電脳症は不治の病であるということを私が知ったのは10歳になったときのことだった。両親が居ない施設出身の私たち姉妹にとってこの病気は重くのしかかる。まこちゃんが人の心の壁を突き抜けることを知ったのもその頃。超能力とかではなく、思考を形成する脳内チップを介して何となく分かるというものだが、周囲の人間にしてみれば奇異な存在だったのだろう。リアルで避けられると共に、ネットの世界でより先鋭化する電脳症持ちのまこちゃんは忌避された。私はまこちゃんを守るのに忙しくて、当たり障りのない知人はいても、心を許せる友達はいない。でも、仕方がないと言い聞かせる。私はまこちゃんのたった一人のお姉ちゃんでまこちゃんを・・・季節は春、世界から貧富の差が無くなることはないが、昨年のクリスマスに神様からの贈り物によって少しだけ明るい未来が見え始めた今日この頃、俺はジルベルトの坊主と一緒に星修学園の如月寮に向かって歩いていた。「正直、あの寮に行くの結構めんどいんですよね。行くたびに何故か威嚇されたりするし」「そりゃ、かわいい妹に寄りつく男なんて万死に値するだろうよ。俺だって八重と付き合いはじめた頃の聖良さんの目を思い出す度に生きた心地がしなかったさ」「あの人の姉に対する溺愛っぷりを文字チャットだけで延々と見せられた身としては同情します」やがて、寮が見えてくると、入り口の前にネイビー系のカットソーに淡い桜色のロングワンピース合わせて着ている亜季ちゃんを見つけた。「おじさま? それにジルベルトさん」久しぶりに見る彼女は知り合った頃の妻を彷彿とさせるが、中身は間違いなく聖良さん系。良い悪いの問題ではないが・・・まあ、それは俺の役割ではない。だから親戚のおじさんらしく気軽に挨拶することにする。「よう、亜季ちゃん元気にしてたか? 甲はいるか、それと水無月の姉妹も」俺と彼女たちが会うのは何年ぶりだろうか。もっとも彼女たちは俺を知らないだろうし、レポートに関しては定期的にもらっているので間接的には知っているという間柄だが。世界を変えたノインツェーンの研究は多岐に渡るが、総合的に引き継いだ研究者は誰もいない。聖良さんの場合、ネット関係の継承者だと認知されているが、遺伝子強化などに関してはかじっている程度で素人に近く、アセンブラに関しては全く分からないとのこと。他の研究者も似たようなものだろう。残された論文にしても、自分が分かればいいからと意味不明な羅列で書かれ、宝の山とはいえ、解読に10年も掛かって成果が出なければ研究者として報われないところから敬遠されていたノインツェーンの遺産。コネクターと呼ばれた八重の遺伝子を研究している組織もいたが、俺たちが滅ぼしたので被験者は聖良さんに預けた水無月姉妹だけ。もっとも容姿は八重に似ていないので関連性を疑われることもないし、聖良さんに至ってはトラップまで作っておいた。そしてノインツェーンの意味不明な研究を人間が分かるレベルに翻訳できる人物が現れたことで彼女たちの価値は皆無となった。事情を知る者の間では『ノインツェーンの後継者』と呼ばれているジルベール・ジルベルトがバルドルの中で取得したものは多岐に渡るが、こいつはあくまで全ての本棚の閲覧を許可されている司書でしかない。だが、同時に乱雑に別れている本を分野別に整理できる能力に長けている。聖良さん曰く「才能的には普通だけど、実務家として流用する能力に長けている」とのことだ。デザイナーズチャイルドという高い素養の持ち主であるこいつがどれかの分野を専攻すれば、少なくともその分野の大成は確立している。斯くして、政府、軍、企業におけるジルベール・ジルベルトの争奪戦が始まろうとしていたのだが、鳳翔の3年であるこいつとしては「こじゃれたカフェとか開きたいと思っているんですけど」と世の科学者たちが絶句するような発言をして保留にしている。