ルイズが扉を開けると、真っ黒な頭巾を被った少女が部屋の前に立っていた。
少女は部屋に入るなり懐から取り出した杖を振り呪文を唱える。
『探知魔法』の魔法の燐光が収まると少女は漸く頭巾を外した。
首を振り、艶のある髪を揺らすとルイズヘ向けてにっこりとほほ笑みかける。
「どこに耳が、目が光っているかわかりませんからね」
訪ねてきたのは、昼間式典に出席していたトリステイン王国王女。アンリエッタその人だった。
独特のノックは二人の符牒だったのか、ルイズはどこかほっとしたような顔をみせる。
「姫殿下! ああ! もしやと思いましたけれど!」
「お久しぶりね。ルイズ・フランソワーズ。わたくしのお友達」
慌てた様子で膝を付いたルイズに抱き付くとアンリエッタは早口でまくしたてる。
今まで歌を禁じられていたカナリアが囀るような、やっとつかえがとれたと言わんばかりの勢いだった。
「ああ! ルイズ! なんて懐かしいんでしょう。堅苦しい行儀なんてやめて頂戴。あなたとわたくしはお友達。お・と・も・だ・ちじゃないの!」
「もったいないお言葉ですわ。姫殿下」
ルイズが、戸惑ったような緊張した声で返すとアンリエッタは大層傷ついたような顔をした。
「ああ、もうわたくしには心を許せるお友達はいないのかしら? 昔馴染みの、懐かしいルイズ・フランソワーズ。あなたにまでそんなよそよそしい態度を取られたら、わたくし死んでしまうわ!」
「姫殿下……そんな」
立ち上がったルイズの手を取ってアンリエッタは幼い頃の思い出話を始めた。
それに、段々とルイズの顔から強張りが消えていく。
顔を見合わせて笑うと恐らくは数年ぶりの再会が嘘のように。二人は打ち解けた様子に変わっていた。
ルイズに促されて、アンリエッタは椅子に掛けた。
そこで。机の前に座っていた垣根と目があって、初めてその存在に気付いたらしい。
「あら。あら、ルイズったら。ごめんなさい、もしかしてお邪魔だったかしら」
「ん。ああ……いや、別に」
うっかり、首を縦に振りそうになった垣根は何とも歯切れ悪く答えた。
邪魔ではないが、何かうざったそうだなんて本音を王族相手に洩らしたら。どんな目に合うかわかったものではない。
「邪魔だなんてとんでもない。姫さまどうしてそんな事を?」
「だって、そこの彼はあなたの恋人なのでしょう? いやだわ。わたくしったら、つい懐かしさにかまけてとんだ粗相をいたしてしまったみたいね」
照れたように笑いながら、アンリエッタは嬉々とした顔で垣根とルイズを見比べた。
国や人種や身分が違っても、女子と言う生き物の恋バナ好きはどうやら万国共通らしい。
「こっ、恋人だなんて! 姫様、こいつはただの使い魔です!」
「使い魔……人にしかみえないけれど」
「一応、人間ですわ姫さま」
大声で否定したルイズは首を傾げる王女に改めて垣根を指し示した。
「……コホン。え、えーと姫さま。これがわたしの使い魔のテイトク・カキネです」
「トリステイン王国王女、アンリエッタ姫殿下におかれましては、ご機嫌麗しく。御尊顔拝謁賜り恐悦至極、身に余る光栄に御座います」
小突かれて立ち上がると垣根は形ばかりの礼をする。
それでも一応、深々と頭を下げて見せた。
自分で口にしておきながら、愉快すぎる口上に思わず吹き出しそうになった事を隠すべく余計に顔を伏せる。
「この使い魔めがお邪魔でしたらなんなりと御命じを姫殿下」
「い、いえ。いいのです。メイジと使い魔は一心同体なのですから。使い魔さんもどうか楽になさって」
「じゃ。お言葉に甘えて」
言質はとった、とばかりに垣根は再び椅子に座る。
そんな様子を横目で見ていたルイズは、ふとアンリエッタに問いかけた。
「姫さまこそ。こっそりお見えになるなんて、どうかなさったんですか。ご用命であればこちらから」
ルイズの言葉を遮ってアンリエッタが首を振る。
立場も身分も上の、今は学院に招かれた賓客である彼女がわざわざ忍んで姿を見せたのには、それなりに理由があるらしい。
「やっぱり、ここへ来てよかったわ。ルイズ・フランソワーズ。わたくし、姫だなんて言っても王国の籠の鳥だと思っていたのよ。飼い主の機嫌ひとつで籠の中をあちこちに……でも、たまには良い事もあるのね。あなたとこうして、また昔みたいにお話できたもの」
