ep.02 / それぞれの日常-夜─────sec.01 / 夕暮れ時の揺り籠そうしていつも通りの授業が終了した。部活動に勤しむ生徒もいれば早足で帰宅する生徒、用もなく教室に残る生徒、そのあり方はさまざま。士郎はそのどれにも該当しない。「すまない衛宮、少しだけ構わないか。今朝の続きがあるのだが、今日は時間あるか?」「いや………予定はあると言えばあるけど」士郎はアルバイトをしている。一人暮らしである以上、生活費は稼ぐ必要がある。そのために弓道部を辞めている。「悪い、一成。今日はこれからバイトなんだ。結構時間がかかるものなら明日になるんだが」「む、そうか。いや、大したことはない。衛宮ならそんなに時間はかからんだろう」「ならいいや。よし、じゃあその問題の患者を教えてくれ」そう言って声をかけてきた人物、一成を二人で教室を出る。廊下を歩き、着いたのは実験室。どうもストーブの調子が悪いらしい。「っていうか、予算が偏りすぎだろ。なんで劣化したストーブがこんなにもあるんだ?」美術室に視聴覚室、普通の教室と今日だけで4つめ。流石の士郎も備品購入・修理の予算が一体どうなっているのかが少し気になってしまう。「ふむ、運動部の活動の方に予算が行き過ぎているのだ。おかげで文化系はいつも不遇の扱い。 まったく、どうにかせねばいかんな。─────どうだ。直りそうか?」「ああ。比較的軽症だし、この程度なら問題なさそうだ。─────と、悪い。集中するから席を外してくれないか?」「うむ。衛宮の邪魔はせん」一成が教室から出ていく。それを確認したら、後はいつも通りに。「さてと、ちゃっちゃと終わらせますか」◆こうして患者の診察を終えた士郎が教室から出てきた。「終わったか、衛宮」「ああ、軽い症状だったからすぐだったよ。─────と言ってももう少しで完全下校時間だな。 俺のバイトもそろそろだし、帰ろうか一成」「そうだな。まだ患者はいるだろうが衛宮の私生活を犠牲にするほど急用でもない。また明日に頼むとする」「ああ、そうしてくれ。じゃあ明日も早めに来ればいいんだな」「うむ、すまないな衛宮。一人で出来るのならば直しておきたいのだが」「いいって。誰だって得手不得手はあるんだからさ」校舎を出て薄暗くなりつつあるグラウンドを抜ける。学校には完全下校時刻が迫ってきているということもあってか、すでに部活動の生徒はほとんどいなかった。「一成。バイトだからバスに乗っていく。今日はここでお別れだな」「そうか、確かアルバイトは新都の方だったな。気をつけろよ、最近ガス漏れによる昏睡事件が後を絶たない」「ああ、気を付ける。一成も早く帰れよ」校門前で一成と別れた士郎は、駆け足気味に学校付近にあるバス停へと向かった。バス停には何人か生徒が並んでバスが来るのを待っている。間に合ったか、と内心思いながら歩く速度を落とす。結構ぎりぎりまで粘ったので、これで乗れなかったら遅刻してしまう。「ん?」ふと、列の最後尾に見覚えのある後ろ姿があった。その最後尾にいた人物は足音が聞こえたのだろう、後ろを振り向いて視線があった。「よっ、氷室。今から帰りか」「………衛宮か。君の家はこちらではない筈だが?」陸上部の走り高跳びのエースがいた。「ああ、今からバイトなんだ。新都の方」「そうだったか。では途中まで同じバスということだな」士郎と鐘が会話をしている。互いに嫌い、というわけでもないが特別好き、というわけでもない。趣味趣向が必ずしも合うわけでもない二人だが、ポツリポツリと途切れない程度の会話はしていた。「そうか。もうすぐ大会があるのか。………なるほど、だから部活で残っている人が多かったのか」「ああ。皆、記録を残そうと奮闘しているところだ」「ふぅん………。氷室はどうなんだ? 大会、出るのか?」「そのつもりだ」「そっか。頑張れよ、氷室」そう言って笑いかける。それを見た彼女は何とも言えない表情で視線を外した。橋を越えて数分。バスが停車し、ドアが開き乗り降りする人が動く。