森の上空。自分の体が不可視になった奇妙を味わいながら、私達は飛んでいた。
「アーチャー、何処へ向かってるの!?」
防風の術は施しているが、防音までは想定していない。風切り音もここまでくれば、ライブハウスの轟音もかくやと喚き立てる。私は声を張り上げ、前に座る少女に訊ねた。
「私も知らん、だが霊夢の所だ! あれを追い掛けてるだけなんだからな!」
返る声も叫んでいる。少なくとも私の声よりは力強いが――まだ、足りない。校庭でアサシンと一戦交えた際の声と比べれば、回復の不足は聞いて取れる。
霊夢の前では二日と言い、私の前では三日と言った、回復までの時間。それはまだ一日さえ経過していないのだ。
単純計算で、回復したのはせいぜい二割未満。この状態での戦闘行為を、望ましいとは思えない。
「精度は確かなの!?」
「ああ、あいつらの動きはセンチメートル単位で把握できる! 時速200km前後、速いぞ、何かを追ってるな!」
もはやアーチャーの技量に関して、何かを疑う事は無くなった。
だから、高速道路でも有り得ない速度を聞いて耳を疑う。移動しているのはセイバーだけではない、霊夢も共に居る筈だ。霊夢は当然だが人間で、結界術は使えるとしても――
「――まさか、隠蔽術も無しで、生身のまま!?」
「ああ! セイバーが背負って屋根から屋根! 視界の隙間を狙っちゃいるが、何人かには見られてるな! 私らみたいにかくれんぼはしちゃいない!」
尚更の異常事態だった。
霊夢は――博麗霊夢は、平穏を望む人物だと思っていた。少なくとも、人の目に付く所で、その様な行動に出る人間では無いと。
とんでもない! 確かに平穏は望み、平穏を保つ為に彼女は行動するだろうが――
「巫女っていうのは、〝そういうもの〟なの!?」
「いっつも〝そんなもん〟だ! 博麗の巫女の天秤は、絶対に軽重を間違えない――本物ならな!
自分の欲求なんか何処にも無い、異変の解決の為だけに走る! 障害は全て取り除き、何も省みない、自分さえもだ!」
異常な存在が街を馳せ、それを誰かが目にする。そんな事態はもしかすれば、目の錯覚と言い逃れられるだろう。
だが、数十や数百の死は取り消せない。だから、先んじて防ごうとしたのだ。
例え己の好む〝周囲の平穏〟を磨り潰そうとも、より多く広くの平穏を守る。利は通り、道義に叶う事だが、
「じゃあ――じゃあ、霊夢は」
「やるだろうな、〝博麗の巫女〟はシステムだ! 駄目だと認定すれば、人だろうが妖怪だろうが、一切を斟酌もせず――!
くそっ! だから見張ってたんだ、〝こうなってたら困る〟から!」
言い淀んだ言葉の続きを、アーチャーは過たず受け取った。
彼女は――博麗霊夢は、敵対者を殺すのか。
そうなるだろうと、理解していた筈だった。今、改めて事実を受け止めて、私は――きっと、青ざめていただろう。
誰かが誰かを殺す様を、私は未だ、見た事が無い。
小さな虫を、獣を、実験の為に殺した事は有る。人妖の様に歩き口を利く者が、死に逝く様など見た事が無い。
彼女はこれから、その光景を作りに行くのだと、そう思ってしまったのだ。
そしてきっと、彼女は遠からずの行動に移るだろう。
彼女の行く先に何が待ち受けていたとしても、最優の従者を従えて、きっと――
「で、どうするんだ!」
「え……?」
「お前が、一体、どうしたいのかだ! 霊夢を手伝うのか黙って見てるのか、それとも霊夢を裏切るのか!」
アーチャーは思考を止めさせてくれない。先送りにしたかった事を、いきなり突き付けて来た。
「は――はあぁ!?」
だが――だとしても〝これ〟は、私に聞いて良い事だったのだろうか?
