喫茶店『Mute』へ
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「やめたい?」
《続く》
「はい」
俺は部長に退部届けを差し出した。
部長は怪訝そうに俺を見る。
「どういうつもりだ?」
「陸上に魅力を感じなくなった、それだけです。じゃ」
「お、おい!」
俺は後ろ手に部室のドアを閉めた。
ガチャン
「はぁ……」
俺は一つ、ため息をついた。
とうとう、やっちまったな。
入学するまで、陸上をやめることになるなんて思ってもみなかったのにな。
ま、くよくよ考えてもしょうがない。俺が自分で決めたことだもんな。
俺は歩きだそうとして、立ち止まった。
廊下の向こうに知っている顔を見たから。
彼女は、その緋色の瞳でじっと俺を見つめていた。
「……詩織。どうしてこんなところに?」
「あ、私、部活があったから……」
彼女は右手のバッグを掲げて見せた。
そうか、詩織は吹奏楽部だっけ。
「たしかフルートだっけ?」
「そうなの。やっと音が出せるようになったばっかりなのに、いきなりソロパート任されちゃって、毎日猛練習なの」
「ふぅん、がんばってるなぁ」
「公くんは陸上部だったよね。来月に練習試合でしょ? がんばって……」
「あ、今やめてきた」
俺は、さらっと聞こえるように言った。
詩織は眉をひそめた。
「やめた……?」
「ああ」
俺は大きく伸びをした。
詩織は、ちょっと時計を見ると、俺に言った。
「ちょっと、いいかな?」
俺達は屋上にあがった。正確には詩織がさっさと屋上に上がっていき、俺がそれを追いかけたわけだが。
バタン
重々しい音を立てて、屋上のドアが閉まった。それを合図にしたように、詩織は俺の方に向き直った。
「本当に、やめちゃったの?」
「ああ」
「……どうして? 公くん、あんなに打ち込んでたのに……。それに、もうやり尽くしたってわけでもないんでしょ?」
彼女はまっすぐに俺の瞳を見つめる。彼女の話すときの癖だ。
緋色の瞳が俺の心の奥まで見通すようで……、ちょっと苦手なんだけど。
俺は明後日の方を見ながら、答えた。
「後悔は、してないよ」
「本当に?」
「ああ」
「ふぅん、そうなの」
口調の中に、かすかに刺があるのが感じられた。
詩織、「途中で投げ出す」っていうのが一番嫌いだもんなぁ。
俺は向き直った。
「俺は……」
詩織は、いつ取り出したのか、フルートを口に当てていた。
柔らかな、それでいて繊細な音色が流れ出す。
その音が青空に溶けていくのを聞きながら、俺はもう一度考えていた。
本当に、陸上に未練はないのか?
……ないよ。
もう一人の俺が答える。
なぜだ?
陸上よりも面白いものを見つけたから。
ああ。そうさ……。
最後の音が、静かに消えた。
詩織はフルートを口からそっと離し、一礼した。
俺は拍手する。
「巧いもんじゃないか! さすが詩織」
「ありがと。公くんも、落ちついたみたいね」
彼女はにこっと笑った。
……かなわないよなぁ。詩織には。
俺は照れ隠しに頭を掻いた。
フルートをケースにしまいながら、彼女は俺に尋ねた。
「で、落ちついたところで、どう?」
「かわらないよ。陸上はやめる。もっとやりたいことが、あるからね」
「もっとやりたいこと?」
詩織は小首を傾げて、俺の顔をのぞき込む。
「なぁに?」
「秘密」
俺はにっと笑った。
「そう? あー、もうこんな時間じゃない!」
彼女は腕時計を見て、慌ててケースを鞄にしまい込むと、ドアを開けた。
「それじゃ、またね」
「ああ。ありがとう。詩織には迷惑かけっぱなしだな、いつも」
「私は……このままでいたいな」
「え?」
「ううん、なんでもないの……。それじゃ!」
詩織は、身を翻すと階段を駆け下りていった。
俺は、フェンス越しに、そこから見えるテニスコートを見下ろした。心は、もうそこに飛んでいた……。