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沙希ちゃんSS 沙希ちゃんの独り言
話 晴海先生さようなら


「早いもんだな」
 サッカー部室を見回しながら、明石先輩は感慨深げに呟いたの。
「そうですね」
 あたしも相づちを打つと、ぺこっと頭を下げたの。
「先輩、1年間ありがとうございました」
「おいおい、礼を言うのはこっちだって。虹野や主人、それに森、前田、服部、江藤も。最後の1年は本当に楽しかったぜ」
 そう言うと、明石先輩は腕時計をちらっと見たの。
「おっと、そろそろ式が始まるな」
「もうそんな時間ですか?」
 あたしも時計を見て、肯いた。
「そうですね」
「んじゃな。しかし、こんな朝からお前らがいるとは思わなかったな」
「マネージャーが言いだしたんっすよ」
 森くんが言っちゃったの。
「虹野さんが?」
 明石先輩はあたしのほうに視線を向けたの。しょうがないなぁ、森くんったら。秘密にしといてって言ったのに。
「きっと、先輩は卒業式の前に、部室にお別れを言いに来るんじゃないかなって思ってたから……」
 あたしは笑って言ったの。
「それじゃ、行きましょう!」
 そう、今日は卒業式。3年のみんなとは、今日でお別れ。
 だけど、もう一つお別れがあるなんて、その時のあたしは思っていなかったの……。

 卒業式は何ごともなく、式次第通りに進んでいく。
 そして、卒業証書授与も終わって、あとは卒業生が退場するだけ、ってところで、不意に教頭先生がマイクを取ったの。
「えー、ここでもう一人、今日でこのきらめき高校を去られる方がいらっしゃいます」
 その声にざわつくみんな。
 あたしには、それが誰なのか、すぐに判ったの。
 でも、まさか今日だなんて……。
「保健教諭、館林晴海先生は、一身上の都合により、本日を持ちまして、退職されることになりました」
 その声に、ざわめきはどよめきに変わったの。
「おい、マジ?」
「嘘だろ?」
「そ、そんなぁ……」
「皆さん、静かに! それでは、館林先生からお別れの挨拶です」
 そう言って、教頭先生はマイクの前から下がったんだけど、どよめきは収まらない。
 その中、館林先生が、マイクの前に立ったの。
「あー、テストテストワンツー、あえいうえおあお、隣の客はよく柿食う客だ、東京都特許許可局は実はないんだよっと」
 先生の声に、どよめきがだんだん小さくなっていく。
 やがて、広い体育館がしぃんと静かになったところで、館林先生はいきなり言ったの。
「ごめんなさい! またぶつかっちゃったあいたぁ~~」
 そのままその場に頭を抱えてうずくまる先生。な、何があったの?
 あたし、反射的にJ組の方を見たの。あ、やっぱり。
 見晴ちゃんが、何かを投げた姿勢ではぁはぁいってる。あ、きっと髪留めを投げたんだ。
 と、しゃきんと起きあがる先生。
「まぁ、冗談はコレくらいにしておいて、と」
 そう言って、先生はマイクをスタンドから外して、自分で持って話し始めたの。
「えっと、残念ながら、今日で保健室のアイドルを返上することになりました。
 思えば、私がこのきらめき高校に来て1年、長いようで短い1年でした。3年で優勝を狙える保健室にするつもりだったんですが、それはかなわぬ夢となってしまいました。
 国破れて山河ありともいいますが、みなさんも健康には気を付けて、電気を大切にね。
 それでは、短いですがこれで挨拶にかえて、末永く皆さんの幸せを祈りたいと思います」
 そう言うと、先生はマイクをそっとその場に置いて、深々と一礼。
