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White Album Short Story #3
弁護士 観月マナ 1
殺意のシャンパングラス

トルルルル、トルルルル
電話のベルが鳴りだした。俺は反射的に、事務室の壁にかかっている時計を見上げた。
午後2時過ぎ。
「藤井さん、電話とって。今、ちょっと手が離せないのっ!」
奥の資料室から、マナちゃんの声が聞こえてきた。多分、また資料と格闘してるんだろう。
俺は、キングファイルの山と格闘するマナちゃんを想像して、思わず少し笑ってから、受話器を取った。
「はい、お待たせいたしました。観月法律相談所です」
「申しわけありません。わたくし、篠塚ともうしますが、観月弁護士はいらっしゃいますか?」
怜悧な刃物のような声が、俺の耳を打った。俺は思わず受話器を取り落としかけた。
この声、忘れようったって忘れられない。
「弥生さん……?」
「はい、そうです」
あくまでも静かな声。
でも、弥生さんがマナちゃんに何の用だろう?
「あ、あの……」
「申しわけありませんが、観月弁護士本人にしか、用件はお話しできません。それに、世間話をする暇もございません」
あくまでも静かに、理路整然と言う弥生さん。
昔とちっとも変わってない。
多分、電話を受けているのが俺、藤井冬弥だってことも、先刻承知の上なんだろう。
「少々お待ち下さい」
俺はそう言ってから、保留ボタンを押して、資料室に駆け込んだ。
「マナちゃん、でん……」
「馬鹿ぁっ!!」
叫び声と一緒に、キングファイルが飛んできた。俺はとっさにのけ反ってそれをかわすと、状況を了解した。
マナちゃんは、スカート脱ぎかけ、上半身にはブラだけというあられもない姿だったのだ。どうやら、着替えていたところらしい。
この事務所、事務室券応接室と、この資料室の2部屋しかないのだ。従って、時間がないときなどはこの資料室が更衣室代わりに使われることもあるわけだ。
ちなみに、マナちゃんと初めて出会ってからもう8年もたつが、小柄で童顔の彼女は、未だに高校生に見られることもある。こないだなんて、繁華街で補導されかけたし。
とと、そんなこと思い出してる場合じゃない。
俺はくるっとマナちゃんに背中を向けて、大声で言った。
「弥生さんから電話なんだ」
「弥生さん……?」
上着を着ながら(音による俺の推測だが)、マナちゃんが聞き返した。
「マナちゃんは知らないかな? 由綺のマネージャーの篠塚弥生さん」
「うーん。会ったことあったかなぁ? あ、でもお姉ちゃんに話はよく聞くけど……。その人から?」
「うん。マナちゃんに話があるみたいだ。それも、弁護士として」
「弁護士として? 権利問題かなにかあったのかな? お姉ちゃんが、どこか別のレコード会社に移籍することになって、もめてるとか」
そう言いながら、マナちゃんは俺の隣をすり抜けて、事務室に駆け戻った。
と、振り返って一言。
「そうそう。私の着替えを覗いた罰よ。そこ、片づけておいて」
「……はいはい」
俺は肯いて、着替えやら資料やらが散らばった資料室を見回した。
「なっ!!」
キングファイルを拾い上げて、棚に戻そうとしていた俺は、隣の事務室から聞こえてきたマナちゃんの声に、思わず耳をそばだてた。
「どうして!? ……そうですか。でも……。あ、そうじゃないです。……ええ。それじゃ、すぐにお伺い……。え? 車で迎えに……。あ、はい。判ってます。それでは、すぐに用意しますので」
チン
電話を切る音がした。俺はキングファイルを抱えたまま、事務室の方に顔を出した。
「マナちゃん……?」
「すぐに行くわよ!」
そう言うと、マナちゃんは机の抽斗から数枚の書類を取りだして、なにやら書くと、すごい勢いでハンコをバンバンっと押した。
「ど、どこへ?」
「警察よ、警察! ったく、何考えてるのよ、ぼんくら警察はっ!!」
そう言いながら、その書類を書類袋に突っ込むマナちゃん。
「?」
全然話が見えない。どうして弥生さんの電話で警察なんだ?
