雲一つない夜空。
見上げれば満天の星。
良い夜だ、と。誰に聞かせるでもなく、青年は言葉を零した。酒が飲みたい、とも思った。欲を言えば、酌をしてくれる相手が欲しかった。注文を付けられるなら、その相手は美女が良いとすら思っていた。
この寺は、男にとっての拠り所である。生を受けた時から、殆どの時間を其処で過ごした。生まれの家は別にあったが、其方は別の者に任せていた。
男は裕福だった。時代の狭間も一因であっただろうが、生前を自由気儘に日々を過ごすことができた。
野山を駆け回ろうとも、野獣と対峙ししようとも。誰が咎める事も無く、また男自身も気にする事は無かった。
毎日のように刀を振るい、毎日のように酒を愉しみ。
そんな日々を当たり前のものとして続けていた。
今の首輪を繋がれた状態とは大違いである。
――――じゃあ、昔の方が良かったか?
その問いかけに、しかし男は首を縦に振ることをしない。
あの頃は自由だった。確かに自由だった。が、相手がいなかった。
剣を振るうのも一人、酒を楽しむのも一人。月を見るのも一人。
競う相手も、酌の相手も。一人きりの、空虚すら感じる生活。
思えば生涯をかけて得た技能も、思いつきと戯れが切欠であった。
何せ時間だけは、嫌と言えるほどあったのだから。
「愛でた、戯れた、愉しんだ、酔うた」
紫を基調とした羽織袴。腰元まで伸びた長髪。背に差すは、担い手以上の長さの長刀。
山門から石段へ。音を立てずに男は降り立つ。既に刀は抜いてあった。構えも何も無い、自然体のままの体勢。
花は寝静まった。
鳥は身を休めている。
風は既に凪いだ。
月だけが変わらず辺りを照らす。
「さぁ、来い。私は此処にいる」
■ 士郎とバーサーカー、7 ■
太陽が沈み、月が浮かび上がる。辺りは闇に呑まれ、光の有無に関わらず生命体は休息の為に身を休める。特に新都から離れた深山町一帯は、一連の事件のせいで気味が悪いほどに静まっていた。
ここから先は人外が跋扈する魔の時間帯。薄々ながらも冬木市民はその異常性に気が付いているのだろう。非日常は夢の中だけで充分である。
「状態は落ち着いている……じゃあ、目覚めないのは何故?」
柳洞寺の一室。土で固められた一室にキャスターはいた。相も変わらず、この場に似合わぬローブ姿であった。
キャスターは小瓶を手にしている。中では赤黒い液体が揺れていた。若干粘液性のある液体である。言うまでも無く、ソレは協力者でもある衛宮士郎の血液だ。
彼に投薬してから約一日。当初の予定時間は当の間に経過したが、未だに衛宮士郎に目覚めの兆しは見られない。だが採取した血液を見ても異常は見受けられなかった。
「適合はしている。廃人になったわけじゃないのよねぇ……」
一見すれば廃人と変わらぬ深い眠りも、キャスターの眼をもってすれば違いは瞭然であった。
結論を言ってしまえば、薬は予想以上に彼の身体に馴染んでいる。採取した皮膚や血液中からは拒否反応は見られず、内包されている魔力の粒子も初期に比べれば増えている。結果だけ見れば大成功だろう。
問題があるとすれば、馴染み過ぎたことか。寝ている間に色々と調べたが、衛宮士郎の魔術回路はどこまでも異質だ。魔術回路は神経と同化している上、通常の魔術師のと比べると強度が格段に違う。寧ろその異質さゆえに、劇薬に近しい薬も耐えられたのだろうが。
「……まぁ、そんなところでしょう」
疲れが滲んだ息と共に言葉を吐きだすと、キャスターはそれ以上の思考を止めた。診るだけでなく解剖の一つでも出来れば詳しい見解や処置も可能だが、流石にそこまでの行為は彼のサーヴァントが許さないだろう。只でさえ今は不機嫌なのだ。余計な気苦労は勘弁願いたいものである。
それにそもそも、協力者の事ばかりに構っていられるほど彼女自身もヒマな訳では無い。懸念している事案にさえなっていなければ、それ以上に思考を割くのは無駄な行為。give and take、所詮はそれまでの間柄だ。
市販品の付箋メモに現在時刻を記載して小瓶に張りつける。予想起床時間経過後は一時間おきに採取をしており、これがきっかし十八本目。採取の度に彼の連れのサーヴァントが不機嫌そうなオーラを発してくるのも、最早ご愛敬であった。
