初めて遭遇した時から、分かっていた事だった。
古明治こいしと名乗る少女が、本当は誰なのか。何者であり、普段は何をしていて、そして何処へ住んでいるのか。
霊夢はそれを知って、敢えて先手を取らず、正体を確かめに踏み込んだ。
「……愚策だった……!」
否にして、然り。
確かに同じ顔に同じ声。言動にまるで差異はあれど、その姿を下級生の古明地さとりと結びつける事は、霊夢にとって難しくなかった筈だ。交渉のそぶりも見せず強襲すれば、或いは宝具の発動を許す事無く、仕留められたかも知れない。
だが――誰が、そう出来ただろうか。
後輩に。同級生の友人に。同じ学び舎に通う、小柄な女学生に。敵〝かもしれない〟というだけで、斬殺の命を下せただろうか?
先に手を打っていればと、霊夢は悔やんだ。殺していればとは思わない、思えない。この寸拍、その発想にさえ至らなかった。
「りゃああぁっ!!」
セイバーが今一度、斬撃を放つ。刃は届かない――黒谷ヤマメはさとりを抱えて、天井に張り付き難を逃れた。
枯れ木の如き病弱な四肢――対照的に分厚い甲殻を備えた、背より伸びる四つの脚。先端に備えた爪は、自重の数十倍を吊り支える鋼にして――〝病(やまい)〟の様を示す宝具。
マスターを腕に抱えたまま、ヤマメは天井に溶けて消える。戸の隙間から病毒が忍び込む様に、アサシンはあらゆる壁を擦り抜ける事が出来るのだ。
天井を破壊して追う事は出来たかも知れない。だが、セイバーとて視覚情報を主として戦う者だ。市街地でその様な暴挙に出て、自分が交戦中であると、複数の敵に知らしめる事もあるまい。
それよりも、優先すべき事がある。八方に散らばって行った魔力の行方だ。
「あれも宝具、今のも……どっちが本物よ!?」
「どっちも! 宝具の二つくらい、珍しい事じゃない――私もだからね」
一つのサーヴァントに、宝具が一つと決まっている訳ではない。考えられる事ではあったが、今の霊夢にはそんな事さえ驚愕に値した。というより――全ての事物を、今は冷静に受け止められずに居る。
決断が鈍った。だから好機を逃した。次の決断は迅速に行うべきだろうが、そう思う程に焦りが脳を灼く。セイバーの呟きがどれ程に重要な事であろうと、この時は意識出来ずに居た。
然し、立ち止まったままでの愚考は、この少女の性質と相違する。直ぐに〝行動しながら〟の思考を開始した。
家の外へ飛び出し、目的は無くとも周囲を見渡す。何か、思考の手がかりは無いものか。巣へ潜れと、さとりは言った。素とはどこの事だ――?
「セイバー、引き籠るのに必要な物は?」
「屋根、壁、食糧……人妖のも、サーヴァントのも」
雨風、他者の視線に銃弾を避けられる環境。外へ出ずに生きる為には、食糧は不可欠――水は水道さえあれば十分。
「逆に聞くわよ霊夢。それが揃う場所は?」
「……白玉楼通りのショッピングモール群。住宅地方面だと大型スーパー――……いや、違う、違う!」
蜘蛛が巣を張るのは、決して一瞬で出来る芸当では無い。時間を掛け、得物を捉えるに十分な強度と、己が動き回る為の足場を組む。
今から巣を張りなおすのではなく、過去に張り巡らせた糸を流用するのであれば――住宅街にある古明地家から、〝古明地こいし〟が徒歩で歩き回れる範囲内にある施設が有力だろう。
だとすれば一か所、これ以上は無い場所が有る。壁は厚く天井は高く、調理前ではあるが大量の食糧を有し、何よりも多くの人妖が集まる場所。古明地さとりが歩いていたとて、誰も疑問を抱かない場所――!