俺が戸惑っていると、ドアに向かって歩きかけたマナちゃんが振り返った。そして、もの凄い勢いで地団駄を踏みながら叫ぶ。
「あーもう! さっさとしなさいよっ!」
「さっさとしなさいよって言われても……」
「いーから、来なさい! 説明なら途中でしてあげるわっ!」
そう言いながら、マナちゃんは俺の耳を引っ張った。
「あ、痛ててて、助けてマナちゃん!」
「それからっ。外に出たら、マナちゃんじゃなくて、観月先生だからね!!」
「わかった、わかったから、その手を離してくれぇっ!」
事務所のあるビルから俺達が出てくるのと、通りの向こうからBMWが走ってきて、俺達の前で止まるのとは、ほとんど同時だった。
左のドアが開いて、弥生さんが降りてくると、マナちゃんに軽く会釈した。それから、後ろのドアを開ける。
「乗って下さい。警察まで行きます」
「うん」
マナちゃんは肯いた。それから振り返った。
「ちょっと藤井さん! さっさと来なさい」
「はいはい」
俺は肩をすくめると、鞄を片手にマナちゃんの後ろから車に乗り込みかけた。
ブロロローーーッ
「わぁ!」
俺がドアを閉めるか閉めないかの間に、車は急発進した。俺はようやくドアをロックして、弥生さんに尋ねた。
「何があったの?」
「……」
無言だ。俺には関係ないってことか。
マナちゃんも見事に俺を無視して、弥生さんに尋ねた。
「で、おねえ……、由綺さんは?」
「おそらく、取調べを受けている最中だと思います」
「取調べ!?」
素っ頓狂な声を上げた俺の足を、マナちゃんは問答無用で踏みつけた。
「痛てぇっ!」
「馬鹿。そんな大声上げるんじゃないの」
マナちゃんはちらっと、前の運転席を見た。弥生さんは、表情を変えずに、ステアリングを握っている。
いや、心なしか、その表情が硬いような気がした。
何があったんだ?
どうして、由綺が警察で取調べを受けて、弁護士のマナちゃんがそこに行かないといけないんだ? これじゃまるで……。
考え掛けて、俺は慌てて首を振った。そんな馬鹿なことがあるもんか。
「まだ取り調べ中ですから、ここで待ってて下さい」
若い刑事が、そう言って俺達を通したのは、取調べ室が窓から見える部屋だった。ドラマなんかで見たことがある。この窓はマジックミラーになってて、こっちからは見えるけど、取調室からは見えないようになってるんだ。
取調室には、簡単な机と椅子があり、そこで2人の刑事と向き合ってるのは……
「由綺……」
俺は呟いていた。
由綺は、真っ青な、今にも倒れそうな顔色をしていた。机の上に置いた手も、小刻みに震えている。
刑事の声が聞こえた。
「もう一度、聞こうか。君と中川巧の関係は?」
なかがわたくみ?
それって確か、最近人気の男性アイドルじゃなかったか? 歳はたしか18……っていっても、実際はどうだか知らないけど。
「中川さんは、お友だちの一人です。それほど親しいわけじゃありませんでしたけど、お仕事の後に何回かお食事したことがあるくらいで……」
由綺が、今にも消えそうな声で答える。
「それほど親しくはなかった、というわけだね」
「はい……」
「それじゃ、今日のパーティーに彼が来てるってことは知っていた?」
「知りません……でした」
パーティー?
俺は弥生さんに視線を送ったが、弥生さんはというと、窓の向こうの由綺をじっと見つめていて、俺の視線に気付く様子もない。
「それじゃ、会場で初めて知った、と」
コクンとうなずく由綺。
「それでは、その時の様子をもう一度、説明してくれないかねぇ」
由綺の正面に座っている刑事が、扇子でぱたぱたと自分をあおぎながら言った。
「パーティーが始まって1時間くらいした頃だと思います……」
「詳しい時刻は?」
記録を取りながら、もう一人の刑事が訊ねる。由綺は力なく首を振った。
「わかりません。時計を見てませんでしたから」
「で?」
最初の刑事がうながした。
「はい。中川さんが、喉が乾いたな、と言うのを聞いて、私、近くにちょうどシャンパングラスがあったから、シャンパンをついであげて、どうぞって渡したんです。中川さんは、「ありがとう」って受け取って、飲み干した途端に……」
「倒れた、と」
「……」
ようやく俺にも話が見えてきた。
「そのシャンパンは?」
「判りません……」
「これだね」
刑事は、脇にあった、ビニール袋に包まれたシャンパンの瓶を見せた。おお、ドンペリだ。
由綺は小首を傾げてそれを見ていたが、うなずいた。
「そうだ、と思います……」
