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それはそよ風のごとく 第28話
 FIGHT!

「始めっ!!」
 審判の声が、静まりかえった試合場に響いた。
 とうとう、この時が来た。
 葵ちゃんがずっと憧れ、目標にしていた綾香。その綾香と、エクストリームではなく空手ではあるが、拳を交える時が来たのだ。
 勝つにしろ負けるにしろ、悔いが残らないように戦えればいい。
 そんな殊勝な考えじゃダメだ。
 戦う以上は勝つつもりで戦えよ、葵ちゃん。綾香は、そんなに甘い相手じゃないぞ。
 俺は、無意識のうちに拳を握りしめ、2人を見つめていた。

 最初に動いたのは綾香だった。軽いフェイントの右フックから左右のコンビネーション。
 だが、葵ちゃんはそれをダッキングやスウェイでかわす。
 うん、相手がよく見えてるな。
 とりあえず、緊張で動きが硬いということもないようだ。
 俺がほっと一息つこうとしたとき、綾香がすっと間合いを取った。
 何か仕掛けるのか? いや、まだ始まったばかりだし……。
 と、それを追うように、葵ちゃんが間合いを詰めた。そして、正面から中段蹴り。
 綾香はそれを、両腕を交差させてブロックした。
 葵ちゃんが、ほんの一瞬だが、意外そうな顔をしたのが判った。俺も意外だった。
「受けた?」
 思わず口をついて出た言葉に、あかりが反応した。
「なにか変なの?」
「……ああ。綾香なら、あれはかわすはずだ」
 続いて左右のコンビネーションを仕掛ける葵ちゃんを見つめながら、俺は呟いた。
 葵ちゃんは、どっちかと言えば足技が得意だ。身体が小柄な分パンチ力では劣るが、その分軽快なフットワークとしなやかな身体のバネを利かせた蹴りを持っている。
 その蹴りは、たとえブロックしたとしても、その上から相手の体力を容赦なく奪うほどの力を持つ。それを綾香はよく知ってるはずだ。
 その綾香が、何でもない蹴りをブロックしたとは……。
「やっぱり、動きが鈍ってるか?」
「左様でございますな」
 腕組みして試合を見守っているセバスチャンが頷いた。
「これまでの連戦、そして先ほどの坂下殿との試合。綾香様は予想以上に疲れておられる」
「……なら……」
 俺は、「ラッシュだ」と叫びかけて、危うく思いとどまった。
 まだ早い。さっきの坂下も、ラッシュをかけるタイミングを誤って負けたんだ。
 それに……。
 綾香は、まだ笑みを浮かべていた。
 傍目には、葵ちゃんの攻勢に、守りを固めているだけのように見える綾香だが、その唇は微かに微笑んでいた。
 葵ちゃんが、攻め疲れたようにすっと間合いを取る。
 やばい! まさか、綾香のやつ、このタイミングを……。
 俺がそう思った瞬間、綾香が床を蹴った。高々と空を舞い、一気に葵ちゃんの左前に着地、そのまま身を低くしてローキックを繰り出す。
 バシィッ
「入ったっ!?」
 軸足になる左足を払われるような形になり、葵ちゃんの身体が大きく揺らいだ。
 綾香は、今度は右に跳んでいた。とんでもない瞬発力だ。
「ああっ!」
 スパァン
 身体を反転させての回し蹴りが、今度は葵ちゃんの右胴に突き刺さる。
 いや、葵ちゃんはかろうじて右腕でそれをブロックしていた。でも、ブロックの上からでもかなり効いているようで、表情をゆがめた。
 そのまま、蹴られた勢いも使ってとびすさる葵ちゃん。だが、バランスは崩れてる。
 今ラッシュを仕掛けられたら、保たない!
 だが、綾香も後退する葵ちゃんを追わなかった。その場で立ち止まり、姿勢を直している。
 ……やっぱり、追撃する力が残ってないのか?
 だとすると、綾香はカウンターに徹してくる気だろうか?
 葵ちゃんは、一瞬力を抜いてから、気合いを入れ直して身構えた。
 よし。まだいけそうだな。
 だが……。
 綾香ほどの試合巧者が“待ち”に入ったとしたら、迂闊に攻めるわけにもいかないぞ。
 どうするんだ?
「……」
 その時、芹香先輩が微かに呟いた。
「え? 綾香さんは攻めますって? でも……」
 先輩は、俺に視線を向けて、微笑んだ。
「綾香さんですからって?」
 と、あかりが悲鳴のような声を上げた。
「浩之ちゃんっ!」
 俺が慌てて試合場に視線を戻したとき、綾香が仕掛けていた。
 とんでもないスピードの右の正拳突きだった。その並はずれた脚力を利して、相手の間合いの外から一気に飛び込んでの正拳突き。
「葵ちゃんっ!!」
 バスッ
 鈍い音がここまで聞こえてきたような気がした。葵ちゃんが、身体をくの字に折る。
 だが……。
「やはり、見切られてますな」
 セバスチャンが静かに言った。
