草木も眠る丑三つ時。
空気も凍るような冬の真夜中。
灯りの失せた洋館。
突然崩れ落ちた女性に、士郎は慎重に近づいた。例え先ほど暴れていた相手とは言え、アサシンの言葉を信じるならば、彼女は味方のはずだ。ならば見捨てるなどと言う選択肢は士郎には無い。恐る恐るだが、手を伸ばす。
「……気を失って……いる?」
反応は無い。一切の抵抗を感じる事無く、士郎の手は彼女の肩に触れた。
少しばかり力を入れて揺すってみるが、反応は見られないままだ。
口元に手を伸ばす。息はしている。
「……っ、……とりあえず、寝かせるか」
背に手を伸ばし、すくい上げるように抱える。ずっしり……と言う表現は女性に対して失礼かもしれないが、外見からは想像もできない筋肉質な感触に士郎は驚く。脂肪よりも筋肉は重いという言葉の好例だろう。
ゆっくりと、多少ふらつきながらも、士郎はすぐそばのソファーに彼女を下ろした。
■ 士郎とバーサーカー、25 ■
夢を見ていた。
どんな夢かは覚えていない。
ただ、夢を見たという事実だけは認識することができた。
「――――ッ」
痛む頭を押さえるようにして彼女は身を起こした。そして酷く最悪な目覚めだ、と思った。魔力を用いて確かめるまでもなく、コンディションは最悪だ。
ここまで酷い目覚めは、もしかしたら生れて初めてかもしれない。少なくとも、ここ数年では体験した事のない痛みと不愉快さに顔を顰めながら、彼女はかかっていた毛布を苛立たし気に振り払った。
――――毛布?
毛布を振り払って、二日酔いからの目覚めたお父さんのように頭を抱えて、それから彼女の思考は漸く通常のソレへと戻る。
過った疑問の解答を探すように、彼女は今しがた振り払った毛布を見やる。毛布。そう、毛布だ。
何故、毛布に? 過った疑問はなんの変哲もない毛布に対して。魔力の一つも感じられないそれに対して、彼女は動く限りの頭脳を働かせる。
毛布。
毛布、
毛布。
毛布、
毛布、
毛布、
毛布――――
――――アサシンのマスター
「……そうだ。私は、確か――――」
――――貴女には、私のマスターを守ってもらいます
「――――キャスターのマスターを守るために……」
――――彼は離れの部屋にいます
「アサシンと共に離れへ……」
――――頼みましたよ
「……そうだ。キャスターのマスター。キャスターのマスターは、どこに……」
立ち上がる。何故自分は寝ていたのか。呑気に寝ている場合ではないと言うのに。今の自分にはやらなければならない事がある。
だが急いているのは気持ちだけ。両の足で動こうとするも、足が縺れ、無様に身体が地面に落ちる。脳からの電気信号が正しく伝わっていない。思うように動かぬ身体に、彼女は歯噛みをした。
「……落ち着け、落ちつけば何てことはない」
そう自身に言い聞かせ、ゆっくりと両足に力を籠める。
そうとも。何てことは無い。急いても寝ていた事実は変わらないし、こうして無駄な時間も伸びていくばかりだ。
だから彼女は。
一呼吸で、無理矢理に思考と心を落ち着ける。
「……?」
そして、そこで。
「……ここは?」
漸く彼女は、自分が柳洞寺ではない場所にいることを認識した。
「……アレは」
そして、もう一つ。
「確か……」
彼女の視線は、反対側のソファーで毛布にくるまる人影を捉えた。
「……バーサーカーのマスター?」
■
「なるほど、事態は把握しました。ありがとうございます、アサシン」
「……いや、良い」
自分の記憶が柳洞寺を最後に途絶えていることを認識した。ならば彼女が取る行動など、一つしかない。
パスを通してアサシンを呼ぶ。何故だか異様に疲れた顔をしていたが、そんなことは彼女の知ったことではない。
求めたのは、状況の説明。柳洞寺を後にしてからの、彼女たちの行動履歴。
「それでは内容の確認をします。
昨夜遅くに、柳洞寺がアーチャーの主従と、件の人型による襲撃を受け、壊滅。キャスターが脱落する。
私たちは一足先に洋館へ避難するも、そこで私が倒れてしまった。
そして倒れた後に錯乱し、所かまわず暴れまわった。
……記憶がないので俄かには信じ難いですが、以上の内容に間違いはありませんね?」
「……うむ。その通りだ」
「その後、私が気絶と錯乱を繰り返している途中で、バーサーカーの主従が訪れた、と。同盟の継続、という事でしょうか?」
「おそらくはそうだろう。でなければ来るまい」
「おそらく?」
アサシンの言葉に彼女は僅かに眉根を寄せた。
「……彼らの口からは、同盟について言及されましたか?」