そう口にしてアンリエッタは笑ったが。先ほどの楽しげなものとは違い、随分と憂いを含んだ表情だった。
「そう言えば、姫さまはなぜゲルマニアへ? わざわざあんな所にどうしていかれたんですか」
ゲルマニアが嫌いだ、と公言するルイズは王女の前であっても不満げな態度を隠しもしない。
「わたくし、結婚する事になったのよ。その内に国中に知れる事になるんでしょうが」
それを聞いてルイズの顔が一段と険しくなった。
昼間、式典で生徒たちにも強調して語られたトリステインと他国、特にゲルマニアとの近年の親交の篤さ。
そして、王女のこの沈んだ様子。
それらを頭の中で繋げたのだろうルイズは眉をつりあげて王女に問うた。
「まさか……姫さま? あんな国へだなんて仰いませんよね!」
「ええ。ゲルマニアの皇帝の元へね。婚姻だなんて名ばかりの、同盟の材料よ」
あっさりと、どこか自棄のように言い放って。アンリエッタはルイズに頷く。
「いいのよ。好きな相手と結婚するなんて、幼いころから諦めているの」
「それでも、それでもあんまりですわ。姫さまになんて仕打ちでしょう!」
まるで自分の事のように腹を立てた様子のルイズにアンリエッタは寂しげに目を細めた。
「そう言ってくれるのはあなただけよルイズ。誰にも、こんな事言えないもの。仕方のない事とわかっていても……ああ。わたくし、自分が恥ずかしいわ」
「なにかお悩みがおありなのでしょう? 姫さま、どうかわたしにおっしゃってください」
浮かない様子に何を思ったのか。
ルイズはいつになく真剣な様子でアンリエッタに向き合っていた。
それをぼんやり見物していた垣根は。遠慮がちに顔を向けたアンリエッタ、続いてつられて振り返ったルイズと目があった。
親密な女の子同士の内緒話。そこに混ざろうなんてたとえ冗談でも言えない、そんな雰囲気だった。
「気にしねえから勝手にやってろ」
「ちょっと!」
ぷらぷらと片手を振ると垣根は椅子に掛けたまま答える。
目上の、それも王族を前にしてこちらも同じように座っている、なんてどれほどの不敬にあたるのか想像もつかないが。王女自らよそよそしく接するなと言ったのだし。
垣根が気をつかってわざわざ席を外してやる理由はない。
それに加えて。だからこっちにも関わるな、と暗に告げるとルイズの叱責が飛ぶ。
「いいのです。気になさらないで」
なんとも物悲しい様子で、王女は首を振って話しはじめた。
それから繰り広げられたのは三文芝居、と言うよりまるで下手な学芸会のようなやり取りだった。学芸会なんて出たことも見た覚えも垣根にはなかったが。
わざとらしい、馬鹿馬鹿しい会話は夢見がちな少女達が互いにそれぞれ酔っているのが丸わかりで。どこか現実味に乏しいものだった。
ふわふわした中身は鬱陶しい言葉の応酬に。こちらに面倒事を持ちかけられやしないか、と話半分に耳を傾けていた垣根の頭さえ段々と重さを増してきそうだった。
垣根は少しだけ、先ほどの自分の判断の誤りを感じていた。
さっさと部屋を出て行った方が精神的疲労は少なく済んだかもしれない。
アルビオンの反乱は抑まるどころかますます激化し、ついには王室の存亡も危ぶまれる事態にまで陥っている。
そうなれば、アルビオンを落とした貴族派が次に狙うのはトリステイン。だがこちらも先んじてゲルマニアと組む事で、それに対抗しようとしている。
それを読んでアルビオンの貴族派も同盟の妨げとなる活動はしてくるだろう。
そこで、王女はある不安材料の事を気にかけていた。
それが明るみにでればただでは済まない、もしもその為に同盟の話が立ち消えれば。寄る辺のないトリステインは単騎にてアルビオンと対峙せねばならなくなる。
その存在が貴族派につかまれる前に、そのとある一品を手に入れてほしい。
それをルイズに頼みたいと思っていた。
しかし、恐らくその在り処は戦火の最中、アルビオンにある。そんな無茶はさせられないだろう。
まとめると王女の話はそんな所だった。
「結婚前の悩みっつうと……昔むかし、うっかりラブレターでも書いちまったとか。ガキの頃の話でも、まぁ叩きたい奴らには十分な火種くらいにはなるか。実際そんなもんがあろうがなかろうが、そう言う連中には関係ないだろうし」
