「あいてててて……」
どすっ、と地面に尻餅をつき、ぶつけた頭をさすりながら、のび太は涙目で呻く。
頭には見事に大きなたんこぶが出来ている。
落下した距離は、ざっと換算して百メートルはあっただろうか。
普通だったら間違いなく、頭蓋がざくろのようにはじけ飛んで即死している。
だが、どういう訳かのび太はコブひとつの負傷で済んでいた。
長い間ジャイアンに殴られ続けたせいで、異様なタフネスを身につけてしまったのか。
こう見えて意外にのび太は頑丈であった。
それだけでは説明がつかない気もしないではないが、とりあえず今はさておくとする。
「はあああ、た、助かった……それにしてもここはいったい、ッ!?」
「……動くな」
「ひっ!?」
無事に助かった事に安堵する傍ら、周りを見渡そうとしたのび太だったが、突如首筋に感じた冷たい感触に背筋を硬直させる。
声のした背後へおそるおそる振り返ると、そこには青いボディスーツと銀の軽鎧を纏った、長身の男がいた。
その表情は、針を数本飲み込んだかのようなひどい渋面である。
「痛っ、まだ頭が痛みやがる……あん? なんだ、ガキか? なんでガキが空から俺の頭の上に……しかしお前、運が悪かったな。見られたからには死んでもらわなきゃならねえんだ。こんな十かそこらのガキを殺るのは不本意だが……これも決まりでな。せめて苦しまないよう、一瞬で命を止めてやる」
そしてのび太の首筋に突き付けられているのは……血のように真っ赤な槍の穂先。
瞬時に命の危機だと悟ったのび太は顔を青く染め、へたり込んだままの姿勢で震え出す。
「あわわわわわ……な、なんで? どうしてさ!?」
戦慄く唇を動かし、理由を問いただそうとするが、目の前の男はそれらをきっぱりと無視してすっ、とのび太の首から引き戻した槍を再び構える。
その穂先は色濃い殺気と共に、ぴったりのび太の心臓に合わせられていた。
相手の目はどこまでも真剣そのもの、男の言葉は嘘や冗談などではない事をのび太は悟る。
いきなり自分の身に降りかかってきた死の気配に、のび太の歯はがちがちと音を鳴らし始めた。
「あ、あ、あぁああ……」
こんな事なら、あんな大見得切るんじゃなかった。
この不可解すぎる状況と今までの己が行動に、のび太の脳内では激しい疑問と後悔の念が、ない交ぜとなって渦を巻いていた。
だが、事態はここから思わぬ推移を見せる。
それにより、のび太の思考は更なる混乱の渦に放り込まれる事となった。
「……ぁあ? どういうつもりだ。なぜこのガキを庇う?」
「――――如何な理由があろうと……たとえ“聖杯戦争”の最中といえども……」
突如、のび太の眼前に何者かが立ち塞がった。
まるでのび太を男から護るように。
頭を抱えて震えていたのび太はその凛とした声に、そっと顔を上げる。
そこにいたのは。
「――――年端も行かぬ、無垢なる子供の命を徒に殺める事、騎士として、剣の英霊として……見過ごす事は出来ません!」
青のドレスに、銀の鎧。
月明かりを受けて輝く金砂の髪に、強い意志を秘めた深緑の瞳。
「その体たらくで言われてもな……ち、面倒な事をしてくれる……セイバーよ」
左の胸を血潮で真っ赤に染めた、だがどこまでも気高く凛々しい、騎士の少女だった。
「セイ、バー……?」
のび太は恐怖も疑問も忘れ、ただただ目の前のその背中を呆然とした表情で見つめていた。
「どけ、セイバー。“魔術は秘匿するもの”ってのが魔術師の鉄則。ましてや“聖杯戦争”に関しては言わずもがなだ。それぐらい知ってるだろう。後々のためにも」
「くどい。退くのならさっさと退きなさい、ランサー……っう、ぐ!?」
男を凄まじい眼力で睨みつけながら、男の言葉を真っ向両断。
セイバーと呼ばれた騎士の少女は、背後ののび太と眼前の敵に気を払いながらも、鮮血に染まった左胸を押さえ、低く呻き声を上げていた。
「うっ、わ」
生々しい紅に顔を顰めつつも、相当ひどい怪我だな、とのび太はどこか他人事のように思う。
そして互いに睨み合う事しばし、やがてランサーと呼ばれたその男が溜息をひとつ漏らした。
構えていた朱槍が降ろされ、そのまま彼はくるりと踵を返す。
「……ふん。まあ、どう転ぼうが俺にはたいして関係ねえ事だしな、勝手にしやがれ。もっともそのガキは、“こっちの事情”に関してはなにも知らねえみたいだが……ま、それこそ俺の知った事じゃねえか」
