それは『奴』の右腕に突き刺さり、鉈の進行を妨げた。それは、矢らしかった。更に数発が、『奴』の身体に目掛けて飛んできたらしく、『奴』は後ろへと飛び退いた。三本の矢が地面に刺さった。
何が起きたか分からず、透哉は頭の芯の痛みを堪えて立ち尽くした。
「ライラ!」
高い声が、夜の公園に響いた。
直後に現れたのは犬だった。灰色の毛並みをした巨大な犬が、透哉と三好を護るように目の前に現れたのだ。
「は……?」
訳が分からず、呆然とする。酷い頭痛で正常に回らない透哉の頭の中には「犬種はなんだろう」などというどうでもいい疑問ですら考える余裕もなかった。
犬は唸り声をあげて『奴』を威嚇している。何処から飛んでくるか分からない矢の警戒もしているのだろう。迂闊には手が出せないらしく、『奴』は犬を睨みつける以上のことはしていない。
そして、犬の後に続くように、長い金髪の女性が透哉の前に現れた。欧米人だというのは雰囲気から察することが出来た。赤色のコートを纏った、美しい女性だった。
「あれは……バーサーカーか。初っ端から厄介なのと当たっちゃったわね。アーチャー、援護はよろしく」
女性は透哉の方には見向きもせず、訳の分からないことを話し始め、挙句には誰かと会話を始めた。流暢な日本語だった。しかしそれもすぐに終わらせ、次に女性は犬に声を掛けた。
「ライラ、全身の『強化』ね。アーチャーが貴方に合わせるわ」
犬の方はそれを理解したのか、ひと鳴きすると再び唸り声をあげた。そして、『奴』へ向かって弾丸の如き速度で飛びかかっていった。
恐ろしい速度だった。実際にその走りを見た訳ではないが、チーターでさえあんな速度を出すのは不可能ではないだろうか。少なくとも、透哉が知っている動物には無理なことである。
犬が凄いのはそれだけではなかった。振り下ろされた鉈をすんでのところで躱し、その腕へと噛みついたのである。『奴』が犬の首根っこを掴もうとすると即座に離し、距離をとる。直後には何処からともなく矢が飛来してくる。『奴』はそれを躱すのがやっとで、次に来る犬の攻撃に対応する余裕はないらしかった。
透哉が頭を押さえて呆然としながらその戦いを見つめていると、女性が振り向いた。
「貴方、根性あるわね。あんなの目の前にして逃げ出さず立ち向かおうとするなんて、なかなか出来ることじゃない」
「あ……ああ……」
実感が湧かない。立ち向かったのとは少し違った。それは、義務感に近かった。
半ばうわ言のように返事をしたが、女性はそれを意に介さず、透哉の背後に横たわっている三好に視線をやった。
「その子を、助けたいの?」
唐突な質問だったが、透哉は反射的に頷いていた。
「そう……少し退いてて」
そう言って、女性は三好の側に座り込んだ。残った左手を持ち上げて、脈をとっている。
「まだ辛うじて生きてる。ショック死していないのが不思議だわ」
女性が懐から何かを取り出した。
赤い液体が入った小瓶だった。透哉は、その液体を今日嫌になるほど見ていた。
「それって……血?」
「ええ、そうよ。あ、でも輸血するわけじゃないから勘違いしないでね。人間に対しての医療技術なんて私持ち合わせてないから」
つまり人間以外なら治療出来るという意味にもとれるのだが、透哉はそれについては黙っていた。だが、そうであるならどうやって三好を助けるというのだろうか。
「ま、見てなさい」
女性は小瓶の蓋を開けた。そして、中の血を三好の傷口に少しずつ垂らしていく。それに何の意味があるのか、透哉は最初分からなかったが、少し経ってやっと理解した。
垂らした血液が、まるで傷口の表面を修復するように広がっていったのだ。一体どういう手品なのか、と普通の人なら疑うだろうが、透哉はすんなりとそれを受け入れられた。
「それ、貴女の血ですか」
少し落ち着いたお陰か、まだ頭痛は引かないものの口調はいつも通りに戻っていた。透哉は滴っていた鼻血を左腕で拭った。
「ええ、まあね。十倍くらいに濃縮してる。貴方、魔眼を使っていたみたいだけど魔術の知識は?」
