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沙希ちゃんSS 沙希ちゃんの独り言
話 沙希ちゃん第二次夏合宿 その


「虹野さん」
 あたしを呼ぶ声がした。
 あたしはびくっとして、おそるおそる振り返った。
 主人くんが、お腹を押さえながら立っていたの。
「主人くん……も?」
「ああ。虹野さんは無事なんだね。よかったよ」
 にこっと笑う主人くん。
「あたし……」
 あたしの頬を、涙が流れ落ちた。
「虹野……さん?」
「ごめんなさい! あたしの、あたしのせいで!」
 あたし、その場に膝を突いたまま、頭を下げた。
「あたしが、ちゃんとお料理しなかったから、そのせいでみんなが……」
「虹野さん……」
 主人くんは、あたしの背中にぽんと手を置いた。
「虹野さんのせいじゃないよ」
「ううん。あたしの……」
「主人くんの言うとおりよ」
 静かな声がした。
「高橋先生……?」
 あたしは顔を上げた。
 いつ来たのか、体育館の中にはお医者さんや看護婦さんが大勢いて、床に寝てるみんなの診察をしてたの。
 そして、もう一人。
「ああ、高橋先生、こちらでしたか」
「げ、伊集院! なんでまたお前が!」
 主人くんがそう言ってから、「いてて」とお腹を押さえた。慌てて、あたしは主人くんに駆け寄る。
「大丈夫?」
「ま、まぁ。それにしても伊集院、こんな朝っぱらから俺達を笑いにでも来たのかよ?」
「まさか。僕はそれほど暇じゃない」
「だったら……」
 言いかけた主人くんを制して、高橋先生が言う。
「今来てくださっているのは、伊集院君のところの専属医療チームなのよ」
「伊集院の?」
 ゴホンと咳払いすると、伊集院君は先生に言ったの。
「高橋先生、その話は、ここでは……」
「それもそうね」
「何の話だよ、伊集院?」
 お腹を押さえながら主人くんが訊ねると、伊集院君はふんと鼻を鳴らして言った。
「それよりも、君もさっさと治療を受けたまえ。見苦しい」
「何だと!? あいたたっ」
 手を振り上げかけて、主人くんはまたお腹を押さえてうずくまっちゃった。あたしも慌てて屈み込んで、主人くんの顔をのぞき込む。
「伊集院君の言う通りよ。早く治療してもらわないと!」
「だ、だけどさ……」
 伊集院君が高橋先生に話しかけている声が、後ろで聞こえる。聞かれたくない話なのか、声を潜めてるみたい。
「先生、スタッフからの報告によると、やはり先生の推察通りです。既にスタッフには対応を指示しています」
「やっぱりね。それで、治るのね?」
「ええ。我が医療スタッフの開発した注射一本で、ウィルスは確実に破壊できます」
「よかったわ」
 ……食中毒のこと、かな? あ、それよりも主人くんの治療をお願いしなくちゃ。
「それでは、僕はお爺様……いや、理事長に報告しなければならないので、これで失礼します。庶民も早く治してもらうがいい。はっはっは」
 伊集院君はそう言って笑いながら行っちゃった。
「あんにゃろうがぁ。……でも、どうして伊集院のところの専属医療チームとやらが出てきたんだ?」
 主人くんが訊ねると、高橋先生はさっと辺りを見回して、声を潜めて言ったの。
「後でどういう話になるかは判らないけれども、本当の話をするとね、みんなは食中毒じゃないのよ。だから、虹野さんの夕食のせいでもない。安心して良いのよ、虹野さん」
「は、はい……」
「それじゃ、どういうこと……あいたたた」
 お腹を押さえる主人くん。
 高橋先生は苦笑して言ったの。
「答えを聞く前に、まず治療してもらってきなさい。注射一本で治るんだから」
 注射? ……あたしはお腹痛くならなくてよかったぁ。
「あ、虹野さんも打ってもらいなさい。用心のために」
 ……しくしく。