 綾香の右手首を、葵ちゃんは両腕で掴んでいた。そうして拳を止めて、身体をくの字に折ってかわしていたのだ。
 一拍置いて、その手を離してさらに間合いを離す葵ちゃん。
 確かに、腕を掴んでたらそのまま投げる手もあるが、手首じゃ掴んでもしょうがない。
 と、一瞬、ほんの一瞬だが、葵ちゃんが俺を見た。
 青い瞳が、俺の視線と交錯する。
 その瞬間、俺は悟った。
「葵ちゃん、勝負をかける気だな」
「え?」
 あかりが聞き返す。
 その瞬間、葵ちゃんが床を蹴った。そのままラッシュを仕掛ける。
 早い!
 坂下のラッシュのときはカウンターを仕掛けた綾香だが、今度はその余裕もなく、ブロックするのが精一杯のようだ。しかも、何発かはそのブロックをかいくぐってヒットしている。
 綾香の唇から、笑みが消えていた。
「よしっ!」
 俺は思わず立ち上がって、叫んだ。
「決めろぉっ!!」
「はぁぁっっ!!」
 葵ちゃんが、コマのように身体を反転させながら、蹴りを放つ。右、さらに身体を回転させて左、そして相手にヒットした反動を利用して身体をもう一度反転させて、フィニッシュの右!
 バシバシッ
 葵ちゃんが練習に練習を重ねてきて、ついに会得した連続蹴りが! そう、その名もっ!
「決まったっ! 炎の三段蹴りっ!!」
「……」
 先輩の微かな声が聞こえた。俺は思わず先輩に向き直る。
「まだですって? でも現に……」
「浩之ちゃんっ!」
 あかりの声に俺は試合場に視線を戻して、言葉を失った。
「……入ってなかったのか?」
 綾香はまだ立っていた。両腕はしっかりとガードを固めたままだ。とすると、今の炎の三段蹴りは全てブロックされていたのか!? だとすると、大技を繰り出した直後の今が!
 俺がそう悟った、まさにその瞬間、綾香がふわりと跳んだ。
「なっ!!」
 葵ちゃんに、綾香の蹴りが襲いかかった。正面からの跳び膝蹴り。
「でも、それくらいならっ!」
 俺の叫び通りに、葵ちゃんはとっさに両腕でそれをブロックする。
 だが。
 先輩が「まだです」と呟いたのが聞こえた。
 綾香はその勢いそのままに、さらに反対側の足で床を蹴り、そのまま大きく振り上げて振り下ろす。
 ……踵落とし。
 とっさに頭を右に振り、直撃はまぬがれたものの、肩に重い一撃を受けてふらつく葵ちゃん。
 綾香は……もう次の動作に入ってる。踵落としをした足をそのまま大きく横に振り、コマのように身体を一回転させての、高い打点の水平蹴り。
 かろうじて、葵ちゃんはブロックしたが、体重を十分に乗せた蹴りの勢いに押されて、ブロックが下がる。
 まずいっ! 上体ががら空きだっ!
 俺が心の中で悲鳴を上げた次の瞬間、綾香は身体を反転させて、後ろ回し蹴りを放っていた。
 それがちょうど延髄蹴りのような形になり、葵ちゃんはそのまま床に叩きつけられ、転がった。
「ああっ!!」
 あかりが悲鳴を上げる。
 審判が手を上げる。
「一本っ! それまでっ!」
 綾香は、大きく深呼吸してから、葵に歩み寄って、引っ張り起こした。
 どうやら、葵ちゃんも怪我はしてないようだな。よかった。……でも……。
 ……負けたな。
 俺は、自分が負けたように、がっくりと床に膝をついた。大きく息を吐き出す。
「負けちまった……」
「……浩之ちゃん……」
 あかりが心配そうに、俺の脇に屈み込んだ。
「確かに、勝負は松原殿の負けでございますが……」
 セバスチャンが唸った。
「綾香様にあれを使わせるとは……」
「あれって、最後の四段蹴りか?」
 あかりに「大丈夫」と手を振って見せてから、俺は聞き返した。
「はい。綾香様はご自分で疾風四段蹴りと呼んでおります。あの技を使うのは、かつて、エクストリームで頂点を極めたあの試合以来ですな」
 セバスチャンは感心したように、綾香に手を引かれて起き上がる葵ちゃんを眺めた。
「それに、その前に見せた三段蹴り。さらに申せば……」
 セバスチャンは、試合時間を示すカウンターを指さした。俺もそれを見て、はっとする。
 1:01
「綾香相手に1分保ったのか」
 深々と頷き、セバスチャンは言った。
「この先、楽しみな逸材でございますな。私めも血が騒ぎますわい」
 その目は、かつてストリートファイターとして現役だった頃の目に戻っているようだった。
「まぁな」
 俺はにやりと笑った。
「なにせ、俺の後輩だからな」
 と、会場がどよめいた。
 何かと思って試合場の方を見ると、次の試合が始まって早々に、綾香がうちの学校の副将に投げられていた。審判が一本を告げる。
 と、投げつけられた綾香が、さしてダメージを受けた様子もなくピョンと飛び起きる。それから、ばつが悪そうに頭を掻くと、俺達の方をちらっと見て、舌を出してみせた。
「……あのやろ」
