喫茶店『Mute』へ  目次に戻る  前回に戻る  末尾へ  次回へ続く

めぐみちゃんとでぇと
第伍拾伍話 詩織ちゃん、ガンバ!

「……でね、今朝ね……」
 詩織ちゃんは、受話器に向かってお話ししています。お相手は、遥か遠くハンガリーにいるお友達の香恋ちゃんです。
「昨日、どうしたの?」
 わくわくって感じの声が返ってきます。詩織ちゃん、赤くなりました。
「公くんに朝御飯作ってあげたの」
「やるう! 主人くん、喜んでくれた?」
「あ、えっと、それは、ね」
 詩織ちゃん、ちょっと口ごもりました。
「でも、羨ましいなぁ……。私も……」
「龍くんに朝御飯作ってあげたい?」
「うん……。あ、きゃ、何言わせるのよぉ!」
「聞いちゃった。明日水野君に教えてあげようかなぁ」
「きゃーきゃーやめてぇー!」
 楽しそうですねぇ。

 トルルル、トルルル、トルルル
「はいはい、ちょっと待ってね!」
 沙希ちゃんは台所から駆け出してくると、電話を取りました。
「はい、虹野です」
「あ、沙希? あ・た・し」
「は? 誰ですか?」
「んもう、惚けちゃって、この子は」
「……あのー、もしもし?」
「……ちょっと、マジにわかんないの?」
 沙希ちゃんはくすっと笑いました。
「冗談よ、夕子ちゃん。で、どうしたの?」
「ったく。そうそう、日曜空いてる?」
「日曜日? なにかあるの?」
「うん。ちょっとライブのチケットが手に入ってさ。一人で行くのも何だし、沙希、
こういうの好きだったっしょ?」
「ライブ?」
「ん。繁華街のライブハウス『アンテナ』。知ってるっしょ?」
「うん。で、誰がやるの?」
「聞いて驚け。tTSだぁ!」
「……tTS?」
 沙希ちゃん、一瞬眉根にしわを寄せて考え込みました。それから、ポンと手を打ちます。
「夕子ちゃん、もしかしてそれって、文化祭のときの……?」
「そそ」
 次の瞬間、夕子ちゃんは受話器を耳から遠ざけました。どうしてって? それは……。
「行く行くっ!! 絶対行くっ!! ううん、行かせてくださいお姉さまっっっ!!」
 受話器から20センチ耳を離しても良く聞こえる沙希ちゃんの声です。
 それ以上叫ぶ声が聞こえないのを確認してから、夕子ちゃんは受話器に耳を戻しました。
「よしよし。沙希は行く、と」
「あ、でも、メンバーはそのままなの?」
「んにゃ。ちょっと変わるみたい。伊集院くん今回参加してないし……」
「ううん、そうじゃなくって……」
 沙希ちゃんはちょっとうつむくと、はにかんだように小声で言いました。
「主人くんは、今回は……」
「ははぁ、そういうことかぁ」
 にんまり笑った夕子ちゃんの口調に、沙希ちゃんは慌てて言い訳します。
「だ、だから、どうなのかなって思っただけで、その、そうじゃなくって……」
「うんうんわかってるって。皆まで言うな」
「あーん、そうじゃないんだってばぁ」
「はいはい。沙希にはちょっと残念だけど、今回は、主人くんは出番無しだって」
「そっかぁ……」
 残念そうな沙希ちゃんに、夕子ちゃんは訊ねました。
「それじゃ、見に行かない?」
 次の瞬間、夕子ちゃんはまた受話器を耳から離しました。
「行くってばぁぁぁ!!」
 そして、沙希ちゃんの叫び声が響きわたるのでした。
「……でね、迷ってるの」
 詩織ちゃんはそう言いながら、ちらっと窓の向こうに見える公くんのお部屋に視線を向けました。
 今日はお休みの公くん。窓には緑色のカーテンが掛かっていて、中が見えません。
 受話器の向こうから、香恋ちゃんの声が聞こえます。
「どうして?」
「だって……うまく出来るかわからないし……」
「嘘ばっかり」
 あっさり言う香恋ちゃんです。
「香恋ちゃん……」
「わかっちゃうんだから。詩織ちゃんが何を考えているか、くらい……。魔女を甘く見ないでよ」
 香恋ちゃんは笑います。
「怖いんでしょう? 主人くんとデートできないことが」
「怖い……?」
