――不意に。
その中世の魔術師は訝しげに空を一瞥した。
夜間人口の極端に少ないオフィス街周辺区域は、昨今の過敏とも感じられるエコロジーに対する関心とも相まって深い夜闇に包まれており、市中心部近郊に在りながら思いの外ビル間に浮かぶ月と星とを美しく見せていた。
しかし、唯、それだけ――――。
現状、その視界にはそのような趣こそあれ、異変自体は何も見受けられはしなかった。
そこには聡明な彼が、危険な状況下で敢えて意識を逸らすべき要因は決して視認できはしない。
それでもキャスターは、間違いなくそれらを認識していたのだった。
魔術師の英霊が瞬きを一つ行う程度の、極々僅かな時間の経過の後――――。
その視線の先にあったオフィスビル上層部の一角が崩壊すると、その穿たれた空洞からは巨大な鉾を手にした槍兵と、白い大鎧に身を包んだ偉丈夫が飛び出す。
キャスターが視覚や聴覚に頼らず、それでも確かに感知していた彼らは、自分たちと同じく、その戦闘に於いてある程度の優劣を明確にしているようだった。
「――ランサーとバーサーカー、だね」
瞬間的とはいえ、自身のサーヴァントが戦闘中にも関わらず気を逸らしたことを察した長浜(ながはま)将仁(まさひと)が、キャスターに続いてそれを認識する。
頭上を高速で過ぎった交戦中と思しき2騎のサーヴァントを、その少年は辛うじて目視し、それぞれの英霊が配された役割(クラス)を判別していた。
「――将仁」
「……判ってるよ。キャスター」
自らの見解を告げようとしたキャスターの声を、そのマスターである魔術師は遮る。
十二神将を盾にして後退を始めていた彼らは、それを区切りと判断したのだった。
限りなく『敗走』という言葉に近い『撤退』。
確かに彼らは今宵、伊達(だて)祐樹(ゆうき)という少年を亡き者とし、セイバーらを聖杯戦争の舞台から早々に排除しようとした。
遊びや様子見などではなく、それは二人の魔術師が総力をもって為し得ようとしたことである。
だが、あくまでそれらは、全ての排除対象に関する事情が、予測された底辺レベル付近で展開された場合に於いて設定していたノルマでしかない。
だから、その現状は将仁の誤算がもたらしたものではなかった。現在の戦況は、あくまでも彼の想定していた範疇でしかないのだ。
むしろ、彼に言わせれば状況は十分に御し易い展開だと言える。
彼女が立ちはだかるであろうことは十分に予想できていたこと。
彼女が変わらず陰陽寮と宮内庁側に付いていたことから、誰をサーヴァントとして目の前に現れて、交渉が――二人の関係が――決別の道へと至るであろうことすら、将仁には容易に想像できていた。
唯一、予測の目処がついていなかったのは、親友の『魔術師』としての目覚めの具合。
しかし、それとて、最悪のケースとして設定していた『完全なる覚醒』に至ることもなかったのである。
全ての、最も不利な展開となる可能性を示唆したからこそ、少しでも己がサーヴァントに余力を必要としていた。
だからこそ、令呪を行使しようとしてまでキャスターに泰山府君(たいざんふくん)の祭祀(さいし)を行わせたのだ。
故に将仁に焦りはない。
それも当然のことなのだ。
今という結果は、彼にとって最も警戒すべき二組の敵戦力の現状を、具に把握できたという確かな成果でしかなく、これから遂行すべき計画には一切の修正事項はなかったのである。
そしてそれ以上に、彼は一種の喜びを感じてさえいたのだ。
祐樹は、生命の危機に際して尚、自分と心を通わせたままの真っ直ぐで優しく強い心をもったままの好人物で――。
伊万里は、可憐で儚げでありながら、変わらずに崇高な想いを強く抱き、愛おしい存在のままだった――。
「――――抑止、できるかな?」
将仁はいつも見せていた柔らかな笑みを、そこに浮かべる。
――――直後。
地上に広がった焦土、その上空の一切を、暴威をふるう風の渦が覆い隠した。
「ほう。負け犬は負け犬らしく、只、地を這い蹲うだけのものかと思ったが――――」
自身の頭上を戦場としていたのであろうサーヴァントの存在。
キャスターらに僅か遅れを取るも、それを認め、一帯を焦土と変えた張本人はさも感心したように呟く。
「セイバー!」
戦闘中であるにも関わらず、悠長に空を仰いだサーヴァントに叱責した彼女の声は、しかし彼の英雄に届きはしない。
月夜を呑み込んだ分厚い風の緞帳。異常たる空模様を描き出した、その魔法にさえ近い事象。
それを引き起こしたであろう宝具に、英霊に、二人は心当たりがあった。