「触り……程度には」
「そう。なら、魔力と生命力の関係くらい分かるわよね。血って生命の象徴みたいなものでしょ。だからこうやって濃縮しとけば高濃度の魔力源になるの。あ、ちなみに私はO型だから凝固の心配は要らないわよ」
理屈は透哉にもなんとなく理解出来た。
魔力というものは、魔術回路を通じて生命力を変換したものだ。魔力を電気と例えるならば、魔術回路は発電装置、生命力はその燃料というわけだ。血液が体外に溢れ出せば、その分だけ生命力は弱まる。つまり、それを補うことと、傷口を塞ぐことの二つを同時に行っているのだ。
女性はあっという間に処置を終えると、小瓶を再び懐に仕舞って立ち上がった。
「さて、これで終わりだけどあくまで応急処置だから、急いで病院に連れて行かないといけないわ。さっさとアイツ倒しちゃいましょうか」
女性はそう言って、犬と、射手が不明の矢と格闘している『奴』の方を一瞥した。状況は均衡……いや、犬の側がやや押しているようだった。彼女は、透哉に視線を向けて言った。
「さて、貴方は魔術の知識があるようだけど、今ここで何が起きているか理解しているかしら?」
「……いいや」
それが分かっていれば、もっと冷静に行動出来ていた。透哉は首を横に振って否定する。
「そう。じゃあ今ここで詳しい話をするのはやめましょう。また後で教えてあげるわ。それよりも、叶えたい望みはある?」
「望み?」
「ええ、億万長者になりたいとか、スポーツ万能になりたいとか、やり直したい過去があるとか、なんだったら世界征服でもいい。とにかく何でもいいから、願いとか望みとか、そういったもの、ない?」
言われてすぐには実感が湧かなかった。この状況でその質問に何の意味があるのか分からなかったし、何より、それをこの女性に教えることに一体どれだけの意味があるのだろうか。そもそもそんなことを考えたことなんてなかったし、突然に聞かれても、簡単に思いつくものでもないだろう。
だけど、もし、願いが叶うのならば、望みが果たされるのならば。
手の届く範囲、目の前で苦しんでいる人を救う力があれば――!
震える唇で、透哉が声を発しようとしたその時だった。
「痛っつ――!」
右手の甲に鋭い痛みが走った。『奴』との交戦で切っていたことに気付いていなかったのかと思って、そこを見る。しかしそこにあったのは傷ではなく、真っ赤な、不吉な色をした痣だった。
「なんだよ、これ……」
わけの分からないことばかりが続いている。透哉の口から意図せず言葉が漏れた。
女性も右手の甲の痣を見たらしかった。そして、少し驚いたような顔をして、
「どうやら、聖杯に懸ける願いはあるようね。それは令呪――聖杯戦争への参加権よ。貴方は聖杯から、マスターとして認められた」
聖杯戦争。令呪。マスター。
意味の分からない単語が次々と羅列されていく。だが、少なくとも、自分はもはやそれらの単語と無関係ではないということが理解出来た。
「自分がどうなっても、これから何が起ころうと――」
女性の表情はいつの間にか、真剣そのものになっていた。
沈黙の中ですぅ、と呼吸の音が聞こえた。
「――貴方は、その願いを叶えたい?」
日常が非日常へと変わっていく、変な高揚感。
「俺は……」
何かを為さねばならぬという、義務感。
あの時、窓越しに合った彼女の目を思い出す。
「もし、叶うのなら……」
透哉は自分の右手の甲に出来た痣を見る。
そしてこれが、何かを為すための資格。
父を、母を殺された過去があった。だから、傷つく人を見たくないのだと、ずっとそう思っていたから。願いが、叶えられるのならば。
「――命を落としても構わない」
それは覚悟の言葉。
他人のために命を落とすことが馬鹿げているなど、透哉はもちろん理解している。だが、それでも、自分のように絶望に落とされる人間をこれ以上増やしたくない。元々他人に助けられて生きてきた身だ。少しくらい、他人のために粗末に扱ったっていいではないか。
女性は透哉の言葉を聞いて、にやりと笑った。