ここで彼は降りてバイト先へ向かう必要がある。「じゃあな、氷室。楽しかった。また明日な」話し相手になっていた彼女にそう告げて、彼はバスを降りた。その後バスが走り去ったのを見て、歩くスピードを速める。バイトまでの時間はぎりぎりではあるが、早歩き程度の速度でいけば普通に間に合う。歩きながらここにくるまでの事を考える。「────ま、笑いこけた、ってわけじゃないけどな。────うん、楽しかったな」いつもならただバスに乗って目的地がつくまでボーっと景色を眺めているだけ。バスの中で何かできるわけでもなし、しゃべる相手がいたわけでもなかったので今日は新鮮さが感じられた。◆そう言って彼はバスを降りて行ってしまった。「…………」返答しようとしたのだが、すでに降りていたので挨拶はできなかった。バス停から歩いていく彼を視線だけ追いながらバスが離れて行く。自分の目的地までは後数分の時間がある。今まで話をしていたので気が付かなかったが、案外ここまでの時間が短く感じられた。(一人でいるよりはよかった、ということか)そんな軽い考えで外の流れる景色を眺める。最後に会話した内容を思い出し、そして彼と同じ意見を出した。(私も楽しかった、衛宮)そこに特別な感情はない。ただ本心から楽しかったと思ったからそう感じただけ。基本的にバスに乗っている間は何もしない。美綴嬢がたまに同じバスに乗っていることがあるのでその時は話す。しかしいつも一緒、というわけではなくむしろ一緒の方が少し珍しい、という程度。つまり基本的に一人。加えて異性と二人きりで話こけるという事はなかった。だから、今日の会話は新鮮さが感じられた。(まあ、もうこんな事もあるまい)目的地にバスが到着し、下車する。後は歩いて数分の場所にあるマンションへ向かえばいい。冬の夕刻はすでに薄暗い。最近は物騒にもなってきているので学校の方で完全下校時刻が定められた。つまり、放課後の部活動が制限されたということを意味し、そのツケが朝練へと回ってきている。朝起きるのがつらい私にとっては何ともいい迷惑である。マンションに入りセキュリティ解除のために持ち歩いている鍵を鍵穴に入れ、エントランスへ入る。広めのエントランスを横目にエレベータへ向かい、自宅がある階のボタンを押す。一瞬の重力と浮遊感を感じてエレベータを降りる。当然外の景色が見える訳だが、もうすでに周囲は薄暗くなっている。夕日の明るさはもう彼方にある。そんな見慣れた光景を見て、一瞬、スポットライトが当たったように眩暈がした。─────その時に見えたのは赤い世界だった。 たまにある。ここから十年前の火災を見て、私は泣きじゃくって体調をくずして病院で一夜を過ごした(らしい)。その時の事はよく覚えていないが病院に運ばれるあたり相当怖い思いをしたのだろう。だから、この思い出はここでおしまい。思い出したところで何一つとしていいことはない。………だと言うのに、思い出す度に何かがチクチクと私の体を刺す。もちろん、物理的に後ろから針で刺されているわけではない。その痛みを感じるたびに何とも言えない気分になる。だが。それも繰り返せば気にしなくなる。気にはなるけれど、気にしなくなる。気にするな、と自分に言い聞かせる。家のドアのロックを解除して中へ入る。ドアを閉めたらロックはしなくていい。このマンションはオートロック形式で鍵を使うのは外から中へ入るときだけ。唯一内側からかける鍵と言えばチェーンロックだけだろう。「おかえり、鐘。疲れたでしょ、着替えて居間へきなさい。もう夕食できるわよ」帰ってきたことを確認して、母親が声をかけてくる。無論いつまでも制服のままでいるつもりはないので自室へ戻ろうとする。その前に。「ただいま、お母さん」挨拶はしなくてはいけないな。─────sec.02 / 姉との一時「お疲れ様でしたー」そう言って酒屋兼居酒屋であるコペンハーゲンを後にする。彼のバイトは基本的に短時間ハード。体を鍛えられてお金を貰えて一石二鳥である。「う………ん、と。今日も終わり。