互いに敵対しなければ利が有ると、私と霊夢は同盟関係にある。それを――積極的に維持するか、何もしないか、裏切るかと言うのだ。
「今の時点で、セイバーだけには勝ちが見えない。アサシンには勝てる、鎧の奴は妖夢が倒す、妖夢にも勝てる。 後は分からんのが二体だが、恐らくその内片方はキャスター、私が十分にやり合える相手の筈だ――パチュリーは参加してないしな。
だから、お前が勝ちたいと思うんなら、アリス。今がチャンスだ、今しかないと思え!」
「何を言ってるのよ!?」
アーチャーはこの瞬間、霊夢達の身を案じるのではなく、彼女達を出し抜く手を考えている。
然し私が声を荒げたのは、彼女らしからぬ理論の構築にあった。
それは決して、彼女の善良性を信じているからではなく――
アーチャーの推察は、常に理由の元に下される。今の彼女の言葉は、多分に願望を孕んだ、現実味のない物に聞こえたからだ。
アサシンには勝てる――確かに一度は撃退した。だが、もう一度勝つには、少なくとも回復を待たねばなるまい。
妖夢――魂魄妖夢、ウォーリア。怪物二体を手玉に取る怪物を、例え相性の良し悪しは有れど、容易く仕留められるとは思えない。
ましてや、正体不明のサーヴァント二体など、勝てると算段を付ける筈があるだろうか。
それは、無い。
短い時間だろうと、彼女と接していれば、違和感に気付く。
根拠も無い勝算を語って、無謀に飛び込んでいくのが流儀では無い筈だ。幾重もの計算に重ねて、数十の策と罠を用意する。それが彼女の――魔術師の始祖たる者の、戦い方の筈だ。
「……アーチャー、もう一度言うわ! 私に、この戦争に掛ける望みは無い!」
つまり彼女が問うていたのは、私の意思だ。
私が勝ちたいと望めば、勝てぬとは言わず、戦うのだろう。
私が勝ちを譲りたいというのならば、躊躇わず霊夢達に力を貸すのだろう。
その選択を邪魔しない為の、似合わぬ大言壮語――それがきっと、彼女の言の意味だ。
「そうか、じゃあ決まりだ――セイバーを全力で援護する、良いな!」
私に叶えるべき望みは無い。私はただ、この戦争を生き延びたいと思った――願ったのではなく――だけだ。
その為の最善策は、霊夢を支援し、他の五騎のサーヴァントを悉く仕留めて、
「分かった――もう一度だけ、また死んでやるよ」
嗚呼、そういえば。いつかは結局、その時が来るのだった。
最後の生き残りが、彼女で無いとするならば――彼女は何時か必ず、今一度の死を迎える。
それがセイバーの刃によるものか――はたまた、私の命令によるものかは分からない。
分からないが、ただ。彼女は己を殺す為に、他者に力を貸すと宣言したのだ。
「……! 見えたぞアリス、学校だ! セイバーが飛び込んでいった、テストスレイブも張り付いてる!」
「状況は!?」
「聞くな、出来れば見るな、最っ低だ……!」
森を抜け、市街地の上空に出る頃。霊夢達はとうに動きを止め、目的地――私立命蓮寺高等学校に飛び込んでいた。
何が起こっているのかは、二つを以て推測できる。過去にアーチャーが説いた、学校に仕掛けられていた結界の詳細。そして今のアーチャーの声。即ち、この二つだ。
箒がぐんと加速する。もはや姿勢制御など念頭に置かず、アーチャーはただ速度だけを求める。
一刻も早く辿り着きたい。一刻も早く戦いたい。惜しむべき魔力を湯水の様に放出し、速度を増し続けるアーチャーを――
――――ひょ、おう。
音は、遅れて聞こえた。
黒衣に身を隠したサーヴァントが、風も巻き上げずに追い抜いて行った。
自動車を追い抜いて、家屋を三件跨ぎに飛び越え、セイバーは直走る。その背で風を受けながら、霊夢は思考を凍りつかせていた。
自分は失策をした。ぬるい考えがミスを生んだ――次はしくじるまいと。それは明らかに、意気込みが強すぎる余り、他の思考に転ずる柔軟性を持たないものであった。
進行方向からは、もはや探知を行わずとも、サーヴァントの気配を色濃く感じられる。隠れるつもりが無いのか――或いは、見つけて欲しいとでも言うのか。
「これ以上、させないわ……!」
「ええ、させない。でも霊夢、〝どうする〟つもり?」
セイバーの懸念は戦場にあった。
そこが学校であろうと、夜間ならば問題は無かった。日は傾き始めているが、今はまだ夕方――当然ながら学生も残っている。
機密保持は捨ててしまったとして、厄介なのは、殺すべきでない障害物の数だ。
現時点のセイバーの移動速度は、時速200km――秒速55m。これでもまだ、全速力ではない。戦闘行為の最中ならば、瞬間速度は更に増す。そしてセイバーの重量は、武器防具を含めれば60kg以上。さて、これで正面衝突でもしてしまえば――?
