首の皮を斬り、伝う赤い液体の湿りをナイトハルトは感じていた。
死が、迫っている。
――死を想う。
魔術師にとって最も必要で、最初に習うとされるもの。併し、いざ自らの死が来るとなると如何しても恐怖が生まれてしまう。得に、ナイトハルトのように、魔術刻印を引き継げる子がいない、詰り一族の研究が終焉するとあれば尚のこと。
そういった状況であれば死の恐怖を抱くのが尋常。
だが、ナイトハルトの思考の中にはそんなものは存在していなかった。
何処までも落ち着いていた。スリルを面白がりながら、“解析”すらしていた。
――黒い刃。んでもってこの形。“オンタリオGEN SP45”か。刀身に電気石《トルマリン》が散りばめられてらぁ。
なけなしの刃物と、専門外の宝石魔術の知識で相手の“力”を測る。
そういえば、ヘルバという女魔術師は宝石による属性転換を得意としていたと、また彼女の属性は風《ノーブル》であったことをナイトハルトは思い出し、
――つーことは、これ、スタンガンっぽいものにもなるわけね。否、風属性ってことはウン億Vの雷撃を、なんつーのも楽勝か? 物騒だな、オイ。
とにぃと、口角を吊り上げる。
――にしても、俺の後ろに回り込んださっきの体捌き。こりゃ正直、驚いたな。辛うじてでしか、見えなかった。新人《ルーキー》の頃から大したヤツだとは思っていたが。これ程腕を上げるとはねぇ。筆舌ってヤツ? つーか、俺も俺で、前線一寸引いただけで、大夫衰えたねぇこりゃ。
当代一とも言われる執行者の強さを讃えて、そして自分の弱さを嘲て。
「……なぁ、一つ聞きてぇんだけどよ」
「如何かいたしまして?」
「手前、本当に俺の令呪目当てでこんなことやらかしたのかね? 実は、手前が楽しみに取っておいたキャラメルダブルナッツを食っちまった逆恨みだったりしない?」
「若しそうであったのならば、それは逆恨みと言うのではなく、至極当然の怒りと言うので御座いますが……。まぁ、尤も、それがわたくしの逆鱗となればの話」
「アン?」
「わたくし、甘い物を頬張りながら、幸せそうな顔をする貴方を見るのは、その、とても下品な言い回しにはなりますが……。濡れましてよ? だから幾らでも召し上がって戴いて構いませんわ」
弾んだ声には、艶があった。
或いは、大抵の男ならば魅了されるのかもしれないが――。
はぁと、ナイトハルトは重苦し気に、けれど何処か楽し気に、嘆息を漏らすばかりであった。
「成程ね。マジに俺の令呪が欲しいのな」
「ええ、そうなのですよ。私は聖杯戦争に参加したい。けれど、望めども、望めども、我が手に令呪は宿らない。であるならば……」
「……奪っちまおうってワケかい。インテリジェンスもへったくれもねぇな」
半ば癖のような感覚で、頭に手を遣りそうになったが、自らの置かれた状況を鑑み、手が動く寸で思い留まる。
こういった状況、迂闊に動いたらばどうなるか。答えは至極単純。“考える人”と見えることになろう。
それを想いナイトハルトの顔は凍り付く……ことはなかった。
寧ろ久方ぶりの荒事に対する享楽と、死への戦慄《スリル》に笑い声を上げた。
教鞭を取るのも悪くない。研究に没頭出来る環境も自らが望んだものだ。だが、聊か退屈していた。
屹度、聖杯戦争を望んだのもそう云う思いを抱えていたのもあるのだろうと、ナイトハルトは今自覚した。
――丁度良い。取り返しのつかない所まで行ってみるか。
「……だがよ、若しもの話な。俺が“やなこった”っつったらよォ。手前、如何すんの?」
「この首、斬り落としてでも奪い取りますわ」
キヒヒと、短くナイトハルトは笑った。
賽を投げた歓喜に身を震わせて。
「やなこった」
宣言通り、ヘルバのナイフがナイトハルトの首へと一閃する。
そして、次の瞬間にはナイトハルトの首から上が無くなっていた。
「あ……ら……?」
だが、ヘルバが感じたのは違和感。
首を飛ばした。だのに、体から血の噴出が無い。首を飛ばした。だのに、刃は黒いまま。首を飛ばした。だのに、手応えが無い。
然う、手応えが無い。執行者として、人の首を斬り飛ばす感触には誰よりも慣れ親しんでいる筈だ。あの感覚は手に取るように分かる。それが今は無い。
感覚を感じる間も無く、見事に斬り捨てた。そんな夢物語が存在する是非もないことをヘルバは誰より知っている。
――拙いッ!?
