「どこ行ったのよ……」
魔法学院の女子寮で少女は怒りに震えていた。
桃髪が映える美少女、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールである。
彼女は今、自分の使い魔を探している。就寝時間も近づいているというのに姿がないのだ。
「ここには……いるわけないか」
女子寮の談話室に入り、落胆する。
そこは就学時間外に暇を持て余した女生徒たちが集う花園だ。夜も更け、日頃賑わっている談話室も今ではすっかり疎らである。
そもそも、乙女の花園ほどケイツに似つかわしくない場所はない。
「そういえば、まさか……」
心当たりのある場所を一通り探し終えたルイズは一つの可能性に気付く。
根拠は乏しいが、今朝ケイツと交わした会話に嫌な予感を感じ取った。
「あら? ルイズじゃない。こんな時間に何してるの?」
「キュルケ」
ルイズが顔を上げるとそこにはお馴染み不倶戴天の敵であるキュルケ・フォン・ツェルプストーの姿があった。傍には小さな青髪の少女タバサも一緒だ。
「なによぉ、怖い顔はいつものことだけど、深刻そうじゃない」
「あんたに話すのは癪だけど、実は――」
ルイズは彼女たちに説明する。内心忸怩たる思いでいっぱいだったが、予想通りであれば一人じゃどうしようもなかったからだ。
「あら、流石ミスタ・アサリね」
「竜がある」
それを聞いた二人は笑った。退屈な日常に紛れた香辛料の薫りを嗅ぎ取ったからだ。
◆
「ケイツさん! ケイツさん。しっかりしてください!」
「――――ぐっ!?」
心配そうに呼びかける声と胸を揺する温もりでケイツは覚醒した。
意識が飛んでいたのは刹那のことだった。墜落し咄嗟にメイドの少女を庇った所までは覚えている。
その代償が熱に浮かされたように身体を苛む鈍い痛みだ。
「何が起こった……」
窓へと駆け出し、空中で『転送障壁』を作り出したはずだった。
始点と着点との空間を『相似』にすることによって移動する高等技術。
その魔法は橙色に燃え尽きた。そう、燃え尽きた。覚醒した意識が空中に散り行く橙色の炎を見た。
つまり、自分は魔法消去を受けたのだと気付いた。
「≪悪鬼≫か!? どこからどうやって!?」
体を起こしたケイツの自問は、自答することになった。
目の前で心配そうにこちらを見ているシエスタを中心に、橙色の炎が舞っていた。
ケイツの編み上げた大魔法が根幹から崩れ落ち、シエスタを中心に魔炎が吹き上げている。彼女が消去した魔法の名残だった。
その中心にいるシエスタはまるで炎の魔人のように見えた。見まごう事も無い、地獄の悪夢の再来がそこにあった。
その炎がシエスタを害することはない。それ自体は熱も破壊ももたらさない、ただ魔法のみを焼き尽くす神無き地獄の恐怖の象徴。
「……お前か、メイドの少女よ」
「えっ?」
ケイツの身体を気遣うシエスタが突然尋ねられた言葉の意味が分からず首をかしげる。
シエスタを庇うようにして墜落したのに、ケイツはまるでシエスタから逃げるかのように身体を引きずり出す。
「ケ、ケイツさん? 怪我をしてるんですから動かないで――」
「止めろっ!」
シエスタが心配そうに差し伸べた手をケイツは反射的に払った。
「――あっ」
その響きはシエスタだけのものではなかった。
”振り払われた手を押さえて悲しげに当惑するシエスタに対する後悔”という形でケイツの口からも、続いて零れた。
瞬き数回ほどの沈黙の後ケイツは立ち上がる。
「……済まない。立てるか?」
「はい……でも、あの」
「謝罪する。動転していたのだ。お前に罪はない」
