喫茶店『Mute』へ
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沙希ちゃんSS 沙希ちゃんの独り言
第
話 葉澄ちゃんがやってきた(後編)

「ここよ」
「ハイ、お姉さま」
葉澄ちゃんは肯いて、あたしと一緒に『Mute』に入ったの。
「あ、先生、紹介するね。この娘が葉澄ちゃん。葉澄ちゃん、こっちが舞お姉さんと、館林先生。館林先生は、あたしの学校の保健の先生なの」
あたしが紹介すると、先生は立ち上がってにこっと微笑んだ。
「館林晴海よ。あなた、お名前は?」
「あ、虹野葉澄です……」
葉澄ちゃん、ちょっと様子がさっきまでと違う。なんだか目つきがとろんとして先生を見てるの。
「葉澄ちゃん、ね」
先生は立ち上がると、葉澄ちゃんの頬っぺたをそっと撫でた。
「合格だわ、あなた」
「あ、はい」
「舞、ちょっと奥借りるわよ」
先生はそのまま葉澄ちゃんを抱くように奥の部屋に連れて行っちゃった。
あたしは、やれやれって表情でそれを見送ってる舞お姉さんに訊ねたの。
「舞さん、中で何やってるの?」
舞お姉さんは、なんだか遠くを見る目をして、あたしに言ったの。
「沙希ちゃん、世の中には知らないほうがいいことがあるの。ね?」
「あ、はい」
あたしは、素直に肯いておくことにした。だって、なんだかそのときの舞さんって、すごく悟ってるって感じだったんだもの。
30分くらいしてからかな。奥のドアが開いて、先生がスカーフの位置を直しながら出てきたのは。
「お待たせ。あ、舞、ブルマンをブラックでちょうだい」
「そう言うと思ったから用意してあるわ。はい」
舞お姉さん、そう言ってコーヒーカップを先生に差しだすと、あたしにぺろっと舌を出すの。
先生はそれには気づかないで、香りを楽しんでる。
「うぅ〜ん。この香りが絶品よねぇ。……ときに沙希ちゃん、何を笑いこらえてるの?」
も、もうだめぇ。
「くっくっくっく。ま、舞さぁん」
「もう、沙希ちゃんってば、嘘の付けない娘ねぇ。はい、晴海の飲んでるのはこれよ」
舞お姉さんはそう言って、ドンとネス○フェゴールドブレンド赤ラベルの瓶を、カウンターの上に置いたの。
「あう。図りおったなぁ」
珍しく絶句してる先生。
「たまには、ね」
舞お姉さんはウィンクすると、奥のほうに視線を向けた。
「でも、葉澄ちゃん出てこないけど、何をやったの? ……って、まぁ言わなくてもいいけど」
そういえば、葉澄ちゃんが出てこないわ。
先生は苦笑した。
「いやぁ、久しぶりに手応えのある相手だったわ」
あたしは、心配になってカウンター越しに奥のほうをのぞき込んだ。
「葉澄ちゃん? 大丈夫?」
「ふわぁい」
返事が聞こえてきたんだけど、さっきまでの元気一杯の声とは打って変わって、なんていうかすごく気の抜けた声だった。
あたしは先生に尋ねた。
「葉澄ちゃん、本当に大丈夫なんですか?」
「あのね」
先生は苦笑した。そして時計を見上げた。
「あ、もうこんな時間じゃない」
「ホント。いっけない! ディスカスにご飯あげないと!!」
舞お姉さん、あたふたと奥に入っていっちゃった。そういえば、奥ってマスターが大事にしてる熱帯魚の水槽があるのよね。
「それじゃ、あたしも引き上げるとするか。沙希ちゃん、送って行ってあげましょうか?」
あたしはちょっと考えて、肯いた。
「お願いします」
「オッケイ。葉澄ちゃん、帰るわよぉ」
先生が呼ぶと、葉澄ちゃんがあたふたと出てきた。
「待ってください、晴海お姉さまぁ」
「!?」
晴海お姉さまって、先生のこと?
あたしが先生に視線を向けると、先生はあたしにVサインをしてみせた。
ドッドッドッドッ
あたしは先生の車の後ろに乗って、窓から流れる景色をぼーっと眺めてたの。
前では、先生と葉澄ちゃんが仲良くお喋りしてる。
「……ってね」
「……なんですかぁ? やだぁ」
!
あたしの視界をその瞬間よぎったのは……、
主人くんと……藤崎さん?
あたしは振り向いて後ろの窓ごしに、脇の歩道を眺めた。
晴れ着姿の藤崎さんと、仲良く話をしながら歩いてる主人くんが、あっという間に小さくなっていく。
……そっかぁ。主人くんは藤崎さんと初詣でに行ったんだぁ……。
あたしは、椅子に座り直しながら心の中で呟いた。
あれ? なんであたしもやもやしてるんだろう?