怖気が湧いて来て、ヘルバは思い切り、床を蹴って後ろに飛んだ。
その時、ヘルバのいた空間を何かが引き裂く。
それは棘。樹木の棘を掌から生やしたナイトハルトの腕の一撃が抉り込まれたのだ。
フック。鍵突き。否、そんな形式ばった上品な名詞を関することはないただの暴力的な腕の振り抜き。
あと、刹那でも行動が遅れていれば、喉を抉られたに違いない。
一見、優雅に見える着地を決め乍ら、ヘルバは内心で困惑していた。
「あらあらあら? 此れは如何したことでしょう?」
目に映る光景は其処に在る現実としてはあまりに受け入れ難いものだった。
首無しのナイトハルトの体が、猫背気味に腰を落とし両腕をだらりと垂らした妙な構えを取って、ヘルバに相対している。
首の切り口からは、肉や血の赤は見えない。代わりに見えるのは緑。蔓が、茨が、蔦が、幾種類もの幻想的な美しい花々が、うねうね蠢いている。
「……たっくよォ」
その隣、耳の穴から蔓を伸ばし天井にぶら下がる生首がゆやんゆよんと揺れている。
「本当に人の首を飛ばそうとする奴がいるかよ。死んだら如何すんだっつー話だ、マジで。この化け物め」
ヘルバは今この瞬間、鏡の存在を一生に於いて最も渇望した。
何方のことを言っているのだと。
勿論、ヘルバはナイトハルトの今の言葉がジョークの類であることは分かっている。
だが、それでも。
彼の肉体の神秘に対して。ヘルバは驚愕せざるを得ない。
人ではない。此れは庭《ジャルダン》。歩く庭《ジャルダン・マルシェ》。
或いは、瑞々しく美しいもので出来た混沌だ。
「“士別れて三日なれば括目して相待べし”とも言いますが……。流石は男の子といった所で御座いましょうか。すっかり人間離れされて」
そうナイトハルトの肉体を評しつつ、服と右脇の隙間に“オンタリオ”を収める。
「その讃辞、恐悦至極だね、糞売女《マドモアゼウ》」
そう平常通り、冗談めいた雑言を放ち続ける頭を、ナイトハルトの胴体は引っ掴んで、首の位置に持ってくる。
「だが、一つ手前は大きな間違いをしてる。手前と初めて会ったその時には、俺は既にこの体だったんだぜ?」
頭部の切断面からも、蔓のようなものがうねり乍ら、胴体のそれと絡み合い、そして元通り結合する。
「執行者を辞め、講師になるなど、頭がお花畑にでもなったのかと思いましたが。よもや元々お花畑だったとは。吃驚ですわぁ。ぶったまげですわぁ。一体、その体、如何なっているのでしょう。わたくし、とても気になりますわ」
殊更にヘルバは目を輝かせていた。
後輩である自分ですら気が付けなかったナイトハルトの秘密に対して。
大根役者そのものの演技がかった口調ではあるものの、好奇心に嘘偽りはなかった。
「なァに、単純なことよ。臓器やら、血管やら、神経やら、骨やら、色々と植物で補ってるってだけだ。何、特別なこたぁねぇ。ナウい植物学者なら当たり前だ」
「成程」
君主《ロード》の地位を得る為の手土産として、ナイトハルトは多くの研究成果を成した。
それは時計塔内でもよく知られていることであり、その最も有名な研究成果が、植物体と動物体の同一化であることもヘルバも聞き及ぶ所だ。
故に、自分にもその術式を施していてもおかしいことはなく、足りない箇所を他のもので補うことは魔術師ならば珍しくはない。
「でも、それにしては聊か丈夫過ぎるような気がしますわ」
だが、それで首を斬り落としても死なないという理屈にはならない。核である心臓を破壊しなければ死なない魔術師であるが、首を飛ばされるのは、致命と成り得る。
「疑いたきゃ勝手に疑えや。だがよ、手前、是から戦うお笑い芸人もどきに疑心暗鬼つーのは、景気が悪ィじゃねぇか。愉しく、気持ち良く戦えねぇ」