おそらく、アーク系の大学に進んで、アルバイトしながら進路を定めるという選択肢になるのではないかと考えているのだが、勲も娘の関係から自分のところに引っ張りたいと思っているのだろう。「俺自身は遺産管財人しているだけなのでさっさと受取人に押しつけて身軽になりたいんですけど」と言っているのだが、今世界中で最も重要な人間の1人であるこいつがどこかの機関に所属することは確実。だが門倉永二としてはこれから交わされるやり取りの方がはるかに重要だった。甲のお父さん、門倉永二についてネットで調べたことがある。PMC『フェンリル』の代表で南米虐殺事件を引き起こした人物として恐れられている。ノイ先生に門倉永二について尋ねたことがある。曰く「愛妻家で本来は子煩悩だ。親子の仲がうまくいってないのは残念だが、父親は妻子のために戦うのか本質的な役割だからあの時は仕方なかったろう」知り合った軍人のおじさんに知ってるかなと思って聞いたことがある。曰く「軍機だから詳しいことは言えないが、大切なものを守るために戦士は戦わなければならない。もっとも私は娘の問題を他人に丸投げした情けない父親だが」と苦笑していた。そして目の前にいる門倉永二は明るくて気さくないい人といったところだろう。「それで、俺や亜季ねえが呼び出されるのはともかく、何で空や真ちゃん、それに」今、私たちはアーク社系列のホテルの会議室みたいなところに呼び出されていた。甲は困惑しているようだけど、亜季先輩は何となく検討がついているのか、むしろ甲の方を心配そうに見ていた。問題は無関係な私たちだ。「俺だって家族の問題に踏み込みたくないんだけど、真ちゃんの病気にも関係する話なんで」まこちゃんの病気? それって甲のお母さんに関係あることだろうか。「ところで門倉甲に確認したいことなんだが」「な、何だ」突如空気が張り詰め、私たちも息を飲んだ。「彼女さんともうやっちゃったの? クリスマス二人きりでデートだったんだろ」「親の前でそんな話聞くなよ!」甲と千夏は恋人同士。それが割り切ったと思った今でもちょっと心にのしかかる。しかし、次の彼から出た言葉にそんな感情は吹き飛んだ。「とまあ、緊張もほぐれたところで、本題に入るけどまず簡単な方から話すか。電脳症の治療の目処が付きました」私は立ち上がり彼を見て、まこちゃんを見る。「情報量のオーバーフローとでも言えばいいのでしょうか。セカンドは絶え間なくネットに繋がっているわけですが、ごく稀により適応させようとするようにチップが進化させちゃうんですよ。あるいは事故などで過剰な情報量を浴びせられたときに機能が狂う」事故と聞いて私は心臓が跳ね上がる。しかし、もちろん彼はそんなことを気にするはずもなく話を進めた。「前者と後者の区分けは今後の学会に任せますが、適切に情報を処理するための回路を作ればいいということで、作って見ました。幸い真ちゃんのエラーパターンは門倉八重に酷似していたので」「親父、本当なのか?」「聖良さんとその分野のエキスパート、それにジルベルトの坊主が太鼓判を押したんだ。現時点ではこれが最良だろうな」「河にダムを作って流れを抑制するようなものなので、もちろん情報処理能力は落ちます。本当はオンオフ機能があれば良かったのですが、アセンブラのコマンダーシステムのようなものを構築しなければならないので、現時点では無理です」「もう少し待てば、もっといい治療が受けられるかもしれないということね」「ある意味yesなのですが、現在は俺が主導して他の方にも協力していただいている身であって、基礎理論が確立した後は他の専門家に委ねてしまいます。無理矢理レベルを3段階くらい上げたので、おそらく10年間は現在提案している方法が主流になるでしょう」「俺には詳しい話は分からないんだが、あんた科学者なのか?」