何気無くつけたテレビにでも感想を洩らすように。思い付きをぼそっと呟いた垣根だったが。
それを耳にしたアンリエッタは。
目を丸くしたかと思えばたちまち顔を赤らめ俯いてしまった。
垣根の一言は図星をついた、どころかきれいにクリティカルヒットを決めてしまったらしい。
「あんたねえ! 気にしないんじゃなかったの?」
「あれだけ派手にやられたら嫌でも耳に入っちまうっつうの」
悪びれた風もなく言い訳する垣根をじろっとみてから。
ルイズはアンリエッタの手を握った。
「それで、その手紙を探し出して持ち帰ってくればいいのですね」
「ですがルイズ、恐らくあれはウェールズ王子が……アルビオンにあるのです。そんな事、やっぱり」
戦地にいってくれないか、なんて話を聞かされても。ルイズは何故か自信たっぷりに頷いていた。
ベッドの横から、つかつかと垣根の近くまで寄ってくると。椅子の隣に並んで大きく胸を張った。
「ご心配には及びませんわ! わたくしと、この使い魔はあの『土くれのフーケ』から『破壊の――もが」
「カット。こっからはオフレコって事になってんだ」
「なによ! ちょっと離しなさい」
余計な事を口にしかけたルイズは垣根に顔を掴まれてしまい腕をばたつかせた。
おかげでなんともしまらない結果になっている。
どうやら、『破壊の杖』を取り返した一件はルイズに要らぬ自信を与えたらしい。
それを運び出したのも、ゴーレムと遊んだのも全て垣根なのだが。御主人様からすれば、
「使い魔の手柄は自分の手柄」くらいに思っているに違いない。
その辺りを余り大きく話されては垣根としても困る。
垣根の能力や、使い魔のルーン。おまけにフーケやら何やら、と面倒だがまるきり無視も出来ないような話が。ルイズにはあずかり知らぬようなものがあるのだ。
例えそれが彼女自身に関わる事であっても。
「ふふ。学院長殿からお聞きしましたわ。内緒のお話だと仰っていたけれど、ルイズ。あなた随分な活躍をしたそうね」
王女は我が事のように嬉しそうに笑った。
どうやら学院長が既に一枚噛んでいたらしい。
あのジジイ、と顔をしかめる垣根とは対照的に、ルイズは顔を綻ばせると王女に向けて膝をついた。
「そうですわ! 秘密の任務であれば、尚のことわたくし達にお任せくださいませ。トリステインのため、姫さまのため。このルイズ・フランソワーズ・ド・ラ・ヴァリエールが一命にかえましても必ずや、やり遂げてみせます」
恭しく頭を下げ、熱く語ったルイズは。
続いて垣根を仰ぐと一度唇を結んでから切り出した。
「テイトク」
眉を寄せると息を吐く。
先ほどよりよほど緊張した面持ちで、ルイズは垣根を見上げた。
「姫さまのためにもあんたの力が必要なの。だから一緒に、アルビオンに……きてくれるわよね?」
ルイズの真剣な目に見つめられて。垣根はかえって冷めていた。
予想通りの発言だった。
大見得を切ったところで。実質、今のルイズに垣根の力を借りずに出来る事なんてほとんどないのだから。
それに対する垣根の答えに、考える時間など必要ない。
「嫌だ」
「なんでよ!」
面くらったように立ち上がったルイズはすっかり普段のような調子に戻っていた。
垣根は自分を軽く扱うつもりはない。
例え相手がルイズだろうと、誰であっても変わらない。
そして、今回持ちかけられた話にはてんで興味がわかなかった。
垣根に実害があるならともかく、現状この国が戦火に覆われたとしても痛くも痒くもない。
アルビオンに潰されようがそれがこの国の乗った流れだろうと思うくらいだ。
ルイズの血統には関心がないから領地や家名がどうなろうと構わない。もしそれで垣根の立場が悪くなるようなら切り捨てたっていい。
いかに『虚無』が貴重で、未知の可能性があったとしても。金の卵を産むあてのない、大飯食らいのガチョウを骨身を削ってまで養う義務はないだろう。
「勝手にしろっつったよな。この国の問題だろうがなんだろうが、俺には関係ねえ」
「だから、こうして……頭下げてるんでしょうがー!!」
「それのどこが下がってんだよ」
結局。いつも通り怒鳴ってからルイズはがっくりとうなだれた。
恨めしそうに睨んでくるが垣根は黙ったまま首を振る。
やる事それ自体は簡単だろうが、中身は国家問題を左右しかねない厄介事。子どもの使いにしては、それが招く結果が問題だ。
