草原を進む二人の前方に、空から一人の男が降り立った。
日差しを跳ね返す眩しい頭の下の顔は、この短い時間で随分と疲労の色が増している。
「学院長の許可もいただけました。参りましょう」
ルイズと垣根を交互に見やり、コルベールは二人を先導して歩き出した。
垣根達が勝手に進んでいた事もあって、学院とはそこまで離れてはいない距離だったが一応、教師としてきちんと引率をするつもりらしい。
「さて、そちらの……」
「垣根だ」
「ミスタ・カキネ、ここが我がトリステイン魔法学院です」
高く、堅牢な壁に囲まれた計五つの塔。
ようやく着いた巨大な石の門の前でコルベールは気遣わしげに振り返っていた。
そこから学院中央に聳える本塔最上階、学院長室に着くまでの間は草原での騒がしさが嘘のように静かなものだった。
そんな空気の原因であり押し黙るコルベールに、ルイズは恐る恐ると言った様子で声を掛ける。
「コルベール先生、あの…学院長先生は何か?」
「……いえ、ミス・ヴァリエール。今回のような事態に驚かれてはいましたが、貴方が気に病むような事はありませんよ」
背後を窺ったコルベールの表情は優しげな言葉とは裏腹に硬く、冷たい視線が走る。
学院長室の扉の前で重々しく息を吐くと、壮年の教師は緊張した面持ちでゆっくりとノックした。
長く白い口髭と髪を蓄えた老人は、腕を組んで椅子に掛けていた。
齢百とも三百とも言われる老爺はそれに相応しい――ほんの少し前まで、退屈と暇を持て余し秘書にセクハラを仕掛けて返り討ちにあっていたのが嘘のような――威厳と風格を携えていた。
当の秘書はそんな上司にもめげずに真面目に業務に励んでいるらしい。
オールド・オスマンに突然の退室を命ぜられても嫌な顔一つ見せなかった。
「うむ」
コルベール、ルイズ、そして垣根と順に目をやると学院長オールド・オスマンは重々しく頷いた。
「何、そう硬くならずともよろしい」
ちらりとコルベールに目を向けながらオスマンは一転砕けた調子でそう言った。
他でもない自身の問題に加えて、滅多に足を踏み入れない学院長室に緊張しているのだろうルイズ。
先程から何やら身構えているコルベール。
そんな二人を余所に、部外者然とした垣根帝督には気負った所など欠片もなかったが。
「さて、既に聞いてはいるが。ミス・ヴァリエール、そちらの青年を君が召喚したと。それは確かかね」
「は、はいっ」
「そして、使い魔としての契約に不満があると言うのも間違いはないかな」
「ああ。不満もクソも、大アリだ」
上擦った声のルイズを無視して、次に答えたのは垣根だった。
「手短にいくぜ? こっちの要求は一つだ。すぐに俺を学園都市に戻せば、多目にみてやるよ。だが、テメェらの勝手な話にいつまでもつき合わせる気だってんなら、覚悟はしとけよ?」
「まあまあ。急くでない。若者にはちと難しいかもしれんが、待つのも時には肝要でな」
どこか気のない表情はそのままに。
言葉だけを噛み付くような物に荒げる垣根に、オスマンは呑気な笑い声を上げると髭をゆるりと擦った。
「使い魔だなんだと、そっちの言い分はこのチビから聞かされてる。それじゃあ足りねえって?」
「うーむ。それなら話は早い、と言いたい所じゃが。おぬしの希望を叶えるには幾つか困った事がある。一つにガクエントシ、と言う地名は聞き覚えがない。おぬし、どこから来たんじゃ?」
オスマンはコルベールに指示しテーブルの上に地図を広げさせると、地名を指しながら読み上げた。
そのどれもに、垣根は黙って首を振る。
そして、地図の欄外。
空いたテーブルの上をぐるりと囲うように指で示すと、オスマンはさも困ったと言いたげな顔で頷いてみせた。
「ここから先、東方となるとちと厄介じゃ。砂漠を越えたあちら側とやりとりするのは非常に困難でな。出来なくもないが、やはり今はただの平民である君の為にしてあげられる事、と言うのは限られてくる。召喚の魔法では使い魔を送り返す、などと言う事も出来んし、そのような別の魔法も知られてはいない。君を元居た所に返してもやりたいがすぐに、と言うのはな」
「四の五の文句言わずにさっさと要求を呑めって事だろ。余計なもんはいらねえ、もっとシンプルに物を言え」