神槍『隼風』。
つい数刻前に交戦したサーヴァント、ランサー。
「――彼(あ)の鉾も中々に遊べそうな玩具だったようだ」
まだ自らが戯れるだけの価値をその槍兵に見出したか、ただ悠然と変異を仰ぎ見ながら剣の英霊は嘲笑する。
そこには自身もまた交戦状態に在るという気配は一抹も窺えることはない。
否。その英霊は如何な状況下であれ、その尊大な態度を崩したことは一度としてなかったのだ。
彼と、彼の背後に構えるツインテールの少女を取り囲む、キャスターの宝具でもある式神たちが身構え直す。
隙あらば攻勢に転じようとした彼らが、あからさまに存在したセイバーの虚を衝かず、こちらの動向を注意深く見守る。
干戈を交えている相手の撤退。その変化は有栖川宮(ありすがわのみや)里子(りこ)にそれを感づかせた。
「セイバー! 目の前の討つべき敵に集中して下さい!」
慢心する己がサーヴァントを里子は『再度』戒めようと語彙を荒げてみせたものの、セイバーが聞き入れるはずもなく、それは虚しくも徒労に終わった。
ただ徒に。そんなサーヴァントの態度が、結果、彼女と敵対するキャスターのマスターとの縁(えにし)を、ここで断ち切らせはしなかった。
セイバー対キャスター。
その戦況は、セイバーが終始優勢に戦闘(こと)を進めていたと言って過言ではなかった。
セイバーの解放した圧倒的な威力を秘めていた対軍宝具。それを受け止めることとなったキャスターの最強の防壁で『あった』宝具結界。
しかし、その結界を以ってしても、日本神話最凶の邪龍の力を防ぐことは敵わなかったのである。
それでも、キャスターとそのマスターが存命しているという現状は、彼が歴史的にも非常に稀有な実力と才能を有した魔術師であるという事実の表れだった。
通常の形態で受け続けたのであれば、終には打ち破られるであろうことを唯々冷静に見越し、魔術師の英霊は急遽、新たな術式を組み、より強固な結界を形成せしめたのだから。
だからと言って、それは劣勢を覆し得るものではない。
防壁はあくまで防壁。
さらには魔術師のサーヴァントはそれでなくとも、備蓄した魔力を連戦、宝具の連続解放によりほぼ使い果たしていたのである。
だが、それでも――。
セイバーは結局、敵を畳み掛けることはせず、終にはキャスターに撤退を成功させるだけの余裕を与えてしまったのだった。
聖杯戦争に参戦する魔術師(マスター)のみならず、彼らに助力する英霊たちとて、聖杯に願すべきものを持っている。
だからこそ、英霊という優れた存在である彼らが一介の魔術師ごときに付き従い、戦いに望むのである。
であろうにも関わらず。
セイバーは必倒すべき敵を見逃してしまった――。
ならば。里子は彼の何を信じてこの先、戦うべきなのか?
敵マスターを、敵サーヴァントを倒すために令呪を使用せねばならぬというのか?
紙片と化して消滅したキャスターの式神たち。
それは彼らとの戦闘の終了を教え、将仁の逃走が完了してしまったことを彼女に知らしめる。
震えた拳を胸元で抑えながら唇を噛んだ少女は、焦土に佇む自身のサーヴァントに視線を向けた。
◇
そこより先はなかった。
園埜(そのや)潤(じゅん)は這い蹲いながら少しでもジュリエッタ・カタリナ・アレキサンドラから遠ざかろうとするも、終には壁際に追い詰められる。
「終わりです。ソノヤ」
「――ひぃっッ!」
その冷たい声を見上げると少年は短い悲鳴を漏らした。幾筋かの鋭い刺剣をなぞった視線の先には、美貌の襲撃者が在る。
風が、世界の半分を浚(さら)った――。
潤は、突然の視界の変化をそう認識した。
涙目にぼやけた視界の半分が、突如、拓けて夜空と繋がる。
そこに在ったはずの外壁は、砂埃と化して風に流されて失われてしまったのだ。
それが自身のサーヴァントに因る現象であると、少年には決して理解できなかった。
「……恐ろしい宝具ですね。バーサーカーを滅することの叶う神槍ですか――」
対する麗人は、それを知る。
突きつけた黒鍵の先。
見下ろしていたランサーのマスターから視線を風音の方へゆっくりと向けると、ジュリエッタは焦る色なく己がサーヴァントの死を悟り、そう呟いた。
元寇――文永(ぶんえい)の役(えき)、弘安(こうあん)の役(えき)。
2度に渡るモンゴル帝国の日本遠征に於ける戦争。
この時、そのどちらをも劣勢にあった国を救い護った神風とは、武士たちの崇め奉る武神・八幡大菩薩の加護であったと云われる。