垣根には今までもそんな経験はざらにあった。
煩雑な事後処理に追われるのは垣根の仕事ではなかったし、舞い込む話も後ろ暗いものばかりだったから矢面に立たされる事もなかった。
しかし。
後ろ盾もなにもない、こちらには隠し事だらけのこの状況で。
もしこの先。おめでたいお姫様の覚えばかりよくなるようでは、困る。
実権がどうあれ、相手はほぼ国家最高権力者。そして貴族はそれに従うものだ。
垣根としては都合のいい前例が出来てしまうのは避けたかった。
それがなくてもこの様子ではルイズは
お友達の一声で突っ走ってしまうに違いない。
おまけに、垣根帝督が。超能力者がわざわざ動いてやるような理由もない。
まさかルイズも本当に自分だけでそんな無茶な事が出来るとは考えていないだろう。
流石に諦めるだろうと垣根は高を括っていた。
「ルイズの使い魔さん」
おろおろと二人のやりとりを見ていたアンリエッタは垣根に声を掛けてきた。
「わたくしからも、この度のお願いをあなたにも頼みたいのです」
王族直々のお願い。それはこの国の中では莫大な名誉や価値があるものだろう。
しかし。
垣根帝督にその常識は通用しない。
「いけませんわ姫さま! そんな、使い魔にお手を許すなんて!」
「は?」
芝居がかった仕草のまま、すらりと手を伸べるアンリエッタに垣根は首を傾げた。
その行為の意味はわかる。わかるが、垣根にはそんな事をするつもりも興味も毛頭ない。
なんでそんな事をしなくてはいけないのか、が疑問だった。
「いけません姫殿下! 平民如きにそのようなッ!!」
どうやら理解出来なかったのは垣根だけではなかったらしい。
ノックもなしにルイズの部屋の扉を開けたギーシュが急ききって叫んだ。
「ちょっとギーシュ? あんたなんでこんなとこに」
「ああ、姫殿下。卑しくも後をつけこのような振る舞いをして……罰なら幾らでも受けましょう、しかしぼくは姫殿下のお役に立ちたいのです」
すさっ! とドアの前で跪くとギーシュは熱っぽい調子でそうまくし立てる。
「その困難な任務、是非ともこのギーシュ・ド・グラモンに仰せ付けますよう」
どうやら。王女の姿を見つけてこっそりついてきたギーシュは、話を聞いて黙っていられなくなったらしい。
女子にいいところ見せたい! と言う女好きの思いつきの行動としては。
実にらしい馬鹿なものだった。
「『探知魔法』は外にも掛けるべきだったな。いや、お仲間が増えて良かったなって言ってやった方がいいのか?」
そんな風に馬鹿にする垣根を睨みかえしたのはルイズだけだった。
後の
お仲間、はぽけっと互いの様子を窺っている。
「いかがしましょうか姫さま」
不安そうな顔をしていたアンリエッタだったが、ルイズから闖入者の正体を聞くとほっとしたように微笑んだ。
ギーシュが軍門の生まれ、それも元帥が父親だと言うのが効いたのかもしれない。
「あなたもわたくしの力になってくれるのですね。どうか、この……不幸な姫をお助けください」
「さあ、これで後は君だけだな」
秘密を知られた少年A転じて、名の通った伯爵家子息・姫殿下の味方に昇格され。
なんとも浮かれた様子でギーシュが笑顔を浮かべる。
幼馴染のおともだちと馬鹿その一のパーティに、使い魔を加える話は終わっていなかったらしい。
「何でそうなる? 勝手にやってくれっつってんだろ。俺はしらねえ」
「あーいぼーう」
見かねた、いや恐らく目はないだろうから聞きかねたとでも言えばいいのか。
そんな仕方なさそうな調子で壁に立てかけられた剣が口を挟んだ。
「何だよお前まで」
「いいのかよぅ。アルビオンってのは戦争やってんだぞ。そんなところに娘っ子とその貴族の小僧っ子を放りこんだらどうなるか」
おまけにギーシュもつけて。
デルフリンガーは簡単な筈の問いを、もったいぶるように尋ねた。
「まぁ、戦闘にでも巻き込まれたら死ぬだろうな」
「娘っ子が死んだら、お前さん困るだろ? あの爺さんだってあれこれ言ってたじゃねえかよぉ。お前さん使い魔なんだし、娘っ子についていくべきだって」
「で、お前の本音は?」
もっともらしい事を口にするデルフリンガーだが。
二言目にはもう、決まっている。
先の見えたお約束のその先を。あえて垣根は促した。