そして一気に跳躍し、塀の上へと飛び乗るランサー。
その一連の動作で、のび太はここがどこかの家の庭なんだとようやく理解に至る。
「ああそうだ、もう一度言っておくが……追ってきても構わんぞセイバー。但し、その時は決死の覚悟を抱いてこい!」
そんな捨て台詞を残して、ランサーは再度跳躍。
民家の屋根から屋根へと次々飛び移り、そのまま夜の闇へと消えていった。
「――――な、なんなんだあれ!? 人間が屋根から屋根に飛び移った!?」
その一連の光景にのび太の頭は混乱の極みに達し、オーバーヒートを起こしかけていた。
あまりにもぽんぽんと続いたトンデモ展開。
脳の処理能力が許容量を超えようとして、知恵熱すら出そうな勢いであった。
「……大丈夫でしたか?」
と、のび太の眼前にいた少女……セイバーが振り返るなり、彼にそう尋ねてきた。
月明かりに照らされたセイバーの顔は、整いすぎている顔立ちと相まって、いっそ幻想的なまでの美しさを醸し出している。
一瞬、その美貌にぎっ、と硬直したのび太であったが、その心配そうな声音に、気づけばかくかくと首を上下に振っていた。
「は、はい! あの、その、ありがとうございました。えっと、ところでここは……」
お礼ついでに質問をしようとしたのび太だったが、横から響いてきた声に中断を余儀なくされる。
「――――お前、何者だ?」
ふと声の先を見ると、そこには高校生くらいの少年が立っていた。
どこかの学校のものらしい制服を着込み、左胸はどういう訳かまたも赤い血がべったりである。
その視線は一瞬だけのび太を捉え、次いで今度はセイバーの方にぴたりと向けられた。
表情に疑問と猜疑、そして僅かの羞恥を滲ませて。
「何者もなにも、セイバーのサーヴァントです。貴方が呼び出したのですから、確認をするまでもないでしょう?」
「セイバーの、サーヴァント……?」
「はい。ですから私の事はセイバーと」
「そ、そうか。俺は衛宮士郎っていう。この家の人間……って、や、ゴメン。今のナシ。そうじゃなくてだな、ええと……」
「……成る程。貴方は偶発的に私を呼び出してしまった、と。そういう事なのですね」
「あ!? え、えと……たぶん」
「しかし、たとえそうだとしても貴方は私のマスターだ。貴方の左手にある令呪がその証拠。警戒する必要はありません」
「令呪……ってちょっと待て! その前にセイバー、だっけ。お前、さっき槍で突かれてただろ!? 左胸血塗れだし、大丈夫なのか!?」
「既に表面の傷は修復されています。ですが、完全ではありません。マスター、『治癒』の魔術が出来るのならばお願い……ッ!?」
「ど、どうしたんだ?」
呆然としているのび太を余所に語り合っていた二人だったが、突如セイバーの顔が厳しく引き締まった。
衛宮士郎と名乗った少年は、その様子に首を捻る。
「……外に新たなサーヴァントの気配が。マスター、迎撃の許可を」
「きょ、許可!? って、ケガは完全に治ってないんだろ!? そんなもの……」
「ち、動きが速い……! もう猶予がありません、出ます!」
「あっ、お、おいセイバー! 待て!」
言い置いてぐっ、と身をかがめ、塀の外へと一気に跳躍するセイバー。
士郎は慌ててその後を追い、家の門へと走る。
ややもして、塀の向こうからさらに声が響いてきた。
『止まれセイバー! 人を無暗に傷付けるのは止めるんだ!』
『マスター、何を言っているのですか!? 敵がいるのなら即座に討ち果たすのが当然の事でしょう!』
『事情がまったく解らないのに殺すなんて事、許可出来るか! それに敵っていったいなんなんだよ!?』
『――――そう、貴方がセイバーのマスターって訳。そんな寝ぼけた事を言っているところを見ると、本当になんにも解ってないみたいね……アーチャー、霊体化していなさい』
『……いいのか?』
『ええ』
『ふん……了解だ』
『お、前……遠坂!?』
『こんばんは、衛宮くん』
剥き出しの針山のように剣呑なやり取りが、さらに二人の役者を交えて壁の向こうで展開されている。
そしてひとり、庭にへたり込んだまま、蚊帳の外へと置き去りにされたのび太はというと。
「い……いったい、なにが、どうなってるのさ……?」
ぽかんとした表情を晒したまま、漆黒の天空に向かって力なくそうぼやいていた。