「まったく……早く起きてよね」
上手くいかない事には悲しいくらいに慣れっこだが、たまには邪魔なく進んでも良いと思う。そんな他愛の無いことを考えつつ、人差し指が虚空に円を描き、口は刻み慣れた呪文を象った。
部屋の中央。呼応するように台座の上に置かれた水晶玉が淡く輝く。青白い光だった。
「さてさて。番犬は……って、何で抜刀しているのよ?」
輝きが消えた後の水晶玉に、柳洞寺の門前が映る。解像度は良好。門を守護するアサシンの姿までくっきりと映っている。
アサシンは、キャスターの飼い犬だ。卓越した魔術の腕を用い、裏技スレスレの方法で召喚したサーヴァント。そのせいで従来のアサシンでは無い者が出てきたが……戦力の部分だけを見れば、寧ろ結果オーライである。
協力関係では無く、極端なコトを言ってしまえば使い潰すだけの駒。それがキャスターにとってのアサシンの担う役割。当然のことだが、戦闘行為は勿論、抜刀なんて身勝手な真似すらも許す筈が無い。そもそも霊体化を解くことすら彼女は許可していないのだが。
「もう……っ」
まただ。端正な顔を歪めて、キャスターは息を吐いた。諸々の想いが乗った息だった。
召喚時からそうであったが、アサシンは何一つとして言う事を聞こうとしない。自身の立場と状況は分かっている筈だが、それでも彼はキャスターに従う素振りを一切見せなかった。
今更ではあるが、協力者も出来たことだし、ここいらでしっかりとした主従関係というものを分からせる必要があるのかもしれない。犬には首輪と躾を。言う事を聞かない畜生は犬とは呼ばない。
ローブを着直して身支度を整えると、キャスターは腕を真横一文字に振る。それだけで部屋から彼女の姿は消え、視界は柳洞寺の門の上空へと移った。
「アサシンッ!」
「……おお、女狐か。何の用だ」
変わらぬ憎まれ口。飄々とした態度のまま、アサシンはキャスターに見向きもしない。
「……許可なく行動するなと命令した筈だけど?」
「そうだったか。だが、そんな瑣末はどうでもよかろう」
「良くないわ。此方の指示に従ってもらわなきゃ困るもの」
「ならば令呪でも使え」
「……へぇ」
古来より、女の怒りほど恐ろしいモノは無いという。英雄の死には大概に女性関係の縺れが存在し、中には直接的な原因を被った者も少なくない。女性との関係が英雄を際立たせるのならば、その幕引きも彼女たちの手が相応しいということか。何れにせよ、むやみやたらと逆撫でするのは得策ではない。彼女たちの怒りに、歴戦の、名のある英雄が幾人散った事か。
眇めた目は冷徹な光を帯び、眼下の犬を捉えていた。絶対零度。視線だけで生物が死ぬのならば、既にアサシンは七回は殺されている。
だがキャスターは、疲れたように頭を振るだけで感情を霧散させた。
「……来るの? 敵?」
「見えぬ。が、感じる」
ああ、やっぱり。然したる驚きも無くキャスターは息を吐いた。
「冗談……な訳無いわよね……」
直感とも言える根拠の無い判断を、しかしキャスターは退ける事をしない。今日に至るまでの襲撃――アーチャー、ランサー、ライダー、バーサーカーの四体――を一番に気がついたのは、他の何でも無くアサシンであった。
「はぁ……仕方ない、か」
笑えるほどのタイミングの悪さは、相も変わらぬ神々の悪戯というやつなのか。生前から変わることのない間の悪さに、キャスターは脳内に諸悪の根源を思い浮かべた。死ね。地に引き摺り落とされて無様に潰れろ、糞野郎ども。
他の使い魔はアサシンの維持の為にパスを切ってしまった。索敵範囲は柳洞寺周囲を最低限囲っているだけ。以後の聖杯戦争の為にと、余計な消費を切り捨てて魔力を溜めこんでしまったことが、ここに来て悪手となってしまった。一番来てほしくないタイミングだった。
「……この場で迎撃するわ。用意は良い?」
「問題ない。寧ろ、貴様は引き籠っていてもいいのだぞ?」
「馬鹿言わないで。殆どのサーヴァントが襲撃した後よ。次に来るのは、手を組んだヤツらと考えるのが当たり前でしょ」
