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ゆかりちゃんSS ゆかりちゃんのささやき

 階段を降りましたところで、わたくしはばったりと早乙女さんに会いました。
「……どうか、したの?」
 わたくしの様子が尋常ではなかったせいでしょう。早乙女さんが尋ねられました。
 わたくしは、黙って頭を下げまして、そのまま通り過ぎようとしました。礼儀にはかなったことではありませんが、今のわたくしはにこやかにご挨拶をする事が出来そうにありませんでしたから。
 と、早乙女さんは、不意にわたくしの腕を掴まれました。
「……すみません、お離しくださいませんか?」
 わたくしは、それだけ言うのが精一杯でした。それ以上話すと、その場で泣き出してしまいそうで。
「……公のやつと、何かあったの?」
「……」
 わたくしは、何も言えなくて、ただ俯いておりました。
 早乙女さんが舌打ちなさいました。
「公のやつ……」
「違います。公さんが悪いわけじゃありません。すべて、わたくしのせいなのですから……。わたくしが……」
 だめです。これ以上は……。
 これ以上お話をしていたら……。
 と、不意に早乙女さんがわたくしの身体を抱き寄せたのです。
「さ、早乙女さん……」
「やっぱり、あいつに任せるんじゃなかった。畜生」
 早乙女さんはそう呟かれました。
 わたくしは、何が何だかよくわかりませんでした。ただ、ずっと昔こうしていたことがあったような、そんな奇妙な懐かしさみたいなものを感じました。
 それも、一瞬のことでした。
「ごめんなさい!」
 わたくし、早乙女さんの手を振り払って、廊下を走り出しました。早乙女さんはその場にたたずんだまま、わたくしを見送っていらっしゃいました。

 放課後になりました。
 本当は、そんな気分でもなかったのですが、自分でもこれではいけないと思いましたので、体を動かして気分を変えようと思ってクラブに出ました。
 で、まず準備体操をしまして、それから軽くランニングなどするのですが……。
 つい、視線が、コートの方で準備体操をしていらっしゃいます公さんの方に引き寄せられてしまいます。
 いけません。こんなことでは……。
 公さんのことは、藤崎さんにお任せしようと、決めたのではありませんか?
 ……でも、頭ではわかってはおりましても、心は……。
 わたくしは、やっぱり公さんのことが……。
「古式さん、あぶない!」
「は? ……あらぁ?」
 ドタン
 わたくし、何かを踏みつけて転んでしまいました。
 あら? これは野球のボールですねぇ。
「ごめんね〜。大丈夫だった?」
 女の生徒の方がわたくしを起こしてくださいました。あら、この方、どちらかで……。
「あの、どちらさまでしたしょうか?」
 わたくしが尋ねますと、彼女は慌てた風に顔を赤くしておっしゃいました。
「あ、ごめんね。あたし、野球部でマネージャーをしてる虹野沙希。昼休みにも会ったよね」
「ああ。あの時はどうもご親切に。わたくし、古式ゆかりと、申します」
 頭を下げますと、どうも右足が痛くてよろけてしまいました。
 それを見まして、虹野さんが慌てます。
「大変! 足、くじいちゃったの? 大丈夫? 折れてはないよね」
「ええ。保健室へ行って休みますわ」
「あ、じゃああたしが送って行くね」
「いいえ。大丈夫ですよ。それより、虹野さん。先ほどからあちらの方で虹野さんのことをお呼びしているようなのですが、気のせいでしょうか?」
「あ、大変! ね、本当に大丈夫? ほんとにほんと?」
「はい」
 わたくし、にっこり笑いました。本当に、親切な方ですわねぇ。
「じゃ、あたし行くけど、後でお見舞いに行くね。ホントにごめんなさい」
 そうおっしゃって、虹野さんはボールを持って、走っていかれました。
 わたくしは、このままここにおりましては、他の方々の邪魔になりますので、とりあえず保健室に行くことにしました。

「これで、よしっと」
 保健の先生は、わたくしの右足に湿布を貼りますと立ち上がっておっしゃいました。
「しばらくは、急な運動はしないこと。歩くくらいならいいけどね。それにしても、どうしたの? ランニングで転んで捻挫なんて」
「すみません。少し考え事をしておりましたので……」
 そう答えますと、先生はわたくしの顔を心配げにのぞき込みました。
「そういえば、顔色も良くないわね。少し休んでいったら?」
「でも……」
「いいからいいから。あ、私はこれから職員会議だから、ここ、お願いね、古式さん」
 先生はそうおっしゃって、さっさと出ていってしまわれました。
 しかたありませんねぇ。
 わたくしはそこで待つことにしました。