「標準的な身体機能を持ったデザイナーズチャイルドだよ」「人工知能友愛協会が会員にしたいと言っていた」「興味ないんですけどね。西野さんは入って何かメリットありました」「そういわれると無い気がする」天才がぶっ飛んでいるという実例を垣間見た気がした。「ちょっと脱線しましたが真ちゃんの場合、先ほども述べたように門倉八重の症例に告示しているので修正しやすいんです。良くいえば優先して治療が受けられる、悪くいえばモルモットなので後見人の方とも良く話して決めて下さい」「私たちの後見人?」「ええ、ここにいる門倉永二さんです」「どうして親父が空達の後見人なんだ」「それは彼女たちがあなたの妹だからですよ」私は何を言っているのか理解できなかった。否、したくなかった。私たちは天涯孤独の身でした。姓である水無月も研究所で面倒を見てくれた水無月博士からもらったもの。何も持っていない私たちが特に苦労することなく星修まで進学できたのは何かしらの力が動いているのだろうとおぼろげながら感じていたのですが、ジルベルトさんはさりげなくとんでもないことをやらかす癖は最初に会ったときから変わっていない。どうやら私たちは甲先輩の妹のようです。甲先輩のお父さんが後見人で、学業の資金の出所はアークか甲先輩のお父さんから何でしょう。「軍機とか機密事項とかを端折って説明すると、門倉八重の遺伝子を弄って誕生したのが君達。ノイ先生が生まれた技術を応用しているから考えようによってはあのダメ人も姉と呼べなくないんだけど。南米虐殺事件はそれにまつわる事件で、お母さんの遺伝子を悪用されないように奔走していたのが門倉永二と橘聖良の当時の事情。西野さんが門倉甲と会っていたのも子ども達の安全確保のため」「どうして母さんの遺伝子が。電脳症とも関わりがあるのか」「詳しくは俺も話せない。ただ、八重の遺伝子が狙われると分かったときに、お前を守るために手段を選ばないというのが俺と八重、聖良さんとの間で交わされた約束だ。寂しい思いをさせたのは悪かったと思うが」多分、血のつながりのある甲先輩も危険だったんだろう。でも、甲先輩は納得していない様子だ。「どうしてちゃんと話してくれなかったんだよ」「話せばお前も首を突っ込むのは見えていた。俺と八重の子だからな」「親父・・・」「昨年末に、門倉八重の遺伝子が狙われる要因が無くなりましたので、あなたたちに対する警戒レベルが下がりました。今後は進路など自由に決めていただいて問題ありません」「後は家族の問題なので俺は失礼します。真ちゃんの治療については後日正式に書類とか送りますのでその際にでも」ジルベルトさんはそうしてこの混沌とした状況を放置して部屋を出て行った。私にある疑問を残して。呼び出されたのは俺たちがよく集まるプライベートスペース。ノイ先生と一緒に待っていると、真ちゃんが入ってきた。「多分呼ばれると思ってた」「ジルベルトさんに、いえ佐藤さんに聞きたいと思っていたんです」「まあ、真ちゃんは俺にとって身内だからね。話せる範囲なら」「甲先輩のお母さんの遺伝子に関わる事件と久利原先生のアセンブラは繋がっているのではないですか?」「デザイナーズチャイルドにまつわる技術、アセンブラにまつわる技術、そしてセカンドにまつわる技術はある存在を基点としている。そういった意味では正解。バルドルへのハッキング事件は知っているかもしれないけど、あれに正規にアクセスするためには門倉八重の遺伝子が必要なんだよ」そして多分真ちゃんが一番適正率が高いかなと思っている。そして、クリス先輩こと白鳥女史にその辺を確認すると正解という答えを得た。「データを確実に取り出す方法が確立したので、御大将、いや久利原先生みたいにアレに人生を狂わさせる人は多分でないと思うよ。