未だに柳洞寺に姿を見せないサーヴァントはセイバーのみ。単純な選択肢であればセイバーか……あるいは他サーヴァントが一時的に手を組んでの襲撃と考えるのが通常だ。
前者はともかく、後者であれば互いに様子見は終わっている。その上での襲撃ならば、向こうも確実に獲るつもりなのだろう。此方も用いれる最大戦力を以って相対しなければならない。
「……ますます、坊やが起きてくれていないのが辛いわ」
幾度となく零した呟きは、今ほど切実な響きを持ち合わせてはいなかった。
フードを被り直し、両の手でしっかりと杖を握りしめた。本来は前線で戦う性分ではないが、贅沢を言える状況でも無い。自動操縦で魔術を放てる状態にして、もう一度深々とキャスターは溜息を吐いた。
■
「……む」
柳洞寺、離れの居住区。
住人が寝静まった離れの廊下を、一人の長身痩躯の男性が歩いていた。身に纏うは浴衣。男性の背丈と体躯に合っておらず、手首と足首が外気に露わになっている。どこか、枯れ木のような印象を受ける男性だ。
男性は懐からメガネを取り出した。どこにでもあるような円形のメガネ。遊びも飾りも無い代物は、男性の性格を如実に表している。事実、彼は洒落などには無頓着である。それどころか、機能性にもあまり興味が無かった。冬の夜に短めの浴衣で出歩くところを見れば、それも納得である。
彼の名前は、葛木宗一郎という。職業は穂群原学園教師。柳洞寺には滞在して、大凡二年。修行僧と言う立場ではなく、客人として逗留している。
「……」
厠を出て、大凡十メートルは歩いたか。外に出たところで足を止めると、宗一郎は空を見上げた。雲一つない夜空を星が席巻していた。
人工の光が乏しい深山町方面、とりわけ山間部に位置する柳洞寺は、絶好の天体観測地である。同僚の女教師が寺の主と酒盛りをしている場面を、彼は何度も見た事があった。それはそれは美味しそうに呑んでいた事を覚えている。
美味しいのだろうか。唐突にそんなことを彼は思った。月を、星を、夜空を肴に飲むことは、本当に酒を美味しく感じさせるのか。
「ふむ」
主には何度か誘われた事があったが、翌日の業務の為に断るのが常だった。
だが、この先。全てが終わった後ならば、偶には誘いに乗るのも良いかもしれない。
ぐるり、と。固まっていた首を回してから、彼は止めていた歩みを再開した。留まっていた時間は僅かだが、冬の冷気で身体は寒さを訴えている。早く戻らなければ、明日の業務に差し支えが出てしまうだろう。
急ぎ過ぎることなく、しかしやや早足に。足音を一切立てることなく寝室へと向かう。長身痩躯の身体が、音も無く建物内へと姿を消す。
「……何だ」
だがその歩みは、数歩進んだだけで止まる。
訝しそうに彼は周囲に視線を走らせた。言葉にならない違和感が其処にはあった。
無言で彼は、彼自身も自覚してないほどの自然さで身体を構えた。両の腕を上げ、何に対しても応じられるように余分な力を抜く。嫌な汗が背を流れていた。嫌な空気が場を満たしていた。
「こんばんわ」
ソレは女性だった。少なくとも、声で判断するならば女性であった。
構えたまま彼は後方へ向き直った。今しがた自分が通った廊下、その先の庭から声は聞こえた。
見られていた。その事実に、彼は警戒態勢を限界まで引き上げる。口調こそ穏やかではあるが、この時間帯に声をかけてくる輩が普通の相手な訳が無い。
「そう警戒しなくても、大丈夫ですよ」
角から、一歩ソレは歩み出る。僅かな灯りがソレを照らし出した。
長髪と眼帯。異国の肌と髪の色。
彼はソレを知らない。少なくともここの住人では無い。ここの住人にあれほどの長髪の者はいないし、そもそも普段は男衆ばかりで女性を目にするのが珍しい場所である。外人ともなれば、尚更である。
「お前は……」
「ライダーのサーヴァントです。お見知りおきを」
彼の言葉を遮り、ソレは口を開いた。
どことなく甘美な響きをもった言葉だった。
――――拙い
一も二も無く。だがしかし彼はそう判断した。
理屈も理由もすっ飛ばして、その事実だけを理解する。
「初めまして。そして――――」
サヨウナラ