手を振り払ってしまったケイツが自ら差し出した手は、謝罪の証だった。しかし、おずおずとそれに手を伸ばすシエスタに元気はない。
説明したかったが、弁明の余地を許さぬ状況であった。周囲を見渡せばそこはモット邸宅の中庭。こうしている間にも包囲網は形成されていくであろう。
刻一刻と過ぎていく時間がケイツを焦らす。最後にして最大の頼み綱である魔法が使えないことに心が押しつぶされそうになる。
「少女よ、今すぐ魔法消去を止めるのだ。お前が純粋な≪悪鬼≫でないことは知っている」
「え、魔法消去ですか? そんな事を言われても何がなんだか……。どういうことなんですか?」
目をぱちくりと瞬かせるばかりの少女にケイツの悪い予感は的中した。
「まさか自覚が無いのか。お前が私の魔法を焼いているのだ。この舞い上がる橙色の炎が見えないのか」
「ケイツさん。一体何を……橙色の炎って?」
ケイツの狼狽は明らかだった。悪鬼は魔法が見えない為、魔法の崩壊の形を知覚することはできない。悪鬼には立ち上る橙色の炎は見えない、そんな事は地獄で長年生活しているケイツには分かっているはずだった。
「どうする、どうすればいい?」
ケイツの動揺はここに来て頂点に達した。どんな事態になっても魔法さえあればどうにかなると油断していたツケが押し寄せてきた。
その絶対の頼みの綱を、思わぬ形で断ち切られることになり、底知れぬ恐怖と弱気が総身を支配する。
「ケイツさん……」
状況についていけないシエスタはただ心配そうにケイツを覗き込むことしかできない。
「……迂闊だった。メイドの娘よ。お前が≪沈黙する悪鬼≫だったのだな」
「≪沈黙する悪鬼≫……?」
「我ら魔導士最大の敵だ。観測した魔法を破壊するお前のおかげで、お前を連れて逃げようと思った算段が狂ってしまった」
「そ、そんな……私、知らなくて……」
直面している最大限の危険要素を、ケイツは思わず言ってしまった。そして、その内に込められた敵という言葉の無神経さに嫌気がする。
このメイドの少女は敵ではないというのに。
「消去さえ解除できれば直にでも逃げられるのだ。出来ないか? 私はお前の前で魔法を使ったことがある。お前には意図的に魔法消去を”しないこと”が出来るはずだ」
「そんなこと言われても」
今初めて自分に眠る力に気付かされたシエスタに、それを制御する術などない。
必死の剣幕のケイツの表情だけが切実に訴えかけていた。
「どうする? どうすればいい……逃げる。早く逃げなければ!」
焦りと動揺に囚われてケイツはひどく取り乱していた。取り繕っていた勇気がぽろぽろと剥がれかけていくのを実感する。
「あ、あのっ! 私、モット伯に頼んでみます。許してくださいって、私はどうなってもいいからってケイツさんだけでもって。そうしましょう……? よく分からないけど、私のせいでケイツさんは魔法を使えなくなっているんですよね? このままじゃ……」
本能的に、それ以上シエスタにしゃべらせたくなくて、ケイツは言葉をかぶせる。
「――そんなのはここでお前を見捨てて逃げるのと同じだ! お前の五感の届かぬ範囲にでれば私一人なら魔法で逃げることが出来る。だが、お前が身を犠牲にするよりも情けなさが残るだけの意味のない行為だ。もう道化になるのはうんざりなのだッ!」
そのおかげで、最後の一歩でケイツは踏みとどまることが出来た。窮地に陥ってさえ健気な少女の献身が眩しくて、ケイツは我に返った。少女にここまで言わせてしまったその身をケイツは恥じた。錯乱している場合などではない、シエスタの提案に乗ってしまいたいと思う反面で、ハルケギニアに着てから胸に芽生え始めた勇気がそれを否定する。