そうならずとも、刀一振りで工事機械以上の破壊力を生む、圧倒的な力を頼りに戦うのがセイバーだ。針の穴を通すような技量は無い。巻き添えにせぬ自信は持てないのだ。
「どうもしない。どうにかする、手立てがあるの?」
霊夢は悩まない――悩もうとしなかった。
何故ならば、もう校庭が見えていたからだ。部活動の時間だろうに誰も居ない――鳥の影さえ見えない、寒々とした校庭が。
セイバーの目ならば、校庭の雪に残された足跡まで見える。多少の風は吹いているだろうに、足跡は殆ど崩れておらず、この寂しさは長時間続いたものでないと分かる。
校舎に目を向けてみれば、ベランダも屋上も、居るのは踏み荒らされた雪ばかり。人影は全て屋根の下、壁の内側へ消えてしまったのか、或いは――?
最後の跳躍に加え、短距離の飛翔。セイバーが屋上に着地した瞬間、霊夢はその背から飛び降り、懐から数枚の札を取り出す。
何れも、護身用にするならば威力が過剰に過ぎる、攻撃的な術を封じたもの。霊夢はこれを、人妖問わず、生き物に使った事は無い。
然し、使い方は心得ている。どう発動させ、どの様な結果を生むか、物言わぬ無機物で試し続けた。対象が少し動き、少し言葉を発する物になった所で――
「何も変わらないわ。セイバー、最大の警戒を払って」
「言われなくても!」
決意を言葉と発するに合わせ、セイバーは屋上の床を――四階の天井を踏み抜いた。
階段を下りていくのは、敵方も予測している筈だ。虚を突くというよりは、虚を〝突かれない〟為の方策。セイバーは既に、戦闘の為だけに思考を回転させている。
天井の破片と共に、まずセイバーが。ついで霊夢が飛び降り、すぐに背中合わせになった。
四階――静かなものだった。天井から吹き込む風と違って、廊下の空気は暖かい。近くの教室で暖房をつけているのか、ごうごうと音が零れていた。
人の動く気配は無い。床に降り立った際の反響が、数秒先まで残る程に。己の呼吸音が寒々と響き、純粋な生き物がこの階層に、たった一体しかいないと告げている。
廊下の奥まで、誰も見えない。霊夢はそれを確認し、振り返ろうとして――セイバーが肩越しに、手を伸ばして頭を押さえた。
「振り向く前に。事故現場を見た事がある?」
「目の前で、一度。胴体が真っ二つで赤黒い内臓がゴロゴロ、それより酷い?」
止めはしないと、セイバーは手を引いた。下がって行く手を追う様に、霊夢は背後を振り返り――
「……何、あれ」
「正直に言うと、分かりかねますわね。いいえ――」
セイバーが見ていた先には、誰かの骨が落ちていた。
一つと欠けぬ完全な人体標本。うつ伏せで、右手を伸ばして倒れている。
骨の周囲には赤黒い水溜り――漂う悪臭は、もはや何が元凶かも分からない程に混ざっている。
鼻を手で覆って近づく霊夢の、一歩後ろをセイバーが歩き、生臭い水溜りに指を触れさせて――口へ運び、舌で指先を舐る。
「――臓腑と血が混ざっている。素材は良いけど酷い味、コックの首を落としなさい」
「味? まあ、グルメでいらっしゃること……ぅげ」
「少なくとも、人間のじゃあないわ。肉と内臓をミキサーに押し込んで、血と一緒に回せばこうなるかしら。
……あの結界の効果は、〝対象の内臓の融解〟だったと記憶しているけど」
アサシンが張り巡らした結界法具、『瘴気満つ大窯の底』