「おう! 戦争なんて闘いの場に丸腰って訳にもいかないだろ? 今度こそは俺を握ってだなあ」
「あのなデルフ。プレゼンはもうちょっと上手くやれよ。バナナ叩き売れなんて無茶は言わねえから」
期待を裏切らないデルフリンガーに垣根は脱力した。
その点では、今回ギーシュは上手くやった方だ。
垣根と王女では相手の条件も難度も桁違い、それも無機物と比べるのもどうかとは思うが一応成果はあげているのだから。
「別にこいつじゃなくてもいいんじゃねーの? それこそ大事な任務だってんなら、力もねえガキにやらせねえでそれなりに使える人間にしとけよ。一応王女なんだろアンタ。アンタの言う『だいじなおともだち』っつうのをわざわざ危険な目に遭わせてえってんなら反対はしねえけど」
ルイズの頑固さは垣根も何となくわかっていた。これ、と決めたらそう簡単には折れないだろう。
だが、『ゼロ』と『ドット』を何があるかわからない国外に放り出すのも馬鹿のする事だ。
流れは、確実に垣根の不利な方向に向かおうとしている。
その話の大元が何とかならないか。
そんな一縷の望みを込めて垣根はアンリエッタに水を向けた。
「信頼もおけて、わたくしが動かせる人間など……ただの王女に過ぎないわたくしの味方など、無いに等しいのです」
「そんな! わたくしが居ますわ! このルイズ・フランソワーズが」
作戦失敗。
残念ながらうっかりお芝居の幕を開ける手助けをしてしまった。
垣根はそんな自らの失態と目の前の光景を視界に被せた手で覆い隠そうとするが事態が変わる筈もない。まったくの無駄だった。
更に、垣根に向けられたのは助け舟ではなく追い打ち。
「なぁ。もう早く折れちまった方がいいと思うよ? どうせ娘っ子についてかなきゃいけなくなんだろ」
「い、いいわよ! たとえわたし一人だってアルビオンに行くわ!! いってやるわ!」
いつまでも渋る垣根に業を煮やしたか。
友情やら責任感やら、そんなものをないまぜにして。場の空気にでも酔ったのか、何だかすっかり出来上がってしまったらしいルイズは肩をいからせて叫んだ。
興奮のあまり、顔はすっかり真っ赤になっている。
「あーあ。相棒、これで見捨てちゃ娘っ子が泣くよ。こりゃあ泣いちまうよ。相棒ってばいっぱしの男の癖に女の頼みの一つきいてやれないんだ。俺はがっかりだよ、お前さんがそんな臆病者だったなんて」
呆れたようなデルフリンガーの言葉に。
垣根は鋭く舌打ちを返す。
「ああ? 誰が何だって」
「相棒に決まってんじゃねえか。貴族の娘っ子も、小僧っ子も大した事が出来なくたってなけなしの勇気一つで動こうって言うのによお。普段俺はすごいだなんだ言ってたって、相棒はその程度の腰抜け野郎ってこったろう」
ビキ、と垣根の頬が強張る。
聞き捨てならない一言に歯を剥いて垣根は再び問いかけた。
「デルフリンガー。お前もういっぺん言ってみやがれ。誰が――一体何だって?」
笑った口元のまま垣根の声が一段低くなった。
それを聞いたルイズは、はっとした様子でベッドの方へと後ずさる。
すると。
ビキバキと、部屋の中の調度が突然軋んで鳴り出した。
ガラスの水差しが今にも砕けそうな不穏な音を立てている。
それに怯んだように剣のお喋りが途切れると。わずかな間、金具の音だけが響いていた。
「い、いいぜ! 何度だって言ってやらあ。俺の相棒テイトク・カキネは簡単なお使い一つ出来ねえへたれ腰抜けチキンウジ虫野郎、美学の足りねえ三下メルヘン――ごばぁ!!」
ガタガタ震えていたデルフリンガーの、必死の叫びは最後まで続かなかった。
突然、壁から弾き飛ばされたかと思うと床の上で口を噤んでしまった。
それに対し垣根は椅子の上で深く息を吐くと、辺りを睨むように顔を上げる。
「ナメんじゃねえぞ、上っ等だ。王族のいざこざだ反乱だ戦争だ? そんなの関係ねえ。見てろ。その
お願いってのがどんだけ楽なもんか、テメェらにこの俺の、
超能力者の立ち振る舞いっつうのを教え込んでやるよ!!」
そこまで息巻いてから。
突然垣根はがっくりとうなだれた。
まんまと、デルフリンガーの挑発に乗せられてしまった。おまけに何だか余計な事まで口にしてしまった気がする。
些細な事でカッとなるのも、そのせいで無用な振る舞いをしてしまう事も彼にすればそう珍しくない。