 30分ほどした頃でしょうか。
 不意に保健室のドアがノックされました。
「はい、どちらさまでしょうか?」
 わたくしが声をかけますと、ドアが開きました。
 そこにいたのは、早乙女さんでした。
「早乙女さん?」
「昼休みはごめん」
 早乙女さんがそうおっしゃって、初めてわたくしは昼休みのことを思い出しました。
「いいえ。わたくしも悪うございましたから」
 そう答えますと、早乙女さんは保健室の中に入ってきました。
 そのお顔を見て、わたくし思わずびっくりしてしまいました。
 右の頬がすごく腫れていたのです。
「まぁ、大変。少々お待ちくださいませ」
 わたくしは立ち上がりまして、戸棚から氷嚢を出しました。ええっと、氷はどこでしたかしら?
「あ、いいよ。自分でやるから」
 早乙女さんは冷蔵庫を開けると、氷を出して氷嚢の中にいれ、口を縛ると頬に当てました。
「つぅー、しみる」
「……一体、どうなさったのですか?」
「公と殴り合った」
 早乙女さんはさらっとおっしゃいました。その口調が、いつもの口調と同じでしたので、わたくしは一瞬、その意味がつかめずにとんちんかんな答えを返してしまいました。
「そうですか。それは御苦労さまでした」
「御苦労さま、か。前にもそう言ったっけね」
「……は?」
 今度こそ、訳がわからなくなってしまいました。わたくし、前に早乙女さんに御苦労さまと言ったことがありましたのでしょうか?
 あ、そんなことよりも……。
「早乙女さん、公さんと殴り合ったとおっしゃいましたね? 公さんはどうなさったのですか?」
「……公さん、か」
 早乙女さんは妙にしみじみした口振りで呟くと、わたくしの顔を見ました。
「公なら、大丈夫だよ。しかし、藤崎さんに、あいつをぶん殴ってるところ見られちまったからなぁ。俺の評価がた落ちだな、きっと」
「まぁ……」
 こんな時でも女の子の評価を気にしている辺り、早乙女さんらしくて、つい笑ってしまいました。
「お、笑ったな」
 早乙女さんもにっと笑うと、わたくしの頭にポンと手を乗せました。
 あ、また……、前にもこんな事があったような……、そんな既視感を感じます。
「やっぱり、古式さんは笑ってる方がいいよ。あんな悲愴な顔は、似合わないって。じゃ、氷サンキュー」
 早乙女さんは氷嚢を持ったまま、出ていってしまわれました。
 保健室には、再びわたくしだけが残されました。
 ……このままぼーっとしているのも良くないですわね。鞄を取ってきましょうか。
 そうですわ。編みかけのセーター、少しでも進めておきましょう。

 取ってきた鞄を机の上に置いて、紙袋からセーターを出しました。
 あ。
 よく考えましたら、このセーター、もう公さんに差し上げるわけにも参りませんのに……。
 どうしましょうか?
 でも、一度はじめたものですから、とりあえず編み上がるまでは編んでみましょう。
 そう決めて、編み棒を刺そうとしたとき、不意に扉が向こうから開きました。
 その向こうに立っている方を見て、わたくしは一瞬息を詰まらせました。
「……!?」
 そこには、右手にフルートを持った藤崎さんが立っていらっしゃいました。
 藤崎さんはにっこりと笑います。
「こんな所にいたのね。ずいぶん捜したのよ、古式さん」
 藤崎さんはそう言うと、わたくしの前にある椅子をさして尋ねます。
「ね、座っていいでしょ?」
「どうぞ」
 わたくしは、一旦出したセーターを紙袋に片づけました。
 藤崎さんは、制服のスカートを端折ると、パイプ椅子に座りました。
 その右手には、金色に輝くフルートが……。
 それを見るだけで、わたくしの脳裏には昼休みの情景が思い出されます。
 フルートを吹く藤崎さんと、それに聞き入る公さん……。
 思い出しただけで、わたくし、何だかいたたまれなくなってしまいました。
「あのう、藤崎さん。わたくし、そろそろ帰宅しようと思いますので、失礼します」
「帰らないで。言ったでしょう? 私、あなたに話があるの。公くんのことで」

《続く》

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