最愛の幼馴染に初めて出会った夜のことを話した。 雁夜の述懐を、サーヴァントは黙って聞いていた。――鼻をほじりながら……。 恋敵の時臣と、最愛の女性を賭けて争い敗北したこと。“いや、戦ってすらいない、敗北は敗者の特権だ。自分は戦わずに逃げたのだ。こんな優雅な男なら、自分より葵を幸せにしてくれると言い訳をして” そんな雁夜のモノローグを、下僕は静かに聞いていた。――ソースのついた包装紙をしゃぶりながら……。 間桐の後継者としての地位を捨て、フリーのルポライターになったこと。冬木の地を離れ、全国を飛び回り、それでも葵のことを忘れられなかったことを、泣き出しそうになるのをこらえて語った。 雁夜の独白を、妖怪は真摯に聞いていた。――でかいあくびを、幾度も連発したことを除けば……。 雁夜が魔術師として家を継がなかった所為で、桜が間桐へと養子に出されたこと。そのせいで、誰よりも大切な人たちを悲しませたこと。聖杯を手に入れる手に入れる代わりに、桜を開放してもらうという臓硯との取引。そのせいで自分の残された命はあとわずかであること。桜の父である時臣を、雁夜の大切だったものを汚泥へと投げ込んだあの男を憎んでいること。残された時間で、あの完璧な男との因縁の決着をこの聖杯戦争でつけること。 雁夜の真剣な一代記を、バケモノは笑わずに最後まで聞いていた。――どこから見つけ出してきたのか、洋酒のボトルをラッパ飲みし、何本も空にしたことを無視するならば……。 雁夜がすべてを語り終えた長い沈黙のあと、金色のバケモノは、「わしはバケモノだ。ニンゲンのことはよくわからねえが……」 そう前置きをしたうえで、額を押さえ、本当に困ったような顔をして、「ますたー………………………………………………………おめえはバカか?」 心の底からそう思っているかのような声でそう言い放った。 目の前のサーヴァントは、英霊というよりはどちらかといえば動物霊である。 人語を解するとはいえ、所詮はバーサーカーの座に招かれるような奴である。 食欲の権化として、ジャンクフードを食い漁るような奴である。 人情の機微を理解するなど、どだい無理な話であろう。 そんなことは分かっている。そんなこと、雁夜はよく理解ってはいるが―――――――――さすがにカチンと来た。「どこが馬鹿なんだよっ!!」 憤慨する雁夜を無視するようにバケモノは続ける。「コイガタキのガキぃ助けるために、くたばりぞこなうバカたれが一体どこの世界にいるっつーんだよ」 たしかに正論である。 しかし、腹立たしい。 人生のすべてを否定されたのだ。反駁し、激昂して当然だろう。「腐るほどニンゲンなんているんだぜっ。そんなかから、別の女ぁ探してテキトーにやりゃいいじゃねえか」 全くの正論である。 しかも、反論のしようがない。「しかも、奪った男に復讐するだぁ~~~?んなことして、そのアオイとかいうオンナが、いまさらますたーに振り向くわけでもねえし。乗りてえ風に乗り遅れたやつを、マヌケってんだぜ」 どうしようもないぐらいに正論である。 あきれかれるほどに。 なにもいえなくなった雁夜を凝視したのち、バケモノはふとなにかに気がついたように、しかし口にしてもいいのかどうか迷った仕草をしたあげく、冷や汗を流しながら口を開いた。「ますたー………………………………」「なんだよっ!!」 雁夜は自分も気がつかないうちに、肩で息をしていた。 興奮のあまりに心臓の音が聞こえるほどだ。「オマエ……………………もしかして、ニンゲンのオンナにもてねーのか?」 全くの図星であった。「うるせぇんだよっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」 少女の寝ている隣で、半死人とは思えないほどの絶叫を上げた。 動悸がおさまり始めたころバケモノがまた、その肉食獣の口を開いた。「ますたー。このいくさ、ホントーにまだつづけんのか?」 バケモノが口にしたのは、予想外の言葉だった。 もしも、雁夜が聖杯戦争から降りると言い出したらどうするつもりなのか。 このサーヴァントには願いがないというのだろうか。 聖杯戦争で呼ばれる英霊はかなえるべき望みがあるはずなのだ。「聖杯戦争は、まだ始まってさえいないだろ。それにお前、俺が降りるって言ったらどうするんだ。叶えたい望みがないのか?」「ねえな」 即答だった。 興味のないおもちゃを脇に捨てる子供の声であった。「本当か?」 とてもではないが、そう簡単に信じることはできなかった。