喫茶店『Mute』へ
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「じゃーん。ここなのだぁ」
ひなちゃんはドアの前で振り向くと、あたしに言った。
「ふぅーん」
繁華街から一つ外れた通り。
それだけで、妙に喧噪が聞こえないんだね。
古めかしい、木目の浮いたドアには、お店の名前なんだろうな、これも木のプレートが打ち付けてあるの。
えっと……『MUTE』? 沈黙、って意味よね。
ひなちゃんはドアを押して中に入った。
チリリリン
あ、かわいい。ドアについてるベル、鈴蘭みたいな形してるの。
「いらっしゃい」
くるっとお店の中を見回してみる。20人も入れば、いっぱいになっちゃいそうなこじんまりとしたお店。窓際に、大きな水槽があって……。わぁ、中で綺麗なお魚がいっぱい泳いでる。熱帯魚っていうやつよね。
「こんちわっ」
ひなちゃんが、カウンターの奥にいるおじさんに挨拶してる。あの人が、ここのマスターなのね、きっと。
「昨日言ってた娘を連れてきたからね、かっちゃん」
「かっちゃん?」
あたしが尋ねると、ひなちゃんはあれっと言うような顔であたしを見た。
「あれぇ、話してなかったっけ? この人がここのマスターの朝日奈克美ことかっちゃん。かっちゃん、こっちが昨日言ってたグルメマスターの虹野沙希ちゃん」
「グルメマスターなんて、そんなこと無いです。ちょっと料理が好きなだけですから」
そう言うと、マスターさん、笑ってあたしに言った。
「でも、夕子はよく君のことを誉めてたぜ。『沙希の勧める料理には外れが無い』ってよく聞かされたよ」
えっ? この人、ひなちゃんを呼び捨てにしてる。それにひなちゃんもずいぶん親しそうだけど、もしかして……?
あたし、ひなちゃんにこっそりと聞いてみた。
「ねぇ、ひなちゃん。あの人とひなちゃん、恋人同士、なの?」
「へ?」
ひなちゃん、口をぱっくり開けてあたしを見た。それから慌てて両手を振る。
「違う違う。ったくぅ、名字が同じでしょうが! かっちゃんはあたしの従兄よ」
「いとこぉ?」
「そ。とはいっても、歳も結構離れてるから、まぁ兄貴代わりってとこかな」
マスターが笑いながら補足してくれた。なぁんだ。ちょっとドキドキしちゃって損した気分。
そうよね。第一、ひなちゃんには早乙女くんもいるし。……って、本人に言ったら思いっきり怒るから言わないけど。
「それより、かっちゃん。今日はどんなケーキなの?」
「まぁ、席で待ってなよ。それより、あそこの席に座ってる娘、あの制服、夕子達と同じ学校だろう?」
マスターが顎をしゃくった。そっちの方を見てみると、ボックス席に、女の子が一人座っている。
目の前のテーブルにはコーヒーが置かれてるけど、それには構わずに、熱心に大きな本をめくってる。コーヒーから湯気が出てないって事は、10分以上たってるよね?
でも、一際目を引いたのは、その髪なの。なんて言うか、糸蒟蒻玉みたいなヘアスタイルだわ。
……糸蒟蒻玉みたいなヘアスタイル? もしかして、入学式の前に逢った、あの人じゃないの?
よく見てみる。やっぱそうよ。
「沙希、じぃーっと見てるけど、やっぱ知り合い?」
「ううん、知らない人。ただ、ちょっとね」
あたしは、中庭であったことをひなちゃんに話して、それから、声を潜めて聞いてみた。
「でも、ひなちゃん、あの髪型って変よねぇ?」
「沙希って相変わらず流行遅れねぇ。でも、あの髪型は沙希が知らなくても当然よ。だって、あの髪型って今年の春のパリの流行なの」
「どうせ、あたしは流行にはうといですよぉ、だ」
と、その変な髪型の女の子が、不意に顔を上げてこっちを見た。
とっさにあたしとひなちゃんはカウンターに顔を伏せる。
「ひなちゃん、聞こえちゃったと思う?」
「沙希ってば、声大きいから」
「あたしぃ? そっ、そんなことないよ」
あたし、こっそりとさっきの女の子の方を見た。
ぎょっ!
まだ、こっち見てるよぉ。
「ひ、ひなちゃん、どうしようか?」
「そんなこと、知らないわよぉ。かっちゃん、何とかしてぇ」
「俺に言ったって知るもんかい」
マスター、呆れたみたいに言うと、ああー、あっちの方に行っちゃったよぉ。
ど、どうしたらいいのぉ?
と。
突然、その女の子は鞄から大きなノートみたいなものを出した。ううん、違うわ。あれ、スケッチブックだ。
そして、そのままこっちを見ながら何か書き始めた。
「あ、あのぉ……」
「フリーズ!!」
そっちの方に向き直ろうとした瞬間、女の子が叫んだ。
え? 英語?
嘘。外人さんなの?
でも、外人さんには見えないんだけど……。それに、中庭では日本語もしゃべってたよね?
「ひ、ひなちゃん、どうしよう?」
「どうしようったって、動けないものはしょうがないでしょ」
あ、ひなちゃんもうあきらめてコーヒーなんか飲んでるぅ。
《続く》