研究の発表で路頭に迷う科学者は責任持てないけどね」「真君、大切なのはいつ壊れるか怯えることなく生きられるということだ。私も政府の監視から外れることになったし望外の幸運だったな」白鳥女史からことのあらましを聞いた身としては本当に奇跡の3乗くらいおきたとしかいいようがない。「そういうことでしたら、私はこれ以上何も聞きません。それで私の処理能力ってどれくらい落ちるのですか」「正直やってみないと分からない。基本的には電脳症で無理矢理拡大した領域を塞ぐパッチなので、声が漏れることはないが、プライベートスペースに侵入するなんてことは無理だと思う。もっとも、君達姉妹は本来膨大な情報量に耐えられるような形で調整されているはずだから。科学者の私としては特殊な事例が最初の症例だと困るわけだが、最悪ジルベルト君が何とでもできるので君が治るのはほぼ確定だな」「ジルベルトさんもここ半年で遠い世界の住民になってしまったんですね」「こないだ将来の選択を聞かれたときに、ラ・ヴィータの親父さんみたいにこじゃれたカフェやりたいと言ったんだけど何言ってんだこいつはって目で見られた時は全部のイーサ-に同時ハッキングしてインフラズタズタにしてやろうかと思ったよ」ちなみにああいう集まりには面倒なので佐藤弘光で通すことにした。ジルベール・ジルベルトで出ると一応上流階級出身の身としては困るし、今更親とかしゃしゃり出てこられたらぶち切れるだろうし。「そういえばそろそろ会食の時期だけど、次は何作ろうか」「少し遠出してお弁当なんかどうでしょうか?」「私もそろそろ料理の腕を向上させるべきだろうか、しかしアレのバージョンアップもなあ」「あら、皆さんお揃いなんですね」タイミング良くレインも現れ、いつものメンバーが揃ったところで今後のスケジュールについて話を始めるのだった。おまけ その後の如月寮気がついたら甲と空の関係が近くなっていた。以前私は甲と空の関係について疑ったのだが、その時はシムクララだかシュミラクラが原因ということで事なきを得たのだが、不安だったのは事実だ。そして現在の状況。何かあったとしか思えない。変わったといえば真ちゃんも変わったというか、むしろこっちの方が変わってしまったというか。「それでですね、ジルベルトさんがもしよかったら亜季先輩も来ないかって」「知り合いばっかりなのはいいけど、やちっぱりちょっと不安」「大丈夫ですよ。ちゃんと火打ち石さん、じゃなかったモホークさんが一発殴って手打ちにしてますから。でも人間って結構かんたんに吹き飛ぶんですね」ケラケラと笑う真ちゃんに、甲に対してもじもじ接する空って二人の人格が入れかわったとしか思えない。私の疑問が氷解するのは夏休みが終わる頃なのだが、この時点では何ともいえない焦燥に駆られる私だった。プラグイン【電子の海を漂う少女】を手に入れた本当は結構突っ込んだ説明をする予定だったのですが、考えてみれば下手に首を突っ込ませる必要が無いことに気付いて現在の形に。まこちゃんに関してはようやく覚醒。電脳処理能力が下がったはずなのに技量が上がってます。ガンダムでいうとジャミル・ニートがニュータイプ能力有り→喪失→トラウマを克服して覚醒的な流れ。空は傷口のかさぶたが誰かさんのせいではがれてどうしたらいいのか迷走中。親が再婚して気になる同級生と一緒に暮らす展開←いまここ後はジルベルトさんこと佐藤さんの現在取り巻く状況ですね。多分パテント一つで一生働かなくてもいい状況なので、こじゃれたカフェとかビストロをまこちゃんと経営するというのは悪い選択肢ではないのです。奥さんはこの時空ではノイ先生ですけど。次回はこっちはアフター2の後編。その後はこんな分岐で久しぶりに夏の二ラ祭りをやるか、スーパージルベルトワールド地獄変をやるか。