「ああ」 本当にどうでもよさそうに答えた。「わしは、火も吐けねえ、姿も消せねえ、よわっちいニンゲンとはちがうのよ。ほしーもんなんてなんんもねーし、ほしーもんを、セーハイなんて訳のわかんねーのから貰おうなんて思わねー」 聞き捨てならないことを、平然と口にした。「欲しいものがないのか?」 雁夜には理解できなかった。目の前のサーヴァントは、人間にとって、欲しいものがないというのがどういうことなのか解っているのだろうか。「ああ、ワシぁ、ハラぁいっぱいだ」――このバケモノが羨ましかった。欲しいものがないということは、欲しいものをすべて手に入れているニンゲンだけが言うセリフなのだから。 雁夜には、なにもない。なにひとつ残されていない。「なんでますたーは、こんないくさつづけるんだ?」「時臣に真意を聞くためだ。なんで桜ちゃんを、間桐の家に養子に出したのか……」 いや、大した理由などないのだろう。あの魔術師という連中はそういう人でなしだ。「もしも、納得できない理由だったのなら、そのときは……」 雁夜が最も大切にしようとして、触れることさえ出来なかったものに唾を吐いたのだ。 あの憎むべき仇敵から余裕と優雅さを剥ぎ取り、雁夜の身をじわじわと蝕んでいる蟲共の餌食にするのだ。寸刻みなど生ぬるい。「復讐か?バカバカしー」 雁夜の狂相を見れば、なにを考えていたかなど訊かずともわかるというものだ。「馬鹿馬鹿しくてもやるんだよ」 これを捨ててしまったら、雁夜は残りの時間をどう過ごしてよいのかわからない。「憎んだって、いーことねえぞ」 バケモノのくせに、どこかでだれかが聞いたような台詞を吐いた。 まるで、酔っぱらったオヤジが、人生に迷った青年に説教しているようだった。「それでもやるんだ」「このコムスメはどーすんだ、てめーが死んだら誰がめんどーみるんだよ」 雁夜から鬼相が消え、右半分にほんの少しだけ笑みが浮かんだ。「もう臓硯はいない。きっと誰かが何とかしてくれる。時間はかかるかもしれないけど……」 雰囲気が一変した。バケモノの気配が変わったのだ。「きっと誰かが……?何とか……?時間が……?ますたー、おめえはばかか?」 静かな声で、本当に静かな声でそういった。「このガキは、確実にぶっ壊れてる。そう簡単にゃあ、もとに戻らねえぞ。いいや、もう肝心なところまで壊れてるかもしれねえ」 眠っている少女を指差して、バケモノがいう。 血が凍った。 それは、雁夜が危惧しつつも、直視するに耐えない最悪の可能性であった。「どういうことだ、バーサーカー!?桜ちゃんが壊れてるって」 雁夜は、自分の口から出た言葉の寒々しさに恐れをなす。 桜が壊れていることなど、この一年間の桜の変化を見続けていた雁夜が一番よく知っている。 よく知っていたはずなのだ。「ますたー、おめぇはホントーにばかか?このガキが壊れてるなんて、見ればわかるだろうが。わしが喋ってるのは壊れた場所のことよ」 いやな感触が背骨の下からゆっくりとのぼってくる。「あの気色の悪い蟲爺ぃになにされたのか知らねえが、よわっちいニンゲンの、大切な部分がまるっきりぶっ壊れてる」 その言葉は雁夜の耳に入らなかった。 頭の中を後悔だけが駆け抜けていく。 手遅れにならないでほしいなどというのは、ただの願望であり妄想だ。 臓硯がいなくなったことで、なにかが解決した気になっていた。 未来の桜の笑顔を想像しながら、ひとり死んでいけるならばそれでいいと考えていた。 しかし、現在にも未来にもそんなものがなかったとしたら? 自分のやろうとしていることはまるで無意味ではないのか。 蟲共がそうするように、全身を恐怖が侵食していく。「この桜とかいう小娘は、わしが脅してもまるでびびらなかった。ふつーのガキなら小便を漏らして逃げ出すってのにな。最初は、とんでもなく背も腹も据わっている、クソ生意気なガキかと思った。しかし、どうにもそうじゃあねえ。こいつはスゲエ臆病もんだ」 そんなことはわかっている。この世界で誰よりも雁夜がよくわかっている。 よくわかっていたのだ。わかっていたはずなのだ。 だというのに、直視できなかった。 その事実を受け止めることがあまりにも恐ろしかったから。 恐怖に震える雁夜を無視し、バケモノは続けた。「このガキは逃げてんのよ」――その言葉が、 癇に障った。 今までのどんな言葉よりも。「死ぬよりもつれーことがイヤだから、いっそ死にてーっ、殺してくれーってな」 ふつふつと、押しこめていた衝動が言葉となって口から出てくる。