「トレビアン!」
「…………」
奇妙な声色の叫びとともに腰を振る、中年オカマのスカロン店長。そんな彼の言動は見るに堪えがたいが、それ以上にアニエスは自分の姿が直視できなかった。
目の前の鏡には、アニエスの全身が映っている。胸元が大きくはだけたキャミソールに、太ももが大きく露出したフリルのスカート。どちらもアニエスの長い金髪に合わせて、穏やかで温かみのある黄色を基調とした衣装だった。……いや、衣装? 下着って言ったほうが正しいんじゃないの?
そんなふうに突っ込みたかったが、ほかの女の子たちがもっと過激な姿なのを見ると、マシな部類なのだろう。いまさら逃げ出すわけにもいかないので、諦めてやるしかないのだ。がんばれ、アニエス! と自分で自分を応援した。
「アニエスちゃん、よろしくね! 元気に働いてらっしゃいな!」
「……………………はい」
スタート地点からどん底の暗さであった。しかし、やらねばならぬのである。すべては本のためである。
厨房の控え室から出ると、そこで待っていたダルシニがいた。彼女は、店の給仕である“妖精”となったアニエスの姿を見て、「まあ」と楽しそうな声を上げた。
「すごくかわいいですよ! 思わずお持ち帰りしたくなるくらいに……うふふ」
「……あの、ダルシニさん?」
アニエスは戦慄した。なんだかヤバい雰囲気が、ダルシニから感じられる。っていうか、なんで頬を赤くしているの!?
いろんな意味で身体の危機を感じて、アニエスは「じゃ、じゃあ注文を聞いてきます!」と急いで表の店内に脱出した。
――が、そこに待っていたのは本当の苦難であった。
とりあえず、お客さんの食べ終わった食器でも回収しようかと考え、店内を見渡す。そうしているうちに、近くのテーブルにいた男性客がアニエスに声をかけた。
「きみ、いいかい?」
「は、はい」
内心であたふたとしながらも、なんとか平静を保ってテーブルへ向かう。男性客はマントを羽織っているから、貴族なのだろう。しかし、アニエスは王都の事情には詳しくないため、貴族といっても相手がどれほどの身分なのかも判断がつかなかった。
迂闊に機嫌を損ねるとまずいな、と思いつつも、なんとか注文をメモすることができた。そして厨房へ戻ろうとしたのだが、直前で男性客に呼び止められた。
「ちょっと待ってくれ。見ない顔だが、新入りかい?」
「えーと、まあ、そんなところです」
早く行かせてくれ、と本心をぶっちゃけるわけにもいかず、曖昧に答える。しかし、男性客はアニエスに興味を持ったのか、なおも話しかけてくる。
「いつからこの店に?」
「……今日からです」
「なに! ということは、ちょうどきみの初日に来店できた僕は運がいいようだね! ところで……きみは、どこら辺に住んでいるんだい?」
アングル地方の村です、と答えるのもどうかと思ったので、とりあえずダルシニの住んでいる借家を答えた。
「ほう、なんだ近くじゃないか! フフフ、どうやら僕たちは気が合いそうだね」
たかだか家が近いだけで何言ってんだコイツ、と本音を叫びたくなった衝動を抑え、アニエスは適当に頷きながら「そ、そろそろ注文を届けに行きますね」と苦笑して、逃げるように厨房のほうへ戻った。
「き、きつい……」
どんよりとした顔色でしゃがみこむ。たかだか1人の注文を取るだけでこれであった。
そんなアニエスに、皿洗いをしていた12歳ほどの少女が声をかける。
「あのー、大丈夫ですか?」
アニエスは顔を上げた。ハルケギニアではあまり馴染みのない深い黒の髪と瞳を持った、かわいらしい少女が、心配そうにしている。
スカロンの愛娘、ジェシカだった。最初にこの子とスカロンが親子だと言われた時、アニエスは「子は親に似る」という言葉が嘘であると確信したのは余談である。
アニエスは深呼吸して、立ち上がった。
「うん……。まだ、がんばれるよ」
