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めぐみちゃんとでぇと
第七拾参話 とりあえずは信じてみてよ

 さて、ここは日本からはるか離れたハンガリーの首都ブタペスト。
 学校から帰ってきた香恋ちゃんに、下宿のおばさんが声をかけました。
「カレン、ちょうどよかったよ。日本から国際電話だよ」
「え? 誰かしら。も、もしかして!?」
 思わず瞳に星を輝かせてウルウルする香恋ちゃんに、おばさんは笑いながら答えました。
「残念でした。女の子だよ」
「もう、おばさんったらぁ。私、何にも言ってないじゃないのぉ」
 ぷんと可愛くむくれながら受話器を受け取る香恋ちゃん。おばさんは苦笑しました。
(わかるわよねぇ。毎週同じ差出人の手紙を渡してるんだもの)

 香恋ちゃんは受話器に話し掛けました。
「もしもし」
「あ、香恋ちゃん? 私、詩織よ」
「詩織ちゃん?」
 香恋ちゃんは一瞬、眉をひそめました。
(なに? 今のいやな胸騒ぎは?)
「どうしたの? そちらで何かあったの?」
「うん……。実はね、相談に乗って欲しいのよ」
 詩織ちゃんの声だけしか、香恋ちゃんには聞こえませんでした。その声は、いつもの詩織ちゃんの声だったので、香恋ちゃんは何の疑いもなくうなずきました。
「いいけど。あ、さては公くんのことでしょ?」
「そうなの。さすがね、香恋ちゃん」
「そりゃね。だって、私はもう告白しちゃったもん」
 にへらぁっと笑う香恋ちゃん。その耳に、詩織ちゃんの声が入ってきました。
「公くんが、誰かにすりかわられちゃったみたいなの。今の公くんは公くんじゃないのよっ!」
「……なんですって?」
 思わず聞き返す香恋ちゃん。
 詩織ちゃんは電話の向こうで言います。
「こんなこと、誰に相談しても信じてもらえないわ。香恋ちゃんだけが頼りなの! お願い、助けて!!」
「ちょ、ちょっと、詩織ちゃん。落ち着いて、ちゃんと話してくれる?」
 香恋ちゃんは、そう言いながら、おばさんの方をちらっと見ます。
 おばさんがこっちを見ていないのを確認してから、香恋ちゃんは、左手の小指で小さく受話器に五芒星を描きました。その軌跡が一瞬ぼうっと光ります。
(うまく、いくかな?)
「さて、そろそろ寝るかなっと」
 手帳にいろいろ書き込んでいた好雄くんは、大きく伸びをして勉強机の前から立ち上がりました。
 トントン
 控えめなノックの音がしました。好雄くんは振り向かずに言いました。
「なんだよ、母さん?」
「違うもん。お兄ちゃん、ちょっといい?」
「げぇっ!?」
 思わず悲鳴みたいな声を上げて、好雄くんは振り返りました。
「ゆ、優美がノックしただってぇ!?」
「そんなに驚くことないじゃないのぉ」
 優美ちゃんはちょっとむくれました。そして、好雄くんが何も言わないうちに勝手に部屋の中に入ってきました。
 好雄くんは椅子に座り直すと、訊ねました。
「で、何の用なんだよ」
「うん。あのね……」
 そこまで言うと、優美ちゃんは少し躊躇うようにもじもじしていました。
 好雄くんは呟きます。
「主人のことか?」
「……う、うん」
 うなずくと、優美ちゃんは顔を上げました、
「お兄ちゃん、どう思う?」
「どう思うって、何が?」
「優美ね、先輩のことが好きなんだよ。とってもとっても好きなんだよ。でも、でもどうして先輩は優美のこと見てくれないの?」
 優美ちゃんは好雄くんに、というよりは、自分に向かって呟くように言いました。
 好雄くんは、軽く優美ちゃんの頭に手を乗せました。
 そして、訊ねます。
「優美は、あいつが好きなのか?」
「うん」
 間髪入れずに、優美ちゃんはこっくりとうなずきました。好雄くんは、苦い笑みを浮かべます。
「そっか……」
「でも、伝説の樹の下には、一人しか立てないんだよね」
 はっとする好雄くん。
 自分では散々伝説の樹の話をしてきた好雄くんでしたが、優美ちゃんの口から「伝説の樹」という言葉が出たのは初めてだったのです。
(優美も、なんだかんだ言って、夢見てるんだよな……。畜生、公よぉ! てめぇってやつはよぉ!)
 不意に好雄くんは、このまま公くんの家まで押しかけていって、公くんをぶん殴りたくなりました。
 それを押さえながら、優美ちゃんの頭をぐりぐりと撫でてやります。
「心配すんなよ」
「……うん」
 優美ちゃんはこくりとうなずきました。
「♪出逢えてよかった〜 いま あなた〜にぃ〜」