「黙れ」 とてもではないが黙っていられなかった。「黙れよ、バーサーカー」 この大馬鹿者で、愛する人に想いすら告げられなかった臆病者の自分が責められるのは当然だ。 桜が地獄にくべられなければ、自身の宿命に向き合うことすらできなかったのだから。 桜がここまで追い込まれていても、その状態を直視すらできないのだから。 しかし、なぜ桜が責められなければならないというのか。 真に責められなくては、あの邪悪の権化ども、愛しい者を道具のように使う、忌わしい魔術師どもではないのか。 業を背負うことが出来ずに、肝心なところで大切な人を悲しませ続けている雁夜自身ではないのか。 だから、黙っていられなかった。「逃げてなにが悪いんだよ。桜ちゃんは、まだ子どもなんだよっ。夜中に怖い夢をみたら、声をあげて泣いちゃうぐらいの子どもなんだよ。一人で眠れなくって、こっそりお姉さんのベットにもぐりこんじゃうような子どもなんだよ。そんな子が、なんだかわからないうちに、優しい母親や大好きな姉から引き離されてこんな薄汚い、奈落の底に放り出されてみろよ。あんな腐れ外道の手に渡されてみろよ。桜ちゃんがなにをされたか、おまえは知ってるのか」――わかるはずがない。この眼の前のバケモノにそんなことわかるはずがない。――英霊などというナニカになって聖杯に呼ばれる強者に、あの汚泥の渦に叩き込まれ悲鳴を上げることさえ忘れた子どものことなどわかる筈がない。――愛しさの身を焦がし続け、地獄に落ちることさえ厭わないほど愛した人を、別の男に譲り渡した自分の無念など理解などされて堪るものか。「弱ええからだろ」 バケモノは、誰が弱いとは言わなかった。 しかし、その言葉は、体内に巣食う刻印虫よりも激しく雁夜の臓腑を抉った。 好きで弱く生まれたわけではない。 もしも、あの完璧で、余裕を絶やさず、常に優雅な男だったならば、自分の宿業に背を向けるような真似など決してしなかったろう。 もしも、間桐の家に生まれたとしても、その艱難辛苦を己が誇りへと転化したことだろう。――しかし、「弱くてなにが悪いんだよっ!!」 どうしても、雁夜にはそれができなかった。「悪かねえさ。でもな」 なにか、反駁し、あの生意気な声を黙らせたかった。しかし、なにもいうことができなかった。 厳しく雁夜を責め立てるそのその言葉には、もう侮蔑や、嘲笑の色が全くないことに気付かされたからだ。「このコムスメを、わしやおめえみてえにしたくねえだろ」――だから、そう簡単に復讐とかいってくたばることばっか、考えるんじゃねえバカが…… そう言い残して、バーサーカーは実体化を解いた。 ほんの少しだけ、レースのカーテンから、太陽の光が差し込んでいる。 二人だけになった部屋の中、雁夜は、ひとり静かにむせび泣いた。地獄から這い上がってきた悪鬼のように凶悪な顔をしているくせに、正論しか言わない生意気な使い魔に聞こえないように。 自分のせいで、奈落へと突き落とされたかわいらしい姫君を、安息の眠りから覚まさないように。――いつのまにか眠っていたようだ。またあの夢をみる。 腕が太くなった。 戦に出た。 襲い掛かってくる敵が憎くて、 臆病風に吹かれる味方が憎くて、 目の前の敵を殺しまくった。 そうするたびに右肩が疼いた。 何度も戦に出た。 何人も殺した。 戦に出るたび襲い掛かってくる敵が憎くて、 自分の陰に隠れる味方が憎くて、 目の前の敵を皆殺しにした。 戦に出た数と、 敵を殺した数が解らなくなった頃、 自分の姿を見ただけで、 敵兵が蜘蛛の子を散らすようになった頃、 いつのまにか英雄として祭り上げられていた。 戦から帰るたび、街中の人間が自分を祝福した。 子どものころは呪われた子どもとして迫害し、 敵を殺すのに役立つと判ったら、ちやほやする。その態度の変貌が、 一層の憎しみを募らせた。 貴族の馬鹿息子が、町娘を取り囲んで騒いでいた。 なんだかんだと理由をつけて、慰みものにでもするのだろう。 親の権力を笠に着て、いつもの光景だった。 その振る舞いがあまりにも醜悪で、 あまりにも憎くて、 おもいきりぶん殴った。 助けた女に礼を言われた。 ヒトを殴って礼をいわれたのは初めてだった。 助けたはずの女に諭された。 まるで喧嘩をして帰ってきた子供を優しく叱る母親のようだった。 そんなふうに諭されたのは初めてだった。 女は自分を恐れていなかった。 自分を恐れない人間は初めてだった。 その女には、 右肩が疼かなかった。