 思わず、俺は苦笑していた。予想通りとは言え、本当にけれんみの多い奴である。
 それから30分後。
「いやー、まいったまいった。さすがにちょっと疲れたわ〜」
 私服に着替えた綾香が、笑いながら俺達の席にやってきた。
 芹香先輩が「ご苦労様」とねぎらい、セリオとマルチが「お疲れさまでした」と揃って頭を下げる。
 それに答えてから、綾香は俺の隣りに腰掛けて、大きく伸びをした。
「ふーっ。それにしても、好恵もなかなか強かったけど、葵があそこまで強くなってるとはね〜」
「何言ってやがる」
 俺は苦笑した。
「てめぇこそ、あんな奥義隠してたくせに」
「あははっ」
 笑って頭を掻くと、綾香は俺の肩をトンと叩いた。
「ま、葵があそこまで強くなったのも、あんたのおかげかもね」
「ばーか。葵ちゃんは俺がいなくても、ちゃんと強くなってたぜ」
 俺がそう言うと、綾香は肩をすくめた。
「ま、そういうことにしときましょうか」
「そういうことにしとけ」
 俺も苦笑した。それから立ち上がる。
「んじゃな」
「あら、もう帰るの?」
「ああ。見るものも見たしな」
 そう言って、マルチ達に手を振る。
「じゃな、マルチ、セリオ」
「はいっ。お疲れさまでしたっ!」
「ごきげんよう」
 2人のそれぞれの挨拶を受けてから、先輩にも挨拶する。
「それから、先輩、また学校でな」
「……」
 先輩はこくんと頷いた。俺はあかりの頭をぽんと叩く。
「んじゃ、行こうぜ」
「あっ、ちょっと待ってよ、浩之ちゃんっ」
 あかりはあたふたと皆にお辞儀をしてから、俺の後を追いかけてきた。
 アリーナを出がけにちらっと振り返ると、綾香と先輩が何か楽しそうに話をしていた。
 やっぱり、ああいうところは、仲が良い姉妹だな。
「……浩之ちゃん?」
 通路に出たあかりが振り返って声を掛けてきた。俺は向き直って頷く。
「ああ、今行く」
 通路に出たところで、俺はあかりに訊ねた。
「なぁ、あかり」
「うん、どうしたの?」
「葵ちゃんの残念会を兼ねて、帰りにどこか誘って行こうと思うんだけど、どうだ?」
「あ、それいいね」
 あかりはにこっと笑った。そして俺の腕を掴んだ。
「それに、私に相談してくれたのが嬉しいよ」
「言わないと怒るだろ?」
「それは……そうかも」
 そう言って、あかりはぺろっと舌を出した。
「んじゃ、うちの学校の控え室に行ってみるか」
「そうだね」
 あかりも頷いた。
 トントン
「失礼します」
 ノックをしてドアを開けると、控え室の中は、空手部員だけじゃなく大勢のうちの生徒でごった返していた。
「な、なんだこりゃ?」
「あら、藤田くんに神岸さん」
 私服に着替えた坂下が俺達に気付いて声をかけてきた。
 俺は部屋を見回して訊ねた。
「なんだこりゃ?」
「ま、一応、県大会予選は優勝だったからね。そのお祝いってところでしょ」
 いつも通り、クールに答える坂下。
「なんだよ。あんまり嬉しくなさそうだな」
「結局、綾香には負けたからね」
 坂下は肩をすくめた。
 俺はにやりと笑った。
「綾香に勝てたら、それをいいことに葵ちゃんを空手に呼び戻そうとか思ってたんじゃないのか? 残念だったな」
「ちょっと浩之ちゃん。坂下さんに失礼だよ」
 袖を引いて俺に言うと、あかりは坂下に謝る。
「ごめんね、坂下さん」
「別に気にしてないよ。それに、もう葵は関係ない。あたしと綾香の問題だからね」
 坂下は、宙を睨むようにして、言った。
「次はいつになるか判らないけど、でも、その時こそ、あたしは綾香を倒す。もちろん、空手でね」
 最後はポンと自分の腕を叩いて、坂下は笑った。
 俺は軽く頷いた。
「ああ。でもその前に、綾香を倒すのは葵ちゃんだからな」
「その松原さんを捜してるんだけど、坂下さん知らない?」
 タイミング良くあかりが口を挟む。言われてみると、控え室に葵ちゃんの姿は無かった。
「葵ならもう帰ったみたいよ」
「ありゃ」
 俺とあかりは顔を見合わせて苦笑した。
「それじゃしょうがないな。俺達も帰るか」
「そうだね。それじゃ坂下さん、試合ご苦労様」
「……ありがと」
 あかりに礼を言う坂下は、初めて少し照れくさそうに見えた。

《続く》

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あとがき
 まだ葵ちゃんでは綾香に勝てないと思います。以上、解説終わり(笑)

 もっと、もっと、心のこもった、あたたかい、熱い作品を描けるようになりたい。
 読んでくれる人の胸の奥に届く作品を描けるようになりたい。

田中ユタカ「人魚姫のキス」後書きより


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