苛立ちが増し、垣根は首をコキリと鳴らした。
そんな垣根とは対照的にオスマンは態度を崩さなかった。
長年の知識と経験。
老獪さがそうさせるのか、既にボケてきているのかは定かではない。
まるで食えない様子の老爺は、垣根に申し訳無さそうな目を向けると首を振った。
「そうは言ってもな。私だってただの学院の長に過ぎんのじゃよ。異国とあれこれするのはもーっと偉い人の仕事ときまっとる。話が出来ん訳じゃないが――」
「冗談じゃねえ、ふざけんのも大概にしろよボケ爺が。忠告はもうしてやったよな?」
堂々巡りのオスマンの話を遮って、垣根は吐き捨てるように口にした。
使い魔になれ。
それしか向こうは言ってこない。
自分の主張を通したい、と言うのは垣根も勿論だが悲しい事にお偉く凝り固まった頭では他の選択肢はそう浮かばないらしい。
一々一々貴族だなんだと身分をひけらかしてくるのも飽き飽きだった。
華族制度なんてとっくに廃れた現代日本生まれ、能力至上の学園都市育ちの身にすれば、尊い生まれだか何だかそれがどうした、と鼻で笑うようなものだ。
いい加減耐えかねた垣根は首を横に振ると悪意に満ちた目でオスマンを睨む。
「どんな手使ってくるかと思ったら、くだらねえ芝居かよ。ムカついた。ナメてやがんじゃねえぞ? 大方、どれでもいいから学園都市製の能力者を手に入れてあれこれ楽しむつもりだったんだろうが、テメエらも運が悪かったな」
垣根の口にした学園都市の能力者が持つ力はそれぞれに違うものだが、その発現の条件は一様と言っていい。
開発によって歪めた脳回路。その認識で現実を観測した結果、常人とは異なる法則でミクロの世界を歪めてマクロの現実に引き起こされる事象。
それが彼らの能力の根幹だ。
量子論に基づくあくまで科学的なアプローチからなる超常の現象。
それを最も使いこなす、垣根のような
超能力者の持つ『
自分だけの現実』はそれだけに強固だ。
ある意味、頑固だと言い換えてもいい。
そして垣根帝督の『常識』は突然舞い込んだ異常事態をやすやすとは受け入れなかった。
聞いた事の無い地名が並ぶ地図。
垣根の知る地球上にはよく似た地形はあってもそんな呼び名は無い。
今や数多にばら撒かれた宇宙からの目で世界の隅々まで暴かれ、晒される時代だ。
仮に、『魔法』などと言う呼び名の未知の能力がその存在を巧みに隠していたとしても。
国や地域を隠匿は出来るはずも無い。
おまけに出てくる話はどれもこれもが荒唐無稽。
進みに進んだ技術で世界には信じ難い事もやってのける学園都市であっても、こうも現実離れしたものは出て来ないと言った内容。
納得出来るような判断材料は無いに等しい。
そもそも垣根は他人など最初から疑って掛かっていた。
その事実を除いても、明らかにあちら側にばかり都合のいい話を並べ立てられて、首を縦に振るような善意も愚かさも。
生憎と垣根は持ち合わせていなかった。
ならば、今まで聞かされたふざけた話の方こそが
作り物。
その方が余程納得できた。
あくまで、垣根はそんな自分の認識の上で話を理解し対処する。
必要なら暴力も辞さない彼が選んだ方法は実にシンプルで原始的だった。
歯向かうものは、叩いて潰す。
学園都市においてはその程度の高慢を許される立場が、力が垣根にはあったからだ。
「よりによってこの俺を、『
未元物質』を選んじまったのが運の尽きだ」
そう言って、垣根は哀れむような目を一瞬だけオスマンに向けた。
直後。
ザ!! と一瞬で垣根帝督の背中に翼が現れた。
何の言葉も、動作も無しに。
広げられた、でも伸びた、でもなく。
それは虚空から突如として現れたように他の三人の目に映っただろう。
それぞれが驚きに息を呑んだが、声を発する間はなかった。
その間にも見せ付けるようにギリギリと翼は伸びていく。
弓の弦のようにしなやかに、引き絞られる先はオスマンをしっかりと捉えていた。
なぜそれが起きているか、はわからなくとも三人には垣根のしようとしている事がわかった筈だ。
そこに込められた意思は刃のように鋭くなった羽が表していた。
それが放たれようとした刹那。
轟!! と空気が震えた。