 パチパチパチパチ
 みんなが拍手する中、館林先生はそのまま歩いて、体育館から出ていったの。
 ガラッ
 あたしは保健室のドアを開けて、その場に立ち竦んだの。
 違う。なにか違ってる。
 その訳は、すぐに判ったの。
 先生の使ってた机が、綺麗に片づいてるの。まるで誰も使ってなかったみたいに。
 そんな。それじゃ、もう先生はいないの?
 あたしは、きょろきょろ部屋の中を見回した。
 まだ、挨拶もしてないのに……。もういなくなっちゃったの?
「あ、虹野さん」
「え?」
 振り向いたら、如月さんが立っていたの。あたしの肩ごしに保健室をのぞき込む。
「あの、館林先生は?」
「もういないみたいなの。あたしもお世話になったし、ご挨拶しようと思って来たんだけど……」
 あたしが答えると、如月さんはがっくりと肩を落としたの。
「そうですか……」
「そういえば、如月さんと初めて逢ったのも、ここだったよね?」
 あたしは、保健室のドアの脇の壁にもたれかかって、思い出してた。
「ええ、そうでしたね」
 相づちを打つと、如月さんはくすっと笑った。
「考えてみると、いつもの逆でしたね。虹野さんが倒れて、私と戎谷さんで保健室にかつぎ込んで……」
「やだ、もう」
 あたし、あの時のことを思い出して、かぁっと赤くなっちゃった。
「ここでは、いろいろありましたし」
 如月さんも、ちょっと赤くなって呟いた。……なにがあったのかな?
 あたしの視線に気がついたのか、如月さんは苦笑したの。
「私、体が弱くて、よく倒れては保健室にかつぎ込まれてましたから。館林先生には、『常連さんね』なんて言われてましたし」
「そうなんだぁ……」
 と。
「あ、やっぱここにいるし! なんだ、未緒もいたんだぁ」
「ひなちゃん?」
 ひなちゃんがばたばたと走ってきたの。あたしの前で急ブレーキかけて、はぁはぁと息を切らしてる。
「ちょ、ちょっと、朝日奈さん、大丈夫ですか?」
「んもう。はい、吸ってぇ、吐いてぇ」
 すぅー、はぁー
 あたしの声に合わせて深呼吸してから、ひなちゃんはぴょんと顔をあげた。
「晴海センセ捜してるんしょ? もういないってば」
「うん。ひなちゃん、知ってるの?」
「ロンモチ! 絶対『Mute』にいるよ」
 ぴっと指を立てて、ひなちゃんは自信ありげに言い切ったの。
 でも、そうよね。『Mute』には舞さんもいるし、先生もよくあそこでお茶飲みながらだべってたし。
「そっかぁ。うん、それじゃ行ってみようかな。如月さんも行く?」
「そうですね。一言、ご挨拶しなくちゃいけませんし。……あ、虹野さん、いちいち、如月さん、なんて呼ばなくても良いですよ」
「そそそ、未緒っぺでいーよね」
 横からひなちゃんが口を挟むと、如月さん、「それはちょっと……」って感じで苦笑したの。
 うーん、うーん。
「それじゃ、未緒ちゃん、でいいかな?」
 ちょっと気易すぎかな?
「ええ、それでかまいませんよ、虹野さん」
「ちょっと、未緒りん、沙希が“未緒ちゃん”で、未緒たんが“虹野さん”じゃ、通らないっしょ?」
 またまた横からひなちゃん。でも、ひなちゃんの呼び方もなんとかした方がいいと思うんだけど。
「それもそうですね。でも……」
「それじゃ、沙希って呼び捨てでいいよ。ひなちゃんも彩ちゃんもそう呼んでるし」
「でも……。それでは、沙希さん、でいいですか?」
 如月さん―――じゃなくて、未緒ちゃんはそう言うと、にこっと笑ったの。あたしも笑って手を握る。
「うん、よろしくね!」
「んじゃ、サクッと『Mute』に行こう!」
 ひなちゃんが手を挙げて、あたし達は歩きだした。