「……いや、なかったな」
「……そうです、か」
つまり、書面のような形あるものとして残ったわけでなく、また言葉として表明されたわけでもない。
一時同盟を組んでいた相手とは言え、気を許しすぎではないか。何せあのキャスターならともかくとして、アサシン、それも正規でないアサシンと同盟を継続したいなど、彼女からすれば信じられない選択だと言える。
とは言え、魔術師でないアサシンにそこまでの判断を求めるのは酷と言うものだろう。真に責を負うべきは気絶したままの己であり、アサシンを責めるのはお門違いである。
「……まぁ、好都合と言えば好都合です」
敵意があるのなら、自分が気絶している間に仕留めればいい。そもそも助けなければいい。話を聞く限り、数時間前の自分たちなら、誰かの手に掛けられることなく敗退していただろう。
同盟の継続自体も悪い話ではない。
キャスター曰く、バーサーカーのマスターの目的は、聖杯戦争を終わらせること。自分たちの目的は、聖杯戦争が滞りなく進行するようにすること。目的の最終地点は同じであり、争う理由もない。
懸念点があるとすれば、バーサーカーのマスターの力量と、自身の体調について。キャスターがいればどちらも解決できたかもしれないが……求めて仕方がない。
「現状については理解しました。後は彼らが起きてから話をしましょう」
「……承知した。それでは、私は警護に戻る。何かあったら呼ぶといい」
群青色の輝きと共に、アサシンの姿が消える。気配が遠ざかっていくのを感じながら、彼女は静かに息を吐き出す。篭っていた熱が空中に霧散し、少しだけ頭痛が和らいだような気がした。
「……もうすぐ五時ですか」
深夜から早朝へと時間帯が切り替わるまで、あと少し。身に着けている腕時計に狂いが無ければ、あと一時間程度で太陽が昇る。
柳洞寺に襲撃をかけた敵はどうなったのか。
人型の対処はどうするのか。
何故自分は気絶し、錯乱したのか。
今後の方針はどうするのか。
片付けるべき問題は山積みだ。
そして今後は、その問題をキャスター抜きで解決しなければならない。
「……これも、どうにかしないと」
手袋を着けたままの、己の左手を見る。
そう、左手。
正確には、キャスターの魔術によって拵えた、精巧な義手。
人型との戦闘で失った左腕の代わりにと、キャスターが用意したものだ。
「……右腕に比べて、軽い。自前の筋肉ではないから仕方が無い、か」
義手はあくまでも義手だ。幾らキャスターが精巧に拵えてくれたところで、今後一生涯使っていけるものではない。
一先ずは聖杯戦争を生き抜くための応急処置。違和感は拭えないが、贅沢も言ってはいられない。
「……全く、悪運だけが強いのも考え物ですね」
山積みの問題を前に、静かに頭を抱える。
これでいて、まだ聖杯戦争は始まったばかりなのだ。
「……そうは思いませんか? バーサーカーのマスター」
■
「……そうは思いませんか? バーサーカーのマスター」
鼓動が跳ね上がる。
体温が一気に下がる。
まさに心臓を鷲掴みにされたかと思った、とはこの時のための言葉だろう。
そんな戯けたことを士郎は思った。驚きすぎて、逆に冷静に自覚することすらできた。
おかげで、飛び上がった筈の心臓は、すぐに平静を装って鼓動を平常通りに刻む。
のっそりと、身体を反対側――アサシンのマスター側――へ向ける。
「……気づいていたのか」
「気配が明らかに変わりましたので」
なんだそりゃ、とは言わない。この聖杯戦争中はとにかく驚くことが多すぎて、今更一々に反応を示していては身が保たない。感性が鈍くなるのも当然と言えよう。
それに何となくだが、彼女ならそんな気づき方をしても不思議ではない。なにせ不意打ちとは言えアサシンを殴り倒した輩だ。気配どころか、呼吸音の強弱でバレたって不思議には思わない。
「それに呼吸音も不規則になりましたし」
人の考えに被せるな。とは思えども言わない。
引き攣りつつある口元を必死に抑えて、士郎はゆっくりと身を起こした。寝ていたままの体勢で相対するのは失礼に値する。こんな状態で礼儀も何もないかもしれないが、人として踏まえるべき礼はあるだろう。
尤も、寝たままの状態で相手の機嫌を損ねたりしたら、最悪アサシンの二の舞になるかもしれない。そんな恐怖心も否めないが。
兎にも角にも、
「安心して下さい、暴れませんよ」
だから被せんな。とは言わない。あとなんでちょっと偉そうなんだよアンタ。
足を組み、手を組み、落ち着き払った表情で座るアサシンのマスター。