またやってしまった、と失態にへこむ垣根だが。今回能力や翼の展開による惨事を招く事はなかったので、周囲は無事だった。
張り詰めていたおかしな空気が消え、厄介ごとが一つ解消されたせいか。そんな垣根の事情など何も知らない残りの面々は気の抜けた顔をみせている。
「ありがとうございます使い魔さん。ああ、わたくしのお友達をどうかよろしくお願いしますね」
「む、むすめっこ……むすめっこぉぉ。俺はやったろう、やったよなあ」
「あんたすごいわ。でもね」
おかしな重圧も消え。呻いていたデルフリンガーを床から起こしたルイズは。
その身を呈して、垣根を釣り上げる大役をこなした剣に声を荒げた。
「怒らせることないでしょ、ちょっとは考えなさいよね! こ、怖かったじゃないの!!」
結局ルイズ達は王女の密命のもとアルビオンに向け発つ事になった。
早い方がいい、と出発は明日の朝。
件の王子に宛てた密書と、お守りがわりに王女の指輪を受け取ったルイズは真剣そのもの、と言った顔をしていたが。王女に何事か耳打ちされるとたちまち泡を食ったようになってしまった。
「挙句タダ働きとか……あれもまぁ気に食わなかったが、まだギャラがそれなりに出ただけあっちのお使いのが少しはマシかもな」
友情の再確認とやらをしている二人の少女の横で、暗部組織に所属していた超能力者は肩を落とした。
* * *
早朝のトリステイン学院は実に静かだった。
まだ薄暗い中、馬具を整え準備するルイズ達の横で。
垣根は一人不満そうに立っていた。
両手はポケットの中に入ったままで、手伝う気なんてこれっぽっちもみられない。
「今からでも馬車か竜籠って手配出来ねえのか」
「あのね。お忍びの任務なのよ? それに急がなきゃいけないの」
そして口を開けば文句ばかりだ。
ルイズはむっとしたが、手にしていた荷物を睨んでなんとか堪える。
この場でみっともない真似はしたくなかった。
少し離れたところで、馬ではなく騎乗するグリフォンの鞍を見ている貴族がいた。
長身に羽根帽子の似合う男、彼はもちろん学生ではない。
トリステイン王国魔法衛士隊の中でも一際栄えあるグリフォン隊、その隊長を務めるジャン=ジャック・フランシス・ド・ワルド子爵。
姫殿下の覚えもよいらしく、秀でた軍人でもある彼を加えて一行は任務にあたる事となった。とはルイズも昨夜王女から聞いていた。
そんなワルドの華々しい肩書きに何か加えるとしたら、ルイズにとっては特別なものが一つあった。
婚約者――と、言っても昔親同士が決めた口約束みたいなものだけれど。
それでも、ルイズだって年頃の女の子だ。
そんな相手の前で恥ずかしい姿は見せたくない。
ギーシュの使い魔にじゃれつかれたところを助けてもらったりと、既に情けないところは見られてしまっているが。
そんな時に助けるどころか無視を決め込んでいた、ルイズの使い魔の方はグリフォンを眺めていた。
それまで機嫌良く翼を寛げていたグリフォンは垣根が睨むように目を細めると低く唸りはじめた。
「この人数、おまけに馬に合わせたとして……その幻獣の足でもどれだけ掛かるんだか。任務だってのを知られたくねえんなら見た目だけはあちこち出入りしても怪しまれねえような何かの業者か、なんなら旅芸人とかにでも化けりゃいい」
「なんでそこで僕をみるんだね!」
何故か一同の視線を集めたギーシュは心外だとばかりに声を上げる。
その隣で使い魔のジャイアントモールが困ったように鼻をひくつかせていた。
派手なギーシュを旅芸人に仕立てあげたらとっても目立つだろう。似合うかもしれないけど。
「後、国境越えるのに面倒な手続きとか手形、書類はいらねえのか? ま、お前ら婚約者だってんなら、旅行とか適当にそれっぽい理由で偽装くらい出来んだろうしな」
「よくそんな嘘がペラペラ思いつくわね。なによ、まだ不満があるの」
あるね、と垣根は頷いた。
昨日からこうだった。いつにもまして悪い目つきがそっくりそのまま垣根の機嫌の悪さを示している。
アンリエッタ姫直々の任務について行くのがよっぽど不服らしいが、ごねて部屋に残るなんて事にならなかったのはルイズにすれば嬉しいかぎりだった。
いざと言う時――特に戦いになれば頼りになるだろうし、なんと言ってもルイズの使い魔なのだから。いつ何時でも主人と共にいてもらいたいのだけれど。