垣根の、翼の動きがぴたりと止まる。
静かになった部屋の中では、熱された空気がじりじりと音を立てている。
その原因。
火の気などない室内にも関わらずコルベールの差し出した杖先からは炎が吐き出されていた。
おまけに凄まじい熱を纏う炎は寸分違わぬ精度で、殺気を孕んだ白い翼だけを捕らえている。
「ブツブツブツブツ、さっきからうるせーとは思ってたが。何だ、
発火能力か。こっちは教師も開発されてんのか?」
軽い調子で呟いた垣根の言葉には答えず、コルベールは口を開いた。
「私とて、望んで教え子の使い魔を傷つけるつもりは無いのだ。どうか、大人しくして欲しい」
それだけ告げるとコルベールは瞬きもせず真っ直ぐに垣根を睨んでいた。
普段の、温厚な教師としての男が放つ気配は消え失せていた。
代わりに纏うのは、自ら振るう炎のような凶暴さとあくまで冷徹なもの。
淡々とした言葉は突然の闘争の空気にも動じていない、どこか場慣れした様子だった。
武器を喉元に突きつけ降伏を命じる、訓練された人間の所作。
だが垣根はそんなコルベール本人には視線すら向けなかった。
目の前にかざした白い翼に、まるで蛇のように絡みつく炎の塊を少しだけ眩しそうに目を細めて見ていた。
轟々と燃え盛る炎を間近に、その目に恐怖の色はまるで無い。
煙たげに垣根が息を吐いた次の瞬間、炎の蛇はぐにゃりと揺らぐとその身をみるみる小さくしていった。
「何だと……!!」
コルベールが目を剥いた。
驚愕、脅え。
一転してそんな響きに染まる声は、垣根にとって耳慣れたものだった。
珍しくもないそんな事よりも、興味は目の前の現象に向いていた。
「しかし、妙だな。不燃、断熱作用を持った『未元物質』でも熱がきっちり遮きれてねえ。周囲からの酸素の供給も断ってやったってのに、何でまだ燃え続けてやがる?」
勢いは目に見えて失ったがまだ翼に纏わり、くすぶり続ける炎を眺めると垣根は首を傾げた。
そして広げた翼を軽く振るうと、切れ切れの炎を払う。
ボギュ、と唸るような奇妙な音を残し、まるで見えない手に握り潰されたような形で今度こそ炎は掻き消えた。
「さーて。そんな事より気ぃ取り直すか。何、ちょっと痛い目みりゃあ、下らねえ与太吐く気もなくなるだろ? 安心しろよ。すぐに殺してなんてやらねえから」
仕切りなおすよう、薄く笑顔を浮かべて。
垣根帝督は片側三枚の翼をまとめて放った。
しかし、それは老人には届かず重厚なテーブルを貫くに留まった。
綺麗な切断面を残して、振るわれた翼は元のように背に戻る。
「あ?」
垣根は、彼にとっては極めて珍しく戸惑いの色を浮かべていた。
それは何も狙いが逸れた事に対してではない。
背中のすぐ後ろで『何か』が起きた。
目にした訳ではないが、風と衝撃を感じたのは間違いない。
そして、ただそれだけの事で攻撃に使った三枚のうち二枚の翼が半ばから捥ぎ取らたかのように無くなっていた。
その時の衝撃で刃のような翼は老人から逸れてしまったに過ぎない。
「な」
「なにをしてんのよ! このバカ!!」
未だ杖を構えたままのコルベールの隣でわなわなと震えながら、ルイズはそう言い放った。
彼女は再度杖を握り締め、短く叫んだ。
またしても直撃などはせず今度はテーブルの手前、オスマンと垣根の間にある何も無い空間に爆発が起きる。
先程、吹き飛ばされた二枚の翼の名残。
それにしてはやけに少ない、二掴み程の羽根が煽られて部屋の中をひらひらと舞った。
幻想的にも思える光景の中、至近距離での爆風の煽りを受けて、垣根は小さく
よろめいた。
そして、驚愕に見開いた目をルイズに向けるとあっさりと標的から背を向けた。
「よお、お嬢サマ。何のつもりだ? やっぱ喧嘩売ってんのか?」
「そんな事する気はないわ」
振り向いた垣根を前に、ルイズは真っ直ぐその目を見つめていた。
「あんたが何者でもどっから来たのかも何だって構わない。でも、怒った火竜じゃないんだから話くらいちゃんと聞いてもいいんじゃない?」
「なんだ、お説教かよ」
真剣なルイズの様子に垣根は苦笑いを浮かべた。
そんなものをされた記憶はほとんどなかった。
誰かに説いて教えられる、なんて経験は垣根にはない。