ナイトハルトはニタリと口角を吊り上げる。
「あらあら? 戦う気なのですね?」
婀娜っぽい微笑みで、ヘルバはナイトハルトに訊ねる。
「――嗚呼、その気だよ。勿論タダで戦えなんつー、守銭奴めいたこたぁ言わねぇさ。俺に勝ちゃ、令呪もくれてやるし、君主達《ジジィ共》に話を通して、正式な聖杯戦争への使者にしてやる」
「ナイトハルト様には一銭の得も御座いませんが……。本当に宜しいのですか?」
ナイトハルトは、片手で顔を覆い、湧いてくる笑声を抑えるように振る舞う。
だが、それは意味を成していなかった。
キィと禽鳥の叫呼にも似たそれを響かせると、
「手前の渾名にもなってる“自涜”に得があるかよ? 意味が在るかよ? 否、無い。芥の程も無いね! でも、やっちまう。度し難いけどなァ!?」
ナイトハルトは叫ぶ。
「是からやる決闘ってなぁ、そういう類のモンだよ。俺にとっちゃぁな」
変わらない。
「それによぉ、勝った方に権利が在るってのは、分かりやすいだろ。強い奴が正しい。良いねぇ、弱肉強食! 実に良い響きだ! それに、協会だって聖杯つー神秘を我が物にしたがってる! したらば、飛車よりクイーンを選ぶってのが筋ってモンだ! なぁ、そうだろうよォ? どっちがクイーンか決めようぜ、なぁ、なぁ、なぁ‼」
ヘルバが知るナイトハルトと何一つ。
ナイトハルトという男が如何いう執行者だったのか。彼は封印指定の魔術師や、魔術犯罪者と死闘に臨む時、笑みを浮かべる男だった。
死を恐れないのではない。虐殺が好きなわけでもない。死が迫ることをこそを楽しみ、その上で死に追い込むことを好むそういう気性。
平素に言ってしまえば戦闘狂《ウォーモンガ》。
君主になり黒の色位を得る前の典位だった頃の、“狂い笑い”のナイトハルト・フォン・フッテンである。
「フフフ」
「んだよ、その含み笑いはァ? 昔が懐かしいってか?」
ヘルバの口から零れ落ちたものの質を、ナイトハルトは推し量る。
確かに、この瞬間、ヘルバは昔のナイトハルトを懐かしんだ。
だが、
「いいえ。それで笑っていたのではありません」
ヘルバが笑った理由ではない。
「あぁん?」
怪訝そうに、左眉を持ち上げるナイトハルトを見て、ヘルバは頬に手を当て、顔を蕩けさせる。
「――ナイトハルト様は“自涜”に意味は無いと仰られましたが、詰りそれは“自涜”をしたことがあると、その証明に他なりません。誰かを想って、自らの陽物を慰める姿を想像したら。……ウフフフ、とても可愛らしく思われまして」
ナイトハルトは舌打ちをする。
面倒くさい。また病気が始まったのかと。
「それにしても、ナイトハルト様程の人に白きエリクシルを生み出させるなんて。嗚呼、羨ましい。わたくし、嫉妬で眩暈がしてきましたわ。一体、何処の何方なのかしら? ねぇ、ナイトハルト様、教えて下さらない?」
その問いにナイトハルトはフンと鼻を鳴らし、
「……俺に勝てば或いは聞けんじゃねぇの?」
と食ったような答え方をする。
「つーか、御託ァ良いんだ。疾《はや》く暴れられるとこ行こうや。ここでドンパチやらかしたら、お偉いさん方の臓物が蜂の巣になっちまう」
ヒィと、引き笑いを上げ、ナイトハルトは歩き出す。
ヘルバもその後に続いた。
†
ナイトハルトが戦場に選んだ場所は時計塔からほど近い公園であった。
人が滅多に立ち寄らないのが、選ばれたことの第一点。そして、第二点は――
「ここなら、俺が有利になるってこたぁねぇだろう? なんたって、ペンペン草すら生えちゃいねぇ」
ベンチに噴水。申し訳程度にそれらが置かれている以外に何もないところだった。
普通、公園ならば木の一本でも植えてあるものだが、それすら無い。