「でも、せっかく助けに来てくれたのにケイツさんは何も悪くないのに」
シエスタの同情がケイツには心地よかった。そのまま浸っていたくなるほど、ケイツの心に染み渡っていく。
「……全くだ。本当にその通りだ。私が何をしたというのだ……この歳になると人生やり直しが効かんからな。こうなってはヴァリエール家の娘にも迷惑をかけてしまうだろう。なんだ、ただ状況をかき回しただけではないか。まさに道化だ」
自嘲が止め処もなくケイツの口から零れ落ちた。いつだってケイツの運命というやつは過酷だ。
ケイツの手には大いなる力があるというのに、力を手に入れてから空回りするばかりだった。
ただ、今回は少し違った。確かに失敗しつつあるし、かみ合わない。だが運命の歯車は確かに回っている。ケイツの意志が、行動が着実に前へと動かしている、ただかみ合ってないだけでそれは確かな進歩だった。
心配そうにおろおろするシエスタと目が合って、ケイツは作り笑いを浮かべてみた。
「心配するな。気が狂ったわけではない。理解したのだ。私は今まで生きてきた。だがそれは身体が動いているだけだったのだ。今回のことで私は初めて生きている心地がした。この胸に灯った感情を、おそらく忘れるべきではないのだ」
ここはせっかく手に入れた安寧の地かも知れないのだ。
すべてを投げ打ってでも生を繋いできた男が、初めて命に変えても守りたいものを見つけたのだ。
「だから、お前は悔いなくていい。私が選んだことだ。この浅利ケイツが選択したことだ。やり通せなくてなんだ? ずっと忘れていた。燻っていた。兄の、兄さんの最期を看取ったときの決意と同じものが今この胸に宿っている。兄が私を『似ている』と言ってくれた時、私が私以上になった気がしたのだ。だからこそ、兄の言葉に報いる為にも私は本当に私以上にならねばならぬ。この決意は忘れてはならんのだ」
その呟きはシエスタに向けたものではなかった。まるで神に宣誓するかのように空へと昇っていく。そして厳かな表情でシエスタへと向き直った。
「メイドの少女よ……≪沈黙する悪鬼≫であるお前を連れて逃げるのはこの上ない重みだ。だが、今の私はその重みを背負わねばならん」
「ケイツさん……」
半ば自暴自棄になっているかと思えるケイツの目は死んでいなかった。黒と白の中間にこんなにもはっきりとした色があろうとは誰が思うであろうかと思うほどに眩しかった。
「はい、私ケイツさんを信じてみます」
「――そんな大声を出してどうした? 命乞いの練習でもしていたかな?」
二人の間に広がった感動を打ち払うように、舌なめずりをしながらジュール・ド・モットが衛兵を引き連れてやってきた。
ケイツはそんな危機の前に痛む体を悠然とそちらへ向け、明確な意思をもって対峙する。
「勘違いするな。この娘を連れて帰る覚悟を固めたまで」
「ふはははっははは、どうやって連れて帰るというのだ。まさか私を倒すとでも言うのではあるまいな? これは傑作だ。平民が、ずいぶん笑わしてくれる」
「私はお前に害を加えるわけにはいかぬ。お前にメイドを連れて帰る事を認めさせると言っているのだ」
「それこそ、傑作だ。どうやって私がそれを承認すると言うんだ」
「手荒になるが、我が力を見ていただこう」
ケイツは決闘のときの事を思い出し、コートの内側にしまってある剣を抜いた。
「ふん、抜いたな」
モット伯は愉悦に唇を歪ませた。貴族の邸宅で平民が剣を抜いた場合、その生殺与奪を握られることと同義だった。
「かかれ、愚かな平民にその身の程を知らしめてやれ」
モット伯の声に呼応するかのように、兵士たちがケイツへと殺到する。