「セイバー、担いで。学校まで走って!」
「了解、マスター!」
女性が女学生を担いで道を走る――奇妙な姿ではあろう。
だが然し、人目をはばかる余裕など、今は無かった。
私立命蓮寺高等学校は、放課後に特有の賑やかさに包まれていた。
今日はもう学業に手を染める事なく、思う存分に趣味と部活動に時間を捧げられる。そうなった時の学生達は、社会人とは違い疲れを知らない。
広い校庭だが、トラックは陸上部と野球部、それにサッカー部が団子になってランニングをしている為、恐ろしく狭くなっていた。
校舎のベランダには吹奏楽部。屋内では音が喧しいからと、外へ向けてパートごとに、タイミングを合わせず音を吹き鳴らす。金管楽器は冷たかろうが、彼等彼女等の額からは、湯気がもうと立ち上がっている。運動部並みの運動量、汗の量も並ではない。
が――文科系かつ運動量というならば、負けていないのが合唱部だった。
声量を保ち、一日に数十曲――或いは数百曲を歌い通す体力を保つには、筋トレが必要不可欠。三年の女子部長など、腹筋が八つに割れているともっぱらの噂である。
「あー、あー、あーあーあー……あーあ」
そんな部活も、今日は週に一度の自習日、つまりは休日。ミスティア・ローレライは一人、屋上で発声練習を行っていた。
天性の美声もトロンボーンに掻き消され、校庭までは届かない。だが、溜息の理由は、そんな事では無かった。
「……あーん、もー! しゃんとしなーい……」
翼をぱたぱたと羽ばたかせ、両手もそれに負けずばたばたと振り回す。子供が駄々をこねるような姿である。
彼女の歌声の魅力は、人を無条件に引き寄せる色気にある。
とは言っても彼女の場合、年齢や外見の幼さも有って、いわゆる女性的な色気は薄い。どちらかと言えば中性的、或いは少年的な色合いが強い――強かった。
その声が、自覚できる程に変わってしまっている――ここ数日ばかりで。
原因が何か、自分では分かっていない振りをしていた。然し、見えぬ振りばかりもしていられないので――闇夜でも夜目は梟並に利く――真っ直ぐに見つめる事にした。昨日の夜の事だった。
そうすると、ベッドの中で身悶えをする羽目になる。掛布団を蹴り飛ばし、枕を投げ捨て、シーツはぐしゃぐしゃにして、寝不足に悩み、そして今朝は寝坊で遅刻ギリギリだったのだ。
上級生達には褒められた。顧問にも、今日は調子が良いのかと、非常に上機嫌で尋ねられた。調子の良さが数日も続くと、上達の理由を何人にも聞かれたが――
――言える訳も無かった。
「あー! あー! あーーー! うあーん! どーしよー!」
発声練習の筈が、大声を出す練習に変わっている。ひとしきりじたばた暴れて、屋上に積もった雪の上に、仰向けに寝っ転がった。
声の色が変わった理由は、数日前の上級生の気まぐれに有った。
普段は超然と――と言うより、何を考えているか良く分からない変人やも知れぬが――孤高を貫く彼女が、自分の声に耳を傾け、足を止めた。
そればかりでは無い、話しかけてくれたのだ。必要が無ければ、一日誰と会話せずに居られそうな、あの彼女が。
最初は何か、機嫌を損ねたのかと思った。僅かに怯えながら尋ねてみれば、全くそのような事は無い。寧ろ彼女は――自分の声を、好きだと言ってくれた。
困惑しつつも嬉しかった。ああも真っ直ぐに褒めてくれる人は居なかったから。だから胸の高鳴りも、称賛を得た喜びだけに起因するものと思い込んで――高鳴りが膨れ上がり、呼吸が苦しくなって漸く、この感情が何かを理解した。
理解した瞬間から、ミスティアの声は美しくなった。ただ愛らしいばかりではなく、足を止めて長く聞いていたいと思わせる、他者を誘引する力が増した。然しミスティア本人が、それを喜んではいなかった。
「どうしよう、どうしよう……上手く歌えないよう……」
周囲の評価は良い、それは確かだ。だが、皆が褒めている声は、〝彼女〟に褒められたあの声とは違った。
好きだと言ってくれた、わざわざ近くに来てまで聞いてくれた声。もっと長く聞かせたい、もっと良くして聞かせたい――もっと楽しませて、喜ばせて、褒められたい。そう願えば願う程、声は元の自分と違うものになっていく。
ミスティア・ローレライは、少し幼すぎたのかも知れない。幼くて、そうでありながら、音に敏感過ぎたのだ。
声に生まれた差異――本来なら成長と呼ぶべきそれを、己の不調と取り違え、元に戻そうと歌い続ける。だが、正しく歌おうとすればする程、上達は愈々留まる所を知らず、艶歌の性は強まるのだ。
「……ちゃんと歌わないと……泣いてちゃ駄目だ、がんばれ私! おー!」
つまる所、ミスティアは、あまり賢くは無いのである。
賢くは無いのでくよくよしてはいるが、実際は簡単に解決する悩み事――〝彼女〟に実際に聞かせてみれば良いだけなのだ。
益にならぬ悩みを抱え、もう一度発声練習からやり直そうと、息を胸一杯に吸い込んだ時――
「―――……っ」
冬の大気は冷たい。だが、肺よりも尚、背筋に寒気を感じた。妖怪も人も区別無く備わっている、異質への本能的な――敵意というべきか、嫌悪というべきか。そんなものが背筋を駆け上がり、首を擽ったのだ。
