街は余寒に震えていた。
暖冬と言われながらも、3月中旬から下旬にかけて大陸から断続的に流れてきた寒波により開花の遅れた桜は、ようやく咲き誇ったものの、またも寒さに晒されている。
それでも、その淡いピンクは疎らながらに眼下の光の群れを飾り、少年の横に立つ青年の目を楽しませていた。
都心部の隅に建つこの高層ホテルは、目下のところ、街で一番高い建造物である。市街地を彩る桜だけでなく、ここからは街の全てが一望できていた。
時代錯誤な白地の帯束に身を包んだその青年は、趣を感じさせた桜だけではなく、物珍しげな目で下界を広く見渡している。
青年にはそれら全てが新鮮だった。
確かに現界する際に、この時代に必要な知識や情報は『聖杯』により与えられてはいる。
だが、彼の生きた平安の世と比較して、何もかもが変わった世界は実に興味深かった。
特に宵は、その移り様が格別である。
昼間の灰色の世界は実に味気ないが、今は一変し、地上こそが星空のように煌いているのだ。
美しく趣き深い感動的な情景に、何か一つ、歌でも詠み上げたい気分である。
そして、視界の隅。その郊外の一角にも彼の気を強く惹くものがあった。
それは風流を知る者としての感覚に触るモノではなく、魔術を知る者としての感覚に触ったモノ。
そこから流れ来る激しい魔力の衝突の作り出した波は、彼の鋭敏な知覚を強く刺激していたのだった。
波長の数から推し量るに、その雑木林の中では、今まさに三つ巴の祭りが行われているようである。
それはその魔術師にとっても、非常に勝敗の行く末が気にかかる争いだった。
魔力風に散るのは華か、それとも――。
それもまた、彼の抱いた歌心をくすぐるのだ。
不意に。
残酷な言葉が、並んだ少年の口から零れる。
異性だけでなく、同性にさえ見惚れさせるような美しい風貌の少年。
その魅力を凝縮したような黒く澱みなく澄んだ瞳で、仰ぎ見ていた空。
冷たい大気は驚くほど透っていて、手を伸ばせば届くような錯覚さえ抱かせる本物の星々が、そこには散りばめられていた。
その非情な声は、そんな夜闇を見て思わず口をついた言葉のように極々自然に発せられたものだったのである。
「……よろしいのですか? ここには貴方のご学友も宿泊されていましたよね?」
趣を愛でる涼しげな眼を中世の青年魔術師は、それでも平然と現代の少年魔術師へと向ける。
彼はこの時代の人間ではない――。
否。彼という存在は既に人間ですらない。
彼は魂のみの存在であり、その分類とは人のモノよりも、むしろ『精霊』に近い。
彼は生前の偉業により英雄と認められ、死後『英霊の座』へと迎えられた存在(もの)である。
青年は魔術師のサーヴァント。
聖杯の力によりキャスターというクラスに割り振られ、召喚された英霊の一人だった。
「……キャスター。君は乗り気じゃない? だったら僕は、令呪を使って君に命じた方がいいのかな?」
聖杯戦争に於いてマスターに与えられる魔術刻印・令呪とは、単に参戦する者を示すシンボル的なものではない。
三回という限られた回数なれど、それは己がサーヴァントを強制的に従わせる効力も有しているのだ。
屋上を渡る季節外れの北風に心も凍えたのか?
――――彼なりの確たる意志や意図が、その命令には込められていたのか?
疑問に反応し、星空からキャスターへと視線を移して呟いた少年の顔には表情がなかった。
「――いいえ。それには及びません。私(わたくし)も本気なのです。手段の是非など問いはしませんよ。聖杯を確実に獲得せんがために、マスターである貴方がそういう手段を選択されるというのであれば、私は唯、それに喜んで従うだけです」
「――そう。だったら良かった」
溶解した心。安堵と共に浮かんだ少年の笑顔とは、温柔で麗しいものだった。
「……キャスター。君は僕の抱いていたイメージとは違う人物みたいだね――」
その穏やかな微笑みを知るからこそ、キャスターは先の少年魔術師(マスター)の言葉に耳を疑ったのだ。
確かに彼が自身のマスターとなってから数日しか経過していない。
だが、それでも彼がこの施設に宿泊している友人をどれだけ大切に想っているのかは、その短い期間であっても十分に理解できたことなのである。
彼の横にいた将仁の顔が、いつもそのように朗らかなで恵み深い表情だったのだから。
「それは私もですよ、将仁(まさひと)――」
だから、キャスターは素直にそう言える。
その友人とは、間違いなく将仁にとってかけがえのない存在。
それにも関わらず、その少年は、それを自らの意志で、全くもって何事でもないように、それを消し去ることを命じられるのだから――――。
この街で迎えた、最初の夜。
将仁はサーヴァントの召喚儀式を行った。
少年がこの街に訪れた本当の理由とは、元々、聖杯戦争に参加するためだったのである。
しかし、そんな理由を他者に明言できるはずもない。
