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White Album Short Story #3
弁護士 観月マナ 1

殺意のシャンパングラス

 承前。

 どれくらい、たっただろうか?
「……」
 いつしか、由綺は黙って俺の胸に顔を預けていた。
「……冬弥くんの、心臓の音が聞こえる……」
「……うん」
 俺は肯くと、固く抱いていた腕を、少しだけ弛めた。
「冬弥くん」
 由綺は、顔を上げて、困ったような表情を浮かべた。
「あれ? でも、どうして、冬弥くんが、ここにいるの?」
 ああ、そうか。由綺は事件が起きて、直接警察に引っ張って行かれて、直接ここに戻ってきたんだもんな。
 それにしても、今頃それに気が付く辺りが、由綺がどれくらい動揺してたかを示してる。
 俺は、それが判ったから、優しく言った。
「弥生さんから、マナちゃんに由綺の弁護の依頼がきたんだよ。俺はそのマナちゃんの手伝い」
「マナちゃんに……。そうかぁ、マナちゃん、ちゃんと弁護士さん、やってるんだね」
「ああ」
 俺は肯いた。
「冬弥くんも……」
「ちゃんとやってるよ。心配するなって」
 そう答えて、俺は由綺のおでこを軽くつついた。
「ふふ、そうだね」
 由綺は微かに微笑んだ。それから、身体を起こす。
「これ以上は、マナちゃんに怒られちゃうから」
「俺は、構わないけどね」
「えっ?」
 由綺は俺をじっと見ると、真面目な顔でブツブツ言いはじめた。
「でも、やっぱり冬弥くんとマナちゃんは付き合ってるんだし、そういうのって良くないと思うんだけど。それに、私は冬弥くんをマナちゃんに譲ったんだし」
「何、マジになってるんだよ」
 俺は笑って、由綺のおでこを軽く指で弾いた。そして、立ち上がる。
「さて、俺はそろそろ……」
「冬弥くん……」
 由綺の声に、俺は振り返った。
 由綺は、ベッドの上に座ったまま、自分を抱きしめていた。
「……寒いの、冬弥くん……」
「由綺……」
「今夜だけでいいの……。明日になれば、きっと……。だから……」
「……わかった」
 俺は、由綺の隣に座った。
「今夜だけ、時間を戻そう。あの時に……」
 由綺は、それ以上何も言わずに、俺の胸に飛び込んできた。
 その柔らかい身体を抱きしめながら、俺はゆっくりと身体をベッドに倒した。
 そして、思った。
 あの頃の俺が今の俺だったら、俺と由綺は別れることはなかったのかもしれないな、と……。
「冬弥……くん」
 由綺は、俺の身体に腕を回して、ぎゅっと抱き寄せた。そして、心もち上を向いて、目を閉じる。
 俺はその柔らかな唇に、そっと自分の唇を押しつけた。

