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めぐみちゃんとでぇと
第弐拾四話 息してないんだもんなぁ

 放課後になりました。
 望ちゃんはいつものように、水着に着替えて屋内プールに一番乗りします。
「さぁて、今日も泳ぐかなぁ……。あれ?」
 望ちゃんは、プールの反対側に誰かいるのに気が付きました。その男子生徒は学生服姿のまま、ぼうっとプールをのぞき込んでいるようです。
 それが誰か気づいたとき、望ちゃんは「ははぁん」と頷きました。
「最近噂になってる主人とかいうナンパなやつだな。今度は水泳部に覗きに来たのか。こりゃ一つ懲らしめてやんないとな」
 望ちゃんはひとり頷くと、プールサイドを走り出しました。さすが毎朝50キロのロードワークで鍛えているだけあって速いものです。
 あっという間にプールを大きく回って公くんの後ろに出た望ちゃんは、大声を上げました。
「こらぁ! そんなところで何をやってるんだ!?」
「え?」
 公くんはなんとなくぼうっとした感じで振り返りました。そして、寂しげな笑みを浮かべて言います。
「このままこの中に入ったら、楽になれるかなって……」
 ドキン その憂いを帯びた横顔を見て、望ちゃんの胸が大きく鼓動を鳴らしました。おもわず望ちゃんは胸を押さえます。
(ど、どうしたんだ、あたし?)
「と、とにかく、水泳部以外は立入禁止なんだぞ。部外者は、ほら、出ていった!」
 望ちゃんはぴっと出口の方を指さしました。
 公くんは頷きました。
「そう……。そうだね。ごめん」
 そのまま、くるっと振り向いて公くんは歩いていこうとしました。
「ちょっと待って!」
「?」
 公くんは振り返りました。
「何?」
「えっと、あの、その……」
 口ごもる望ちゃん。ほっぺたが赤くなってます。
(あたし、どうしちゃったんだよ。呼び止めるつもりなんて全然無かったのに)
 公くんは、じっと望ちゃんを見ています。望ちゃんはそれに気づいてますます赤くなりました。
「その、まだ練習は始まらないから、もう少しいてもいいぜ」
「でも、邪魔なんだろう?」
「そんなことないって!」
 思わず力説してしまって、望ちゃんははっと気づきました。
(あ、あたし、何を……)
「そ、その、あたし、泳いでるけど、いてもいいから!」
 そう言うと、望ちゃんはプールに飛び込んでそのまま泳ぎ始めました。
「あ、準備運動もしないでプールに入っちゃいけないんだぞ」
 公くんの声が聞こえましたが、望ちゃんは無視します。いつもは暖かい温水プールの水が、火照った頬を冷やしてくれます。
(どうしちゃったんだ、あたしは? なんか変だ……。あうっ!)
 不意に、望ちゃんの右足に、びりっとしびれが走りました。
(あ、足が!?)
 まるで、突然足が石か何かになってしまったみたいに動きません。望ちゃんは慌てた拍子に生温い水を飲んでしまいました。
「ゲホゲホ……」
 せき込みながら、沈んでいく望ちゃん。
(そんな……)
 そのまま、望ちゃんの意識は水に溶けるように薄れていきました。

