました。
それは抱擁感とでも言うのでしょうか。
優しさが漂う胸元は暖かく、まるで僕が目指す偉大なる魔法使いのようでした。
記憶の中のお父さんと、ヒサキさんが繋がったように思えました。
その後、突然、涙をこぼした理由はわかりません。
ですが、それはとても尊いものに思えました。
善意に礼を求めない姿勢、その余りの格好よさに憧れてしまいました。
思い出し笑いをしていると、傾斜がかった草むらに人影を発見しました。
一般人のように思えましたが、それはヒサキさんでした。
あの夜の服装とは違い、黒色のパーカーにジーンズという簡素な服装が似合っていました。
夕日差す河川敷に佇む、一人の青年。
なんて格好良いんだろう。
さながら絵画のような情景に見惚れました。
近づいていくと、ある事に気づきました。
微かに。
本当に微かにですが、何となく感じ取れたんです。
大きな背中から、どこか悲しみが漂っているように思えたんです。
どうしたんだろうと、心配になりました。
何か傷つく事があったのかも知れない。
僕に何ができるかと問われても答えられませんが、笑顔で話しかけました。
「ヒサキさん、こんにちは」
ヒサキさんが、こちらに顔だけを向けました。
ふいに微笑みました。
ですが、その笑みにはどこか儚さが孕んでいました。
「こんにちは。
河川敷まで用事でも?」
その声音にも、どこか儚さを感じました。
僕はどうしたら良いかわからなくて、反射的に答えました。
「いえ、散歩を兼ねた見回り中です」
どうしてかはわかりません。
ですが、話してみてわかりました。
ヒサキさんは落ち込んでいるようです。
僕なんかが何かしたら、迷惑かもと危惧しました。
ですが、放ってなどいられません。
ヒサキさんには、ただならぬ恩義を感じています。
それだけではなく、尊敬や憧れといった感情も抱いているんです。
役に立ちたいと強く思いました。
とりあえず、傍らの草むらに腰掛けました。
落ち込んでいる時に、一人は寂しいでしょうから。
「そうか。
休日なのにね。
まさに教師として素晴らしき行いじゃないか」
「い、いえ、当然の事をしているだけですから」
突然、誉められて、嬉しくなりました。
尊敬する人に誉められて、喜ばない人はいないでしょう。
ですが、ヒサキさんの所作に居ても立ってもいられない心境になりました。
顔の表情を押し隠すように、反らしたんです。
それは悲しみを伴っていました。
僕なんかが力になれるとは思っていません。
微力な事は重々承知しています。
ですが、意を決して言いました。
「ヒサキさん、どうかしたんですか?」
「え?」
ヒサキさんが、反射的に声を上げました。
その響きに、僕まで悲しくなってきてしまいました。
「なにか、背中が悲しそうだったので……」
ヒサキさんの口が静かに空いていきました。
辺りを沈黙が支配しました。
言ってはいけない事を言ってしまったのでしょうか。
ヒサキさんの傷口を、えぐるような事を言ってしまったのでしょうか。
申し訳ない気持ちが、表情に表れました。
どれほどの沈黙が続いたでしょうか。
押し黙っていると、涼しい風が水面を揺らしました。
茜差す河川敷を、数羽の鳥が羽ばたいていきました。
ヒサキさんがそれを見つめて、唐突にも微笑みました。
僕は目を丸くしました。
その微笑みには、悲しみを感じなかったからです。
「ネギくんありがとう。
きみと、みんなのお陰で、俺はまた笑う事ができそうだ」
「えー!
