あれは幼かった頃の出来事だが、今でも明瞭に覚えている。というのも、あの二人のメイジの印象はかつてないほどに大きかったし、何よりも人生の分け目であったからかもしれない。
アングル地方。その中の小さな村で生まれたアニエスは、ある日、海岸近くで若い女性が倒れているのを見つけた。彼女はヴィットーリアという名前だった。敬虔なブリミル教徒でもあった彼女は、“実践教義”が広まっていたアニエスの村で、すぐに受け入れられた。加えてヴィットーリアは“水”系統を得意とする優秀なメイジでもあり、村人たちは簡単な怪我や病であればすぐに治してもらえることに歓喜した。
アニエスも一度、熱を出してヴィットーリアに診てもらったことがあった。魔法の凄さを初めて思い知ったのは、まさにその時だった。あれだけうなされていた高熱は、彼女の“癒し”によってあっさりと取り除かれ、すぐに平時と変わらぬ体調にまで戻ったのだ。平民がメイジを恐れ敬う理由を、そこでアニエスは幼いながらも理解した。
それからアニエスは、しばしばヴィットーリアのところへ自分から遊びに行くようになった。ロマリアが出身地であるらしい彼女は、アニエスに縁もなかった遠い土地の話をよくしてくれた。
そして月日が過ぎ……始祖暦六二二二年、アニエスが三歳の頃。
村長からの連絡により、正午手前の時刻、村人全員が広場に招集された。そこには村長と、隣に二十歳くらいの若い男女が二人いた。
村長は村のみんなに説明した。この付近に大規模な野盗がやってくるかもしれないので、日没後は絶対に外を出歩かないようにしてほしい。隣にいる男女はどちらも強力なメイジで、この村を守り、野盗を討伐するためにやってきた。彼らはしばらく、この村に滞在することになるので、無礼のないようによろしくお願いする。
……だいたい、このような感じだった“らしい”。というのも、あとで両親から確認した話なのだ。何分あの頃の自分は幼かったので、村長の話は聞いていたものの意味も理解できずに、「とにかく凄いメイジの二人が来た」という程度の認識だった。そんなわけで大して緊迫感も持たず、アニエスはいつもどおりに生活していた。
村にやってきたメイジの二人は、栗毛で人の好さそうな雰囲気の青年がアベル、黒髪で美人だけど少し厳粛な空気をまとった女性がレティシア。その二人に初めて正面から顔を合わせたのは、アニエスがヴィットーリアの住まう家を遊びに訪ねた時だった。
屋内に入ると、例の二人が椅子に座っていた。ヴィットーリアに促されて、アニエスは人見知りしながらも自己紹介をした。
「……こ、こんにちは。わたしのなまえ、アニエス」
その時、一瞬ながらも二人は驚いたような顔をした。些細なことだったので、それがなんだったのかはもうわからないが。
とにかく、それからは世間話のような他愛のないもので時間が進んだ。あっという間に日暮れ近くなり、そして最後の別れ際、ヴィットーリアはアベルに一つのものを手渡した。
それは指輪だった。しかも単なるありふれたものではない、明らかに貴重で高価そうな、大きなルビーが美しく光る指輪だった。
どうしてあげちゃうの? と、アニエスが聞くと、アベルは笑って答えた。
「こいつは大切なものだからね。悪い人に持っていかれないように、オレが預からせてもらったのさ」
ヴィットーリアも静かに頷いていた。なんだか理由がわからず、あんまり納得はできなかったものの、アニエスはそれ以上聞かなかった。
その日の深夜。
アニエスは急に目を覚ました。寝なおそうとするが、なんだかいやな胸騒ぎがして眠れない。そのうち、ふと話し声がわずかながらに聞こえた。家の中ではなく、外からだ。
誰だろうか? 気になって仕方なくなり、アニエスはベッドから抜け出した。
家のドアを開けると、話し声ははっきりと聞き取れるようになった。そこで気づいた。この声は――アベルとレティシアのものだ。
「……アニエス?」
家を出てきたアニエスの姿を見つけて、アベルが近づいてきた。
「どうしたんだ、こんな時間に?」
「なんだか、いやな感じがして、ねむれなくて。そしたら、おにいちゃんたちの声がして……」
アニエスがそう言うと、アベルは表情を真剣なものに変えた。