 お医者さんに注射を打ってもらってから、あたしと主人くんは高橋先生の話の続きを聞くために、保健室に向かったの。
 東の空が白みかけて、段々明るくなり始めてた。廊下の灯りは付いていなかったけど、窓から差し込んでくるそのあけぼのの光で照らされてて、充分に歩ける明るさだったの。
「それにしても……くくっ」
 主人くん、思い出し笑いしてる。
「な、なによ?」
「いやぁ、虹野さんがあんなに注射が嫌いとは……ご、ごめん。くっくっくっく」
「んもう。誰だって苦手の一つや二つあるじゃないの」
 そう言いながらも、あたしはさっきのことを思い出して赤面してた。
 だって、ホントに注射って苦手なのよ。あのとがった針を見ただけで、くらっと来ちゃうの。ただでさえそうなのに、さっき打ってもらった注射って、すごく太かったのよ。
 あ、思い出しただけで涙が出てきた。
 あたしは、右腕を脱脂綿で揉みながら、話題を逸らした。
「それにしても、ほんとうにあたしのせいじゃないのかな?」
「そりゃ間違いないと思うよ。虹野さんの料理で食中毒起こすなんて考えられない」
「……」
 あたしは俯いた。
 主人くんにそう言ってもらえるほど、今回の料理には心を込めてなかった。それは確かなんだもん。
 あたし……。
「虹野さん、どこに行くの?」
「え?」
 主人くんに言われて、ハッと気付いた。あたし、保健室の前を通り過ぎようとしてたの。
「ご、ごめんなさい」
 慌てて戻るあたしをちらっと見て、主人くんは保健室をノックしたの。
 トントン
「2−Aの主人です」
「あ、2−Eの虹野です」
「どうぞ」
 高橋先生の声がして、あたし達は保健室に入ったの。
 館林先生が保健の先生だった頃とあまり変わってない保健室。結局館林先生もよくここに遊びに来てるらしいし。
「どうぞ、座って楽にしててね」
 高橋先生は、あたし達に椅子を勧めると、自分も椅子に座ったの。そして、声を潜める。
「これから言うことは、秘密よ」
「は、はい」
 ごくりと唾を飲み込む主人くんとあたし。
「実はね、みんなは食中毒じゃなくて、細菌兵器にやられたのよ」
「細菌兵器?」
「そう。食中毒とよく似た症状で、しかも食中毒の治療をするとかえって悪化するっていう、特殊な菌。正式な名前もまだなくて、B−225って呼ばれてるやつよ」
「どうして、そんなのが俺達に?」
 主人くんが聞き返した。
 高橋先生はふぅとため息をついた。
「昨日の昼食に仕込まれていたのよ。正確に言えば、昼食の材料のパスタに。虹野さん、昨日の昼食、食べなかったでしょ?」
「え? あ、はい」
 あたしはうなずいた。ちょっと食欲が無くて、お昼抜いちゃったのよね。
「清川さんも。彼女は特別メニューだから、朝と昼は他の人とは違うものを食べてるのよ。それに、女子バスケ部だってそう」
「え?」
 言われて思い出した。体育館であたしが毛布の用意にてんてこ舞いだったときに手伝ってくれたのは、鞠川さん達女子バスケ部の人たちだったのよね。
 あの時、鞠川さん言ってたもの。
「女子バスケ部は、みんな動けるわよ。何でも言ってちょうだい!」
「女子バスケ部のメンバーも、夕食は取ってるけれど、昼食は抜いてるのよ。……もっと正確に言えば、こっそりと外食してたみたいなんだけど。ホントはいけないんだけど、今回は怪我の功名ってやつよね」
 高橋先生は苦笑した。すぐに真面目な顔に戻って話を続ける。
「実はね、どうやら伊集院君を狙ったテロリストの犯行じゃないかと思われるのよ。でも、その材料は、伊集院家に行かないできらめき高校に来て、昨日の合宿メンバーのお昼御飯になっちゃった、と。伊集院君の好意だったんだけど、それが裏目に出ちゃったっていうところかな」
「伊集院がそんなことするからだ。たまにいい事すると思えばこれだもんなぁ。それで、伊集院のところの医療スタッフが来たんですか?」
 訊ねる主人くん。 「そう。あの人達は、対細菌兵器戦の訓練も受けたスペシャリストだしね。一目見て、これはって思ったから、伊集院君に連絡を取って、来てもらったの」
「ちなみに、犯人は現在、我が伊集院家私設軍諜報部がその全力を挙げて行方を追っているところだ。伊集院家に刃向かうことの愚かさを知らしめてやるからな。はっはっっはっは」
 急に笑い声が聞こえて、仕切りカーテンの向こうから伊集院君が姿を現したの。
「てめ、伊集院! てめぇのことに俺達を巻き込むんじゃねぇ!」
 主人くんが立ち上がると、つかつかと伊集院君に歩み寄る。
 あたしは慌ててその肩に手をかけて引き留めたの。
「主人くん!」
「……」
 しぶしぶっていう感じで腰を下ろす主人くん。
 高橋先生は苦笑して、主人くんとあたしに言ったの。
「このことは内密にね」
「でも!」
「少なくとも、虹野さんが不名誉な噂を立てられるようなことにはしないから。ね、伊集院君?」
「そうだな。僕にとっては不本意だが、食中毒を出したのはうちのシェフということにしておこう。細菌兵器を仕込まれたことに気付かなかったのは確かなのだしな」
 腕を組んでそう言うと、伊集院君はなおも文句を言いたそうな主人くんとあたしに頭を下げた。
「迷惑をかけてすまなかった」
 ……あたし、伊集院君が頭を下げたの、初めて見た。
 主人くんもおなじだったみたい。振り上げた拳の落とし所に困ったような顔で、肩をすくめた。
「わかったよ。真相は黙っておいてやる」
「ま、しゃべったところで誰も信用しないだろうけれどもね。はっはっは」
「……お前は、いつも一言多いんだよ」
 ぶつぶつ言うと、主人くんはあたしに尋ねたの。
「で、今日の練習はどうしようか?」
「そうね。みんな変な時間に起こされちゃったし。午前中は休みにして、午後から練習でいいんじゃないかしら?」
「そうだね。じゃ、みんなにもそう伝えるか」
 そう言うと、主人くんは高橋先生に一礼して、保健室から出ていったの。当然のごとく、伊集院君は無視。
 うーん。
「それじゃ、あたしも失礼します」
 あたしは二人に礼をして、保健室から出ると、そっとドアを閉めたの。
 寝なおすっていう主人くんと別れて、廊下を歩きながら、あたしは考え込んでいたの。
 確かに、今回の騒ぎは、あたしとは関係なかったのかもしれない。
 でも、みんなのための夕食作りから手を抜いちゃってたのは、確か。
 こんなあたし……、マネージャー失格よね。
 なんだか、自信、無くなってきちゃったなぁ。
 ちょうどその時、朝日が昇ってきた。
 あたしは、窓のさんに頬杖をついて、その朝日をしばらく眺めてた。

《続く》

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