「いや、アニエスさんのことじゃなくて、お客さんの注文のことなんですけど」
そっちかよ! と突っ込みたくなったのを抑えて、アニエスは「……いまから行きます」と厨房の料理人に注文を伝えて、また接客に戻ることになった。
それからおよそ一時間ほど経ち、仕事にも慣れてきて、かつ胃もきりきりと痛みだしたころ、ようやく見知った顔の客が来店した。
彼は初老の女性を隣に連れ立って、ぐるりと店内を見回していたが、すぐにアニエスの姿に気づいて歩き寄ってくる。
普段ならば絶対に着ないような服装のアニエスを見て、彼――アベルはくつくつと笑いながら、
「似合っているぜ、アニエス」
「……それは、どうも」
溜息をつきながら、空席に案内する。二人が着席したところで、アベルが先に口を開いた。
「紹介するよ。オレの友人の、ヴィヴィアンだ」
女性――ヴィヴィアンはにっこりと笑みを浮かべて名乗った。
「ヴィヴィアン・ド・ジェーヴルよ。あなたのことは、道中でアベルから聞いたわ。よろしくね」
「は、はい。よろしくお願いします」
その気品を感じさせる仕草と声色に、緊張して思わず震え気味な声で返答する。
アベルの知人とはいえ、この女性も貴族なのだろう。失礼のないように気をつけないと、と改めて意識する。
「では……ご注文が決まったら、また呼んでください」
一礼して、踵を返す。「がんばれよー」と茶化し気味なアベルの声が後ろから聞こえた。こ、こっちの苦労も知らないで……。
といっても、散々世話になっている恩人相手に強く出られるわけもないので、がっくりと肩を落としながら仕事に戻るアニエスであった。
――と、その時。
「なあ、嬢ちゃん」
一人の男性客に呼び止められ、アニエスはそちらのほうを向いた。
「酒を頼む。ついでに……酌もな」
そう言ったのは、30代後半と思しき男だった。体はかなり鍛え抜かれており、軍人か傭兵といった風体だ。その男から妙に剣呑な威圧感を覚えて、アニエスは少しびくつきながら注文を承った。
そして酒を届けて、男の持つグラスに注ぐ時も、やはり心中は落ち着かなかった。
男は目を細めて、アニエスを見つめている。だが、それは決して好色の視線ではない。まるで、獲物を見抜く猛獣のような……。
――考えすぎだ。
アニエスは余計な思考を自制した。この男が傭兵の類であったのならば、そういう鋭い視線が平常のものとなっているのかもしれない。だいたい、なぜ先日ここに来たばかりの自分が睨まれなければならないのだろうか。
酒を注ぎおえて、アニエスは軽くお辞儀をした。
「……それでは、わたしはこれで」
「ああ、ありがとよ」
にぃ、と男は笑った。蛇のように冷たい笑いだった。
何か背筋に冷たいものを感じて、アニエスは逃げるように立ち去った。
◇
レティシアが店にやってきたのは、そのすぐ後のことだった。料理の注文を承りにきたアニエスを見て、彼女は一瞬だけ驚いたような顔をして、
「……似合っているな、アニエス」
微笑とともに、そんなことを言った。なまじアベルと違ってからかいの色がなかっただけに、どう反応すればよいのかと困ったくらいだった。当のアベルはというと、そんな二人のやり取りを見て、相変わらず小さく笑っていたが。
その後、いったん給仕の仕事を休憩して、アニエスもアベルたちと一緒に食事を取ることになった。ちなみに、これはダルシニに「アベルたちと食べてきたらいかがですか?」と言われたことによるものだった。そして「仕事を中断しても大丈夫なのですか?」と聞いたら、「いいんじゃないですか?」と適当にしか思えない言葉を返された。さすがに不安になってスカロン店長にも聞いたら、「アベルさまのお友達なんでしょ? 行ってらっしゃいな!」と快く許可されてしまった。