「……そうか。なら、少し散歩でもするか? “いいもの”も見られるぜ」
その言葉にアニエスは少し悩みながらも、アベルの言う“いいもの”がどうしても気になり、小さく頷いた。
それからしばらくして、レティシアは二人と別れてどこかへ行ってしまった。残った二人、アニエスはアベルにおんぶされて、夜の村を散歩していた。
ふと、アベルが足をとめた。そしてすぐに、何かに気づいたかのように体の向きを変えた。
「どうしたの?」
「ん……待っていたものが来たみたいだ」
何も聞こえなかったのに、どうしてそんなことがわかったのだろうか。今度はそんな疑問をぶつけてみると、アベルは「足音が聞こえたからさ」と答えた。もちろんアニエスには、そんなものは聞こえていなかったので、なおも不思議で仕方がなかった。
杖を取り出したアベルは、ルーンを素早く唱えると、アニエスに注意をした。
「さてと、落ちないようにな」
次の瞬間、アニエスの視点が高くなった。アベルが飛行の魔法で宙に浮いたのだ。突然のことに手を離しそうになってしまったが、すぐにアベルが体の向きを横に傾けてくれたので、なんとか落ちずに体勢を持ちなおすことができた。もう落ちそうにならないように、しっかりとアベルにしがみつく。
「それじゃ、行くぜ」
地上から五十サント程度の高度を保って、アベルは東へと進みはじめた。
それほど高くはないとはいえ、空を飛んでいるということにはかわりない。当然ながら初めての経験に、アニエスは声にならない感動を覚えた。これが……魔法の力。
やがて村を出て、草原の広がるところまでやってきた。そこでアベルが着地する。
「あれ、見えるか?」
ふと、アベルが一方を指差して聞いた。アニエスはそちらのほうを向いて目を凝らすが、暗くてよく見えない。とはいえ、誰かが複数動いているようなことは、辛うじて判断できた。
よくみえない、とアニエスが言うと、アベルはルーンを唱えた。そして彼が杖を一振りすると、アニエスの目に奇妙な熱が一瞬帯びた。それが冷めると……驚くべきことに、まるで昼間のように辺りの暗がりを“見る”ことができるようになっていた。
アニエスが感嘆の声を上げているうちに、ふたたびアベルが魔法を詠唱する。“暗視”の魔法に次いでアニエスにかけられたのは、遠方をも瞭然と把握できるようになる魔法だった。
その二つが合わさって、アニエスはようやく、アベルの指差した方向で行なわれていることを確認することができた。
あれは――レティシアだ。
三十以上もの人影がある中で、その姿はよく目立っていた。なぜならレティシアはたった一人で、ほかの全員と戦っていたからだ。
しかし劣勢の様子は、いっさいなかった。彼女の“風”は、敵のすべてを超越していた。武装した傭兵やメイジたちは、彼女に指一本触れることもできずに、次々と倒れていった。
呆然とその光景を眺めているうちに、もう敵はいなくなっていた。最後に立つのは、レティシアが一人だけ。
「あれが例の野盗ってやつさ。レティシアが、悪いやつらを退治したんだ。ま、これで一安心だろう」
隣に立っていたアベルが肩をすくめて言った。
「さぁて、そろそろ家に戻ろうか。アニエス」
名前を呼ばれて、アニエスははっとした。そこでようやく、彼方のレティシアからアベルのほうに視線を移すことができた。
「……どうだ、アイツの“風”を見た感想は?」
面白そうにアベルが聞いてきた。アニエスは少し考えてみたものの、上手く言葉もまとまらなかったので、たった一言だけ。
「うん……すごい」
それしか言えなかった。メイジの力が平民には遠く及ばないとはわかっていたが、先程の光景はヴィットーリアに病を治療してもらった時以上に、そのことを実感させられた。
アベルの言った“いいもの”とは、レティシアのことだったのだろう。そう思って、アベルにお礼を言うと、彼は苦笑のようなものを浮かべた。
「本当は別のことについて言ったんだけどな……」
「べつの?」
首を傾げたアニエスに、アベルは「あー」と少し言いづらそうにしながら、それを答えた。
「見せたかったのは、まあ……。――物語の分岐点、ってことさ」
