それは、朝目覚め、厨房に言ったときに突然知らされた。
「やめただと?」
ケイツの声が厨房に響く。驚愕を隠し切れずにその唇がわなないていた。
「ああ、急遽モット伯って貴族に仕えることになってな。今朝早く迎えの馬車で行っちまったんだ」
マルトーは料理の仕込をしながらも、やるせなさを声にのせてケイツに伝える。まな板を叩く包丁の音が乱れているようにさえ感じた。
「だが、昨日あの娘は、そんな素振りは見せなかった」
次、何かあったら力になると言ったが、転勤してはそれも叶わない。
吐き出した言葉の分だけ気恥ずかしさが残り、ケイツは顔を手のひらで覆う。
「結局、平民は貴族の言いなりになるしかないってことなのさ」
諦観の念を隠しもせずにマルトーは呟いた。いつもにぎやかだったこの厨房が、ケイツには別物のように感じて妙に居心地が悪かった。
「どうして急に……」
誰に当てて言ったわけでもないケイツのつぶやきは風に乗って消えた。もうあの無垢な少女に会えないとなると寂しものだと哀愁を漂わせる。ケイツは柄にも無く、あのメイドが新しい職場で無事にやっていけるように神に祈ってみた。地獄と違ってこの世界ならば神もいるだろうと、彼女の新しい門出が明るい気さえしてきた。
だが、ケイツが我に返るとマルトーは作業を止めて、真剣な表情でケイツに向き直っていた。
「なぁ、ケイツさん。あんたシエスタを助ける事は出来ねぇかな?」
マルトーは切実に、腹の底から声を絞り出す。
「まて? なぜ助けるなどという言葉が出てくる?」
ケイツは認識の齟齬に狼狽する。貴族に仕えることになったならば栄転というやつではないのかと単純に考えていたが、マルトー悲痛な表情を見ておかしい事に気付いた。
不穏なマルトーの言葉の響きに、薄汚れた路地裏の匂いに這い寄られるような不安がこみ上げてくる。
「ああ……そりゃ、なんだ、大抵こういう時は、貴族が若い娘を名指しって時は……つまり、その、なんだ、ほら……」
マルトーは言葉を濁す。まるでその可能性を認めたくないと言わんばかりに。
口に出してしまうとそれが現実になってそうで怖かった。
だが、ケイツは子どもではない、マルトーが言わんとしている事を理解する。まさしく、それは長きに渡る逃亡生活で何度も何度も目を背けてきたものだったからだ。
「助ける……?」
ケイツは呟く、もしあのメイドが本当にそのような窮地に追いやられているのであるならば……と、我が手を見る。あの時は自分は無力な虫けらだった。だが今ならば力がある。どうしようもない苦境に落ちた人々に救いの手を差し伸べるための力がケイツにはあった。
けれど、それと同時に湧き上がってきたものは別方向の感情だった。
「……だが、メイドの少女は、無理に連れて行かれたのか?」
それを聞いたマルトーは目を丸くする。歯が軋むほど噛み締めてから言った。
「いや、手続きはちゃんと済ませているだろうよ。法的には問題ない公正な引き抜きだ。だからこそ、俺らにはどうしようもねぇんだよ……」
言葉尻は次第にすぼんでいった。それがマルトーの擦り切れた慟哭のように感じられた。己が無力さを痛感したとき虚空へと怒りの矛先を向ける。ケイツとて何度も経験したものと同じ色を帯びていた。
「……私は、ヴァリエールの娘にはこれでも恩を感じている。私が事を荒立てれば奴の家にも累が及ぶであろう」
自分でもびっくりするくらいの正論が口を突いて出ることにケイツは驚いた。
「ケイツさん……?」
「メイドの少女を取り戻すという事は敵を倒せば解決するような問題ではない。取り戻してどうなる? 敵は貴族ではない。国の法律が牙をむくのだ。悪しきを排除するため、正しきが襲い掛かってくるのだ。力を振るって解決する問題か? 一つの秩序を敵に回すのだ。国は私を悪しき賊だと判断するだろう。犯罪者になるだろう。身の回りのものにも責任が及ぶだろう。どこに取り戻す? どうやって収める? 私の両手には魔法しかないのだ」
全く瑕疵のない正論が止め処も無く溢れてくるにつれて、吐き気で窒息しそうだった。
魔法しかないなどと、どの口が言うのか。己が魔法を一つで世界と対峙するのが魔導士だろうに。
偉大なる兄の姿を忘れたのか。その兄が何と言った。”汝我に似たり”だ。その言葉を聞いたとき今までのゴミのような人生全てが報われた気がしたはずではないか。形は同じでも価値の全く違う黄金とゴミクズ。黄金がゴミクズに自分と同価値であると言ってくれたあの言葉、それを聞いた時、兄から受け継いだ力に恥じぬ魔導士になろうと決めたではないか。猛き意志をもって己が存在を示そうと決めたではないか。あの決意はどこに行ったのだ。あれほど崇高な決意さえも時間と共に薄れるのか。窮地に直面すれば剥げ落ちるメッキでしかないのか。金粉で塗装しようとゴミクズはゴミクズのままなのか。
思考がぐるぐると渦巻き、ケイツは頭を抱える。
傍目に見ているマルトーはケイツが心底苦悩しているように見えた。シエスタのことを真剣に考えながらもそれを阻む障害の大きさを知っている。そんな男の苦しみを前に思わず情けない声が出てしまう。