主人くんが誰と初詣でに行っても関係ないんだし、それに主人くんと藤崎さんだったらお似合いだし。
そうよね、うん。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
「え?」
顔を上げると、助手席から葉澄ちゃんが心配そうにあたしのほうを振りかえってた。
「な、なんでもないってば。うん、全然」
「ところで、虹野さん。もうお返事したの?」
「え?」
不意に先生に聞かれて、あたしは一瞬何の事か分かんなかった。先生はハンドルを操りながら笑ったの。
「その様子じゃ、まだみたいね」
「あ、明石先輩ですか? まだですけど、もう決めました」
「そう? 決めたのなら、早めに伝えることね。何なら、明石くんの家まで送ってあげるけど」
「え? あ、そ、それはぁ……」
でも、あたし一人で行けるかな? うーん。それに一人だと、結局色々考えちゃいそうな気もするし……。
「あの、それじゃお願いします」
あたしが言うと、先生は「オッケイ!」と笑って、ハンドルをぐいっと切った。
キィッ
先生は、住宅街の一角で車を停めたの。
「ここが明石くんの家よ」
へぇ。住所は知ってたけど、あたしの家とは方向が違うから、来るのは初めてだったんだけど、あたしの家と同じくらいの、2階建ての普通の家なんだ。
あ、表札にちゃんと“明石”って書いてある……って、当たり前か。
で、門のよこには車庫があって、白い車が停めてある。カローラかな?
そのカローラの横にはスポーツサイクルが立ててある。きっとあれが明石先輩の自転車なのよね。
門柱にはチャイムと郵便受けが……。
「虹野さん、いつまで観察してるのかなぁ?」
先生の声に、あたしはっと我に返った。そうよ、観察してる場合じゃないわ。
「と、とりあえず降ります」
あたしはそう言って、先生の車から降りる事にしたの。
門の前まで来ると、チャイムに手を伸ばして、思い切って押す。
ピンポーン
奥のほうでチャイムが鳴る音が聞こえて、しばらくしてインターホンから声が聞こえてきた。
「どなたですか?」
「あ、すみません。あたし、虹野っていいますぅ」
「はぁ……」
向こうで困ったような声が聞こえて、あたしはたと気がついた。虹野だけじゃ、誰なのかわかんないんだ。
「あの、きらめき高校のサッカー部のマネージャーやってる虹野と申しますが……」
「まぁ、きらめき高校の。ちょっと待っててね。建治、建治!」
しばらくして、ドアががちゃりと開いて、明石先輩が顔を出した。
「虹野……」
「あ、先輩、その……」
あたし、先輩の顔を見たとたん、言おうと思ってた事がどっかにすっ飛んじゃって、どう言えばいいのか、わかんなくなっちゃった。
「あたし、その……」
思わず振り返って、先生の車を見ると、先生がフロントガラス越しに手を振ってるのが見えた。
「あれ? 館林先生じゃないか」
明石先輩、ちょっとおどろいて車のほうを見てる。
「あ、はい。ちょっとここまで送ってもらったんです」
「そうなんだ。まいったなぁ」
明石先輩は頭を掻くと、あたしに言ったの。
「虹野の答えはわかったよ」
「え?」
「もし俺とつきあうって言うなら、第3者を連れてくるような娘じゃないからな、虹野は」
そう言うと、明石先輩はうんうんと肯いた。
あたしは、慌てて頭を下げた。
「ご、ごめんなさい!」
「別に、虹野が謝ることじゃない。どっちかと言えば、謝らなけりゃならないのは俺の方だ。虹野には酷な選択だったしな」
そう言うと、先輩は笑ったの。
「一つだけ、頼みがあるんだ」
「え? なんですか?」
「頑張って、って言ってくれないか?」
先輩、明後日の方を見ながら言ったの。
「俺、いや、俺だけじゃない。俺達サッカー部のみんなが、どれくらい虹野のその言葉に励まされたか、一番知らないのは虹野自身じゃないかな。それくらいみんな、その言葉で本当に頑張って来られたんだ」
「……」
「だから、最後に一度でいい。俺のためだけに、その言葉を聞きたいんだ」
「……わかりました」
あたしは肯くと、ぎゅっと拳を握った。そして、先輩をじっと見つめて、すっと息を吸って、言った。
「頑張って! 根性あるのみよ!」
「おう!」
先輩は、ぴっと親指を立てて肯いた。
「まぁ、これで一つは片づいたわね」
あたしの家に向かう車の中で、先生はあたしに言ったの。
「一つ?」
「そうよ。虹野さん、まさかこれで全て終わりなんて思ってないわよね?」
先生はルームミラー越しにあたしを見て、言った。
「まだまだこれからよ。高校生活は」
「……」
「さしあたっては、主人くんかな?」
「だから、どうしてそこで主人くんの名前が出てくるんですかぁ!」
「主人って誰なんですかぁ?」
葉澄ちゃんが先生に尋ねる。
「うん。沙希ちゃんの恋人」
「うっそぉぉぉ! お姉ちゃん恋人いたのぉ!?」
「だから、そんなんじゃないんだったぁ! ああ〜ん、もぉ〜!」
その晩。
あたしが『日本の名湯シリーズ 雲仙地獄巡り』を入れたお湯の中で手足を伸ばしてると、不意に脱衣場の方で声が聞こえたの。
「お姉ちゃん、湯加減はどうですか?」
「うん、ちょうど良いくらいよ」
返事してから、しまったと思ったけど、もう後の祭り。
ガチャ!
「それじゃ、お背中流しますねぇ!」
満面の笑みを浮かべてお風呂に入ってきた葉澄ちゃん。
あたしは思わず心の中でお祈りをしてた。
ああ、神さまぁ。か弱い沙希をお守りください。
《続く》

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