「そして、シャンパングラスは……っと。彼が落として割っちまって、この有様だけどね」
もう一つのビニール袋を指す刑事。中にはガラスの破片らしいものが見えた。
「……」
「さて、もう一度だけ、聞かせてもらうよ。彼とは本当に、それほど親しくなかったの?」
「……はい」
「へぇ。彼の友人によると、最近彼は、由綺さんに結構熱を上げてたっていうけどねぇ」
由綺は、“え?”という顔をした。
「そんな……」
「まぁ、いいや。お迎えも来てるらしいし、今日はこれくらいにしておこうかね」
刑事は立ち上がった。そして、マジックミラーごしに、一瞬俺達の方に視線を送った。
由綺は、座ったまま俯いていた。そして、かすれるような声で訊ねた。
「あの、私、逮捕されちゃうんですか……?」
「彼を殺したのが君なら、逮捕しちゃうけどね。そうでなければ逮捕はしないよ。重要参考人には違いないけどね」
刑事はそれだけ言うと、取調室を出て行った。そして、俺達の部屋にノックの音がして、その刑事が入ってきた。
「お待たせしました。えっと……篠原さんでしたっけ?」
「篠塚です」
弥生さんは、スーツのポケットから名刺を出して、渡した。刑事は頭を掻きながら、それを受け取った。
「あ、こりゃどうも。へぇ、弥生さんですか」
「取り調べは終わったんですね? それでは、森川は連れて帰ります」
「あ、ちょっと……」
「あとは、そちらとお話になっていただけますか? 観月さん、詳細は後ほど報告してください」
「ええ」
軽くうなずくマナちゃん。
「それでは、失礼します」
それだけ言うと、弥生さんはさっと部屋を出ていってしまった。刑事は「まいったな、こりゃ」と呟きながら、マナちゃんの方に向き直った。
「それで、あなたは……」
「私は観月マナ。弁護士です」
マナちゃんはバッグから名刺を出すと、渡した。刑事はその名刺を受け取ると、「ほぉ」と言いたげな表情でマナちゃんに視線を向けた。
「こりゃまたお若く見えますなぁ」
まずい。
マナちゃんがムッとした顔をしたので、俺は内心慌てた。
以前、弁護士の会合の席で、マナちゃんは大御所と呼ばれる偉い弁護士さんの臑を蹴っ飛ばして、「品格に欠ける」と弁護士会を除名されかけたことがあった。その時は、どういうわけかその大御所がマナちゃんのことを逆に気に入ってしまい、不問に付してもらったんだけど。
ここで刑事の臑を蹴飛ばしても、ろくなことはないだろう。
「それで、あなたが森川由綺の弁護人ということですか?」
「……ええ、そうです」
どうやら蹴るのはやめたらしい。俺はホッと胸をなで下ろした。
刑事は、ポケットからよれよれの警察手帳を出して、開いて見せた。
「ども。捜査一課の長瀬です。一応、このヤマの担当ってことになってます」
「早速ですけど、お時間はよろしいでしょうか? 色々と伺いたいことがありますので」
「そりゃ構いませんけど……」
そう言いながら、長瀬刑事は、俺の方に視線をちらっと向けた。
マナちゃんも俺の方を見て、長瀬刑事に言った。
「ああ、こっちは助手の藤井です」
「藤井冬弥です」
俺は頭を下げた。
「ふーん。あ〜、なるほどね。ふむふむ」
俺とマナちゃんを見比べて、長瀬刑事は何か得心したように、2、3度うなずいた。
マナちゃんはかぁっと赤くなった。
「な、何を想像してるんですか! そんなのじゃないわ、藤井さんは助手よ助手。大体、彼氏にするんならもっといい男を選ぶに決まってるでしょ! 何を言ってるのよほんとに!」
やばい。暴走モード入ってる。
「ちょ、ちょっとマ……、じゃなくて、観月先生!」
俺が割って入ると、マナちゃんは我に返ったように、きょろきょろと左右を見て、かぁっとさらに赤くなると、いきなり俺の臑を蹴飛ばした。
「痛ってぇーーーーっ」
激痛に、一本足でピョンピョン跳ねている俺を無視して、マナちゃんは咳払いをひとつ。
「コホン」
「あ、こりゃ失礼。そうだねぇ……、今なら、会議室が空いてるかな?」
面白そうに俺達を眺めていた長瀬刑事は、そう呟きながら、部屋から出た。その後に付いていこうとして、マナちゃんは振り返った。
「藤井さん、さっさと行くわよ!」
俺は、なんだか理不尽なものを感じながら、マナちゃんの後を追った。その途中でちらっと取調室を覗いてみたが、由綺はもう弥生さんが連れて行ったみたいで、もぬけの空だった。
to be continued

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