の効力は、範囲内の対象全て無差別に、内臓等を融解して殺害する。加えて、そうして対象の抵抗を完全に奪い、体内に残る魔力を吸収する。
一人一人からの吸収量は微量。数をこなして獲得する為に、被害者を完全に殺してしまうのは、決して得策と言えないのだが――
もはや、損得は彼女達に於いて無価値であろう。セイバーは再び、床を蹴り砕き、下の階へ移動した。
三階――静かなものだが、こちらにはまだ希望があった。呼吸の音が増えていたからだ。
それも、弱弱しい代わりに数が多い。だのに、廊下に人が居ないのが、奇妙と言えば奇妙である。教室に押し込まれているだけだと気付くまで、時間は掛からなかった。
手近な教室の扉を、手ではなく足で蹴り開ける。そういえば、ここは普段使っている教室だったと――気付くのと〝見た〟のはほぼ同時だった。
「ここに居たのね。貴女の同級生?」
「……上級生も、後輩も、教員も」
人が、積まれていた。
床一面に倒れた人間の、その上にまた人間が重ねられている。高さは三列、この程度の重量ならば潰れて死ぬ事もあるまいが――凄惨だった。
最下段に置かれているのは、顔が蒼白いかまたはどす黒く、呼吸は浅いか、或いは殆ど止まり掛けている。
二段目に重ねられているのは、それよりまだマシな有様だったが、不調ははっきり見て取れる。幾人かの口の周りには嘔吐痕――血交じりの黒ばかり。瞬きや口の動きが有る――放っておいて、死にそうには見えなかった。
そして、最上段に重ねられているのは。きっとこれは――
「新鮮な、食事かしら」
「……あんたもこんな事してたの?」
「ノーコメント。ただし、死ねば血肉の味は落ちるし、勿論魔力も霧散していく。殺すならば食事の直前、それがセオリーよ――牛馬の肉も同じね。
下から順に喰う。直ぐに死なせる筈の食材程――乱雑に扱うんでしょう、きっとね。行きましょう」
これ以上、この部屋に用は無い――セイバーはそう言って、廊下に出ようとした。霊夢はそっと手を翳し、挙動だけでセイバーを止めた。
言葉を発さぬまま、床に転がる人間を踏みつけ、最上段に積み重ねられた者に近づく。手を取り、喉に触れ、口元に耳を近づけた。
「……見ているものは?」
「野球部男子、呼吸は強い。文化部女子、脈が弱い気がする。投擲競技、息が弱い。長距離走、顔色は悪いけど心音は――」
「つまり、貴女の考えだと」
「体力依存。元気な奴ほど死に難い――他にも色々とあるでしょうけど」
例外は有るだろう。一番下で、今にも死にそうになっている連中の中に、サッカー部のエースの顔も見えた。
発動の起点に近いか遠いか――そんな偶然が、生死を分ける、或いは分けたのだろう。これから先、この中のどれ程が生き残るかは分からないが――
生きているなら、それで良い。廊下へ出ると、〝そいつ〟が居た。
「助けて! 助けて! 殺されちゃうわ!」
「……良くもまあ、忍び寄ってこれたわね」
きぃきぃと甲高い作り声で、少女が叫んでいる。霊夢は、それが気配も感じさせず近づいてきた事に、内心の恐怖を散らす様に毒づいた。
この少女の顔――〝顔面の皮膚〟に、霊夢は見覚えが有った。声は声で、別に聞き覚えが有った。
「助けて霊夢先輩、襲われて殺されちゃう! 背後から突き刺されて毒を流されて、お腹の中身をどろどろにされて死んじゃう!