似たようなものを掛けられるとしてもそのほとんどが警告だった。
それも、垣根の為にではない。
危険もある能力によって周囲のものに、人に、被害が出ないように。
垣根以外が迷惑を被らない為にされたものだ。
垣根はその下らない内容は忘れ去ったが、幼い時、そんな風に感じた事はよく覚えていた。
目の前の少女は小さな背を伸ばして胸を張っている。
「そうよ。わたしはあんたのご主人様になるんだから。あんたバクベアや風竜とは違って、ちゃんと話は出来るでしょ? よっぽどわかりあえるはずじゃない」
垣根が少し捻れば肩を外すどころか手足を簡単にへし折る事も出来そうなちっぽけな少女は、出会ったときから一貫して高飛車な強い口調でそう口にすると、溜め息でも吐くように息を吐いた。
虚勢だ。
恐らくはただの少女が突然、わけのわからない暴力を目の当たりにしたのだ。
震える足を見なくとも、ルイズ自身を抱きしめるように添えられた腕がなくとも。
そんなものははっきりとわかった。
垣根はあまりの滑稽さに口の端を歪める。
猛獣の前に立ち塞がる小動物など、嘲笑以外の何ものでもない。
最も、それは見た目だけの状況だ。
垣根帝督は、『未元物質』に影響を与えた『何か』への警戒を怠るつもりはなかった。
「ヒトをケダモノ扱いとか随分だな。おまけに感情的にブチかましてきた奴本人には言われたくもねえセリフだ」
「それは! だって、なんとかしなきゃあんた学院長先生を……」
ルイズの語尾が途端に弱弱しくフェードアウトした。それを垣根は軽い調子で繋ぐ。
「言ったろ、殺しはしねえって。俺くらいになるとな、ジジイのトリミングだって軽いもんだぜ」
別に、垣根はオスマンをわざわざ殺そうとは考えていなかった。
後始末が面倒だ、今後の交渉へのメリットも無い。
何より一般人を殺す趣味は無いからだ。
先程の教師の炎、あの程度は気にもならなかった。
単なる牽制に本気でやり返すつもりもない。
それよりは、圧倒し抵抗の意思を限りなく削ぐ方が有効だろうと思っていた。
言葉で、態度で、能力で示すのは垣根にとってほんの脅し程度だが、力を向ける以上容赦はしない。
「でも傷つける気だったでしょ! そんな事したらただじゃすまないんだから!」
そんな垣根の行動をこの少女はどう受け取ったのか。
杖を握った手を、肩を震わせながらルイズは一度唇を引き結んだ。
感情の高まりと昇った血で頬が紅潮している。
一瞬、躊躇うような目をしたあと、ルイズは深く息を吸った。
「あんたはまだ使い魔じゃないけど、失敗して、失敗して。失敗してやっと呼び出せたのよ? そんなあんたがどうにかなったら嫌じゃないの! わたし、まだあんたの名前しか知らないのよ? そんなのってないじゃない」
思いのたけを爆発させるようにルイズは叫んだ。
それを聞いた垣根の表情が変わる。
言葉だけなら、自分勝手なルイズ本位のものにしか聞こえない。
だが、今にも泣きそうな目をしている少女は目の前のおもちゃを取られまいと駄々をこねているだけ。
そんな風には思えなかった。
垣根は嘲るようなものから一変、信じられないものを前にしたような目つきでルイズを見ると、肩の力をふっと抜いた。
「ったくこんなチビに説教喰らうとかとんだ興ざめだ。で、お前さっき、俺に何した?」
「だから、あんたを傷つけるつもりは――」
「そうじゃねえ。
何をしたかって聞いてんだよ。どんな
魔法を使ったんだ?」
垣根は挑むようにそう尋ねた。
口元は笑っているが、その目には愉快さは欠片もない。
よく研いだ刃物のような鋭さを帯びている。
しかしルイズは、垣根の予想を裏切ってばつが悪そうに目を背けた。
「なにって……そんなの魔法でも何でもないわよ」
「はぁ?」
気を削がれ、呆れたような声を洩らす垣根にルイズは再び感情的に叫んだ。
「わたしには、魔法が使えないのよ! あんたも聞いてたでしょ? みんなに『ゼロ』って呼ばれるくらい、まともに成功した事ないんだから!」
「待て。
成功してねえって事は狙ってやった訳じゃないって事か? それで
失敗だって?」
「そうよ! ちゃんとした結果が出なきゃ『失敗』に決まってるじゃない。何よ、あんたまで馬鹿にするの?」