「少女よ、下がっていろ」
「は、はいっ!」
一言シエスタに伝え、敵に向き直る。
「行くぞ。簡単に私を倒せると思わないことだ」
剣を手にしたケイツの左手が光った。どこまで意識が澄み渡り、羽になったように身体が軽い。迫り来る兵士たちがまるでスローモーションのように見える。彼らが振りかぶった武器を目で確認してから交わし、剣戟を響き渡らせた。ケイツの持つ剣が相手の武器を強かに打ちつけ弾き飛ばす。
元々、剣の腕前が確かなケイツが、ガンダールブのルーンの効果に後押しされて、繰り広げる剣舞はなんとも流麗なものであった。
刻一刻とケイツの優勢が明確になってくる。
「ええい、お前たち何をしているか! 任せては置けぬ!」
モット伯が劣勢に焦れ、魔法の詠唱に入った。ルーンを紡ぐとホールに添えてあった花瓶の水が踊るように舞い上がりケイツへと襲い掛かる。
「はぁッ!」
しかし、裂帛一閃、抜き身の剣を振り払い迫り狂う水の槍を打ち払った。周囲には武器を弾き飛ばされた兵士がケイツから距離を開け、モット伯が悔しげに唇を噛み締めている。誰も負傷していない。兵士たちの武器は軒並み地面に転がり、モット伯の魔法の水が床を濡らしている。
「ここまでだ。私の力分かったはずだ。これ以上は無意味だ、引け。こちらに危害を加えるつもりは、ない」
ここで引いて欲しかった。内心穏やかでないケイツが尊大さを取り繕い、周囲を睥睨する。
「何を寝ぼけた事を、貴族の邸宅に踏み入りその暴挙、捨て置いては名折れというもの。皆の者、臆するな! そやつは甘い。かかれぇッ!」
貴族は体裁を気にする。モット伯も例外ではない。半ば狂乱に近い叫びを上げ部下の兵士たちに命令した。
武器を弾かれてなお、兵士たちは素手でケイツへと殺到する。
好ましくない状況だった。ガンダールブのスピードを活かし、的確になおも迫り来る敵を、相手を剣の柄で、拳で打ち据えていく。
ここに来て尚、非情になりきれないケイツの攻撃は手ぬるい。打ち据えても敵は決死の気迫で起き上がってくる。
戦闘は圧倒的に優位に進めているのに、ケイツの額に汗がしたり落ちる。
それがケイツの失態に繋がった。
「其処までだッ!」
響き渡ったのはモット伯の声だ。そちらに視線を投げればシエスタを盾にするように抱えていた。ケイツが衛兵たちに手こずっている間にシエスタの傍まで移動していたのだ。
「ケイツさん……」
「おのれ、人質とは卑怯な」
「人聞きの悪い事を言うでない。自分のものを取り戻したまでだ」
ケイツがモット伯へと駆け寄ろうとする。
「おっと、動くなよ。私もシエスタは惜しいが、そう怖い顔をされてはどうなってしまうか分からんぞ。なぁ、シエスタ」
そう言ってモット伯はシエスタの胸部に腕を回し、頬を舐める。
シエスタは怖気に身を震わせ、瞳は羞恥と恐怖、悔恨の色が混ざり合っていた。
「ああぁ、ケイツさん足を引っ張ってしまってごめんなさい……」
「止めろ。少女を放せ、この変態めッ! 貴様それでも魔導士かッ!」
「フフフ、何とでも言え。戦いは最後に勝ったものが正しいのだ。貴様は動くでないぞ。さぁ者ども、奴を捕らえよ!」
敵兵がじりじりと包囲網を詰めて来る。ロビーの広間を後退し、ケイツは遂に逃げ場を失った。
「くっ……」
ここまでか、とケイツの脳裏に諦めがよぎる。依然と魔法消去に晒されていて、そして武器による抵抗は許されない。
疑いようも無く絶体絶命のピンチであった。
諦めて逃げよう。ガンダールブのルーンでシエスタの知覚範囲外まで走れば、後は転移魔法で自分だけは助かるのだ。一度弱気になると一気に悪魔が囁き始める。