 本日、所用により臨時休業と致します。

喫茶店『Mute』店主

「あによこれぇ!」
 『Mute』のドアに張られた紙を前にうなるひなちゃん。
 あたしと未緒ちゃんは、顔を見合わせてため息。
 でも、それじゃ館林先生、どこに行ったのかな?
「どうする? 未緒ちゃん」
「そうですね……」
 未緒ちゃんが小首を傾げてると、後ろで車のクラクションが鳴ったの。
 プップー
「どうしたの? きらめき高校の誇る綺麗どころがそろって。『Mute』なら、今日はマスターと舞が買い物に出かけてるから休みよ」
「館林先生!?」
 あたしたち、声を揃えて叫んでた。

 ブロロローー
 あたし達は、館林先生の緑のミニクーパーに乗せてもらって、おしゃべりしてたの。
「かっちゃんと舞ねーさんが揃って買い物って? それもお店閉めて?」
 助手席のひなちゃんが尋ねると、先生は笑ってハンドルを切りながら答えたの。
「あの二人が大騒ぎするんだから、決まってるでしょ? 熱帯魚よ」
 そういえば、二人とも熱帯魚が趣味なのよね。
「なんでも、行きつけのアクアショップから連絡が入って、猫が入荷したとかなんとか」
「猫?」
 熱帯魚に猫っているのかな?
 あたしが考えてたら、未緒ちゃんが隣で言ったの。
「レッドテールキャットのことですか?」
「それそれ。舞が興奮して電話してくるから、なんのことかと思ったわ」
 笑ってギアを入れる先生。
 ちんぷんかんぷんなあたしの顔に気づいて、未緒ちゃんは説明してくれたの。
「レッドテールキャットっていうのは、ブラジル産のナマズの一種なんですよ」
「ナマズ?」
「舞もそう言ってたわ。さすが未緒ちゃん、物知りよねぇ」
「いえ、そんな」
 あ、未緒ちゃん赤くなって照れてる。なんだか可愛いな。
 キキィーッ
「さぁて、着いたわよ」
 先生は、きらめき駅前で車を止めたの。
「あ、はい。ありがとうございます」
 そういえば、未緒ちゃんは電車通学なのよね。前にちらっと聞いたことがあったっけ。
 あたし達は全員、車の外に出たの。だってミニクーパーって2ドアだから、後ろの席から出るときは、前の席の人も外に出ないといけないのよね。
「先生、1年の間でしたけど、お世話になりました」
 未緒ちゃんがぺこりと頭を下げると、先生は笑ったの。
「あたしは別に何もしてないわよ。月並みな言い方だけど、体には気をつけてね。あなた一人の体じゃないんだから」
 先生がそう言うと、未緒ちゃんはぽっと赤くなって俯いたの。
「やだ、先生ったら……」
「おいおい」
 思わずツッコミを入れるひなちゃん。
 未緒ちゃんは慌てて手を振った。
「いえ、そういう意味じゃなくて、そのですね、あれがどうしたって」
 狼狽えてる未緒ちゃんなんて初めて見た気がする。
「そ、そうじゃなくて、先生はこれからどうなさるんですか?」
 強引に話を変える未緒ちゃん。
 先生は、ふっと笑って遠くを見たの。
「まだ、決めてないのよ。どうするか、なんてね」
「先生……」
「ま、何とかなると思うんだけどね。見晴のことは、よろしくね、未緒ちゃん」
「あ、はい」
 肯く未緒ちゃん。そういえば、見晴ちゃんと未緒ちゃんは、同じ文芸部だものね。
「じゃ、名残は尽きねど、この辺りで」
 そう言うと、先生はあたし達に声を掛けたの。
「さ、二人は乗った乗った。家まで送るわよ」
「それじゃ、失礼します」
 未緒ちゃんはもう一度ぺこっと頭を下げると、改札の方に歩いていったの。何度か振り返って、頭を下げながら。
 手を振ってた先生は、未緒ちゃんが改札の向こうに消えると、ふぅとため息をついて、車に乗り込んだの。
「んじゃ、行こうかな」
 キィッ
 あたしの家の前で車が止まると、うちのドアが開くのは同時だったの。
「晴海お姉さまっ!」
 飛びだしてきた葉澄ちゃんは、そのままミニクーパーの前で両手を組んでうるうるしてる。
「お久しぶりですぅ。御無沙汰してましたぁ」
「葉澄ちゃん……」
 ドアをパタンと閉めると、先生はすっと葉澄ちゃんの頬を撫でた。
「ごめんね、葉澄ちゃん。今日はお別れを言いに来たの」
「えっ?」
 ガガーン
「あれ? 今未緒ちんがいなかった?」
 きょろきょろするひなちゃん。いるわけ、ないわよね。さっき駅で別れたんだし。
「そ、そんな……」
「ごめんね」
 そう言うと、葉澄ちゃんをきゅっと抱きしめる先生。
「お姉さま、私、わた……」
「もういいの。何も言わなくても。葉澄ちゃん、私のことは忘れて、ね?」
「そ、そんなことできません!」
 うるうるしながら叫ぶ葉澄ちゃん。
「私、晴海お姉さまなしで、これからどう生きていけば良いんですか?」
「沙希ちゃんがいるでしょ?」
「それはそれ、これはこれですっ!」
 きっぱり言い切る葉澄ちゃん。
 先生は苦笑して、屈み込むと、葉澄ちゃんの頬をハンカチで拭いてあげたの。そして、そのハンカチを握らせると、囁いた。
「このハンカチを、私だと思って大事にしてね」
「お姉さま……、はい」
 小さな声で、葉澄ちゃんは肯いた。先生は笑顔でその頭をなでなでする。
「ん、いい娘ね。沙希ちゃん、葉澄ちゃんは任せたわよ」
「はい。……え?」
 反射的に返事しちゃって、慌てるあたし。
「そ、それって……」
「わぁ~~~ん、お姉さまぁ!」
 そのまま葉澄ちゃんはあたしに抱きついて、泣きじゃくり始めたの。あーん、どうしよう。
 あ、ちょっとやだ、そんなとこ触っちゃ。……だめだってばぁ。
「んじゃ沙希ちゃん後はよろしくねぇ~。夕子ちゃん、お邪魔しちゃ悪いから行きましょうか?」
「そーですね。んじゃバイバイ!」
 ブロロロローー
 二人とも、さっさと車に乗り込んで行っちゃった。
「おねえさまぁ」
 あっ、だ、だめだってばぁ! ここは外なのよぉ!
「そうなんですか。晴海お姉さま、学校辞めちゃったんですかぁ」
 やっと落ちついた葉澄ちゃんをなんとか説得して家に入ると、あたしは先生が辞めたことを説明したの。
「うん、そうなんだって。今後どうするのか、まだ決まってはないみたいなんだけど、どっちにしても、今までみたいにはもう逢えないと思うな」
「そうですよねぇ」
 葉澄ちゃんはほっぺたに指を当てて考えてたけど、不意にうんうんと肯いたの。
「やっぱり二兎を追う者一兎も得ず。私はお姉さま一筋で行きますっ!」
「……勘弁して」
 こうして、晴海先生はきらめき高校からいなくなっちゃったの。
 そして、あたし達の1年目も、終わろうとしてた……。

《続く》

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