 翌朝。
 俺が定時に事務所のドアを開けると、来客用のソファにマナちゃんが仏頂面で座っていた。
「あ、お、おはよう、マナちゃん」
 おそるおそる声を掛けると、マナちゃんはじろっと俺を見上げて、言った。
「藤井さん……。昨日と同じ服ね」
 ドキィッ
「そ、そんなことないよ、全然まったくちゃんと着替えてますって! あはははは」
 俺は慌てて言った。
 マナちゃんは、むすっとしたまま言った。
「Yシャツの襟」
「えり?」
「口紅が付いてる」
「嘘ぉっ!!」
 俺は慌てて窓に駆け寄ると、ガラスに自分を映してみた。
 後ろから、氷点下になったマナちゃんの声がする。
「嘘よ」
「あ……」
 誘導尋問に引っかかってしまった。俺はうろたえながら振り返った。
「えっと、それはそれで……」
 トルルルル、トルルルル、トルルルル
 タイミングよく、電話のベルが鳴りだした。マナちゃんは俺を睨んだまま、立ち上がると電話を取る。
「はい、観月法律相談所」
 うーむ。声が既に不機嫌だ。
「あ……。聞きたくない。藤井さんならいます。今代わります」
 そう言うと、マナちゃんは俺に受話器を向けて言った。
「電話」
「え? 俺に?」
 マナちゃんはそれ以上は何も言わずに、受話器を机に置いて、資料室に入っていった。
 俺は受話器を取った。後ろから、ドアのバタンと閉まる音が大きく聞こえる。
「もしもし、お電話代わりました。藤井です」
「冬弥くん?」
「由綺か?」
「……マナちゃん、怒ってるね。ど、どうしよう?」
「由綺のせいじゃないよ。それに、マナちゃんは、ああ見えて公私の区別は付ける……と思うから」
「で、でも、あのね、その、私、その、えっと、あのあの……」
 何が言いたいのか全然判らない。もっとも、由綺の方も何を言えばいいのか判らないんだろう。
「とにかくマナちゃんは問題ないって。それよりも、どうしたの?」
 俺は聞き返した。由綺は、なぜかさらに慌てているらしい。
「えっとね、それがあのあのあの」
「?」
「そのね、あのね、それがその……」
 しまいには小さな声になってしまった。俺は、耳を受話器に近づけた。
「冬弥くん……。ありがとう」
 小さな声で、由綺は言った。多分、受話器の向こうで真っ赤になってるんだろう。
 俺はわざと明るい声で答えた。
「なぁに、おやすいご用ですって。また希望があればなんなりと」
「もう! 昨日だけだよ!」
 照れたような怒ったような声を上げる由綺。
「あははは」
 とりあえず、少しは元気になったようだ。俺は安心して笑うと、訊ねた。
「今日はどうするの?」
「うん、一日ゆっくりする。こんな形だけど、せっかくお休み取れたんだもん。のんびりするね」
「ああ、そうだな。一緒にいられればいいんだけど……」
「ううん。これ以上、冬弥くんに甘えられないよ。ふふっ」
 そう言って笑う由綺。強くなったな……。
「ま、なにかあればすぐに連絡してくれよな」
「うん、そうする。それじゃ」
 ピッ
 電話を切ると、俺は受話器を元に戻すと、ポケットに手を突っ込んで口笛を吹いた。
「……機嫌良さそうね」
 いつの間にか、机の脇に屈み込んでいたマナちゃんが、俺をじろぉーっと見上げていた。
「うわぁお! マ、マナちゃん!?」
「観月先生と呼んでよ」
 腕組みして、マナちゃんは立ち上がった。
「え?」
「今後、私とあなたの関係はビジネス上のお付き合いに限定させてもらいます! いーだっ!!」
 思いっ切り歯を剥き出して言うと、マナちゃんはスタスタと部屋を出ていった。
「あの、どちらへ?」
「……ふん」
 一瞬振り向いて俺を睨んでから、マナちゃんはそのまま出ていった。
 とほほ〜。こりゃ……。
「こりゃしばらく納まらないようだな、藤井くん」
「わぁっ!? え、英二さんっ!?」
 いつの間にか、来客用ソファに英二さんが深々と腰掛けて、置いてあった雑誌を読んでいた。こちらを見ようともせず、それでも軽く手を挙げたのは挨拶のつもりなんだろう。
「いつからそこにっ!?」
「君が電話中だし、観月さんは取り込み中のようだったんで、待たせてもらってたんだけどね。とんだ修羅場だな、青年」
「その“青年”って、いい加減にやめてくれませんかねぇ」
 俺はため息混じりに言った。英二さんは軽く笑った。
「すまないな、青年」
 ま、この程度は俺でも予想できた。俺はとっておきの材料を使うことにする。
「理奈ちゃんに言いつけますよ」
「それは困るな」
 英二さんは、笑いを引っこめて深刻そうな表情になった。……もしかして、この人は由綺が殺人犯とされかけていることよりも、理奈ちゃんに嫌われるほうが問題だと思ってるんじゃないだろうか?
 ああ、そうだ。
「そういえば、昨日マナちゃんや弥生さんと作戦会議を開いたんでしょう? どうなりました?」
「作戦会議になんて、なるわけないだろう?」
 英二さんは笑った。
「なにせ、女性陣は心ここにあらず、って状況だったからねぇ。僕は、5分おきに立ち上がる二人を押さえるので精いっぱいだったよ」
「は、はぁ……」
「というわけで、だ。青年、一緒に来てくれないか?」
 英二さんは立ち上がった。
「どこへ、です?」
「作戦会議だよ」
「でも、マナちゃんが……」