早く帰らないとなあ」背を伸ばして気持ちを入れ替えて、そのままバス停へと向かう。ここから歩いて帰れない距離ではないが、明らかにバスを使った方が早い。バス停に着き、時刻表を見る。「っと、まだ十分程度余裕があるか」時刻を確認した士郎はそのまま傍らに設置されたベンチに座る。ここにいるのは彼一人だけ。この時間帯にバスに乗る人はあまりいない。特にすることもなくボーっとバスがくるまで周囲の人の、車の流れを眺めている。流石に新都ともなると、この時間帯も人は多い。といってもほかの都会と比べると少ない部類にはなるだろうが、少なくとも彼が住んでいる町よりはずっと多い。バスが到着し乗車するが、やはりバスに乗っている人も少ない。ここでも同じ。特にすることはなく、バイトで酷使した体をゆっくりと休めている。これが普通である以上、何も感じることなどない。ただ今日は行く道中少し新鮮味があったので、その分静かになってはいたが。目的地のバス停に到着し、下車する。ここから家までは歩いて十分前後。道中で人とすれ違うことはない。この時間帯に加えて最近押し入り強盗による殺人事件が報道されていた。人通りが無いのも学校の完全下校時刻が十八時なのもこれが原因だろう。今日のバイトは十八時から二十時半までの二時間半だった。これがある日は十七時から二十時までの三時間だったり、十八時から二十一時までの三時間だったりとする。だが、基本は二十時までのバイトを選んでいる。「………ガス漏れに強盗か。物騒になってきたよな」毎夜にやってくる桜。歩いてほどほどの時間がかかるうえ、こうも物騒だと帰り道が心配だ。安全になるまでは来るのを控えてもらうように言うべきか、なんて思案する。「………ん?」ちらり、と坂上に視線をやる。考えに耽っていたために坂上にいる人物に気が付くのが遅れた。その相手は士郎がこちらに気が付いたことに気が付いたのだろうか。ゆっくりと下りてくる。会話をするわけでもなし。坂上から降りてきた人物───白い髪の少女───は横を通り過ぎていく。彼もまた特別気にかけることもなく通り過ぎようとする。だが互いが通り過ぎようとしたときに、不意に声がかけられた。「早く呼び出さないと死んじゃうよ、お兄ちゃん」「え?」そう言って振り返るが、視線の先は何事もなく坂を下る少女の姿があっただけである。(………? 聞き間違いか)そう結論を出して、止めた足を再び動かして家へ向かう。坂を上がりきって、さらに少し歩けば衛宮邸の門が見えてくる。家の明かりがついているところを見ると、まだ桜と大河は残っているらしい。この二人は一人暮らしの彼の家に最近ずっとこうして毎朝毎晩夕食を食べにやってくる。士郎はそれを不快とは思わない。むしろ家族のように接している。一人暮らしにとってはこの二人の存在はありがたかった。「ただいまー」そう言って玄関に入る。そこには靴があるのは当然だが、数が一つ少なかった。居間に入ると、彼の姉役の大河の姿だけがあった。「あれ? 桜はいないのか、藤ねぇ」「あ、おかえりー士郎。桜ちゃんは夕食の支度だけした後帰ったわよ。今日は用事があるとか」嬉しそうに話す。この人にとって食事を作ってくれる人はみないい人なのだろう。女性としては致命的な感じも否めないが。「そっか、確かに最近物騒だしな。しばらくはその方がいいかもしれない。桜にも明日伝えておくか」「え? それじゃ、晩御飯は誰がつくるの?」きょとんとした顔で聞いてくる姉役兼教師。その様子を見てため息しかでなかった。「誰って………俺しかいないだろ。何言ってるんだ、藤ねぇは。俺は藤ねぇに飯作れっていう無理難題を押し付けるつもりはない」「えー!はんたーい。士郎帰ってくるの遅いじゃない。それから晩御飯作ってたら食べるの十時過ぎになっちゃうよー」「………あのな、そこに自分の家で食べるっていう選択肢はないのか。アンタは」「え? ここが私のうちだよ?」何を言ってるの、と言わんばかりの顔で言う。なんとなく頭痛がしてきた。「………藤ねぇ。それはなんだ。