ナイトハルトはたった二小節の詠唱の魔術で、森一匹の怪物と化すことが出来る腕前の持ち主であるし、何かしらの植物を与えれば、すぐさま礼装として利用されかねないのである。
加えて、魔術師の調子《パフォーマンス》を上げる環境というものがある。砂漠で普段にも況して強くなる者もいれば、水辺こそで力を発揮するタイプもいる。ナイトハルトはというと雑木林、草原、花畑など、草木が多い場所で調子を上げる魔術師だった。
「更に、俺の絶好調は正午ジャスト。今はそれをとっくに過ぎてる。俺に有利に働く要素は何一つ無い。どうだ? これで対等な決闘だろうよ」
「依存はありませんわ。この場も私にとっては優位とならない。それに、時間の方も。対等と言って差し支えないでしょう」
念には念を入れ、人払いも掛けてある。
二人を阻む者は無い。
「さぁ、始めようか――」
ナイトハルトはそう言うと、コートから二丁の拳銃を取り出し、その銃口を相対するヘルバに向ける。
四十四口径、白銀色の銃身。ポピュラーとは言い難い、半端な威力の為に、扱いづらいと言われるブレン・テン――を模した金属製のガスガン。
鳥の翼を打ち抜く程度のことは出来ても、人を殺すなど不可能な代物である。
「そんな玩具で何をしようと言うのですか?」
「勿論、切った張ったの喧嘩だよ。心臓だってぐちゃぐちゃになるくれぇのなぁ」
「……成程。舐めてかからない方が宜しいのですね」
執行者時代から、ナイトハルトは好んで銃や近代兵器を使用し、また科学技術に関して、どの執行者よりも造詣が深かった。
一見、実力主義、弱肉強食を謳う魔術師には似つかわしくない振る舞いであるが、彼は目的到達の為ならば何でも利用する性質であった。
目的――詰り、魔術師達の最終目標である根源。
そんな彼であるならば、淫蕩なる魔術師に突き付けたガスガンが剣呑な代物であるのも必定であろう。
ヘルバはそれを思い微笑み、
「――ならば、私もそれに相応しい得物を」
ふわりとロングスカウトが靡く。そして、優雅な舞のようでありながらも素早い動きで取り出されたのは二振りのナイフ。
右には白銀に輝く切っ先が少しばかり細くなった大振りの刃。
左にはそれよりも一回り程小さい、一寸の光沢も無い黒の刃。
それぞれ、白の剣が“ナチスボーイ”。黒の剣が“リコンスカウト”。
どちらもサバイバルという状況下をフィールドとする掘削良し、登攀良し、殺傷良しの万能装備である。
然も単純なサバイバルナイフではない。先程の“オンタリオGEN SP45”と同じく、刃に粒子状にした年代ものの宝石を散りばめた魔術礼装だ。
それを逆手に持ち、両手を筋交いに構える。
二ィと、ナイトハルトは顔面の筋肉が裂けんばかりの笑みを浮かべ、
「良いね、良いね! その装備ィ! 御遊戯致すにゃとても良い《Sehr Schoen》! さぁ来い! 先手はくれてやる! フッテン家十二代当主の命《タマ》ァ、盗ってみろやァ‼」
掛って来いよ、と掬い上げるような手振りをする。
「後悔、なさらないで下さいまし――」
その宣言の直後、ヘルバの姿が、消えた。
――否、違う。
併し、今度は眼力を“強化”していた為にナイトハルトはその動きを見切る。
疾風怒濤の速力と、猫科の肉食獣を思わせる極端に前傾した見えにくい走型《フォーム》の為に消えたように錯覚する。
畢竟するに、そういう絡繰り。見えていれば、躱すも易し。
「手前の疾さは見切ってんだよ!」
首に迫る、凶刃の薙ぎに対し、ナイトハルトは後方に飛ぶ。
だが――。
「なッ!?」
ざくりと、鼻に真一文字の傷が刻まれ、血が――否正確には、アントシアンで着色した水が滴る。