人生を一つの物語とするならば、それはまさに分岐点だった。アベルとレティシアがいなければ、もしかしたらあの野盗によって村は襲撃され、最悪の場合には、自分の人生という物語がバッドエンドを迎えていたかもしれないからだ。
そして今、アニエスという人間は、平凡で平和な日常を送りつづけている。
これからも、とくに変わり映えのない毎日になるのだろう。そう思っていたのだが、やはり物語の転機は前触れもなく訪れるのが決まりのようだった。
その日、家に帰宅したアニエスを出迎えたのは、久しぶりに会う人物だった。
年齢は見た目二十歳ほどで、髪は少し癖のある栗毛。青年の口元には、どこかイタズラっぽい笑みが浮かんでいる。
「よう、二年ぶりだな」
「アベルさん……? あ、ええと……いらっしゃい?」
“あの日”以来、アベルは不定期にアニエスの住む村を訪れていた。だがアベルの言うとおり、最後にアニエスが彼と顔を合わせたのは二年前だった。もともと、アベルが村にやってくるのはとくに決まりもなく出し抜けだっただけに、次はいつになるのかと思っていたが……こうも唐突に現れたので驚いてしまった。
「ちょっとした用事でこの近くまで来たんでな。つっても、まあ、明日には出なきゃいけないんだが」
話を聞くと、本当に“ついで”で立ち寄ったらしい。もっとゆっくりしていけばいいのに……とは思うが、用事があるのなら仕方ない。
それにしても、とアニエスは改めて思う。
この青年の見た目はいつ見ても変わらない。物語に出てくるような不老の人間が、まさにこのアベルというメイジだった。今ではもう、アニエスの歳はアベルの外見年齢と変わらないほどになってしまった。これからも自分が年を取りつづけるのに対して、彼はこれからも変わらぬままなのだろう。
「あー、そうそう。先にヴィットーリアのところに寄っていたんだが、あいつのところに何冊か本を置いておいたぜ。前回よりは数が少ないけどな」
「本当ですか……! いつもありがとうございます、アベルさん」
アベルの言葉に、喜色を隠さず反応する。それだけアニエスは本が好きだった。ヴィットーリアが読み書きを教えてくれて、アベルが村に来るたびに本を持ってきてくれたおかげで、小さい頃から読書をよくしていたのだ。
本は、王都や大きな街に行かなければ入手できない。しかも、ただの寒村の住民にとっては非常に高価なものだ。だからアベルの持ってきてくれる新しい本は、とても貴重だった。しかし、こうして本を貰うたびに、アニエスは思うことがあった。
「はぁ……自分で本を買えたら、いいんですけどね」
「んー、そうだな……。本は自分で欲しいものを選んで買ったほうがいいだろうしなぁ」
「それもありますけど……その、やっぱり本屋とお金がないのが……って、アベルさんにこんなこと言っても仕方ないですよね」
わざわざ貴重な本を寄付してくれているアベルの前で、これ以上は愚痴っても申し訳ないだけだろう。そう思ったのだが、アベルは「ふむ」と少し考えたあと、何かを閃いたように口を開いた。
「じゃあトリスタニアに行ってみるか?」
はい? と、アニエスはぽかんとした。トリスタニア――王都に行く……?
「明日から、トリスタニアへ向かう予定だからさ。ついでに、一緒に来てみるか? 好きなだけ本を選べるぜ。なぁに、金も気にしなくて構わんよ」
子供っぽい笑みを浮かべてアベルはそんなことを言う。
「え、でも……」
「一度も行ったことがないんだろう? いい社会勉強にはなると思うぜ。まあ、都合が悪いなら気にしなくてもいいが」
「えっと、今は村の仕事も忙しくないので、わたしの問題はないんですけど……」
というか、すごく行きたかった。トリスタニアといえば、トリステインで最大の都市だ。そこを訪れてみたくないわけがない。けれども、いつも世話になっているアベルに、そこまでしてもらうことにも気が引ける。
そのことをアベルに告げると、彼は意外なことを口にした。
「オレのことは気にするな。というより、こっちとしても来てくれたら嬉しいんだよな。――“アイツ”に成長したお前の姿を見せられるしな」
「アイツ?」
すぐに人物が思い当たらず、首を傾げる。
そんなアニエスを見て、アベルは笑いを浮かべた。
「アイツ――レティシアのことさ」