垣根は傷付いた翼を体の前に向けて曲げるとそれをじっと見つめ、少しの間真剣な面持ちで何事か考え込んでいた。
答えが出たのか、再びルイズに目を向ける。
垣根も、正面から真っ直ぐに小柄な少女を視界に収めた。
「いや、そうじゃねえ。それと気が変わった」
不思議そうに、不安そうに見つめてくるその目を見返して。
実に愉快なオモチャを見つけた、そんな笑みを浮かべて。
「ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。お前と契約してやるよ。もう少し、ここに居る用が出来たからな」
垣根はいたって傲慢に、そう宣言した。
「いやー無事話がまとまってよかったわい」
成り行きを見守っていたオスマンが軽い調子でそう言った。
さっきまで、死の危険を眼前に晒されていたとは思えない変わり身の早さだった。
「大したタマだなこの狸ジジイ」
ついさっきまで殺る気まんまんだった垣根も、それが嘘のように呑気な声を上げている。
室内の雰囲気は、剣呑なものから一変していた。
「そう言えば、あんた羽大丈夫? それに、まさか亜人だとは思わなかったから平民呼ばわりしちゃって」
まだ脅えの抜けないらしいルイズはおずおずとそう言ったが、垣根はふと目を丸くしてから自分の背中を振り返る。
何か納得したように頷くと同時に、白い翼は現れた時のように掻き消えた。
「別に、これは俺の体の一部って訳じゃねえからな。それとそいつも勘違いだ。俺はれっきとした人間様だぜ」
「……はぁ」
緊張の糸が切れてしまったらしく椅子に掛けるルイズは、ほんの少し落胆したようだった。
惜しむような目で何も無くなった背中を見ている。
「何だよ、平民じゃそんなに不満か? お前の言うドラゴンとかがどの程度やるかは知らねえが、この俺をブチ殺せるモノはそうそうねえよ」
当然のようにそう口にする垣根にルイズは怪訝そうな目を向けた。
何も知らない者には冗談としか取られないだろうが、事実、垣根に対して最新鋭の銃器はおろか三位以下の超能力者でさえ正攻法では『未元物質』に阻まれ碌に歯も立たないだろう。
物理法則すら捻じ曲げる『未元物質』に真っ向から挑んで敵うのはそれこそ、『第一位』位のものだ。
後は、垣根自身もやりあった事がないからわからないが『最高の原石』と呼ばれる第七位辺りも既存の法則の通じない能力らしい、と言う性質上、可能性はあるかもしれない。
そんな数少ない『例外』が、目の前の少女のようにここにはまだ転がっているかもしれない。
そう考えると、垣根の中の好奇心が強く刺激された。
誰だって、能力者なら一度は考えるだろう事だ。
自分の能力で何が出来るのか。
持つ力を全力で振るうとどうなるのか。
その限界は。
『魔法』なんて言う未知相手にそれが試せると思えば、ここに留まる価値は充分にあるような気がしていた。
その条件が、使い魔だと言うのは今一つだが。
暗部に堕ちた事を思えば安いものかもしれない。
そんな風に何故かひどく楽観的に考え、垣根は契約を了承した。
ルイズは少し緊張した様子で杖を垣根に向けると呪文を唱えた。
膝を付いてそれを受ける垣根の姿と合わせれば、確かに神聖な儀式めいて見えなくも無いのだろう。
その後に続いた口づけは、ほんの少し垣根を驚かせたが。
「……っは、何だこれ」
「契約のルーンが刻まれてるのよ。大丈夫、すぐ終わるわ」
ルイズは事も無げに返した。
注射を嫌がる子どもに向けられたような気安さだった。
だが、垣根は眉根を寄せて俯いた。
最初に感じたのは熱だ。
痛みを伴う熱と言えば熱湯や熱せられた金属に触れたような火傷が思い浮かぶが、そんな生易しいものではない。
まるで血管に煮えた鉄を流しこまれているような熱が襲う。 全身に巡る神経が焼き切れるような痛みは凄まじかった。
プライドの高い垣根が苦痛に堪えかねて思わず歯を食い縛り、顔を歪める程度には。
そしてそれは、左手の甲に集まるようにじわじわと体から引いていく。
そこに、うっすらと光る奇妙な模様を刻み終えた頃には嘘のように収まっていた。
「なんか変わった気はしねーけどな。テメェらこんなもんで首輪を着けた気になるのか?」