ヴァリエール家に迷惑がかかってもいいとさえ思った。重要なのは自分の命だ。そして偉大なる魔法の才能を持つ自分が死ぬのは相似世界にとっても大きな損失だ。
自分の人生はまだ始まってもいない。ようやく手に入れた力を手放すぐらいなら逃げたほうがいい。そもそも迂闊に敵に捕まるメイドが悪いのだ。
生きてさえいれば、いくらでもやり直しが効く――。
「出来るわけなかろうッ!」
ケイツは吠えた。心を侵食する闇を打ち払うように。この戦いを始めたのはケイツ自身の意志だ。かつてケイツは考えたことがあった。偉大なる兄との再会、そして圧倒的な才能を貰ったことによる感謝。
物心つく以前には既に生き別れとなっており、兄がケイツと過ごした時間など皆無だった。
思い出らしい思い出が無いにも拘らず、成功という成功を成し遂げた兄は、失敗に次ぐ失敗に苦しみ喘いだ弟を、兄弟と言うだけの理由で無条件に認めてくれた。
嬉しかった、全くの理解者がいないまま這いずり回った地獄から救い上げてくれたような気がして、兄に着いて行きたかった。その向こうに待っている優しい世界を渇望していた。
だが、ケイツのプライドはそれを受け入れられなかった。
”おまえがいては私は生きていけないのだ! お前に力を貰ったことには感謝もしよう。それでも、お前がいてお前の後について回れば私はちっぽけな影だ。私はもう私ですらなくなるのだ”と竦みそうになる足を必死で堪えて、太陽の如き王者である兄へと宣言したのだから。
ケイツはみっともなく這いずり回った自分でさえ認めたのだ。浮浪者同然の生活とて、彼を培ってきたものに他ならない。何もつかめていない自分さえ目を背けずに肯定した。
ケイツは他の何事よりも鋼のように硬く浅利ケイツ自身でありたかったのだ。
もはや兄はいない。太陽の如き兄に照らされて、浮かび上がる影に甘んじることもできない。
自分が輝かねばいけないのだ。
ならば、助けると決めた相手は助けなければいけない。
今まさに浅利ケイツとして何かを掴もうとしているのだ、逃げることなどありはしない。ケイツはモット伯に囚われているシエスタを見つめた。
「……メイドの少女。シエスタよ。お前が≪沈黙する悪鬼≫でも構わん。お前が魔法を消去しようと構わん。私は目に焼き付けているからな。魔法消去下に置かれながらも≪悪鬼≫を圧倒した魔法使いを知っている。奴は生きることに挑戦した。私も『同じく』そう在ろう」
ケイツは周囲を睥睨する。もはや不安に怯えて周囲をキョロキョロしていた彼はそこにはなく、実に泰然自若と佇み、全身から意志が溢れていた。
「我が魔法を見るがいい」
宣言共に、ケイツの行動は素早かった。魔法の初動をシエスタに視認されないように操作元である手をコートの袖に引っ込めた。
「ケイツさん? きゃっ、何ですかこれ!?」
シエスタには、ケイツの手がコートの中で揺らめいた気がしただけだった。
無数の銀弦が飛び交い、シエスタがそれを認識し、魔炎を上げて燃え尽きるころにはすべてが完了していた。
シエスタの視界が霧に覆われ、ケイツがシエスタの背後に立っていた。敵は全て閉じ込められていた。
「しばし、そのままにしていろ」
背後からケイツはシエスタの目を覆う。
「え、あれ? ケイツさんどうして?」
突然起こった不可解な出来事にシエスタは当惑するが、背後からかけられる声がモット伯のものではなく、馴染みのあるものに変わっていることに気付いて、思わず安堵に満ちる。
「なっ!? 馬鹿な何が起こった」
当惑に平静を失うその声はモット伯のものだ。気付いたら自分は移動させられていたのだからそれも仕方ない。
