喫茶店『Mute』へ  目次に戻る  前回に戻る  末尾へ  次回へ続く


沙希ちゃんSS 沙希ちゃんの独り言
話 沙希ちゃん入学する(後編)

「じゃーん。ここなのだぁ」
 ひなちゃんはドアの前で振り向くと、あたしに言った。
「ふぅーん」
 繁華街から一つ外れた通り。
 それだけで、妙に喧噪が聞こえないんだね。
 古めかしい、木目の浮いたドアには、お店の名前なんだろうな、これも木のプレートが打ち付けてあるの。
 えっと……『MUTE』? 沈黙、って意味よね。
 ひなちゃんはドアを押して中に入った。
 チリリリン
 あ、かわいい。ドアについてるベル、鈴蘭みたいな形してるの。
「いらっしゃい」
 くるっとお店の中を見回してみる。20人も入れば、いっぱいになっちゃいそうなこじんまりとしたお店。窓際に、大きな水槽があって……。わぁ、中で綺麗なお魚がいっぱい泳いでる。熱帯魚っていうやつよね。
「こんちわっ」
 ひなちゃんが、カウンターの奥にいるおじさんに挨拶してる。あの人が、ここのマスターなのね、きっと。
「昨日言ってた娘を連れてきたからね、かっちゃん」
「かっちゃん?」
 あたしが尋ねると、ひなちゃんはあれっと言うような顔であたしを見た。

「あれぇ、話してなかったっけ? この人がここのマスターの朝日奈克美ことかっちゃん。かっちゃん、こっちが昨日言ってたグルメマスターの虹野沙希ちゃん」
「グルメマスターなんて、そんなこと無いです。ちょっと料理が好きなだけですから」
 そう言うと、マスターさん、笑ってあたしに言った。
「でも、夕子はよく君のことを誉めてたぜ。『沙希の勧める料理には外れが無い』ってよく聞かされたよ」
 えっ? この人、ひなちゃんを呼び捨てにしてる。それにひなちゃんもずいぶん親しそうだけど、もしかして……?
 あたし、ひなちゃんにこっそりと聞いてみた。
「ねぇ、ひなちゃん。あの人とひなちゃん、恋人同士、なの?」
「へ?」
 ひなちゃん、口をぱっくり開けてあたしを見た。それから慌てて両手を振る。
「違う違う。ったくぅ、名字が同じでしょうが! かっちゃんはあたしの従兄よ」
「いとこぉ?」
「そ。とはいっても、歳も結構離れてるから、まぁ兄貴代わりってとこかな」
 マスターが笑いながら補足してくれた。なぁんだ。ちょっとドキドキしちゃって損した気分。
 そうよね。第一、ひなちゃんには早乙女くんもいるし。……って、本人に言ったら思いっきり怒るから言わないけど。
「それより、かっちゃん。今日はどんなケーキなの?」
「まぁ、席で待ってなよ。それより、あそこの席に座ってる娘、あの制服、夕子達と同じ学校だろう?」
 マスターが顎をしゃくった。そっちの方を見てみると、ボックス席に、女の子が一人座っている。
 目の前のテーブルにはコーヒーが置かれてるけど、それには構わずに、熱心に大きな本をめくってる。コーヒーから湯気が出てないって事は、10分以上たってるよね?
 でも、一際目を引いたのは、その髪なの。なんて言うか、糸蒟蒻玉みたいなヘアスタイルだわ。
 ……糸蒟蒻玉みたいなヘアスタイル? もしかして、入学式の前に逢った、あの人じゃないの?
 よく見てみる。やっぱそうよ。
「沙希、じぃーっと見てるけど、やっぱ知り合い?」
「ううん、知らない人。ただ、ちょっとね」
 あたしは、中庭であったことをひなちゃんに話して、それから、声を潜めて聞いてみた。
「でも、ひなちゃん、あの髪型って変よねぇ?」
「沙希って相変わらず流行遅れねぇ。でも、あの髪型は沙希が知らなくても当然よ。だって、あの髪型って今年の春のパリの流行なの」
「どうせ、あたしは流行にはうといですよぉ、だ」
 と、その変な髪型の女の子が、不意に顔を上げてこっちを見た。
 とっさにあたしとひなちゃんはカウンターに顔を伏せる。
「ひなちゃん、聞こえちゃったと思う?」
「沙希ってば、声大きいから」
「あたしぃ? そっ、そんなことないよ」
 あたし、こっそりとさっきの女の子の方を見た。
 ぎょっ!
 まだ、こっち見てるよぉ。
「ひ、ひなちゃん、どうしようか?」
「そんなこと、知らないわよぉ。かっちゃん、何とかしてぇ」
「俺に言ったって知るもんかい」
 マスター、呆れたみたいに言うと、ああー、あっちの方に行っちゃったよぉ。
 ど、どうしたらいいのぉ?
 と。
 突然、その女の子は鞄から大きなノートみたいなものを出した。ううん、違うわ。あれ、スケッチブックだ。
 そして、そのままこっちを見ながら何か書き始めた。
「あ、あのぉ……」
「フリーズ!!」
 そっちの方に向き直ろうとした瞬間、女の子が叫んだ。
 え? 英語?
 嘘。外人さんなの?
 でも、外人さんには見えないんだけど……。それに、中庭では日本語もしゃべってたよね?
「ひ、ひなちゃん、どうしよう?」
「どうしようったって、動けないものはしょうがないでしょ」
 あ、ひなちゃんもうあきらめてコーヒーなんか飲んでるぅ。