ふうん、と物珍しそうな目を手の甲に向けると、垣根は怖々と寄ってくるコルベールに目をやった。
紙とペンを示すコルベールの態度をにやにやと眺めながら、黙ってルーンを写し取らせてやる。
それが終わると来た時のようにあっさりとした態度で垣根は出て行った。
ルイズは慌てて一礼すると何やら怒鳴りながら後を追った。
* * *
扉が閉まると、残された教師二人は揃って息を吐き出した。
「いやー本当に無事に済んでよかったのう、コルベール君や」
ほっとした様子でオスマンは言ったが、コルベールの様子は余り変わらなかった。
杖を握った腕を見つめると、ゆっくりと首を振る。
「ミス・ヴァリエールには『サモン・サーヴァント』の効果があったから手出しせんじゃろうと思ったが。いや、我々には予想以上に容赦がなかった」
オスマンは髭を撫で撫でそう洩らした。
長いトリステイン学院の歴史上、生徒の使い魔には多くの生き物が召喚されてきた。
しかし獰猛極まりない猛獣や幻獣が召喚されても、生徒が傷付いたと言う話はなかった。
そう言ったものの多くはゲートを通る際に、眠らされたり意識のない、無害化した状態で召喚される。
また、そう言った措置がなくとも何故か召喚したメイジ本人を襲う事はなかった。
『コントラクト・サーヴァント』が済むまでの間は、例えマンティコアであっても小さな子猫のように大人しくしているものだった。
主人への忠誠や親愛を与える効果もある契約が済むまでは、『サモン・サーヴァント』が使い魔たる生き物を安全に、無害たらしめているのだろう、と言うのが教師達の見解だった。
結局は、「偉大な始祖が我々に遺してくれた素晴らしい、そう言う魔法だから大丈夫」なんて言う身も蓋もないものが根拠だったりするのだが。
だから、オスマンは学院長室に現れたコルベールが伝えた『使い魔の青年の危険性』についても重要視していなかった。
一度は身を危険に晒したものの、彼自ら契約を受け入れてくれると言う円満な解決に済んで心底ほっとした様子だった。
オスマンは杖を振ると棚から愛用の水ギセルを取り出し、いそいそと吹かし始める。
一服するとようやく一心地付いたのか目を細めた。
「いや、流石の私も腕の一本はもう駄目かと思ったが。生徒が無事でよかったよかった」
どこまでが本気か、飄々とした老人の態度から読みとる事は難しそうだった。
「召喚の際に君が見たと言っておった通り、『系統魔法』は使っとらんかったな。あれは先住魔法か、それとも別の我々も知らん魔法なのか……わからんかね」
さて、とオスマンはコルベールを見たが残念そうに首を振るばかりだった。
垣根が生徒相手に何らかの攻撃を仕掛けた際、コルベールは『探知魔法』を使っていち早く垣根を調べていた。
まさかメイジを召喚したのでは、などと言う懸念もなかったわけではないが、事態はより複雑だとその時コルベールは思い知ったのだ。
『探知魔法』であっても検出できない魔法、と言うものが存在する。
『先住魔法』と呼ばれるそれは、韻竜や翼人、エルフの様な人語を解する生き物が使う特殊なものであり、時としてメイジの操る系統魔法より優れていると言われる事さえあるものだ。
そんなものを持つかもしれない者が、契約に応じず、その矛先を他者に向ける素振りさえみせた。
コルベールにとって黙ってはいられない状況だった。
次第によっては、魔法を使うことを辞さない程に。
依然、浮かない表情のコルベールにオスマンは首を傾げた。
「何じゃ、杖を向けた事を後悔しとるのか? それなら――」
「いいえ。オールド・オスマン」
オスマンの問いかけをコルベールは強く、きっぱりと否定した。
二、三度首を振ると自らの疑念を振り払うようにもう一度いいえ、と呟いた。
「彼の使った未知の魔法も、私の魔法を容易く消し去った事も理解しがたい。しかし何より、彼の目にはやはり微塵の躊躇いもなかった。その事が何より恐ろしいと、私は思うのです」
生徒達と同じ歳頃に見えたあの使い魔を思ってか、コルベールは脅えよりも、何処か悲しそうにそう口にした。
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