「そう。だったら、先ずはあの化け物を倒さなきゃね」
指差した先にいるのは『奴』だ。三好を襲い、傷つけ、果てに右腕を喰った異常者。透哉は拳を握り締め、頷いた。
「どうすればいい?」
「簡単よ。私の言う言葉を、そっくりそのまま繰り返すだけでいい。面倒臭いし時間がないから、魔方陣は省略ね」
透哉は黙って頷く。
今から何が起きるか、透哉には全く想像がつかない。だが、今は何があろうとこの女性の言うことに従おうと決めていた。
「いくわよ。素に銀と鉄。 礎に石と契約の大公」
「素に銀と鉄。 礎に石と契約の大公」
第一節を紡ぐ。言葉の意味は分からないが、とにかく声に出した。
「降り立つ風には壁を。
四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ」
「降り立つ風には壁を。
四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ」
初めは耳から入ってきた文言を口に出すので必死だったが、いつの間にか女性の読み上げるスピードに近づいており、透哉の声と女性の声は殆ど同時に発せられていた。
『|閉じよ《みたせ》。|閉じよ《みたせ》。|閉じよ《みたせ》。|閉じよ《みたせ》。|閉じよ《みたせ》。
繰り返すつどに五度。
ただ、満たされる刻を破却する。』
不思議と、透哉の頭の中から言葉が紡ぎ出されていた。知らない筈の言葉なのに。
『――――告げる。
汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。
聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ
誓いを此処に。
我は常世総ての善と成る者、
我は常世総ての悪を敷く者。』
これは詠唱だ。何らかの魔術を行使するためのトリガー。それは透哉にも理解出来た。
次が最後だと、直感で分かった。直後に女性がアイコンタクトで終わりが近いことを告げてくる。透哉は首を縦に振って返した。
『汝三大の言霊を纏う七天、
抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ――――!』
一瞬の静寂と、魔力の渦。
どこから溢れてきたのか、膨大な光の奔流が巻き起こり、夜の公園を照らした。余りの眩しさに、透哉は思わず右腕で視界を覆った。強烈な風が吹き荒び、今にも身体が吹き飛ばされそうだった。
頭が割れるように痛い。目眩も、今まで体験したことがないくらいに世界が揺れている。
『魔眼』を使う際に感じていた身体の芯が火照るような感覚が、いや、それ以上の負荷が透哉を襲った。彼はそれが、魔術回路が励起して魔力を生成している過程なのだと悟った。そしてまた、その消費も『魔眼』の比ではない。まるで、魔力を生成した先から、何かが身体の奥でそれを喰らっているような。
いつの間にか、目の前に何かがいた。
それは人であり、人ならざるもの。本来人類が触れることの叶わぬ神秘の結晶だ。並々ならぬ気配が、素人である透哉ですら感じることが出来た。
柊野透哉の日常は今この瞬間を以ってして、復元が出来ぬほど粉々に砕け散ったのであった。
銀白色の髪が靡く。
「サーヴァント、セイバー。召喚に応じ参上した」
形式ばった言葉だというのに、どこか芯の通った印象を受ける口調だった。
黒い布地の上に白銀の鎧を身に纏った戦士。それらの防具は、身体のパフォーマンスを落とさない為か、急所を中心に最低限度を隠しているのみだ。彼の右手に握られているのは透哉が両手を広げたほどもある巨大な両刃の剣。華美な装飾はなくその意匠はごく素朴なものであるが、ただひたすらに敵を切ることを考えられて鍛え上げられたような、そんな鈍色の輝きを放っている。全身からは純然な、寄りつく者全てを斬り伏せんと言わんばかりの剣気が溢れている。
白銀の髪の奥で碧色の瞳が、心の内を見定めるように透哉を見た。そして、その戦士は口を開いた。
「君が俺のマスターか?」