どうやらアニエスひとりが抜けたところで人手に困るということではないらしい。だったら、あんな恥ずかしいことよりも皿洗いをさせてくれればよかったのに、と内心で愚痴りながらも、アニエスは自分の分の料理を携えてアベルたちのテーブル席に向かった。
目当てのテーブルでは、アベルとレティシア、そして二人の知人であるヴィヴィアンが、食事をしながら談笑していた。その中で、やってきたアニエスへと先に声をかけたのはアベルだった。
「お、来たか。仕事はいいのか?」
「……いちおうは」
そう受け答えながら、空いているアベルの隣席に腰を下ろす。真向かいにはレティシアが、斜向かいにはヴィヴィアンが座っている。
アニエスは改めてヴィヴィアンの姿を見据えた。年齢は50代の半ばくらいだろうか。その黒髪には白髪が混じっているものの、まだ艶やかさも感じさせる。眼鏡の奥の碧眼は、理知と穏健の両方が宿っているように見える。
ふと、ヴィヴィアンと目が合った。アニエスは慌てて頭を下げた。
「えっと……お邪魔させていただきます、ジェーヴルさん」
「歓迎するわ、アニエス。それと……わたしのことは、ヴィヴィーでいいわよ」
「へ? い、いや、そんな、貴族の方に――」
「アベルとも親しいあなたとの関係に、貴賎は必要ないわ」
まさか貴族の人間にそこまで言われるとは思っていなかったので、驚きが大きかった。だが……よくよく考えたら、今まで何気なく話をしていたレティシアだって貴族の一員なのだ。この場でヴィヴィアンにだけ余所余所しくするのも、かえって失礼なのではないだろうか。それに、本人もこう言っているのだ。
「それでは……ヴィヴィーさん、よろしくお願いします」
「ええ、楽しく食事をしましょう」
にっこりと笑った彼女につられて、アニエスも笑みを浮かべた。
それからは、皆でゆるりと談話しながらの食事となった。その話題はといえば、ヴィヴィアンがあまり知らないアニエス自身のことや、逆にアニエスの知らないアベルたちの昔話のことだった。
アベル、レティシア、ヴィヴィアン、そしてダルシニやその双子の妹のアミアス、そして魔法衛士隊の騎士たち……。かつて王都を騒がせたエスターシュ大公の謀反の事件は、そうした多くの人物が関わり合って解決されたらしい。ところどころで話に“ぼかし”もあったが、たぶんアニエスといえども知られるとまずいことなのだろう。だから、あえて深くつっこむことはしなかった。
それでも、聞かされた話はとんでもなく大きな出来事で、まるで――フィクションの物語のようだった。さながら、アベルやレティシアは主人公といったところだろうか。
「おっと、もうこんな時間か」
皿から料理もなくなり、話もきりよく終わったところで、アベルがそう声を上げた。
「店も混んできたし、今日はこの辺にしておこうか。……アニエス、お前はどうする?」
アベルに聞かれて、アニエスは少し考えてから答えた。
「そうですね……。わたしは、もう少しお店で仕事をします」
なんだかんだで、こうして料理を提供してくれたりと便宜を図ってくれているのはスカロン店長だ。恩返し、というほど大層なものではないにしても、多少の手伝いくらいはしたいと思っていた。
「ん、そうか。なら、オレはヴィヴィーを屋敷まで送ってくる。レティシア、お前は?」
「私は自分の宿に戻る。もし何か用事があれば、『銀の酒樽』亭を訪ねたまえ」
「了解。じゃ、これで解散だな」
そうして、それぞれは別れることになった。簡単な挨拶とともに、三人が店を出るのを見送ってから、アニエスはまた仕事に戻ることになった。
それから、数時間して……。
「つか……れた……」
本日の労働を終えて、アニエスは店員の控え室で死にそうになっていた。やたらと口説いてくる男や、体に触ろうとする男に対応するのに、ひどく精神的に疲労したのだ。たしかにチップはいくらか貰えたものの、アニエスにとってはまったく割に合わない内容としか言いようがなかった。