魔術とは秘匿するもの。魔術師は、その存在を公にしてはならない。
少年は世間的には一応、一介の高校生でしかないのだ。
社会人ではない、そんな一学生が旅行に出るには、それなりの体裁が必要だったのである。
居を構えている地方都市から、この首都近郊に存在するベットタウンへと赴くために取り繕った、その表向きの理由。
彼はそれを、来年に控えた大学受験の下見ということにしていた。
もっとも、それを語ったのは少年が在籍している学校に対してでも、肉親に対してでもない。
学校はわざわざ申請などしなくとも春休み中なので自由に旅行はできるし、彼には両親はおろか、生活を共にする家族でさえも存在していないのである。誰かが彼の行動を、抑制し反対するわけではないのだ。
それは反対する者に対して用意された詭弁ではなく、同行する者に対して用意された虚言だった。
偶然にも、同じ『夏川市』という土地を訪れることとなった友人に用意した虚妄だったのである。
大学野球部の春季キャンプに招待され、参加するためにこの街を訪れることとなった同級生。それは彼一人のために。
違和感なく、この街でもいつものように彼とつるんで過ごすために捏造された嘘だったのである。
流儀も美徳も放棄する覚悟があるとキャスターは語った。
聖杯を手に入れるために、彼は過去に作り上げた自身を壊すことをも厭わないと、マスターとサーヴァントの契約を結んだ夜に少年に誓った。
数多の創作物に登場する彼のイメージ通り、彼は本来ならば善玉(ベビーフェイス)だ。
将仁の下した命令など、生前の彼であったのならば考えるまでもなく拒絶された悪行(こと)なのだろう。
それでも、その魔術師のサーヴァントは『喜んで従う』と応えたのだ。
それは彼の口にした覚悟が、偽りではなかったという証明に他ならない。
ならば同じく、自分にも覚悟があるのだと。
日常と決別し、眼下に拡がる安寧(あんねい)を破壊する根源となる決意があることをキャスターに示す必要性を将仁は感じていた。
――――そして、それが彼の願望なのだから。
平穏なる日常。
将仁にとっての、その象徴の破壊。
それが長浜(ながはま)将仁(まさひと)が、自ら行うべきだと判断した今までの人生との永別儀式だったのである。
「さあ、キャスター。泰山府君(たいざんふくん)の祭祀(さいし)を――――」
再度、少年の口から魔術師の英霊に命じた呪術の発動。
それこそが、先の残虐な命令そのものだった。
祭祀とは、神を祭ること。
その祭祀で奉る神『泰山府君』とは冥府の神、人間の生と死を司る神の名前。
その泰山府君を陰陽道の最高神霊、森羅万象さえも司る主神と位置づけたのは、生前のキャスター自身に他ならない。
そして、陰陽道の秘術中の秘術として、その一切が謎の中に在る泰山府君の呪術とは、その内容について、このように文献に記されている。
――――何者かの命を救うがために、この祭祀をもって、他の人間の命と取り替えましょう、と。
それは命の力を交換・変換し、他者へと移動させる魔術。
少年のサーヴァントは薄く微笑む。
そして、舞を舞うように、その手に扇を構え、操りながらキャスターは言葉を紡ぎ始めた。
陰陽五行の理に因り、森羅万象を操る呪言(じゅごん)を偉大なる陰陽師は詠唱する。
その足は泰山府君の司る天体『北斗七星』を象り運ばれ、反閇(へいばん)と呼ばれる歩行呪術を実践していた。
泰山府君の祭祀とは、有史以来、世界規模でも稀有な能力を有した魔術師であるキャスターの辿り着いた、陰陽道魔術の終着点・究極点。
ホテル区画一帯。
その儀式魔術の及ぼす効果範囲に於ける人的被害とは、この時間帯であれば百数名規模だろうか。
それだけの無差別大量殺人行為とは、しかし、マスター・サーヴァントにとって、意味のないものではない。
単に将仁のセンチメンタルによる命令であったのだとすれば、キャスターは令呪の一つ程度の強制力では、断固として魔術を行使しなかっただろう。
その凶悪な儀式は、キャスター自身を強化する目的が在ったのだ。
霊体であるサーヴァントは、人の霊魂を取り込むことで強化できる。
この大量虐殺行為による犠牲は、将仁とキャスターの力として活かされるのである。
――ぐらりと。
――世界は歪み、朱に染まる。
その魔術の支配下にある人間は、そう認識したはずである。
徐々に、徐々に。
そして、身体が惰弱していくことを感じ、やがて意識が遠退けば、後は完全に魂が魔力へと変換され始め、生命が薄まり、消失し――――眠るように死ぬだけだ。
痛みを伴うことがないことが、せめてもの慈悲である。
「――――さよなら」
白く染まる言葉を放つと、将仁は再び空を仰いだ。
◇
「――くっ!」
「貧弱だなァ!」
神槍を容易く弾くのは神剣。
焦りを零すランサーに対し、セイバーは現れた時点同様の不遜な笑みを浮かべていた。