ぼ、僕は何もしてませんよ!」
咄嗟に反論してしまいました。
当然です。
僕は、何もしてはいないのですから。
ですが、ヒサキさんが優しげな微笑みを浮かべて言いました。
「ネギくんは心配してくれたんだろう?」
「は、はい」
「たった、それだけと思うかも知れない。
些細な事だと言えるかも知れない。
だけどそれは、俺が何よりも欲していた想いと言えたんだよ」
僕には、良く理解できませんでした。
これが大人と呼ばれる方達の思考なのでしょうか。
ですが、独りでに笑みが浮かびました。
僕やみんなの、言葉や想いが、ヒサキさんに自然な笑みを形作らせた。
そうならば、それは途方もなく嬉しい事でした。
それから楽しい談笑は続きました。
夕闇迫る河川敷に、笑い声が木霊していました。
ヒサキさんのような兄がいれば良いのにと、感じるほどに打ち解けられました。
来日した目的を話すと、驚いていました。
偉大なる魔法使いになるために修業しにきたというと、ヒサキさんは応援するように頷いてくれました。
それが嬉しくて、お父さんについても話しました。
どうしてでしょうか。
ヒサキさんの表情が一転したのです。
その表情は悲壮めいていて、笑うと言いました。
「俺も昔から命がけの不運にばかり見舞われてきてね」
内心驚きながらも、静かに頷きました。
ヒサキさんは、幼い頃から命がけの不運に見舞われてきたようです。
僕と同じだと思いました。
僕も幼い頃に、悪夢のような事態に遭遇していましたから。
「何度、死にかけたかわからない。
頭がパンクするほどに、悩み苦しんだよ。
でも、俺は麻帆良学園に来て変わる事ができた。
ネギくんもそうだし、エヴァンジェリンさんに茶々丸さん、学園長に高畑先生、学友達に助けられてここまで生きてこれた」
何度も死にかけた。
その壮絶な生い立ちには、愕然としました。
僕も悪魔襲来の時、一度九死に一生を得ています。
ですが、ヒサキさんは幾度となく九死に一生を経験してきたと言うのです。
その事実に、さながら暴風を受けたかのように心が揺らされました。
鮮明に思いました。
だからこそ、ヒサキさんは強いんだ。
幼い頃から、その窮地を自らの手で解決してきたのでしょう。
いつも助けられてばかりの僕とは違う。
ヒサキさんがこうも言っていました。
俺は麻帆良学園に来て変わったのだと。
みんなの助けがあってこれまで生きてこれたのだと。
裏を返せば、麻帆良学園に来るまでは誰も助けてはくれなかったのでしょう。
脳裏に幼いヒサキさんが、必死に生き抜こうとする映像が流れました。
それは壮絶なまでの過去でした。
僕には到底、生き残れないであろう過去。
その言葉の一つ一つが、身体に浸透していくようでした。
川の流れる音が、鼓膜を震わせました。
ヒサキさんが微笑みました。
それは心からの笑みのようでした。
「だからこそ、ネギくん。
支えてくれた人達に報いるためにも、夢だけは捨ててはならないんだ。
きみが父親を探す夢を望むというならば、俺はできうる限りの支援を約束するよ」
その言葉に、唖然としました。
壮絶な過去に相対すれば、普通の人の心は壊れてしまうでしょう。
ですが、壮絶な過去を持ってしても、ヒサキさんの善意を汚す事はできなかったんです。
なんて、強い人なんだ。
感動が、身体を覆い込んでいるような感覚がしました。
支えてくれた人達に報いるためにも夢は捨ててはならない。
脳裏にこれまでの親切な人達の笑みが浮かびました。
きみの夢を支援すると約束しよう。
ヒサキさんの微笑みは暖かく、本当にお兄さんのように思えました。
心に刻むように、強く頷きました。
「は、はい!
ありがとうございます!」
夕日が落ち行こうとしていました。
夕闇がすぐ側まで、やってきていました。
ヒサキさんが冗談でしょう。
門限は守らないとねと言って帰って行きました。
面白い人でもあるんだなぁ。
素直に格好良かったです。
送ろうかという言葉には、後ろ髪ひかれましたが、丁寧に断りました。
早く大人に、ヒサキさんのような強い魔法使いになりたかったからです。
春の風を受けながら、家路に急ぎました。
一つだけ疑問がありました。
途中の事でした。
修学旅行は京都で、お父さんの手がかりがあるかも知れないと話しました。
するとヒサキさんの表情が一転して、真顔で言ったんです。
その言葉が深く印象に残っていました。
「京都か……ネギくん、気をつけるんだよ」
—先日の幼女吸血鬼さん—
居間で悶々と唸っていた。
ソファーに寝そべり、変な妄想をしては転がった。
何回かそのまま床に落ちてしまったが、茶々丸には内緒にしよう。
猫の餌やりで留守だったのが救いと言えた。