ナイトハルトはすぐさま自分を斬ろうとしていたナイフを、“ナチスボーイ”を確認する。
見れば、刀身が風を纏っていた。
鎌鼬。恐らく、風属性の元素転換で作られた刃がナイトハルトに一太刀を浴びせたのだ。
――成程ね、魔力を通した分だけ刀身が伸びるってか。
――面白れぇ。
ナイトハルトはほくそ笑みながら両手のガスガンを発砲する。
「ヒャッハッァァアアアッ‼」
弾丸の総数は十二。大きさは麦粒程度。材質は鉛。その速度は平均的なライフル弾の三倍程。通常のガスガンでは有り得ぬ速さ。
“死宝・廷床之杖《Totenkopf Elder Stab》”――。ナイトハルトの持つ属性の火と水。その性質である熱操作と流体操作による体積保持を行い、ボイル・シャルルの法則により弾丸発射に利用するガスの圧力を上げる機構を設けた、ロード・ユナハ発案の魔術礼装である。膨大な圧力により放たれた小さな鉛弾は、恐るべき速力を以て人畜禽獣を容易に殺す。
併し、ヘルバは一髪千鈞を引く弾幕に対し真っ直ぐに向かう。地を舐めるように走り、弾丸が当たる数を最小に抑えながら。
一つが肩へ、一つが太腿へ。ケブラー繊維に防御用の礼装として機能する粒子状のダイヤモンドが編まれたタイツと、それと同じ材質のスカートを弾丸が貫く。
短い悲鳴が上がりそうになるヘルバ。
激痛が走る。
だが、前進を止めてしまうほどではない。
肉に弾丸が食い込む。
だが、骨には影響が無い。
――往け! 前へ!
依然として、ヘルバは生物の枠組みに在っては視認不能の速度でナイトハルトに迫りつつ、“リコンスカウト”の切っ先を向ける。
「Souflant《逆巻け》――!」
その言葉と共に、刀身に魔力が通い、散りばめられた玉髄《カルセドニー》がその力を発揮する。放たれるのは、衝撃波。肉を潰す、空気圧の、見えざる砲弾である。
ナイトハルトは後退しつつ、懐に手を入れ、
「Bord Wasser《湧き晒せッ》――!」
其処から水仙を取り出し、正面に投げつける。
出来上がるのは、人間大の水球。トラックさえ粉微塵にしかねない衝撃波とぶつかり合う。
水は極めて高い抵抗力を持つ。天高くから水面に落ちた物質に対しては鉄にも等しい硬さになり、たった一立方センチの水ですら、ライフル弾を受け止めることが可能なほどである。
故に必滅の空気弾の威力を水球が相殺しつくし、白煙と化す。
その煙の向こう側へ。ナイトハルトは再び銃口を向け引き金を引こうとする。
併し、その刹那――
「ShaaaaAAA《シャアァァァァアアア》ッ‼」
充満した靄を切り裂き、ヘルガが両の刃を振り被りながら現れる。
「速ッ!?」
予想以上の加速。激烈な踏み込みと共に、ヘルガの二刀の唐竹がナイトハルトの脳天へと迫る。
「ッ――‼」
寸での所で、二丁の銃のボディでナイトハルトはナイフを受け止める。震える腕。力強く噛みしめられる咢。
「なんつー馬鹿力だ……ッ。強化《エンチャント》込みとは言え……女が出せて良いモンじゃねぇぞ、オイッ!」
「馬鹿力だなんて……女に対して無礼ではありませんか?」
「だったら、そう言われねぇ、か弱さを心掛けな!」
然う嘯くナイトハルトであるが、如何せん腕力では敵わない。
ぎしり。
軋む、体。
ぴきり。
罅割れる、銃身。
「――ッ!? “放射性ミスタリレ”で出来た“廷床之杖《Elder Stab》”がッ!? 糞が、どんだけ手に入れんの大変だったと思ってんだ!?」
「そんなにも惜しいのであれば、大人しく令呪をお渡し下さいな」
両の腕に更に力を込め、瞳の奥にぬらぬらと輝かせながら、ヘルバは淫靡な笑みを浮かべる。
勝利を確信して。
だが、
「キッヒッヒッヒッ……!」
ナイトハルトは不敵に笑う。
――拙い!