「彼女は彼女でわきまえてるさ。ほら、急ぐぞ青年」
 そう言いながら、英二さんは事務所を出ていった。俺は仕方なくその後を追いかけた。
 事務所の鍵を掛けるのを忘れていたことに気付いたのは、英二さんの後に続いて、『エコーズ』のドアをくぐった時だった。
「いらっしゃい……。あれ、冬弥。久しぶりだね」
「あれ? 彰じゃないか。今日はバイトか?」
 『エコーズ』のドアを開けた俺達を出迎えたのは、彰だった。
「まぁ、そんなところ」
 彰の返事を聞き流しながら、俺は店内を見回した。
「相変わらずだな。客がいないじゃないか」
「ほっといてよ」
 彰は口をとがらせた。俺はカウンターの奥にいたマスターにも挨拶して、奥のボックス席で英二さんと向かい合う。
 運ばれてきたブレンドにちょっとだけ口を付けてから、英二さんは居住まいを正した。今まで愉快そうに笑っていた眼鏡の奥の瞳が、真剣な色を帯びる。
「一応マスコミ関係には手を打っておいた。中川巧は、パーティーで急死したってことになっている。今のところ、森川由綺の名前はどこにも出ていない。だが、いつまでも隠し通せるもんじゃない。遅かれ早かれ、起訴されたら明るみに出て、アイドル森川由綺の生命は終わりだ」
「それまでに、由綺の無実を証明しなければならない……というわけですね」
 俺は、思わず生唾を飲み込んでいた。
「そうだ、青年」
 英二さんは、トントンとテーブルの縁を叩きながら、言った。
「しかし、無実を証明しようにも、いかんせん僕は芸術家だからなぁ。何をどうすればいいのか見当もつかないんだ」
「そんな事言われても、俺だって……」
 と言いかけて、俺は不意にひらめいた。振り返って大声で呼ぶ。
「おい、彰! ちょっと来いよ!!」
「なに? まだ仕事中なんだけど……」
「それどころじゃないんだ。いいから、早く」
 不満そうな表情で、彰はやって来た。俺はその彰の首根っこを掴んで、英二さんに言った。
「こいつなら、きっと役に立ちますよ」
「なんだよ、いきなり。僕、力仕事は……」
「誰がADやれって言ったよ? お前の頭を借りたいんだよ」
「あー」
「こらこら、青年。事情くらい説明してやれよ」
「そうだよ。いきなりなんなんだよ」
「由綺のピンチなんだ」
 俺がそう言うと、今まで嫌そうにジタバタしていた彰の動きが止まった。
「どういうこと?」
「説明してやるから、まぁ座れ」
 俺は言うと、英二さんに向き直った。
「英二さんもここの常連ですから、顔くらいは知ってるでしょうけど、一応紹介しときます。七瀬彰っていって、俺の友達で、こう見えてミステリマニアなんですよ」
「ほう? それは心強い」
 英二さんは手を組んだ。それから、彰の顔をじっと見て、肯いた。
「判ってると思うけど、ここからは他言無用だよ」
「……」
 こくんと彰は肯いた。英二さんは、店を見回して、他に客がいないのを確かめてから、事件のことを話しはじめた。
「……というわけなんだ」
 英二さんの理路整然とした事情説明を聞いて、彰は腕組みをしてうなった。
「うーん」
「うーん、じゃなくて、何か言うことはないのかよ?」
「聞きたいことは山のように。ただ……、聞いても答えが正確じゃないとだめだし」
「?」
「例えば、その由綺ちゃんが飲ませたっていうシャンパンは、最初からその場所にあったのか? 後で運び込まれたのか? そして、グラスはどうなのか? 判ります?」
 英二さんに尋ねる彰。うーん、いつものぼーっとした雰囲気が心なしか消えているなぁ。彰のやつ、喜々としてるんじゃないか?
 英二さんは腕を組んで天井を仰いだ。
「僕が直接会場にいたわけじゃないからなぁ」
「由綺に聞きに行くか?」
 俺は提案した。
「あいつなら当事者だし……」
「無理だと思うぞ、青年達」
 英二さんが脇から言った。
「今頃、篠塚女史が鉄壁のガードを張ってるはずだ。昨日あんなことしたからなぁ」
「あんなこと?」
 怪訝そうに俺を見る彰。俺は肩をすくめた。
「ノーコメント」
「まぁ、いいや」
 あっさりと矛先を納めると、彰は英二さんに向き直った。
「それじゃ、他にパーティーに出席した人で、話を聞けそうな人に、心当たりはありますか?」
「ああ」
 英二さんは軽く肯いた。それから、ちらっと時計を見て、言った。
「そろそろここに来るはずだ」
「え?」
 カランカラン
 俺と彰が声を揃えて聞き返した、ちょうどその時、入り口のカウベルが来客を告げた。慌てて彰が立ち上がって声を掛ける。
「あ、いらっしゃいませ」
 帽子を目深にかぶった細身の青年が、店内を見回してから、足早に俺達に近づいてきた。そして、俺の前で立ち止まる。
「お久しぶり、冬弥くん」
「その声は!?」
 さっと帽子を取ると、豊かな髪の毛が溢れ出す。
「もう、兄さんったら、急に呼び出すんだもの。せっかくオフになったっていうのに。でも、まぁ冬弥くんに久しぶりに逢えたし、勘弁してあげるわ」
 手櫛で髪を整えながら、そう言ってニッコリと微笑んだのは、今やアイドルから実力派歌手として成長した、理奈ちゃん……緒方理奈その人だった。

to be continued

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