ああ、どうして助けてくれないの? 最近になって仲良くなった金髪の子に、懐いてる後輩が鬱陶しいから?」
〝顔からずれて浮いた皮膚〟は、後輩のミスティア・ローレライのものだろう。彼女の最も美しい部位――声だけは、古明地さとりのものにすり替わっている。
「……違いますね、びっくりする程。今の先輩は誰かさんを嫌い過ぎて、他の人はどうでも良くなってます。可哀想とさえ思ってくれないんですか、私を?」
「セイバー、斬って」
霊夢の命令が全て声に成る前に、セイバーは動いていた。瞬き一つの間に、さとりの居た空間を薙いで、直ぐに霊夢の傍らに戻る。
だが、その刃がさとりを捉える事は無かった。さとりの体は天井に張り付き――それを、巨大な蜘蛛脚が支えていた。
「……無駄ですよ。巣を張った蜘蛛に、スズメが勝てる筈が無い。だからせんぱぁい、私を憐れんで?
軽やかに歌う声帯も、淡い恋心を刻んだ心臓も、素晴らしい未来を夢見る脳髄まで、どろどろに溶けて吸い上げられて――最後に私は何を願ったか。
〝助けて〟〝助けて〟〝アリス先輩〟〝会いたい〟〝助けて〟〝逃げて〟……良い子だったんですよ、私。死ぬ直前に誰かを顧みたのは、今の所は私だけなんです。
ねえ、聞きたいですか? 他の……そうですね、20人ばかりがどんな事を考えたか。みーんな〝死にたくない〟とか〝怖い〟とかばっかりで、それ以外の事はなーんにも思い浮かばないんです。誰も、誰も、ええ、だれも――!」
口が動くにつれて、顔に被せた皮膚がずれていく。下から半分だけ除く顔は、血と、良く分からない体液と、涙で濡れていた。
「……それ以上、口を動かすんじゃあ」
「誰も! 喜んで死ぬ奴なんかいない! じゃあなんで、なんでこいしは! こいしだけが! 私の妹だけが!?」
床をだんと踏みつけて、さとりが叫んだ。顔に纏った皮膚を、引き千切る様に剥ぎ取りながら、空の眼窩を見開いて。
「あんな楽しそうに、嬉しそうに、どうして死んで――ああ、でも大丈夫よこいし。お姉ちゃんも一緒だもの、ほら、見えるでしょう?
あなたとおんなじで、もう何も見えないの。もう怖くないの、だから大丈夫なのよ……ふふ、ふふふ」
「……最初に私が言った通りでしょう。こいつは狂ってる、殺すしかないって」
セイバーは今一度、刀を構えた。
初撃を回避されたのは、アサシンが――黒谷ヤマメが所持する固有スキル、『蜘蛛の巣:A+』による所が大きい。
限定的な低ランク『陣地作成』スキルを兼ねるこの技能は、黒谷ヤマメが潜伏する地点を彼女の〝巣〟に見立て、彼女の狩りに最適の空間へと変える。
飽く迄効果が適用されるのは、姿を確認されるまでの一撃のみ。だがその一撃は、虫が空を飛んで蜘蛛の巣に囚われるのと同様に、知覚困難にして致命打に成り得る。
しかし、それはつまり、初撃さえ防げばそれ以降は与し易いという事でもある。
「おおっと。殺されちゃあ困るねぇ、その子は私のマスターさぁ……っはは、酷いや。動かんでおくれ、この子達が死ぬよ?」
「はぁ……――あっ!?」
だから、保険を掛けた――人質を取った。
天井から逆さに顔を出したヤマメは、両手にそれぞれ、霊夢の見知った顔を吊り下げていた。
右手で首を掴まれて、犬走椛が。左手で頭蓋を掴まれてリグル・ナイトバグが。床に足は届かず、宙吊りにされていた。
「あんた達、どうして……!」
「だって霊夢先輩、他に中の良い子が居ないでしょう? 皆、ほとんどがどうでも良さそうに思ってるのに、少しだけ――本当に少しだけ、その二人には優しい。だから、こうするんです」
視力を、眼球を失った筈のさとりは、何にぶつかりもせず、天井から吊るされた二人に寄り添う。
「先輩……駄目っ、逃げて、早く……!」
「博麗の、か……こいつらはヤバい、警察を……」
きっと、そう調節したのだろうが――二人には、明瞭に意識が有った。