そうっと背後を振り向く。特に何か、おかしなものが有った訳でも無く――ただ、古明地さとりが。同学年の物静かな少女が、そこに座っていただけだった。
「あれ……? さとりだよね、どうしたの?」
「いえ、特に……歌を聞いていただけですよ」
目を閉じ、音を楽しんでいたのだろうか。そういう客も聴衆にはまま見掛ける。音を楽しむのに、他の情報は極力排除するという物好きだ。
ミスティアは、自分にそう言い聞かせる。先程の悪寒は、きっと勘違いだろう。大人しく無害なこの少女を、恐れる何事も有りはしない。
「楽しそうな声。好きな人が出来ましたか?」
「えっ……えっ!? いや、えっ、そんな事無いよっ!?」
薄暗い事を思っていると、いきなり図星を突かれてしまった。
自覚は有る。明確に言葉にしていないだけで、ミスティアは早い話が、〝彼女〟に惚れてしまったのだ。
「ふふっ、分かりやすい。もう少し上手にごまかしたらどうですか、にとり先輩じゃないんだから」
「いや、違う、違うってば! いきなり変な事を言われたから驚いて――」
「良いんですよ隠さなくて。三日前からでしょう、歌い方が変わったのは」
「――……っ!! ああも―! あーもーっ!!」
連続で本心を言い当てられて、ミスティアは声の限りに叫んだ。肺活量に自信のある彼女をして、息切れを起こさせる程に叫んだ。
雪が積もる屋上に手を着き、肩で息をするミスティアを、さとりは目を閉じたままで笑い、近づいて肩を叩いた。
「……いいじゃない、相手が女の人でも。誰も変に思わないわよ」
「うーっ……どうして分かるのよー。秘密にしてよね、本当に……?」
洞察力に優れているのは知っていたが、そうまで知られていたとはと、ミスティアは顔から火が出る思いであった。
そもそも古明地さとりという少女が、誰かの色恋沙汰に興味を持つなど、計算の外だった。
そんな事をするくらいなら上級生の教室へ行き、河城にとりの発明品に毒を吐いて楽しんでいるだろうと、そういう認識しかなかったのだ。
「秘密、秘密。約束するわよ」
だが然し、少し面白くも有り、そして楽しくも有った。
自分に無関心だと思っていた同級生だが、こうして話をしてみると、普通の少女ではないか。
目を閉じたままで小指を差出し、指切りをしようとするさとりは、何とも優しく柔らかい微笑みを浮かべていた。
「……それじゃあ、指切り。嘘ついたらハリセンボン投げつけるからね!」
「大丈夫よ。貴女がアリス先輩に恋焦がれて、夜も寝られず身悶えしているなんて言わないから」
「ほら言ったー! いきなり言ったー! もー!」
早速約束を破った同級生――いや、新たな友人候補。仕返しと頭をひっぱたいてやるつもりで、ミスティアは右手を振り下ろした。
古明地さとりは目を閉じたまま、それをやすやすと避け、後方に一歩下がった。
「……えっ?」
「大丈夫。夢の中で先輩に迫られて、それを受け入れちゃって自己嫌悪した事も。夢の続きを見直そうと、二度寝にチャレンジした事も。
ラブレターを書いて靴箱に入れようとしたけど、先に入ってたラブレターの封筒が豪華で、見比べて引き下がっちゃった事も――」
優しく、優しく、覚は毒の液を零す。
胸の内に扉が有るとしたら、その鍵はミスティア自身が持っている筈だった。だのに今、鍵はさとりの手に奪い取られている。
「ああして顎を持ち上げられた時、少し期待をしちゃったのを自分で思い出して、授業中に変な呻き声を出しちゃったり。休み時間にはアリス先輩の様子を覗き見に行ったらしいわね。霊夢先輩と並んでいると、絵になるから悔しいって思ったのね……分かるかも。暗いわ、黒いわ、でも健全な嫉妬。緑の目にはなれないみたい。
自分以外の誰かと親しそうなのを見て、寧ろ安心したなんて良い子ねぇ。あっ、でも今貴女、私を怖がってるでしょう」
ミスティアが後ずさる。さとりが目を閉じたまま、完全に歩調を合わせて追う。
見られていたのか? いいや、それは無いと思った。見ているだけで推測するにしても、彼女の言は細かにミスティアの心を言い当てていた。
「……さとり。あ、あなた……目、どうしたの?」
何よりも、閉ざされた瞼の、平坦さが怖かった。
「知りたい? じゃあ――」
動けない。蛇に睨まれた蛙――いや、小鳥の雛の様に。手足は酷く震えているが、倒れ膝を着く事さえ侭成らない。
肩を掴まれ、少し前屈みにさせられる。こうして漸く、小柄なさとりと、顔の高さが合った。
さとりが泣いている――泣いた様に見えた。流れる涙が赤い、泣いてはいない。泣いているのは自分だ。赤く糸を引いて持ちあがる睫毛と凹んだ瞼に覆われたそこには――
「良く見てね、ほうら」
「ひっ――!? きゃ、あああああああぁぁぁああぁあぁっ!?」
二つの空洞。引き千切られた視神経が、僅かにはみ出す血濡れの眼窩。さとりの両手から屋上に、ころりと眼球が二つ転がった。
色気も艶も無い悲鳴、断末魔の様だ。それさえ、十数台のトランペットに掻き消される。虚ろな洞から目を離せぬまま、それでも恐怖から逃げようと、震える膝に鞭打つミスティアに――
「おお、美味そうな小鳥ちゃん。可哀想にねぇ、いただきます」
――黒谷ヤマメの蜘蛛脚が、背後から毒爪の抱擁を施した。