ヘルバ然う瞬時に判断する。
「弾けろ《Ausbruch》――“死宝・濤命外套《Totenkopf Unbesiegbar Mantel》”」
だが、遅かった。
その一小節の詠唱のみにより、ナイトハルトのもう一つの礼装が解き放たれる。
それはコート。コートを構成していた布が一辺余さずそれを形作る糸へと回帰し、意志を持っているかのように襲い掛かる。
只の糸。その筈なのに、ヘルバは確かな死を其処に感じる。
実際、この礼装は食らえば確実に死ぬ類のものであった。
“死宝・涛命外套”。魔綿という魔導植物から採れる綿糸で織られたコートである。糸の紡ぎ方・織り方の一つ一つに魔術的な工夫が施されており、決められた詠唱を行い、魔力を通すことで、無数の鋼線と化し、敵を縛殺及び斬殺する――そういった武器である。
ヘルバはその事実を知らない。知らないが、執行者としての経験と勘から、何よりナイトハルトの気性から、自分に放たれたそれが決別の一撃たることを予測する。
――くっ。これだけはあまり使いたくないのですが……。
ヘルバは心の中で苦々しく呟くと、舌を使い奥歯をへし折り、それを吹き矢のように吐き出す。射出されたのは風信子石《ジルコン》で出来た差し歯。
ヘルバの顔を、首を、その豊満な胸を、張りの良い尻を、魔綿が切り裂く寸前。魔力を通した風信子石《ジルコン》が膨大な光を放ち――空気を急激な速度で膨張させていく。
「のわっ!?」
「きゃあ!?」
二人を速度にして200m/s、広島型原爆にも等しい暴風が襲い掛りナイトハルトと、さらにこの攻撃を仕掛けたヘルバをも吹き飛ばしていく。
体中をボロ雑巾のようになり、倒れる二人。
地面に転がる二振りの剣と二丁の銃。
「クックック……。随分愉快な真似してくれたじゃねぇか、ヘルバ……」
ナイトハルトは歓喜を上げ乍ら、ぬらりと立ち上がる。
「愉快な真似を――させたのは貴方様では御座いませんか……」
よろめきながらも、ヘルバもそれに続く。
「ともあれ、第一幕は痛み分け。第二幕と参りましょうか」
その言葉にナイトハルトは腹を抱える。
「何が可笑しいのでしょうか?」
「いや、もう決着した勝負に第二幕とか言ってんのが。笑わずにはいられなくてねぇ」
その言葉にヘルバは疑問符を浮かべるばかりであったが……直ぐ様理解せざる得なくなった。
凍結する脳髄。滲み出る冷たい汗。血液が体から失せる感覚。
体の自由も効かない。
「これは!?」
違和感を覚えたヘルバの目に止まったのは、自身の太腿から萌える蝉の抜け殻にも似た奇妙な草の芽。
同じものが肩からも生えている。
「……屍草《シカバネソウ》。大凡あらゆる幻想種に寄生し、宿主の意思を混濁させながら殺す冬虫夏草属の茸を、人間にも寄生出来るよう改良した品種だ」
「こんなものいつの間に!? まさか!?」
「御想像の通りだ。“廷床之杖《Elder stab》”の弾丸の核に胞子を埋め込んでたんだよ」
ナイトハルトは、ズボンのポケットからガスガンの弾を一粒取り出しつつ、
「此奴は着弾し、敵の肉に食い込むと、途端に潰れて核が顕になる。すると、胞子に血が染み入り、成長するってワケだ」
と説明した。
「然も、屍草の発芽の速度は馬鹿みてぇに速い。戦闘用にするにはもってこいだ」
「なんと……」
絶句するヘルバに向け、ナイトハルトは勝ち誇ったように笑う。
「命を奪っちまう卑劣は……まぁ、許せや愛しい後輩。これが戦いだ」
そして、ヘルバから背くと、
「消えちまう手前の意思に刻み付けろや――あばよ、後輩《Auf Wiedersehen》」
ナイトハルトは手を振って最期の別れを告げ、歩き出した。
――楽しかったが……。なんつーか、終わってみると味気ねぇつーか、後味悪いつーか……。
センチメンタルなことを考えながら――。