見れば外傷も無い。傷つけず、命に障りの無い様に、さとりはこの二人を捉えさせた。
セイバーは独断で救出を図ろうと身構えていたが、例え敏捷性で劣るアサシンだろうと、この距離で斬りかかって、人質を盾に出来ぬ事はあるまい。条件を突き出されるまで、そして霊夢の命が有るまで、迂闊には動けなかった。
「狙いは何よ、さとり」
「助けたいんですよね、きっと。私への怒りばっかりじゃなく、そういう感情が混ざり始めてます。しかも……冷静に考えてる、先に言うと当たりですよ。
そう、私は交渉をしたいんじゃない。ただ、この二人の片方だけは助けてあげようと思ってます、嘘じゃない。だって二人を失ってしまったら、比べて嘆く事はありませんから、先輩への枷になりませんしね。
ああ、人質役の二人には伝わりにくいでしょう。言葉にしてさしあげますか?」
「……ふざけんじゃないわ!」
怒声。霊夢は懐から、数枚の札を取り出す。
小規模の炸裂を引き起こす、下級妖怪退治の為の札。頭蓋にでも貼り付ければ、人間一人の命を奪うなど、造作も無い危険物だ。
だが、使えなかった。さとりの言葉は正しい――救えるという希望を見せられると、それに簡単には逆らえなくなるのだ。
希望を餌に霊夢を引き寄せ、さとりは暗く微笑んだ。
「アサシン。霊夢先輩が指名した一人だけを、無傷で解放しなさい。もう一人はどうでもいい、食事にしても良いし、盾に使っても良いわ。
先輩、聞いての通りです。私は一人だけ、貴女に助けさせてあげたい。良いでしょう?」
「あーぁ、私のマスターは酷いこった。早く選ぶんだね、あんた。わたしゃ命令が無くっちゃ、この結界を止める事は無い。
悩んでる間に他が誰もかれもくたばって、全滅さようならじゃ笑えやしないさぁ……どうするね?」
人質が有効だと、さとりは他の誰よりも深く理解していた――心の内が見えるのだから。
現在進行形で霊夢が悩み、決断を下せずにいるのを、キャンパスの上の絵の様に眺めている。
殺してしまえば、人質など無意味だと知りながら――片方は死んでしまっても良いと、これも本気で考えていた。
「くっ……どうするの、マスター」
「……あんたなら、あの二人を同時にぶんどったりは」
「出来ない、きっと」
「そう」
霊夢は心を冷たく凍らせる。
短い問いと、短い相槌。吊るされた二人の顔を、交互に見やった。
「あんた達。助かったらまず、どうするの?」
「は、え……? まず、助かったら……あ、そんな事、分からないです……」
リグルは怯えている――無理も無い。捕食者に頭を掴まれて、怯えるなと誰が言えるだろうか。
「ふーん、そう。あんたはどうよ」
それを、たった一言で、霊夢は斬り捨てる。斬った舌刀を返して、椛に切っ先を向けると、
「……悪いが、逃げる。逃げるぞ、私は」
椛にも同じく、怯えは見えた。スカートの端から除く尾を丸めているのが、分かりやすい証拠だ。
だが――こちらは、どうしたいかを答えた。
〝どうしようも分からず立ち尽くす〟のではなく、〝戦いの邪魔にならぬ様に立ち去る〟と分かった時、
「そう。じゃあ、椛を放してもらえるかしら」
「……っ、先輩、なんで……!?」
リグルが、喉に閊えた様な声を出した。椛は何も言わなかったが――安堵は目に見えて浮かんだ。
霊夢の意思表示に合わせ、古明地さとりは幾度も幾度も頷いて、そしてアサシンは苦々しげな顔で――
「そら、よっ……ぉ」
椛を廊下の上に投げ捨て、そしてリグルを自分の体の正面に、盾として翳した。
二つ、アサシンに――黒谷ヤマメに誤算が有ったとしたら。
一つには、セイバーの霊夢に対する理解度を見誤った事。
そしてもう一つに――己の善良性をも、軽視していた事があげられるだろう。
主が、不要と断じた。たったそれだけを根拠に、セイバーは躊躇なく、アサシンに斬りかかっていた。