余計なモノだったら即廃棄処分だぞ」頭を押さえた士郎の視界にあるものが入ってくる。如何にも不要そうなもので、使い道もなさそうなもの。「これ? えーと、うちで余ったポスターだけど」はい、といって渡してくる。どうせ人気のない歌手のポスターや関心も示さない政治家のポスターだろうと思いながら広げて見てみると………「どれどれ? えーっと、『恋のラブリーレンジャーランド。いいから来てくれ自衛会』────って、これ青年団の団員募集だろ!!」漫才師の突っ込みのように声をあげる。想定していたものよりもはるかに下回っていたが故の心からの叫びであった。士郎の手に握られているポスター。一体それのどこに興味を持って入団するのか謎である。「それ、いらないからあげるね」「うわぁ、そこで普通に渡そうとするその精神が信じられん。俺だっていらねぇよ、こんなの!」広げたポスターを丸めて大河の頭めがけてポカッと殴ろうと振りかぶった。しかし彼女は隠し持っていた別のポスターを取り出し、「甘いっ!」「うがっ!?」ガィン! と士郎の頭部を叩きつけたのだった。大よそポスターとは思えない攻撃音が居間に響く。「ふっふっふ。士郎の腕で私に当てようなんて甘いわよ。そう、ソフトクリーム並に甘い!悔しかったらもうちょっと腕を磨きなさいね」よほどきれいに決まったのがうれしかったのか、腰に手を当てて胸を張る大河。しかし攻撃を受けた本人はそれどころではない。「~~~~!………そ、そんな問題じゃないだろ。藤ねぇ、そのポスターに何を仕込んだ………!?」頭に手を当てながら訪ねる。触れた部分が僅かにコブになってるっぽく、触れると少し痛い。「え? あ、ごめんごめん。こっちのポスター、初回特典版で豪華鉄板使用だった」「鉄製かよっ!!藤ねぇ、いつか絶対に人殺すぞ!特に俺!」渾身の突っ込みをいれるのだったが、しかし殴った当の本人は「大丈夫よ、士郎は死んでないから。今も生きてるし」からからと笑っていた。それを見て大きくため息をつく士郎なのであった。─────sec.03 / 魔術使いの夜食事を終え、渋る大河を送り出し、風呂に入る。今日も特別大きな問題もなく一日が終わる。しかし士郎には日課としていることがある。土蔵に籠って魔術の鍛練である。よっぽど体調が悪い日でない限りはこうして毎晩鍛錬は欠かさない。「─────」呼吸を整え、精神を集中する。今までの大河との喧噪から気持ちを切り替える。「─────同調、開始トレース・オン」口に出して言う必要のない自己暗示の呪文を唱える。呪文を唱え発動する魔術も父親から多少なり教授しているが、この呪文は本当にただの自己暗示だ。『僕はね、魔法使いなんだ』父親が言った言葉、あれは本当だった。大よそ理解できない事を士郎の目の前でして見せた父親。それに憧れた士郎は魔術を教授してもらうようになった。無論、その当時からいた大河にはばれない様に。だが魔術師というものはなろうとしてなれるものではない。生まれ持った才能が必要であるし、知識も相応に必要である。士郎が教授してもらった当初は無論知識なんて無いし、父親の言う『才能』があるかというのも分からなかった。教授して何度目かに父親が出した結論は、『とりあえず魔術行使ができるだけの才能はある』ということだった。何も知らない一般人が、魔術行使が可能な魔術回路サイノウを持ちえることなどありえるのか。そんな事を抱いた父親だったが、それを調べる気は起きず、そして調べる術もなかった。簡単に言えば『頑張ればそこそこ行使できる』というレベルの士郎。その士郎に父親は『強化』の魔術に集中するように伝えた。それ以来、士郎は強化の魔術を中心に日々の鍛練を続けている。少しずつだが努力を積み重ねる毎日。そんな士郎の未来に何を見たかはわからない。父親は士郎に魔力の制御をするように指示をした。といっても繊細な制御を指示したわけでも、豪快に魔力を使うように指示したわけでもない。“極めて父親らしい”指示だった。