そんな気持ちは垣根には伝わらないのだろう。
そう思う度にルイズは無性に寂しくなる。
「長距離の移動手段が乗馬オンリーとかナメてんのかよ。幾ら俺が能力頼みの馬鹿じゃないって言っても、何日も延々馬に揺られるようなのは御免だ。まったく。手配もお粗末、戦力はまともなメイジほぼ一人におまけばっか多くてよく一国を賭けた任務とか言えるよな」
「そんな風に言う事ないじゃない。姫さまはわたし達を信頼して下すってるのよ!」
ルイズの反論にも下らないと言いたげに垣根は肩を竦める。
だが、ルイズに喧嘩を売っていると言うより、何だか今回の話にケチをつけたがっているみたいだった。
「……何がそんなに嫌なのよ」
すっかり気落ちしてルイズは俯いた。
いくら垣根が普段から、あまり気乗りした態度は見せないと言っても。
無理強いをするのはルイズだって気分が良くないし、不機嫌なしかめ面を眺めていたいとは思わない。
だからこそ率直に聞けば垣根は曖昧に首を傾げる。
「別に。ま、どうせならこの俺を使おうってのに釣り合うもんは欲しいな。気分だけでもよ」
「なら、いいのがあるじゃないか」
口を挟んだギーシュはあっけらかんと言った。
垣根とはなんとも対照的だ。
「この任務をやり遂せれば、僕ら救国の英雄だよ! おっと、あまり大きな声では言えないがね」
「……人助けなんてもっと趣味じゃねえ」
姫殿下に褒めていただけるかもな! と早くもはしゃぐギーシュを後目に。垣根はうんざりしたように息を吐いた。
風になびく髪を押さえてルイズは後ろを振り返った。
ルイズを乗せたグリフォンより数十メイル――うち一頭は百メイル以上遅れて、二頭の馬がついてきている。
垣根達は既に二度、途中の駅で馬を替えていたが。
トリステイン学院を出発して以来走り通しのこの幻獣は未だ疲れた様子を見せていない。
その背に跨るワルドもまた余裕たっぷりと言った様子だ。
後ろの二人を一度仰ぎ見ると、ルイズを振り向き笑ってみせる。
「彼らが心配かな。さては……どちらか君の恋人なんだろう?」
愉快そうにそんな冗談まで口にして、ルイズをからかった。
「ち、ちち違うわ! ギーシュはただのクラスメイトだし、テイトクは使い魔なんだから」
「だが彼はただの使い魔じゃない。平民で、つまり人間だ。そうだね?」
「そうだけど……やっぱりおかしいわよね人間なんて」
ワルドに嘘は言っていない。
ルイズは本当の所も話していないが。
隠し事と言うのは気が進まないが、仕方ない。使い魔を、その秘密を守るのも主人の役目だ。
ルイズはそんな後ろめたさに目を伏せる。
「そんな風変わりなメイジも君だけだ。そうだろう」
ルイズの態度をどうとったのか。ワルドはゆっくりと、和らげた口調で続けた。
「特に高い知性や力を持った生き物を使い魔に持つ者は多くない。そして、皆優れたメイジだ。君もいつかは……素晴らしいメイジになる。誰がどう言おうと、僕はそう思っているよ」
「ワルド」
ルイズは顔を上げた。
羽根帽子の下から覗く目は、いつかの夢や昔懐かしい思い出の中と同じに見えた。
ルイズの使い魔をみた周りの反応は、皆そう変わらなかった。
クラスメイトも、教師も、エレオノールも、姫殿下も。
奇異と呆れと、同情めいた失笑。『ゼロ』のルイズにはお馴染みのものばかり。
だが。ワルドのそれは他と少し違うような気がした。
幼い日にかけられた言葉を思い出して、ルイズは微笑み返す。
「あなたは変わらないのね。昔も、失敗ばかりするわたしにそう言ってくれたわ。わたしも……あいつに見合うようなそんなメイジになれるかしら」
「おや。彼はそんなに優秀かい?」
「まあ、ね。頭もいいし、器用になんでもやっちゃうの」
種族を除いて能力だけでみればそりゃあもう。
腹が立つくらい
できた使い魔だろう。
知性も力も兼ね備えた優秀な、『ゼロ』のルイズには勿体無いほどの。
「剣の腕も立つそうじゃないか」
「なんで知ってるの?」
「いや、小耳に…と言うか学院長殿に少しね。君たちの話を聞いたのさ」
どうやら学院長は姫殿下だけではなくワルドにもルイズ達の話をしたらしい。
そんな風にルイズは納得した。
「そうね。あいつはきっといい使い魔だわ」
「随分気に入ってるみたいだな」
