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あかりちゃんとでぇと(前編)

 土曜日の夜といえば、高校生にとっては貴重な安息の時間です。翌日は日曜日、という安心感と開放感が心地よい、まさに天国の時間と言えるかもしれませんね。
 さて、その土曜日の夜、ここ、神岸家のバスルームからは、浮かれきった鼻歌が聞こえてくるのでした。
「るんるんるるーん、るるーるるるー」
 その歌の主は、言うまでもなく神岸家の一人娘、あかりちゃんです。
 ちゃぷん
 お湯に体を沈めて、足を伸ばすと、あかりちゃんは湯気でけむった天井を見上げました。
 ……にへらぁ。
 いきなり顔面崩壊してしまうあかりちゃん。
「うふ、うふふ、やだぁ、もう……」
 ぱしゃぱしゃ
 お湯をすくいあげて顔を洗うと、多少は引き締まった顔に……。
 あ、また崩壊しました。

 さて、彼女が何故にお湯に溶けたスライム化しているかといえば……。
 話は、土曜日の朝にさかのぼります。
「浩之ちゃん、おはよう」
「おう」
 近所に住む幼なじみこと藤田浩之くんの家に、今朝もやってきたあかりちゃん。今朝はあかりちゃんがチャイムを鳴らすと、すぐにドアが開いて、浩之くんが顔を出しました。
 ちょっぴり残念なあかりちゃん。だって、あかりちゃんは浩之くんの寝顔を見るのも好きなんです。
「どうした?」
「なんでもないよ、浩之ちゃん。それより、早くしないと遅刻しちゃうよ」
「そだな。おし、ちょっと待っててくれ」
 そう言って、浩之くんは家の中に戻りました。これから超特急で支度をするのですね。
 その間、あかりちゃんは浩之くんの家の玄関でぽぉーっと待っているわけですが……。
(今日は土曜日だから、早く帰れるよね。浩之ちゃんと一緒に帰れたらいいなぁ。それで、帰りにヤクドナルドによって、軽く何か食べようかって私が言って、そうしたら浩之ちゃんが、お前が食べたいな、なんて……。きゃぁ、やだやだぁ。で、でも私はもう浩之ちゃんのものだし……。きゃ、私ったら……)
 あかりちゃん、何を思い出したんでしょう? 真っ赤になって、ほっぺたを両手でおさえてやんやんと首を振っています。
「……お前、何をしてんだ?」
「え? あ、ひ、浩之ちゃん? ご飯食べた?」
 急に呼びかけられて、とんちんかんな答えをしてしまうあかりちゃん。浩之くんは怪訝そうな顔をします。
「はぁ?」
「あ、えっと、ああーっ! 急がないと遅刻しちゃうよぉ!」
 わざとらしく時計を見て、手をバタバタさせるあかりちゃん。そのまま、浩之くんの家から飛びだしていきました。
「……やれやれ」
 軽くため息をついて肩をすくめる浩之くんでした。
 そんなわけで、二人は仲良く並んで学校に向かっていました。
 公園にさしかかったところで、不意に浩之くんはあかりちゃんに声を掛けました。
「あのさ、あかり」
「え? 何?」
「明日暇か?」
 何げない口調で尋ねる浩之くん。
「明日? え、えっとぉ……」
 口ごもるあかりちゃん。実は昨日、日曜は志保ちゃんと買い物にいく約束をしていたのでした。
 そんなあかりちゃんの様子を見て、浩之くんは手を軽く振りました。
「いや、用事があるならいいんだ」
 その瞬間、あかりちゃんは明日の全ての予定をキャンセルしました。
「ううん、暇だよ」
(ごめんね、志保ちゃん。私は愛に生きるのっ!)
「そっか。それじゃ、動物園に行かないか?」
 あさっての方を見ながら、さりげなく言う浩之くん。おや、首筋が赤くなってますねぇ。
「え?」
「嫌なら別にいいんだけどさ」
「そ、そんなことないよ」
「よし、それじゃ決まりだな」
 そう言うと、にこっと笑う浩之くん。その微笑みを見て、あかりちゃんはまたぽぉ〜っとしてしまいました。
(浩之ちゃん……やっぱり、好き、好き、大好き!)
「もしもし、お〜い、あかりさ〜ん? 遅刻しちゃうぞぉ〜」
 その場に立ち止まってぼぉーっとしてしまったあかりちゃんの前で、浩之くんはひらひらと手を振ってみましたが、何の反応もありません。
「ったく、ぼーっとしやがってよぉ。ほら、行くぞ!」
 きゅ
「あ」
 浩之くんは、あかりちゃんの右手を掴むと、駆け出しました。
「ひ、浩之ちゃん……」
「なんだ?」
「……なんでもない」
 そう言いながら、あかりちゃんは浩之くんの手をきゅっと握り返すのでした。
 こうして手を繋いで登校する二人は、この後志保ちゃんにその現場を見られてしまって、さんざんからかわれてしまうのでした。
「うふ、うふ、うふふふふ」
 半分お湯に沈み込みながら、幸せ一杯のあかりちゃん。お顔がにやけちゃうのも無理はないですね。
 だって……。
(初めてのデートなんだもん。私と浩之ちゃんが、ちゃんと恋人同士になってから初めての、ね!)
 心の中で呟いてから、あかりちゃんはさらに真っ赤になってしまいました。
(やだ、もう。ちゃんと……なんてぇ。もうやんやんやんやん)
 ……いったい何を想像したんでしょうね。
「ぶぇっくしょい!」
 ちょうど自分の部屋で雑誌を読んでいた浩之くんは、盛大なくしゃみをして、辺りを見回しました。
「畜生、誰か噂してやがるな? 志保のやつか?」

−後編へ続く−

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