曰く─────魔力を隠しなさい魔術師である以上は魔力を帯びることは避けられない。だがそれは生粋の魔術師で、何年も魔術に触れる人間のことだ。魔力自体は一般人も帯びる。それは自己の魂そのものだ。それよりも顕著に魔力を帯びた人間がいればそれは魔術師か、もしくは特異体質の人間。或いは─────人外。一般人が帯びる程度の魔力にできるのであれば、それに越したことはない。この地がどのような地で、この地にどのような人物がいるかを理解していた父親からしてみれば、士郎に与えた指示は至極真っ当なものであった。魔術回路のオン・オフの制御の鍛練。当初は魔術を行使する度に回路を構成するという無意味なことをしていたが、父親の指導で矯正し習得する。それ以来は強化の魔術を中心に鍛錬を続けている。その努力もあってか、自身の身体を多少ではあるが強化できるレベルまでに到達した。だが強化という魔術はオーソドックスなものであったとしても、それを極めることは困難な魔術に位置づけられる。加えて自分の限界と、その先を知っていなければ仮に身体に強化を施してもただ『身体能力が少し向上しただけ』でしかない。更に言うと身体能力が向上したからと言って、体力が増えるということはない。それどころか、普段の身体能力との差異も相まって体力の消費が激しくなる。どれだけ取り繕ったところで元は普通の身体である。動かせば疲労が溜まるのは当然であり、強化による通常時の限界を超えた酷使だというのであればその分の消費が大きいのも当然。この世にメリットしかない魔術など存在しない。否、魔術に関係なくこの世の中は等価交換の世界。メリットがあるということは求められる代償も存在するというのは世の条理である。これがもう数段上の強化魔術の担い手ならば、あるいは今上げたデメリットを打ち消すだけの施しができるだろう。だが残念ながら『そこそこ』のレベルである士郎は、今もその境地には辿り着けていなかった。一方の知識の方はと言うと、士郎はからっきしであった。それは士郎が一般人だから、というのも挙げられるが父親が教えることもほとんどなかったからだ。せいぜい『協会』や『教会』の存在を教えたりと、魔術を使う上では避けられないものぐらい。そんな知識を教える時間よりも、魔術行使の知識を教える時間の方が圧倒的に長かった。気配遮断、衝撃緩和、認識阻害、強化などなど。どうやれば魔術が発動し、どのような場面で使えば効率的か。父親の口から教わった魔術こそ多岐にわたるが、それを士郎が全てマスターできたかと言われれば否と答えるしかない。元より一般人に毛が生えた程度の才能。加えて父親自身もこの家を空けることが多く、総じてレベルの高い魔術が教えられることもなかった。しかし子供だった士郎にとってはそんなものは教わる魔術のレベルなどどうでもよかった。ただ『父親と同じ魔術が使える』という事実だけで嬉しくなり、それだけ使えれば父親みたになれるのではないか、と思ったからだ。父親が家にいる間は、合間を見て教えを請い。父親が留守にしている間は、大河に見つからない様に教わったことを反復練習。魔術師にはそれぞれ得意とできる魔術分野とそうでないものがある。そういった意味では士郎が父親から教わった魔術の大部分は自分の肌に合わないものばかりだった。特に気配遮断やら認識阻害など、自身に行使したところでそれを観測できる父親がいなければ、果たして魔術行使がうまくいったかどうかもわからない。そういった意味でも強化がまだとっつきやすい分野だったが故に今も鍛錬が続いている、といったところだろうか。魔術師には魔術回路が必須であり、これがなければ魔術を使うことが原則できない。中には例外があって使うことができる者もいるらしいが、そのような稀なケースを気にする必要もないと教わった。そんな話を聞けば当然疑問を抱く。なぜ自分には魔術を行使できるだけの回路があったのか。『もしかしたら士郎の家系も、元々は魔術師の家系だったのかもしれないね』父親に訪ねたら、こんな答えが返ってきた。