「だけどよぉ……。なんとかなんねぇのか」
「私はもう、若くはない。単純に敵を憎み、義憤一つを胸に、立ち向かうなど、どうして出来るだろうか」
背が伸びれば見える景色も広くなる。社会や組織に利用され続けた大人は単純な動機で動く事はできない。むしろ様々なしがらみに束縛され余計に動けなくなる。
「……」
ケイツを咎めるものはいなかった。正論というやつが腹立たしくて仕方が無かった。これまでは厨房の皆はケイツを英雄に仕立て上げていた。
物語の中の英雄は敵を倒せば終わりだが、現実の英雄には暮らしが続いていく。そしてほとんどの場合、現実は複雑で敵を倒しても終わらない事のほうが多い事を思い出した。
現実は勇者が魔王を倒せば終わりというほど簡単なものではない。落とし所がつかなければいつまでも争いは続いていくのだ。
厨房を沈黙が支配する。ぐつぐつと鍋の中で煮込まれるスープの音だけが耳を打った。
「……少し、考えさせてくれ」
ケイツは呟き、立ち上がった。理屈では助ける方法がないと結論が出ているのに、臆病者に見られたくなくて虚飾を糊塗する。
助けたいのは山々だけど相手が悪いから仕方が無いと、納得させるような振る舞いをした自分をひどく嫌悪した。
立ち去るケイツを責める者はいなかった。無力な悲壮感だけが蔓延していた。
◆
朝食を食べ終えて、自室で授業の準備をしているルイズにケイツは尋ねた。
「――モット伯ですって?」
頭の中をくすぐるような声でルイズは言った。
「ああ」
「モット伯なら知っているわよ。王宮の勅使で時々、魔法学院に来るわね」
「どんな人物か心当たりはあるか?」
「そうね、直接には面識はないけど、私は偉ぶっていてあまり好きじゃないわね」
「悪い噂など、何かないのか?」
「噂ねぇ……。好色で女癖は悪いって聞いたことがあるわね」
「やはりか」
ルイズの言葉に正鵠を得たと頷くケイツ。
「何? その反応。あんた何か隠してるでしょう」
訝るルイズにケイツはただ顔を背ける。そんなケイツの反応にルイズの怪訝な瞳はじりじりとケイツを焦がす。
ついに堪えきれなくなってケイツは口を開いた。
「私が何を隠していると言うのだ?」
「だって、あんたの口からモット伯の名前が出ること自体おかしいじゃない。どこで誰に何を吹き込まれてきたのか言いなさい」
ルイズの眼差しに屈服したケイツは膝を抱えて地面に座りながらぷい、と90度時計回りに顔を背けた。つまり逃げる事を選択した。
しかしそこにルイズが回り込む。また90度動く。ルイズに回り込まれた。顔を背ける。しかし、ボスからは逃げられない。ぐるぐると回る。
「不毛だわ……」
「うむ……」
やる前から分かっていた事を、二人は再確認した。意固地になっているケイツにルイズがため息をこぼす。
「まぁ、いいわ。それがどんな理由だろうとも、どうせケイツは臆病だもの。モット伯に立ち向かうなんて真似はしないわよね?」
「……」
二重の意味で的を射ているルイズの発言に頷くのは躊躇われた。
けれど、ルイズの言葉に侮蔑の色はない。どちらかと言えばそれは気遣いだ。
そんなルイズが健気に思えて、ケイツは安心させるため口を開く。
「当然だ。私は敵に頭を下げることで、戦場で生きてきたのだぞ」
「つくづく、自慢げに言うことじゃないわね。それ」
くすりとルイズは微笑んで、今度こそルイズは安堵の吐息を吐き出す。
「さて、今日も一日頑張るわよ」
そして一日が始まった。ケイツはその日ずっと、胸に抱いた蟠りを解消できずに思案し続けることになる。悩み続けていたらいつの間にか空が赤くなっていた。
◆
日も暮れ、寮内からは暖かな光が漏れている。
ケイツが佇むのは学院の入り口付近にある広場だ。科学技術の発展した地獄と違い、そこは外灯などない。
門の前に続く薄闇が、口をあけて犠牲者を呼び込もうとしているような気がする。
ケイツは自分がそこに立っている理由は明白なのに、足が踏み出せなかった。そんなケイツの背後からカサカサと草を踏み分けて歩み寄る人影がある。シエスタと仲のよかった金髪のメイド、ローラであった。手元に袋を携えて歩み寄ってくる。
「あの、ケイツさん、これみんなで集めたんです。こんなんで足りるかどうか分かりませんが……よろしくお願いします」
ローラが手渡したその皮袋はずっしりと重かった。ジャラジャラと景気のいい音を響かせ、中には銀貨や金貨がぎっしりと詰まっていた。ハルケギニアでの具体的な貨幣価値はケイツには分からなかったが、その皮袋の中から溢れ出る輝きは平民にとって並みならぬものであるということだけは理解できた。
「これでメイドの少女を助けろというのか?」
かすれた声がケイツの喉から沸きあがる。
「はい……。足りなければ私、なんでもします」
ケイツは、メイドの少女――シエスタがみんなから心より愛されているのだと感じた。
自分が絶対正義の英雄で、相手が純粋悪の魔王であったならどれだけよかったかとケイツは考える。
だが、ルイズの話を聞く限りモットは良くも悪くも普通の貴族。彼の悪癖とて、貴族の嗜みの範疇からでるものなのだろうか?