それのみならずモット伯の眼前には見渡す限りの剣の山があった。まるで墓標のように突き刺さるそれはケイツ達とモット達を隔てるように乱立し、行く手を阻んでいた。
「何だ? 一体貴様は何をした! まさか本当にメイジだったとでも言うのかっ!」
高位の相似魔導士は『事象の曖昧化』に長けている。『似ている』とは観測者の主観だ。
程度の低い相似魔導士ならば、丸いボタンを動かすために、全く同じのものを使わなければ銀色の魔力弦を認識することが出来ないが、高位の魔導士になれば、大小の別なく、そして楕円と円ですら銀弦を結ぶことが出来る。さらに突き抜けた相似魔導士であれば原子レベルですら『相似』を見出すことができるのだ。
ケイツは袖に引っ込めたその手に付着した汗と、モット伯が魔法で床にぶちまけた『水分子』との間に無数の相似弦を結び、それを引き上げた。
もちろん、魔法消去は働いた。結果として今だ魔法の崩壊の残滓を残して空中にたゆたう橙色の炎がその名残である。にも拘らず、現実として魔法は発動している。ケイツはモット伯と自分の位置を入れ替えて、さらに身の丈を超える剣山の牢獄を出現させたのもそうだ。
ケイツが『魔法の初動』を隠し、コートの内側で操作したことが功を奏した。
魔法消去は魔法に対して完全無欠のものではない。自らが抱える『遡行抵抗』せいで魔法を消し去ることは出来ない場合がある。
魔法消去には正しい自然秩序が混じっていると、それが”正常な秩序”という重石のため”はがし残し”が起こってしまう。
”その世界の自然秩序で存在できるもの”に魔法で力を加えた場合、魔法は消えてもそれは慣性に従って動く。
相似魔導士が操作術で物体に運動エネルギーを加えた場合、魔法消去が操作を断ち切っても、その自然物は自然秩序に従って動き続けるのだ。
つまり、運動エネルギーを加えられて急上昇した水分子の動き自体はあくまで自然現象で説明が付く為、その起こってしまった運動を止める事は出来ず、シエスタの視界を濃霧が覆った。
視認という最大の魔法消去の強みを奪ったケイツの行動は早かった。
すぐさま爆発的なまでの銀弦を開花させ、”自分の剣”と”シエスタの知覚が及ばないほど遠くの地面”に対して『概念魔術』で相似である事を押し付け複数の剣を生成、すぐさま自分の持つ剣を高く掲げ、『同じように』生成された剣の群れが浮く。
上昇した剣の群れは『転送障壁』に飛び込み、屋敷内に転送。そして剣の群れに命令を下すように自らが持つ剣を振り下ろした。
目の前に突き刺さる無数の長剣の檻がその答えだった。
爆発的な身体能力を与えるガンダールブのルーンと、相似大系の超高位技術の合わさった結果が思わぬ奇蹟を呼び込んだ。
「ええい、やむを得ぬ。奴を射よ! 衛兵、何をしておるか。早く! 早くするのだ!」
モット伯は未知なる奇蹟の技に恐怖し、目を覆うように狂乱する。
近づくことができないのであればと、弓兵たちに指示を出した。
だが、苦し紛れに放ったその命令は、あろうことか最善手だった。
≪協会≫圏内の魔法使いたちの有名な話に、始まりの≪放浪者≫達ですら原住民の悪鬼が放ったただの槍に突き殺された、というものがある。ケイツは地面に突き立てた剣に手を伸ばした動作の分が致命的だった。
「チッ!」
迫り来る矢の群れを咄嗟に弾き落としたが、ガンダールブのルーンで引き伸ばされた反射神経によってケイツの頭めがけて飛来する最後の一矢を、回避しきることが出来ないと分かってしまった。
走馬灯がケイツの脳裏を巡る。我ながら下らぬ人生ばかりだったと、ようやく手に入れたこの地で見つけた新たな灯火が消えるのが悔しくて悔しくて仕方が無かった。