もはや本当の父親と母親の顔も思い出せない士郎にとって、火災以前に魔術を習っていたかという記憶などないし、気に留めることもなかった。─────過去に一度だけ、父親がどんな魔術を使えるのかを聞いたことがあった。特別な力を使えるという父親に、それがどんなものか気になり聞いてみた士郎は、その内容に驚いた。固有時制御。かなり簡潔に説明すると、自分の体内の時間を操作するという魔術。これを使えば高速移動の類が可能だという。強化の魔術を鍛錬していた士郎にとって、その言葉には一種の関心があった。父親に教えてくれと懇願したのだが『流石にこれは教えられないよ』と断られてしまった。『肉親にしか魔術刻印が伝承できないから、士郎には無理だよ』とのこと。流石にそれは仕方がないので諦めることになったが。魔術を習う際、父親は渋々ながらも承諾してくれた。その時に言った。『いいかい、魔術を習うということは常識からかけ離れるという事。死ぬときは死に、殺す時は殺す。魔術とは自らを滅ぼす道に他ならない』その言葉は今でも士郎の記憶に残っている。『士郎に教えるのは、そういう争いを呼ぶ類のものだ。だから人前では使ってはいけないし、隠せるのなら隠しておく。 難しいものだから鍛錬を怠ってもいけない。─────けど、それは破っても構わない』そしてその時の顔も、父親が自分の頭に手を置いて撫でながら言った言葉も覚えている。『一番大事なのはね、自分の為ではなく他人の為に使うということだ。そうすれば士郎は魔術使いではあっても、魔術師ではなくなるからね』「─────基本骨子、解明」少し雑念が入った。だが今更やり続けた強化が失敗する筈もない。「─────構成材質、解明」しかし意識にぶれは許されない。完了に至るまでの工程を進めていく。「─────基本骨子、変更」どんな魔術でも気を抜けば命取り。それを肝に銘じて魔力を通す。「─────構成材質、補強」形が整い、魔力が満ちる。「─────全行程、完了トレース・オフ」終了を告げる自己暗示と共に、改めて手に持ったものを見つめる。強化は完了した。しかし「………はぁ、やっぱりきついな」強化自体は成功したが、軽く溜息をつく。完成しているものに強化の手を加えるということは、つまり完成度を貶めるという危険性も含んでいる。物体の構造以上の魔力を通しすぎれば内部から爆発の如く失敗する。構造にない部分へ魔力を通せば、予期せぬ破壊が起きてしまう。傑作の芸術作品に筆を入れて良くしようという行動と同じ。成功すれば更に良いものへとなるだろうが、筆を入れる場所を間違えればそれに価値はなくなる。これこそが強化がオーソドックスであっても、極めるのは困難と言われている理由である。半端な強化では意味はなく、かといってやりすぎた時の失敗は大きい。難易度は高く、好んで使う人間はそういない。─────ならば。いっそのこと、一から作り出してみてはどうだろうか。「─────投影、開始トレース・オン」発音は同じ。しかし心構えは微妙に違う。彼が強化を習う前に使えるようになった魔術、投影。此方の方が、気が楽に使える。作り出すのは代用品で、完成品に手を加えるわけではないのだから、筆で書き入れて失敗することもない。しかしそうやってカタチだけ再現した投影品は中身が伴っていなかった。設計図は完璧にイメージできているのだが、肝心の中身が空っぽの状態。否。中身があったものもあった。それは包丁。様々な投影を行ってきたが、一度だけ刃物として包丁を投影してみた。結果はこれまでになかった成功。その時はなぜ包丁だけ? と頭の中が疑問符でいっぱいになった。ただ士郎は無類の刃物好きという物騒な人間ではない。そもそも包丁の数は足りているし、他の刃物なんて必要もなかったので刃物の投影はそれ一回きりだった。「─────」投影したものを見て軽く溜息。案の定中身がからっぽの投影品。「一成風に言えば『まだまだ修行が足りん!喝!!』ってところか」苦笑いしながら鍛錬を終えて寝室へと帰って行った。