「初日でこんなにチップを貰えるなんて、すごいじゃないですか! この調子でいけば、すぐに本もいっぱい買えますよ!」
ニコニコと笑いながらそう言うダルシニがどこか怖い。というか、本の件を出されると断れないのをわかっていて言っているんじゃなかろうか。
おそるおそる、アニエスは顔を青くしながら尋ねた。
「あの……つかぬことを伺いますが、この仕事って、明日も――」
「もちろん、しますよね?」
有無を言わせぬ満面の笑みだった。……まるで鬼のようだ、とアニエスは絶望した。
「ふふ、今日みたいに勤務時間は少なくしてくれるように店長に言っておきますから、大丈夫ですよ」
「……はあ、わかりましたよ」
諦めのため息とともに、アニエスは頷いた。
トリスタニアに滞在するのは、どうせ一週間程度の予定だ。それくらいの期間なら、がんばればリタイアせずになんとかこなせるだろう。それに……自分で稼いだお金で本を買いたいというのも、たしかにある気持ちだった。
ダルシニは、相変わらず嬉しそうな顔をしながら言った。
「今日は疲れたでしょうから、先に帰っていてください。明日のことは、またあとで話しますので」
「ダルシニさんは?」
「わたしは、もうちょっとお店に残って仕事をします。でも、そんなに時間はかかりませんので、心配しないでください」
そう言って、ダルシニは借家のカギをアニエスに手渡した。
どうしようかと一瞬だけ迷ったが、ダルシニがこう言っているし、それに疲れているのも間違いではなかったので、アニエスはその言葉に従うことにした。
「ありがとうございます。それじゃあ、お先に失礼します」
ダルシニに礼を述べて、アニエスは帰路につくことにした。
――店を出て気づいたのは、思った以上の寒さだったということだ。6月とはいえ、深夜でしかも薄着だから、そう感じるのかもしれない。
風邪を引いたらいけないし、早く帰ろう。そう心中で呟いて、チクトンネ街の通りを進む。
「なあ、あんた」
ふいに、声をかけられた。
振り向くと、どこかで見たことのある人物がいた。この男は、確か……。
アニエスが思い起こすよりも早く、男は思いもよらないことを言い放った。
「あんたの知り合いがいただろう? そいつのことで、少し話がある。なに、すぐに終わるさ。ついてきてくれないか?」
「……話、ですか?」
「ああ、そうさ。他人に聞かれると、まずい内容でな。……ついてこい」
アニエスの返事も聞かずに、男はすたすたと裏通りへと続く道に入っていってしまった。
……どうしよう。
アニエスは困惑した。
見知らぬ相手だったが、あの男はアニエスの知り合い――おそらく、アベルたちのことについて、話したいことがあるらしい。
男はというと、二の足を踏むアニエスには目もくれずに歩いている。このままだと、見失ってしまうだろう。
話とはなんなのだろうか? 男は、他人に聞かれるとまずい内容だと言っていた。そんなことを、ここで聞き逃してしまっても大丈夫なのだろうか?
急に不安を込み上げてきて、アニエスは思わず男のあとを追ってしまった。
人影のない、狭い路地。
そこで、男は待ち構えていた。
――杖を手にして。
目前の光景に、怖気で背筋が凍りそうになる。
アニエスが状況を理解するのと、男が口を開くのはほぼ同時だった。
「間抜けで助かったよ」
冷笑を浮かべて、男は杖を振った。
逃げなければ!
反射的に踵を返した直後、視界が霧のようなものに包まれて、強烈な眠気に襲われた。
「う、あ……」
地面に倒れ伏す。男がこちらに歩み寄る音がする。いったい、何をするつもりなのだろうか。激しい恐怖を抱いたが、それもすぐに睡魔に呑まれていく。
ふと、怒鳴り声が聞こえた。かろうじてそちらに目を向けると、ぼやけた視界に銀色の髪が映った。
怒声を上げたその銀髪の人影に、男は杖を振った。
アニエスが意識の最期に耳にしたのは、何かが爆ぜるような音と、少女の悲鳴だった。