盾として掲げられた少女を、もはや意にも介さず。刀を濡らす血の種別が、一つ増える事に、何の感情も抱かぬ様でさえあった。
廊下に小さな擂鉢状の穴が空く。一歩の踏込みに力を籠め、体を矢の様に飛ばしたセイバーを、アサシンは正面から迎えて――
「――ちぃっ!!」
咄嗟に取った行動だから、きっとアサシン自身も、その意図を理解出来ていないのだろう。
彼女は己の蜘蛛脚四つを交差させながら、セイバーに背を向けた。
体の正面に抱えていたリグルを、セイバーの斬撃から〝庇ってしまった〟のだ。
そうなれば――恐らくはこの聖杯戦争で、最大の威力の斬撃が、防御の上からだろうが、背を襲う。
刃物が産むとは思えない、鈍く沈む激突音。剣風と衝撃が、内側から窓ガラスを軋ませ、幾つかを砕け散らせた。
その場に留まろうというアサシンの意思は、台風の中の傘も同じ。僅かばかりの忖度もされず、打ち砕かれ、廊下を跳ねた。
「……あっさりと決めましたね。未練がましく思ってた癖に、結局は簡単に、いらないって切り捨てたんですねぇ……?」
「邪魔にならない方を選んだのよ。あんたを……」
今度こそ、霊夢は戦える。手にした札に霊力が満ちた。
「あんたを殺しやすいようにね――『破砕退魔陣・単』!!」
霊夢の手から放たれたのは、数枚の札の内、一枚だけ。さとりは避けきれず、腕を掲げて防いだ。
札が腕に張り付き――爆ぜる。範囲は狭いが、然しその威力は高く――肉ばかりか骨までが、破片を飛散させた。
「あっ……? あっ、あぅ、あ――ああああぁっぁぁぁうあぁっ!?」
痛みは遅れて届いたのか、痛みをそうだと認識できなかったのか――さとりが悲鳴を上げるまで、僅かな間が有った。
その隙に霊夢は、さとりの足元に二枚の札を投擲。何れもが床に張り付いて、そしてきしきしと異音を立て始めた。
「二に二を重ねて四方の緊、四に転じて三界の縛! 『妖縛陣・二重』――留まれっ!」
不可視の蛇が絡み付く。脚を止め、腕を縛り、舌を絡め取って自由を奪う。
本来ならば抵抗は容易い筈の、〝多重拘束〟の巫術。だが、理性と片腕を失った相手ならば、真っ当な抵抗を望むべくもあるまい。
「んん、んーっ……!」
「セイバー、近寄らせるな。あんたが仕留めなくても良い、止めておきなさい」
もう一枚、最初に投擲したものと良く似た札を取り出し、手に握り込む。霊力を再度充填して、確実に敵を殺せるように、細心の注意を払う。
動きは止めた、後は近づいてもう一つだけ、首にでも〝退魔陣〟を重ねれば良い。妨害する敵は、セイバーが押し留めて居る。
近接戦闘ならば、アサシンがセイバーに叶う筈は無い。成程、良く持ちこたえていたが――霊夢の元へは、到底たどり着けもしないだろう。
「……異変は解決する。老若男女を一切問わず、人も妖も区別無く――博麗の巫女は人の侭、全ての異変を解決する!」
誰に言ったものだろうか。きっと、自分に言い聞かせたのだ。
最後の札が発動し、古明地さとりを絶命させる筈の、僅か手前に――
――――ひょ、おう。
風の音は、後から聞こえた。
「霊夢……! 何が有ったの、教えて頂戴!」
霊夢が音源に振り返った時には、全てが急変していた。
アサシンを追い詰めていた筈のセイバーが、今は居ない。何が起こったのか、アサシンさえが理解出来ずに居るのか、呆けた表情は英霊らしさの欠片も無い。
僅かに窓枠に残っていたガラスさえ、今は粉々に砕けて散っている。廊下は夕日がガラス片に反射し、朱に染まって鮮やかだった。
「いいや、聞かなくても分かる。あれが全て悪いっていうのはな……! やるぞアリス、腹を括れ!」
霊夢の傍らに、アリス・マーガトロイドが。
二人とアサシンの間に、アーチャー――霧雨魔理沙が立っている。
そしてセイバーの気配は、霊夢が意識を他に裂いた数秒の内に、数kmも遠ざかっていた。