シエスタを助けて、モット伯を倒し、どこでどうやって落とし所をつけるのか、ケイツには分からなかった。
俯くケイツの傍を風が駆けていく。しばらくしてケイツは顔を上げた。
「お前はローラと言ったか。何でもすると、言ったな?」
「はい……。それでシエスタちゃんが助かるなら、私……」
ローラは身をすくませた。両腕を胸の正面で抱えて震えているのに、踏みとどまっていたのは彼女の決意の強さの証だ。
そんなローラを見つめてケイツは言う。
「何でもいい。理由をくれ」
「え?」
唐突なケイツの言葉にローラは首をかしげた。
「理由だ。いかにジュール・ド・モットとやらが極悪非道かを語ってくれればいい。全てを投げ打ってでもあの少女――シエスタを助けねばならないほどの理由を……私にくれ」
静かな叫びだった。遠い遠い地の底から叫びだしたようなそれは、ケイツが絞り出した精一杯の勇気だ。
しかし、そう言われてローラは口ごもる。魔法学院の一使用人が宮廷貴族の悪評などそう耳にできるものではない。せいぜい女癖が悪いとかその程度であった。そしてそれはケイツが今求めているものではないと、彼の切羽詰った表情からローラは理解する。
どういう言葉をケイツに与えればいいのか分からなくて、ローラはがむしゃらにしゃべった。
「あ、あのッ! シエスタちゃんは明るくて頑張り屋さんで、変な方向に思い込みが激しくて、それでよくドジしちゃって……でもそんなシエスタちゃんのおかげでみんな笑えて……最初は中々仕事が上達しなくて、それでも一生懸命がんばってて、そんなシエスタちゃんが微笑ましくて、それでいつのまにか私より仕事が出来るようになってて、でも私が困ったときにはいつも助けてくれて、まだ男の子と付き合ったことなくて、甘いものが大好きで、それで、それで……」
「もういい」
そういってケイツはローラの言葉を遮り、手渡された金貨袋を彼女へとつき返した。
「ケイツさん? で、でも……これ。私、本当に何でもします。何でも出来ます! だから、だからどうか、シエスタちゃんを……」
ケイツの行為を拒絶の証と取ったローラはひどく狼狽する。一本だけ残っていた救いの糸が切れた気がして絶望に支配されそうになった。
だが、ケイツは門の方へと向き直り、ローラに背を向けたまま言った。
「……あの少女を助けたとき、こんなものを持ってたら何と説明すればいいのだ」
支離滅裂に紡がれたローラの言葉はケイツの心を動かした。混じり気のない純粋な絆というものをそこから感じ取り、ケイツは羨ましく思ったのだ。
「あっ……」
ローラの瞳から滂沱のような涙が流れ落ちる。拭い去るたびに溢れてくるので、彼女の顔も手もひどく濡れていた。
「モット伯とやらの所在地は分かるか?」
「は、はいっ! えっと――」
ローラの説明を聞き終えたケイツは空中に視線を彷徨わせしばらく佇み。そして虚空を見据えて目を見開いた。
「そこか、”掌握したぞ”」
「えっ?」
空に向かってケイツが吠えた次の瞬間、ケイツが崩れたのをローラは見た。正確にはケイツだと思ったそれは人の形をした土塊であった。
相似大系には『似たもの』同士の位置を交換するという転移魔法が存在する。
今、ケイツが行ったのは、ギーシュとの戦いのときに使った『概念魔術』と転移魔法の組み合わせだ。
”着点であるモット伯邸付近の地面に対して、自分自身と『相似』であることを押し付け、そこに土人形を作り出し、自分の位置と交換した。”目的を果たし終えて形を維持する必要の無くなった人形が崩れ落ちる。
「ケ、ケイツさん? ……よく分からないけど、後武運を」
ケイツの手際が良すぎて、ローラの目にはケイツが土になって崩れるようにしか見えなかった。何が起きたかすらローラには理解できない。だが、ケイツが最後に残した力強い声はきっといい結果を運んできてくれるような気がして、いつまでもケイツが居た場所を見つめ続けていた。