「そんなことないわ! やな所いっぱいあるんだから。言うこときかないし、自分勝手で、乱暴だし。口が悪くって」
矢継ぎ早に垣根の文句を言い始めたルイズを、ワルドは片手を軽く振って制した。
そしておどけたように笑う。
「わかったよルイズ。君たちは仲がいいようだな。少し妬ける」
「もう。そんなこと」
何だか恥ずかしくて、ルイズは頬を膨らめて誤魔化した。
「君はああ言ってくれるが。僕もずいぶん変わってしまった。衛士隊に入り、がむしゃらにやってるうちに隊長さ」
「前にお父様にお話を聞いてびっくりしたのよ。子爵様はすごく出世なさったのね、すっかり偉い人になっちゃったんだわ、って」
彼の父の死後、ワルドが家督を継いで以来。ルイズはワルドと顔を合わせていなかった。
だから、父に母にそんな話をされても何だか遠いところの話を聞いているようで実感もなかった。
婚約なんて古い話も、とうに反故になったとルイズは思っていたのだ。
だから。
歓迎の式典でワルドを見かけた時は驚いたし、姫さまに今回の話をされた時は混乱した。
十年越しの思い出と憧れに再会して、頭と心がそれについてこなかった。
本当はこんな風に、砕けた口を利いていいものかとさえ思うくらいだった。昔は年上の貴族様、と思っていたから丁寧な言葉遣いを心掛けていた。
そうしてくれ、と言ってくれたワルドは以前と同じようにルイズと接してくれている。
目線を合わせるように、気づかい優しく声を掛け笑顔を向けてくれる。
小船の中の、小さな女の子にするように。
「やめてくれ。ルイズ。僕のルイズ。小さなミ・レディ。なんだか急に年を取った気分になるよ」
「あら。おひげも素敵よ隊長殿」
「それはよかった。威厳がなくては、と思ってね。結構気を使ってるんだぜ」
冗談めかしてそう言うと、ワルドはゆっくりと息を吐いた。
「何てカッコつけてみても、苦労したさ。父が死んで以来僕は必死だった。早く立派な貴族になりたかったからね」
胸元にグリフォンが刺しぬかれた魔法衛士隊の黒いマントがよく似合う、精悍な貴族の姿がそこにあった。
それが眩しく思えて、ルイズは溜め息を吐く。
「あなたは立派よ。立派に、夢を叶えたのね」
「いや。まだだ」
前を見据えたワルドの目が、不意に鋭くなった。
そんな表情をみるのは初めてで、まるでルイズの知らない誰かのようだった。
「ワルド?」
「……そう、まだだ。僕は家を出る時決めたのさ。立派な貴族になる、そして――必ず君を迎えにいくとね」
ふと心細くなって呼びかけたルイズに、ワルドは笑いかける。
そして信じられないような事を口にした。
「や、やだわ。冗談でしょう? あなたみたいな人が、わたしなんてちっぽけな婚約者の事」
狼狽えるルイズに、ワルドは首を振る。
真剣な眼差しでルイズの問いかけを否定した。
「ずっと覚えていたさ。君の事を忘れずにいた」
今、確かに隣にいる相手に。
婚約者にそう言われ。
ルイズは、何故か素直に喜べなかった。
「今まで軍務にかまけてばかりだったが、おかげでこうして君と旅が出来る。それとも、君は嫌かい」
「嫌なわけ、ないじゃない」
「よかった。内心焦ってたんだ。君に嫌われてやしないかって」
足りない時間は、これからゆっくり埋めていけばいい。
そう、ワルドは言ってくれたが。
ルイズにはよくわからなかった。
婚約者、そして結婚。
幼い時と違いルイズにはその意味がよくわかる。だが、まだ実感出来ないでいる。
憧れの、好きな人とずっと一緒にいれる事。昔はそう思っていたし、そうなると言われて嬉しかった。
果たして今はどうなんだろう。
ワルドの事が好きなのか、それもはっきりしない。
彼と、ずっと一緒に居たいと。それが幸せだと思えるのだろうか。
ルイズがもう一度、後ろを振り向こうとした時。手綱を握った手でワルドが肩を抱いた。
温もりを感じるほど側にいてもわからない事は。
離れていては尚の事、わかる筈がなかった。
ルイズは目を閉じる。
もし、仮に。
このまま彼と結婚するとして。かつての懐かしい気持ちに戻れるのか、と不安に心は波立つばかりで。
何故かあの小船が恋しいような気がしていた。
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