「う……」
 望ちゃんはうっすらと目を開けました。
(あたし……、どうしたんだろう?)
 ヒュー 空気が口の中に入ってきました。酸素が肺の中に送り込まれ、望ちゃんの意識が覚醒します。
 瞳の焦点がぴたりとあいます。そして、全身の感覚が戻ってきました。
 唇に何かが押しつけられています。暖かく濡れた感覚。
 そして、至近距離に、黒い瞳が輝いています。
(!!!)
 思わず望ちゃんは目を見開きました。
 それを見て、公くんは顔を上げて、にこっと笑いました。
「気が付いたんだね。よかった」
「あ、あの、主人くん……あたし……」
 望ちゃんは半身を起こしました。
 温水プールのプールサイドです。誰もおらず、望ちゃんと公くんの二人きりです。
 公くんは制服の上着を脱いでカッター姿になっています。そして、あちこちから水を滴らせています。
 そんな格好のまま、公くんは笑っています。
「でも、びっくりしたよ。清川さん、急に沈んじゃって、それっきり浮いてこないから、慌てて飛び込んで引っ張り上げたんだけど、息してないんだもんなぁ」
「……」
「でも、講習でマウストゥマウス習っておいてよかったよなぁ。何が役に立つかわかんないもんだ」
 公くんは独り言のように呟きました。望ちゃんは思わず自分の唇に指先を当てます。
「じ、人工呼吸?」
「うん。息吹き返したからよかったよ」
 望ちゃんはかぁっと赤くなりました。それも、前よりもハッキリとわかるくらいです。
「あ、ああ、あああのあのあの」
「え?」
「な、なんでもないっ」
 そのまま、望ちゃんはくるっと公くんに背中を向けました。
 心臓がどきどきいっています。
(も、もしかして、これって、その、“キス”ってやつなの? そ、それも“ファースト・キス”?)
「清川さん?」
(ああ、どうしよう。なんだかあたし、もう体中がおかしくなっちゃったみたい)
 望ちゃんはくるりと振り返りました。
「あ、あの、主人くん……」
「なに? 気分でも悪いの?」
 公くんは心配して訊ねました。望ちゃんは首を振ると、公くんをじっと見つめました。
 二人の髪の毛から、同時に水の滴がプールサイドに落ちました。
 望ちゃんは、俯きました。
(ど、どうしよう。主人くんの顔がまともに見られないよ。あたし……)
「清川さん?」
 ますます心配する公くん。
(まずいなぁ。どこかおかしくなっちゃったのかな? はっ、もしかして俺には言えないようなところがなにか具合悪くなったのかも知れないな……。そっかぁ、清川さんも女の子だもんなぁ。気づかなくて悪い事したな)
 公くんはうんうんと頷くと、望ちゃんに言いました。
「ごめん。俺保健室の先生呼んでくるよ」
「え?」
「楽にして待ってて。スグに呼んでくるから!!」
 そう叫ぶと、公くんはそのままぴゅーっと走っていってしまいました。
「あ……」
 呼び止めようとしたときには、公くんはもうプールから飛び出していった後でした。
「じゃ、先生お願いします!」
 プールの入り口で、公くんは先生を押し込みながら言いました。
「ちょ、ちょっと。主人くんはどうするの?」
「おや、俺がいると清川さんも困るだろうから。それじゃ、失礼します」
 そう言うと、公くんは走っていこうとしました。
 先生はその首根っこを捕まえます。
「ちょっと待ちなさい。あなただって濡れネズミじゃないの。そんな格好じゃ風邪引くわよ」
「いや、俺は……」
「保健室に行って暖まってなさい。ストーブ使っていいから」
「は、はぁ」
「命令よ。逃げたら、そうね、内申書に書いちゃうからね」
 先生はウィンクして、鞄を持ってプールに入っていきました。公くんはそれを見送って、ほっと一息つくと、先生の言うとおり保健室に向かいました。
「これで一安心だな。……はっくしょい」
 先生がプールにはいると、プールサイドに水泳部の生徒たちが集まってざわざわしています。
 そのうちの一人が先生を見つけて、駆け寄ってきました。
「あ、先生! ちょうど良かった」
「部長が変なんです!」
 もう一人が言うと、人垣が左右に別れます。
 その真ん中では、望ちゃんがぽぉっと赤くなってぼーっと突っ立っているのでした。
 先生は、鞄を開こうともせずに肩をすくめました。
「よくある感染症よ。この頃の年頃の子は誰でもかかるような、ね」
「感染症?」
 不思議そうな顔で先生を見る水泳部員達に聞かれないように、先生は心の中で呟くのでした。
(“恋愛症候群”、ラヴ・シンドロームとでも名付けましょうか)
 さてその頃、公くんは保健室のドアに手をかけました。
 しかし、その中から聞こえてきた声に、その手を止めるのでした。
「片桐さん。ハッキリいうけれど、公くんは私の恋人なの!」

《続く》

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