――諦められるわけがないッ! 引き伸ばされた時間の中ケイツは心の中で吠える。
ようやく人生が始まったばかりだというのに諦めてたまるものか。だが、矢は刻一刻と迫る。
最後まで目を閉じることなくその矢を見据えていたケイツの前で、爆発が起こった。
「――はぁ……はぁ。間に合ったみたいね」
濛々と立ち込める粉塵の先にケイツは桃色の少女の姿を捉えた。
その向こうでドラゴンに乗った赤と青の少女もいた。
期せずして現れた援軍にケイツは心底安堵した。
◆
「この度の不始末は全て、このルイズ・ド・ラ・ヴァリエールの責任でございます」
騒動が過ぎ去り、モット伯の応接室にケイツ達は集まっていた。
目の前ではケイツの主である少女が片膝を付き、モット伯へとこうべを垂れる。
「ふん、魔法学院の門弟も質が落ちたものだ。オールド・オスマンに厳罰を要請せねばならん」
「待て、悪いのは私だ。その娘は」
”いいから黙ってなさい!” と刺すような眼光で少女に射抜かれて、ケイツは口を塞ぐ。
情けなさでいっぱいだった。終わってみれば自分は場を引っ掻き回しただけで穴があったら入ってしまいたかった。
「急を要したもので、許可無くお屋敷に侵入した無礼をお詫びします。そして使い魔の不始末は主人の不始末。どのような罰もお受けします」
「王宮の官吏に剣を向けた事は重罪に値する。家に累が及ぶことも覚悟するのだな」
落ち着きを取り戻したモット伯は尊大だった。
「はい、謹んで」
「ふん」
未だこうべをたれ続けるルイズに鼻息一つでモット伯は話を打ち切る。
このままうやむやになりそうでケイツは嫌だった。だからケイツは行動にでた。
「伯爵よ。どうかお願いする。メイドの少女を解放してやってはくれまいか。伯爵にとっては代えの効く何人もいるメイドたちのうちの一人なのだろう。だが、私にとってはそうではないのだ。出来ることなら何でもする。どうか考えていただきたい」
突如膝を付いて割って入ったケイツにルイズは激怒する。
「あんたねっ! 頼むから空気を読んでよ。私がどれだけ苦労して――」
「――お願い申し上げる伯爵ッ!」
ルイズの怒声すらかき消すほどの声でケイツは懇願した。
沈黙が流れる。モット伯がケイツを見下ろし、そして言った。
「何でもすると申したな」
「ああ。頼みを聞いてくれるのか?」
「ふむ、実は私は本の収集癖があってな。実は欲して止まぬ本があるのだ。ある魔法使いが魔法の実験中に偶然召喚した本でな、それをゲルマニアのある家が家宝にしてるらしい」
「それを持ってくればシエスタを開放してくれるのだな?」
モット伯がケイツの決意に頷き答える。
しかし、それを遮るように甘い声が横から響いた。
「あらぁ、ちょっといいかしら?」
「ん? お前は?」
「申し遅れました。私、ゲルマニアのフォン・ツェルプストーと申します」
傍で聞いていたキュルケが貴族の礼法に則り一礼する。
その名を聞いたモット伯は目を見開き、思わず席を立った。
「ツェルプストーだと! つまりお前が――」
「はい、おそらく伯爵が申してらっしゃるのは我が家の家宝。≪召喚されし書物≫かと」
「おおおお、何という偶然。――して」
「ええ」
モット伯が促し、キュルケが意味ありげに頷き、何故かルイズの方を見た。
「……なによ」
「ヴァリエール、分かってるわよね? 私としてはあんな本あげてもいいんだけど……」
「いいんだけど、なによ」
「つまり、ミスタ・ケイ」
「ダメ」
空気が凍った。
キュルケがアテが外れたような表情を浮かべ、モット伯の表情も残念な感じになった。