窓の外に、紫がかった空が展開していた。
学園から足早に帰ってきたと言うのにも関わらず、時間が経つのは早過ぎる。
学園になど行っている場合ではないのだが、忌ま忌ましき登校地獄には逆らえなかった。
ソファーに飽き、テーブルの前の椅子に腰掛けた。
茶々丸が、かいがいしくも用意していった紅茶を、ティーカップに注いだ。
それを口許に傾けて、甘さの中にある程よい苦味を堪能した。
テーブルに頬杖をつくと、溜め息を漏らした。
それにしても、ヒサキの奴には困ったものだ。
あいつのせいで、何かに集中する事もできないし、まさに上の空と言えたからだ。
昨夜から悩んではみた。
みたものの、恋愛感情云々に関しての結論は浮かばなかった。
あいつの心境を察するに、早く答えを出してやらねばならないのだが。
だがしかし、一つだけ理解できた。
ふと、小林氷咲という馬鹿者の事を考える。
それだけで、まるで病にでもうなされたかと勘違いするほどに身体が熱くなるのだ。
なんなんだ、これは。
これは、もしや、そういう事、なのだろうか。
だが、こういう結論に至ると必ずと言って頭を悩ますのだ。
小林氷咲という愚かなほど優しき男を、こちらの世界に引き込んではならない。
だが次の瞬間には、感情の色が変わる。
後ろ髪ひかれるような感がして、こう思うのだ。
肩を揃えて共に歩みたい。
あいつの、ただならぬ想いを叶えてやりたい。
まさに堂々巡りと言えよう。
顔が熱い。
手で扇ぎ冷ましながら、自然に苦笑がこぼれた。
なんだ。
昨夜から、何も変わってはいないではないか。
それもそうか。
長く長い、六百年という月日を生き抜いてはきた。
だが生き抜くのに必死で、恋愛などというものを、深く考えた事はなかったのだ。
ヒサキめ。
私をここまで悩ませるとは、奴は三国一の色男かなにかか。
笑みを隠せないでいると、茶々丸が帰ってきたのだろう。
玄関口から物音が聞こえてきた。
いかんいかん。
茶々丸の手前だからな。
主らしく、毅然とした姿勢を見せないとならない。
昨夜から上の空ではあったが、私の様子がおかしい事には気づいていないだろう。
颯爽を装って、優雅にティーカップを口許に傾けた。
茶々丸がいつもの抑揚のない表情で、部屋に入ってきた。
紅茶を喉に通しながら、横目だけで挨拶をした。
茶々丸が一礼の後言った。
「ただいま戻りました。お変わりはなかったですか?
それと、氷咲お兄様に会いました」
「ぶほぁ!」
ある一つの言葉に、紅茶を口から吹き出した。
さながら噴水の如く、飴色の液体が四散して絨毯を濡らした。
明かりを反射して、煌めいていた。
「マスター」
「ごほっ!ごほっ!」
茶々丸が寄ってくる。
気管に入った。
激しく咳込みながら、茶々丸の言葉を反芻した。
氷咲、お兄様、だと。
どういう流れでこう……というか、突然過ぎるだろ!
息が苦しいため、心の中で突っ込んだ。
程なくしておさまると、疑問が口をついて飛び出した。
「な、なんなんだ!
ひ、氷咲お兄様とは!」
茶々丸が、どこか不思議そうに言った。
「はい。
氷咲お兄様が、そう呼んでくれと言いましたので」
「や、奴がそう言ったのか?」
「はい」
何が何やらわからん。
困惑した頭を、解すように首を振った。
程なくして、その意図に気づかされた。
突如、身体が焼かれているかと錯覚するほどに熱くなった。
おおよそ、ヒサキはこう考えて言ったのだろう。
例えば、例えばだ。
私とヒサキが、万が一番う事になった場合の話だ。
茶々丸とヒサキの関係は、まあ、義兄弟と言ってもおかしくはない。つまり、義妹と言ってもおかしくはないのだ。
だが、しかしだ!
お、おい、展開が早過ぎるんじゃないか。
ま、まだ答えを返してもいないというのに。
だが、一つだけ考えられた。
ヒサキは愚か者故に、いや私を信じきっている故にだ。
可否を問うならば、私の口から可しか出てこないと思い込んでいるのではないだろうか。
困った奴だが、なんという見通しの早き男だろうか。
私は手前の問題に四苦八苦していると言うのに、ヒサキは何手も先を見通しているとは。
逆に男らしく、清々しくさえ思えた。
強く想われているとはわかっていたが、これほどまでとは。
はっきり言って、まんざらでもなかった。
どうすれば、一番良いのだろうか。
身体が熱く、頭は重く、だが心は昂揚としていた。
ふと、茶々丸がこちらを見つめているのに気づいた。
いかん、いかんぞ。
これでは主としての威厳がなくなってしまうだろう。
夕飯時に呼んでくれと言付けて、足早に私の部屋に向かった。
部屋は薄暗かったが、心地好かった。
ベッドに寝そべり、布団に包まった。
独りでに、口許に笑みが浮かんでいくのを感じた。