 30分もたった頃。
 不意にその女の子は持ってた鉛筆を置いた。
「グー。イッツソーファイン!」
「お、終わったの?」
 あたし、誰とも無く聞いた。と、その女の子があたしの方を見た。
「協力してくれて、サンクス、ありがとう」
「え? い、いま日本語しゃべったよね?」
「英語も入ってたけど、日本語に聞こえたわよ」
 あたしとひなちゃんはうなずきあい、そして女の子の方を見た。
 女の子は立ち上がると、こっちに歩いてきた。それから、右手を差し出す。
「あたしは片桐彩子。あなた達もきらめき高校の人ね。あたしは1年なんだけど」
「あ、あたしも1年。あたしは朝日奈夕子っていうの。で、こっちでぽけーっとしてるのが虹野沙希」
「ぽけーって、ひどいじゃない、ひなちゃんってば!」
 あたしはひなちゃんをぽかぽか叩いていた。
「わぁ、やめれやめれ。わかったわかったって。それより、片桐さん、今何描いてたの? 見せて欲しいなぁ」
「……後悔しない?」
 片桐と名乗ったその娘は、あたし達を見た。唇の端に妙な笑みを浮かべて。
「え?」
「私の絵はね、他人に見せると動き出すのよ」
「?」
 あたしとひなちゃんが顔を見合わせていると、片桐さんは自分の顔を覆った。
「オーマイガッ! ア・リトル、ちょっとハイブローすぎたジョークだったみたいねぇ。オッケイ、いいわよ」
 彼女はスケッチブックを開くと、あたし達の前に差し出した。
 あたしとひなちゃんはそれをのぞき込んだ。
「うわぁ。上手じゃないの!」
「超かっこいいじゃん!」
 鉛筆一本でこんな素敵な絵が描けるなんて……、あたし知らなかった。
 なんていうのかな、ちゃんと描いてあるものの質感がわかるんだもん。机は木でできてるし、コーヒーカップは陶器だし……。
 それに、ここに描いてある女の子って、あたしとひなちゃんよね。
 すごく綺麗に見えるんだ。
「すごいすごい! 片桐さんって絵がうまいんだねぇ」
「まぁね」
 片桐さん、得意げに答えると、スケッチブックをしまった。
「それじゃ、またいつか会いましょ。シーユーレイター、バァ〜イ」
 彼女はにこっと笑うと、そのまま喫茶店から出ていった。
 マスターが尋ねる。
「さっきの娘、夕子達の同級生か?」
「1年って言ってたから、そうだろうね」
「じゃ、この勘定、お前達が払っておいてくれよ」
 マスターはテーブルに残されたレシートをひらひらさせた。
 と、不意にひなちゃんががばっとあたしに手を合わせた。
「ごめん、沙希! 今日あたし超びんぼーなの!」
「あ、それであたしをここに連れて来たのねぇ!」
 なんだか今日のひなちゃん、ちょっとおかしいと思ってたら……。もう、調子いいんだからぁ!
 あたしは財布を出しながらひなちゃんを睨んだ。
「これっきりだからね!」
「もちろんだってば。恩に着ます、沙希さまぁ」
 ひなちゃんはにこにこしながらあたしの背中をぽんぽん叩く。ほんっとに調子いいんだからぁ!!
 結局、コーヒー3杯+ケーキ3ピース分、1220円はあたしが払うことになっちゃった。もう、今月のお小遣い、どうするのよぉ!
「いいじゃん。沙希って服にお金使わないんだから」
 それは……そうだけどぉ。
「ただいまぁ」
 玄関あけて、挨拶したけど何の返事もない。
 あ、そうかぁ。お母さん達、おばあちゃんのところに……。
 いけない! 電話しなくっちゃ!
 あたしは、慌てて玄関で靴を脱いで、電話に駆け寄った。
 ぐきぃ
 痛たたた。電話台に右足の小指ぶつけたぁ。
 ひぃーん、痛いよぉ。
 半泣きになりながら、短縮の1番。
 ピポパ……
 トルルル、トルルル、カチャ
「はい、虹野でございます」
 受話器の向こうからお母さんの声が聞こえた。お母さんが電話に出て来るって事は、一家全員で病院に行ってるってわけでもないみたいね。
「あ、お母さん? あたし、沙希だけど……」
「あ、沙希なの? ごめんなさいね。今日の入学式行けなくて」
「うん。それはいいんだけど、おばあちゃん大丈夫?」
「ええ。心配ないみたい」
「……よかったぁ」
 あたし、思わず大きなため息ついちゃった。
「とりあえず、お医者さまも大丈夫だって言ってくれたし。私たちはもう一日様子を見てから、明日帰ります」
 お母さんの癖なのよね。突然敬語使うの。ってことは、お母さんも大分リラックス出来てるのね。よかった。
「うん、わかったわ。こっちはなんとかやっておくから」
 パチン
 電気を消して、ベッドに潜り込む。
 ふぅ。何とか終わったね。ちょっとあわただしかったけど、でも充実した一日だったなぁ。
 これからの3年間、きらめき高校でどんなことがあるんだろう?
 そんなことを考えながら、あたしは眠りに落ちていったのでした。

《続く》


 メニューに戻る  目次に戻る  前回に戻る  先頭へ  次回へ続く