「うん。せっかく約束したデートが、自分のためにつぶれちゃう。だから主人くんに嫌われちゃう。それが怖いんでしょう? でも、戎谷くん達との演奏会はやってみたい。だから迷ってる。……違ってる?」
「……そう、かな?」
 自信なさそうに、詩織ちゃんは呟きました。
 言葉を選ぶように、ゆっくりと言葉を返す香恋ちゃんです。
「詩織ちゃん、自分の心もわかんないんだ……」
「自分の……心?」
「……そう。自分の……心」
 香恋ちゃんは、窓から石畳の街並みを見おろしながら、アンティックな電話に話しかけました。
「私も、見えなかったことがあるんだ。自分の心が。でも、最後には見えたから……。だから、私は龍くんに告白したの」
「……」
「詩織ちゃん、自分の心がわかっちゃえば、怖いものなんて何もないよ」
「……そう、かな?」
「そうだよ!」
「……うん……」
 まだ、自信なさそうな詩織ちゃんの声です。
 ちょっと考えてから、香恋ちゃん、ポンと手を打ちました。
「詩織ちゃん、前におまじない、教えてあげたよね。覚えてる?」
「……毎晩、金星に向かって『公くんが好き』って7回唱える……」
「そ。詩織ちゃん、さぼってるでしょ?」
「……あ、あはは……」
「でも、それで正解だと思うの」
「……え?」
「魔法や呪いで人の心を縛るなんて、そんなことをしちゃいけない。おばあちゃんが、私をきらめき高校に行かせてくれたのは、それを教えてくれるためだって、最近になってやっとわかったの」
 香恋ちゃんは、窓越しに、初冬のヨーロッパにしては珍しく澄んだ青空を見上げました。
「それを教えてくれたのは、龍くんだし、奈津江ちゃんだし……そして、詩織ちゃん、あなたなのよ」
「私……?」
「うん。だから、そのお礼。私の元気を、詩織ちゃんにあげる」
 きゅっと小さな拳を握って、香恋ちゃんは言いました。
「詩織ちゃん、ガンバ!」
「……ありが……とう」
 詩織ちゃんのほっぺたを、涙がこぼれ落ちました。
「本当に、ありがとう、香恋ちゃん」
 チィン
 詩織ちゃんは電話を切ると、もう一度、そっと受話器を持ち上げました。そして、短縮ダイヤルの1番を押します。
 ピポパポ……トルルル、トルルル、トルッ
「はい、主人です」
 受話器の向こうから声が聞こえます。詩織ちゃんは窓の向こうを見つめながら、言いました。
「公くん? 私だけど……」
「詩織?」
 向こうの窓のカーテンが開きました。パジャマ姿の公くんが詩織ちゃんを見つけて手を振ります。
 詩織ちゃんは頭を下げました。
「ごめんね。身体はどう?」
「うん。明日には学校に行けるよ」
「よかった。次に公くんに食べてもらうときには、もっと美味しいもの食べてもらえるように頑張るから」
「あ、うん」
 公くん、後頭部に大きな汗をかいていますね。
「それよりも、日曜のことなんだけど……」
「どうかしたの?」
 聞き返す公くんに、詩織ちゃんは言いました。
「ちょっと予定変更したいんだけど、いいかな?」
「予定変更?」
「うん。場所を変えたいんだけど……」
「良いよ、別にどこでも。こっちが詩織に付き合うって言ったんだものな」
 軽く答えた公くんですが、詩織ちゃんは真っ赤になりました。
(きゃ! 公くんってば。付き合う、だなんて……。もう、気が早いんだからぁ)
 手のひらにのの字を書く詩織ちゃん。誰もそんなことは言ってませんよね。
「あのー、もしもし?」
 公くんの声に、詩織ちゃん、我に返りました。
「あ。うん。ありがとう。それじゃね……」
「『アンテナ』ね。時間は……午後の5時? えらく遅い時間じゃ……。どうしても? しょうがないなぁ」
 公くん、苦笑気味に答えます。
「それでいいよ。それじゃ、お休み」
「お休みなさい」
 窓の向こうで軽く手を振ると、詩織ちゃんはピンクのカーテンを閉めました。
 公くんも自分の部屋のカーテンを閉めて、ほうっと一息尽きました。
「さて、そろそろ寝ようかな」
 こうして、金曜日の夜は更けていくのでした。

《続く》

 メニューに戻る  目次に戻る  前回に戻る  先頭へ  次回へ続く