隼風とは、この事象を具現化させた宝具でもあった。
隼風を中心に周囲の大気、大源(マナ)を激しく震わせ、大渦を形成し、あらゆるものをその淵へと巻き込む。真名の告げられたランサーのその神槍は確かに解放されていた。
矛先にまで迫っていた狂戦士のサーヴァントは、その滅びの風の奔流に、確信していたかの様な勝利の雄叫びごと、呑み込まれ、容易く掻き消されて逝く――――……。
その宝具は、敵対する者を等しく打倒し、討伐せしめる必倒の神槍。
その滅びの竜巻に呑まれたものは、何人でさえ、どの様な物質でさえ、虚無へと還され、消え失せるしか術を持たない。
ヨーロッパまでをも席捲し、世界史上最大の世界帝国を築いた強大な元の軍隊。それをも鎧袖一触、一蹴にして二度をも退けた神風はかくも猛る。
バーサーカーの白い大鎧が、あたかも砂で誂えていた物であったかのように巻かれた風に塵と散っていく。
芥に粉砕された鎧兜の下から露わになったのは、鈍い鉛色の肌だった。
鉄(くろがね)を思わせさえする質感を持ったそれとて、しかし、隼風の生み出した暴風は、容易く皮を削り取り、筋肉を削ぎ、骨を粉に変えて消滅させていく――――。
有を唯、無へと――――。
顔面を覆った白い仮面も雄々しい星兜に続いて終には崩れ落ち、その素顔を晒すと同時に、狂い武者の姿は急激に強制的に風化させられ 消 え て い … …
サーヴァントたちとは立場を異にした二人のマスターは、崩れ去った壁の向こうに窺えた両雄の激突の瞬間を見ていた。
ランサーの宝具を前に、急速に削られ消失して逝くバーサーカー。
その光景を目の当たりにし、希望の色を瞬時に灯した潤は勝ち誇ったように盗人(アレキサンドラ)へと視線を移す。
しかし、彼女に絶望の色は全く感じられはしなかった。
疑問。驚き。
そんな彼女に対して幾つかの感情が弾け、三流と烙印を押された魔術師は珍しく冷静に一つの思考を導き出す。
――否。そもそもサーヴァントとサーヴァント、マスターとマスターとの優位性は端から一致していただけなのではないか、と。
そういう思考を常時行えていたのであれば、彼の聖杯戦争は全く違った道筋を辿っていたのかも知れない。
だが、潤の運命は既に決定されていたのだ。
「……ですが、バーサーカーを殺し得るサーヴァントが存在しようとも、バーサーカーに勝利し得るサーヴァントは存在しないでしょう」
思考。運命。それを確かに裏付けるように。
少年の眼に映った美しき修道女は、潤のサーヴァントに訪れるであろう結末を静かに悟り、薄く微笑んでいた。
狂気がブレた――――。
狂気が揺れ動いた――――。
無へと散り逝くバーサーカーに、一瞬、そのような異変を感じると、靄のような、霞のようなモノにまで成り果てた、一瞬前までは彼の肉体だったモノの中に、ランサーは殺意を垣間見た。
狂気と殺意とを固め象った輪郭(カタチ)。
それは自らの肉体だった塵、芥の中から新生したバーサーカーの巨躯に他ならなかった――――。
「――2!?」
直感的に数を呟いたランサーの顔に、同時に驚愕の色が浮かぶ。
――彼(バーサーカー)は例え英霊と言えども、絶対であるはず死を超越した武人――否。或いは眼前の偉丈夫とは、
狂い武者の狙いは一切、変わらず。
バーサーカーの挙動は、その身が一度潰えた瞬間からの再動。さも何事も無かったかのように継続されたものだった。
即ち。
ランサーの眼前には、殺意を纏った白い狂気が肉薄していた。
爛々と鈍い紅の双眸が、仮面の亀裂の向こうからランサーを捉える。
凶戦士を迎え撃つ槍兵に、もはや手は無い。
「――――違う」
そこでランサーの驚きは全て消え去った。
彼は確かな解を得たのだ。
――バーサーカーとは、何故、動
「単に別の――――
――ならば、その真名とは、
その言葉は、その思考は、そこで中途半端に途絶えてしまう。
それは、再度大きく大気を震わせたバーサーカーの雄叫びに掻き消されたこともある。しかし、何より、ランサーが、その言葉を発する器官を――、その思考を結論付ける器官ごと――――、
「■■■■■■■■■■■■■■■■■――――!!」
凶戦士の振るった六角の金棒は、鈍い不快な異音の混ざった破砕音をビル間に木霊させていた。
そして。
その白い巨躯のサーヴァントは、確かに、マスターからの命令を完遂させる。
バーサーカーから離れ行くランサー。
頭部を砕き散らされ、首より上を失ってしまったその骸は、無常にも、只、慣性に従い、無残にも、只、再び宙を弾け飛んでいた。