 沙希ちゃんは機嫌良さそうに歌いながら、天ぷらを揚げています。
 その後ろで食器にサラダを盛り付けながら、お母さんが訊ねます。
「どうしたの? ずいぶん嬉しそうじゃない、沙希」
「うん、ちょっとね」
「主人くんとなにかあったの?」
「わきゃぁっ!」
 沙希ちゃん、手を危うく天ぷら鍋に突っ込みそうになって、慌てて振り返ります。
「お母さん!」
「おお、恐い」
 お母さん、わざとらしく怖がって見せます。そんなお母さんに、沙希ちゃんはぷうっと膨れて見せました。
「そんなんじゃないってば」
「どうだか。毎日いそいそと、それはもう嬉しそうにお弁当作っていくのは誰のためなんでしょうねぇ?」
「そ、それは……、もう、知らない! お母さんの意地悪」
 沙希ちゃんは天ぷら鍋の方に向き直りました。もちろん、真っ赤になったお顔をお母さんに見られないためです。
 もっとも、お母さんはちゃんとわかってるみたいですけれどもね。くすくす笑っていますよ。
「お母さん! ほんとにそんなんじゃないんだってば!」
「ほらほら、沙希。油の温度が高すぎるわよ」
「あ、いけない!」
 慌ててコンロの火を弱くする沙希ちゃんでした。ちなみに、お母さんくらいのベテランになると、油のはぜる音を聞いているだけで、油の温度がわかるそうですね。
「いやぁ、今日も疲れたわぁ」
 玄関を開けて、先生は上がり口に突っ伏しました。
「晴海姉ぇ、だらしないぞぉ」
「ふぇ? ああ、美鈴かぁ」
 腰に手を当てて先生を見下ろしているのは、見晴ちゃんの妹の美鈴ちゃんです。
「頼むぅ。引っ張ってくれぇぇ」
 先生は手を伸ばしますが、美鈴ちゃんはふんとそっぽを向きます。
「ご自分でどうぞ」
「ちぇー。せっかくひとが将くんと和人くんのツーショット写真、格安で譲ってあげよっかなぁって思った……」
「なんなりとお言いつけください」
 ぺたんと廊下にはいつくばる美鈴ちゃんでした。意外と美鈴ちゃんもミーハーみたいですね。
 と、そこに見晴ちゃんが出てきました。
「何玄関で騒いでるの?」
「あ、見晴ぅ。今日も留守電入れたぁ?」
「うん。今日は素敵なあの人のことをそっと……って、なんでお姉えが知ってるのさぁ!?」
 思わずつられてしまってから、慌てる見晴ちゃんでしたが、もう後の祭りです。
 先生はほっほっほと笑いました。
「守秘義務よぉん」
「もう、知らないっ! さっさとお風呂入ってよね」
 見晴ちゃんはそう言い捨てて、不意に振り返りました。
「そうそう。さっき電話あったよ」
「誰からぁ?」
 のたくらと靴を脱ぎながら、先生は訊ねました。見晴ちゃんは答えます。
「片桐さんから。なんでも原稿がどうとかで」
「わぁっ!」
 今まで半分死んでた先生がいきなりがばっと立ち上がりました。そのまま、ずだだっと自分のお部屋に走っていきます。
 見晴ちゃんと美鈴ちゃんは顔を見合わせました。
「晴海姉ぇ、どうしたんだろ?」
「わかんない。ま、あの調子だと風呂にはまだ入らないみたいね。美鈴、先に入っちゃってくれる?」
「そーする」
 美鈴ちゃんは頷きました。
「……私にはわかるの。あれはきっと、公くんじゃないのよ!」
 詩織ちゃんは受話器に向かって力説しました。
 香恋ちゃんは少し考えて、それから、言いました。
「ん、わかったわ」
「わかってくれた?」
「いい方法を教えてあげる。詩織ちゃん、聞いてくれる?」
「うん」
 素直に頷く詩織ちゃんに、香恋ちゃんはゆっくりと言いました。
「今日は、お腹いっぱいお食事して、それからゆっくりと眠るの。いい?」
「え? でも……」
「明日になったら、もう主人くんはもとの主人くんになってると思うよ。ね?」
「だけど……」
 なおも言い返そうとする詩織ちゃんに、香恋ちゃんは笑いながら言いました。
「ま、とりあえずは信じてみてよ。ね?」
「そうよね、香恋ちゃんの言うことだもの。信じるわ。ありがとう、やっぱり相談してよかった」
「うん。元気出してね」
 香恋ちゃんはそう言うと、電話を切りました。そして、溜息を一つつきます。
「……主人くんが、主人くんじゃない、かぁ。詩織ちゃん、かなり追いつめられてるなぁ……。そうだ!」
 パチンと指を鳴らすと、香恋ちゃんは電話し始めました。
 どこにかけているんでしょうねぇ?

《続く》

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