とてもじゃないが、数時間前に暴れて気絶した人と同一人物であるとは思えない。
だから訊くことにする。
「……本当に?」
「ええ、勿論」
だから何でそんなに自信満々なんだよ、アンタ。アサシンとの会話で自分が暴れたってこと自覚してんだろ。
勿論口には出さない。思うだけ。そう、思うだけだ。思っているだけだから、口元が引き攣るのも気のせいだから。
何となく既視感あるんだよな、この人。何故か感じるポンコツ臭というか地雷臭というか。
すごくダメな気がする。私生活とか。
脳裏に姉代わりの蕩けた笑顔を思い浮かべながら、そんな戯けたことを士郎は思った。
「まぁ簡単に疑いは晴れるとは思っていません。これからの戦闘でこの汚名は雪ぎましょう」
そりゃサーヴァントをぶちのめせるんだから、戦闘には自信があるだろうよ。
口には出さない。口には出さずに心の中でそっとツッコむ。他に言うべきことがあるだろ、と思わなくはないが、それも心の中にしまい込む。士郎は空気が読める良い子だ。
現在進行形で士郎のポーカーフェイスとツッコみスキルは上がる一方である。全く嬉しくない。
「……まぁ、身体の調子に問題が無いならいいです。はい」
「ええ。すこぶる快調……とは言い難いですが、戦闘行為に支障は出しません。そこらの魔術師程度なら、片腕で潰しましょう」
ゴキリ。彼女の右手が音を鳴らす。
何となく、何となくだが士郎は思った。きっとこの人は片手でリンゴくらい軽々と握りつぶせるんだろうな、と。そして彼女の発した潰すの意味は、決して比喩表現ではないんだろうな、とも。
想像する。右腕一本で吊るされるアサシンを。
容易に、それでいて明瞭に思い浮かべることができた。諦めたような彼の表情まで想像できてしまった。
「……バーサーカーのマスター、衛宮士郎だ。よろしく」
そんな想像を振り払うように、士郎は自分の名前とサーヴァントを告げた。
彼女のペースに合わせて話をしていたら、ずっと無駄話をしていそうな気がしたからだった。
「……そういえば自己紹介がまだでしたね。アサシンのマスター、バゼット・フラガ・マクレミッツです」
■
玄関前に腰を下ろす。冷え切った石段の感覚が、袴を通して脳髄に伝わる。
だがそんなものは気にならない。
代わりに、溜息を一つ。
「……深刻だな、これは」
先ほどの会話を思い出し、アサシンは独り言を零す。
言うまでもなく、彼のマスターについてだ。
彼女は言っていた。何も覚えていないと。柳洞寺から離れた後のことを覚えていない、と。ここにきて、気絶し、錯乱し、暴れたことを。
……いや、いい。それはいい。良くはないが、気にしなければならない点は別にある。
「……女狐め、何をした?」
確証はない。証明する手立てもない。
だがアサシンは思った。己の現マスターは、女狐――キャスター――に何かをされたと。何かをされた結果が、昨日の錯乱だと。
彼には魔術の知識が無い。魔術が何たるかを知る術はない。
だからこそ、キャスター云々は本当に彼の勘でしかない。
だが彼にとっては、己の勘こそが何よりの確証である。
「……何かをされたのは間違いない。でなければ説明がつかぬ」
錯乱癖あるというのなら別だが、昨日のソレは癖などと言う言葉で片付けられるものではない。
難儀なモノだな。零した言葉は苦々し気で、解決の糸口が全く見られない事の証明だった。
そして困ったことに、この件は誰かに他言できる内容ではない。
なにせキャスターに不信感を抱いているのは自分だけだからだ。
余計な情報を口にしたところで、混乱を招くのは目に見えている。
「ああ……全く……」
死して尚も残る爪痕。
中途半端に終わったキャスターの策は、今後自分たちにとってどう影響するのか。
見上げた空。東の方角がやや白み始めている。
もうすぐ朝だ。皆も起きてくるだろう。
アサシンは腰を上げると、自らの身体を霊体化させた。これ以上見張りをする必要は無いからだ。
そして思う。これからの事を。
「……しんどくなるぞ。これからは、さらに、な」
呟きは、誰に宛てたのか。
或いはこれからの自分たちの暗示か。
だが呟きも、群青色の輝きも、誰に拾われることなく霧散する。
■
――――午前六時半。
「改めて自己紹介を。初めまして。私の名前はバゼット・フラガ・マクレミッツ。アサシンのマスターです」
「……衛宮士郎。バーサーカーのマスターだ。よろしく」
「葛木宗一郎。キャスターのマスターだった者だ」
残るサーヴァントは六騎。
残るマスターは七人。
聖杯戦争は、まだ始まったばかり。