「あ……あの? ルイズ? 交換条件を持ちかける私も確かにどうかと思うけど、この流れでそれはないんじゃないのかしら?」
「ダメったらだめ、ツェルプストーに上げるものなんて何一つ無いって、何回言わせれば気が済むのかしら」
「でも、いいの? あれがないと貴方、困るんじゃないの?」
「別に、私、は困らないわ。大体あんたには前から――」
「何ですってッ! そこまで――」
もはや完全に二人の世界に突入しだした。ここが他家の邸宅であることなど既に二人の脳裏から弾き飛ばされている。
モット宅は今、ヴァリエール家とツェルプストー家の戦場となった。
温度差がすさまじかった。騒動の渦中であったはずのケイツとモット伯さえ取り残されてしまっている。
モット伯は目の前のご令嬢たちの変貌振りに度肝を抜かれ呆然としていた。
咳を一つし、ケイツはモット伯に尋ねかける。
「伯爵よ。その本とやらはどのようなものなのだ」
「ああ……うむ、なんでも男の欲情を駆り立てるものらしい」
「なるほど、では伯爵の欲情を駆り立てるものであれば、他のもので代用は効くまいか?」
「ああ、何かアテがあるのかね?」
ケイツはポケットに手を突っ込み、それを取り出した。
「これでいかがか」
「ッ!? こ、これは……ッ!! なんと素晴らしい」
モット伯爵の目が輝いた。
ケイツが手渡したのは無意味によく出来た美少女の人形だった。鎧を着て、地獄のアイドル歌手の決めポーズのようなイカレた姿勢で男の心に訴えかけるようなナニカを持って、媚びるように微笑んでいた。肌は人形のものとは思えないぐらい艶やかで白く、装具は全て純白だった。露出がひどく、ほとんど鎧として機能しないのでは、と懸念されるそれは精緻に飾り付けられ、その人形の美貌を引き立てている。
「すばらしい。何と美しい。そしてなんともありがたい鎧だ。鎧でありながらこのようなスケスケにするとは、このアンバランスなギャップがなんとも堪らん」
人形を握り締め恍惚とした表情を浮かべるモット伯にケイツはニヒルに口角を吊り上げて説明する。
「魔法使いに鎧の実用性を問う意味などあるものか。それは儀礼用なのだ!」
「なんということだ! 実にけしからんぞ! こんな破廉恥な鎧を着てどんな儀礼をするというのだ。……ケイツ殿、どうやら私は貴殿を誤解していたらしい」
モット伯は一人、妄想の海の中へ沈んでいく。
「? ああ、理解してくれたのならば幸いだ。それでメイドの少女は」
「ああ、いいとも。この人形に比べれば惜しくはない。連れて行きたまえ」
「ご理解いただけて感謝する」
「ああ、待ちたまえ。ケイツ殿、この足の部分が何とかならんかね?」
「相似大系に掛かれば人形の修復など容易い」
そういってケイツは不自然に折れ曲がった人形の足を直した。
そうすることによって完全な輝きを取り戻した人形に、モット伯はすっかり虜になった。
別室で待機しているシエスタの下へとケイツは向かう。
背後で繰り広げられる阿鼻叫喚の地獄の騒ぎは耳にすら入ってこなかった。
「ケイツさん……」
「お前は解放される。学園に戻るぞ」
ケイツの言葉にシエスタは表情を変えずただ涙をこぼした。
感情は遅れてやってきた。止め処も無い涙を拭い「はい」と答える。
「ケイツさん、ありがとうございました」
「いや、礼を言うのは私のほうだ」
こうしてケイツの平和な魔法学院の日常は元に戻った。
かけたパズルのピースを取り戻し、ケイツの胸に灯った光は『誇り』というものだとその日初めて理解した。
「……そういえば、ケイツさん。さっき一度だけ、私の事を名前で呼んでくれましたね? 嬉しかったです」
「……覚えていない」