同じ国づくりの英雄でありながら。同じような功績を神代に残しながら。
戦力的に拮抗して然るべきであるはずの両雄に、しかし、その差は歴然と生じていた。
確かにランサーには、宝具を放ったための魔力消費が影響しているという負要因もある。
だが、それだけが理由ではなく、ランサーとセイバーという存在には大きな相違があった。
それこそが、本来、純粋な戦闘能力で劣って当然であるライダーが、ランサーとも互角に渡り合えた要因でもある。
セイバー『倭建命』。
ライダー『なよ竹の赫映姫』。
二騎の英霊には、ランサー『誉田別尊』と比較し、圧倒的な知名度があるからだ。
霊体である彼らの存在は、そこに暮らす人々の認知度に強く影響される。
つまり広く知れ渡った英霊は、サーヴァントとしての能力に、その分の補正がかけられるのである。
幾筋も飛来するライダーの魔術槍を払いセイバーは戦場を駆ける。
「いいぞ! もっとオレ様の覇道を邪魔してみせろ! ライダー!」
神剣をこの上なく最小限に振るい、払い、障害を切り伏せると、己が進む道を拓く。
「――――もっとも貴様ごときに叶うものであるのならばなァ!」
近接戦最強の呼び声を証明するかのように、己を誇示する。
ライダーの攻撃に晒されながらも、その上でセイバーはランサーとの距離を詰める。
気圧され、じわりじわりと後退を余儀なくされる槍兵のサーヴァント。
「我が血筋にありながら、無力! 無様だなァ! ランサー!」
「セイバーッ!」
蔑み迫るセイバーを前に、奥歯を砕けんばかりに強く噛み締め、ランサーは憤怒を殺し、冷静であろうとした。
沈着に行動をせねば、この窮地を脱することは困難であるとランサーは知る。
槍兵のサーヴァントの特徴でもある機動性を駆使し、反撃の足がかりとすべく、剣兵の猛攻を、騎兵の横槍を耐え、ランサーは力を溜め、逆転の一手を穿つ瞬間を待つ。
相対するもう一つの陣営。ライダーはその魔術によって飛槍を放ち、弾幕と、囮とする。彼ら国づくりの英霊の行動を制限するべく、或いは誘導するように、その魔術を行使する。そうして、セイバーとランサーの戦闘経路をも巧みに利用すると、ライダーは真っ先に狩るべき標的の背後へと見事に位置取っていた。
「貴方に命を――」
剣士の死角を取ると、ぽつりと呟き、ライダーとしての能力を少女は急激に解放する。
騎乗するものを自在に操る能力。
ライダーの魔力がガスタービンエンジンの鼓動を暴走・爆破崩壊領域で安定させる。
「あくせる――!」
少女が魔力を緩めることなくアクセルグリップを絞り込むと、白銀の駿馬は甲高く嘶いた。
爆音を響かせ、姫君は銀色の機体を駆り、二騎のサーヴァントへと急襲する。
獲物を襲う瞬間は、最大の隙でもある。
その目標は剣士の英霊。
ライダーとて、セイバーの戦闘能力に慄いていたのだ。
彼女にとって、優先して潰すべきはランサーではなくセイバーなのだと判断されていた。
ライダーから判断するセイバーとの相性は、分が悪いと言わざるを得ない。
彼女の放った飛槍とは、如何に魔力による強化が為されているとはいえ、あくまで竹で作られたモノである。
それを彼の宝具は『振るう』という行為だけで、完全に無効化しているのだった。
彼の剣士の持つ剣とは草を――植物を――薙ぐ剣。
セイバーの愛剣は、振るわれることで対植物属性系攻撃への絶対的な対消滅結界を展開させているのだ。
それは彼女の攻撃方法の大部分を無力化しているということに他ならなかった。
――――巨大な光弾へ。
セイバーを襲うべく鉄馬は、音速を破るのみならず、時空間さえも捻じ曲げて膨張変形させるかの勢いで加速する。
しかし、背後に在る危機を前に、剣士がしたり顔で口元を歪めるのを、ランサーは見ていた。
強大なレーザービームとでも言うべき、光の軌道。
その光道を、己がサーヴァントが生じさせようとした直前。
「ライダー!」
彼女のマスターが叫ぶ。
そう叫ばせたのはロミウス・ウィンストン・オーウェンの直感だった。
もしも青年魔術師が、セイバーのマスターとの戦闘を有利に進めておらず、自身も懸命であったのであれば、この一言はなかったのだろう。
魔術師同士の戦いで敗北が決まろうとしていたマスターを放置していたサーヴァント。
既に市中へと逃走し、サーヴァントを戦術的な意味もなく置き去りにしたマスター。
それは少なくともロミウスとライダーが、どうのような状況であれ、サーヴァントとマスターが共闘している関係であるということを、その2組と比較して、より良い形に昇華させていたという表れでもあった。
「――ろみうす?」
刹那の時。
しかし、確かにライダーはマスターの声を聞いていた。
瞬間、彼女は自身の宝具の力の一旦を解放する。
――――交錯。
ランサーを蹴り飛ばし、セイバーは振り向き様に草薙の剣を閃かせていた。