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沙希ちゃんSS 沙希ちゃんの独り言
話 沙希ちゃん第二次夏合宿 その


 ピィーッ
 みのりちゃんが、思いっ切り笛を吹き鳴らすと、サッカーグラウンドに散って練習してたみんなが集まってくる。
 主人くんが、校舎の壁に掛かってる大きな時計を見上げて、時間を確認してから、みんなに言う。
「それじゃ、今日の練習はここまで」
「ありがとうございました!」
 みんな一礼して、更衣室に駆け戻っていく。
 あたしは、それを見送ってから、ふぅとため息。
 ……ダメダメ、こんなのじゃ。
 少なくとも、今はまだマネージャーなんだから。
 頑張らなくちゃ。
 自分に言い聞かせながら、ボールの入った籠を押して、部室に運んでいく。

 ボール籠を部室に入れると、あたしはベンチに座りこんだ。
 じっと、籠の中に入ってるボールを見つめる。
 そうしてると、主人くんがボールを磨いてる姿が、目に浮かんできた。
 このベンチに座って、主人くんはボールを磨いてるんだよね。
 最近は、キャプテンの仕事が忙しくなって、毎日は磨いてないけど、それでも週に2、3度は、練習が終わってから部室でボールを磨いてるの。
 新入部員の相談なんかも、ボールを磨きながら受けてたりして、それを真似して新入部員もボール磨きするようになってきたから、前ほどボールが汚れてないっていうのもあるし。
 さて、と。いつまでもここにいても仕方ないよね。
 立ち上がろうとしたとき、部室の外の廊下で、声がした。
「最近、マネージャーの様子がおかしいと思わないか?」
「ああ。確かに変だなぁ」
「主人、なにか気付いてないか?」
「いや、別に……」
 部員のみんなの声。話題になってるのは、あたしのこと?
「別にってことはないだろ?」
「だって、いつもと変わりないように見えるけど」
「……主人に聞いた俺が馬鹿だったよ」
「どういう意味だよ」
「マジに気付いてないのか? 夏合宿に入ってからのマネージャー、いつにもましてぼーっとしてるじゃないか。もっとも、お嬢さまほどじゃないけど」
「お嬢さま? ああ、テニス部の古式さんのことか」
「そそ。……じゃなくて、古式さんはどうでもいいんだ。問題はマネージャーがなぜぼうっとしてるか、だろ?」
 どうしよう。ちょっと出て行きづらいな。
「とにかく、虹野さんがちょっとおかしいのは確かだろ?」
 江藤君が声を上げたとき、別の声が割り込んできたの。
「虹野先輩がどうしたんですか?」
 みのりちゃん?
「あ、秋穂さん。ちょうど良かった。君は虹野さんと親しいだろ? 何か変わった様子はない?」
 江藤君が訊ねる。
「虹野先輩に、ですか? ……そうですね、ちょっと最近、なんだか心ここにあらずって感じですね」
「やっぱり、秋穂さんもそう思う?」
「でも、きっと虹野先輩、すぐにいつもの虹野先輩に戻ってくれると思いますよ」
 みのりちゃんは明るい声で言ったの。
「なんてったって、努力と根性が信条の虹野先輩ですもん!」
「そっか。そうだよな」
「ああ、あのマネージャーなら、すぐに戻ってくれるって」
「さすが秋穂さん、伊達に虹野さんにくっついてないな」
「あ〜、それどういう意味ですか?」
 みんな、わいわい言いながら、部室の前から離れて行ったの。
 その声が聞こえなくなってから、あたしはそっと部室のドアを開けた。
 みんなにも心配かけちゃって……。あたしって、ダメだな……。
 どうしよう。
 あたし、どうしたら、いいの?
 そのまま、あたしは部室のドアを背にして、ずるずると座りこんだ。
 もう……わかんないよ。
「虹野さん、こんな所で何してるの?」
「え?」
 顔を上げると、藤崎さんが、屈み込んであたしの顔をのぞき込んでいたの。
「藤崎さん……」
「なんだか冴えない顔してるわね?」
「……うん」
 あたしはため息をついた。
「なんだか、自信無くなっちゃった」
「自信? 何についての?」
「……全部。サッカー部のマネージャーやってくことも、ひなちゃんとのことも、……主人くんのことも」
「自信……かぁ。……それじゃ、今までは自信があったの?」
「……」
 考えてみた。
 考えて、それから、ひとつうなずく。
「今までだって、自信なんてなかった。ううん、いつも不安だったのかもしれない。でも、それを感じたことは、今までなかった」
「どうして?」
「多分、今まで、振り返ることもなかったくらい、一生懸命やって来たからだと思う。……うん」
 自分で言って、自分でうなずく。
 藤崎さんは、静かに言ったの。
「虹野さんは、今までずっと、前ばかり見てきたんだものね。だから、走り続けてこられた。だけど、一度立ち止まっちゃうと、また走り出すためには勇気が必要なの」
「勇気が?」
「だって、虹野さんがこれから走ろうって道は、とっても細くて険しいんだもの。足がすくんじゃうのも当然よね。でも……」
 藤崎さんは、その緋色の瞳で、じっとあたしを見つめた。
「走るしか、ないのよ。人生っていうマラソンはね」
「人生っていう……マラソン……」
「……なんてね。こうして言ってみると、すごく偉そうね」
 不意に藤崎さんはくすっと笑った。
「え?」
「ごめんなさい。今のは、この前読んだお芝居の台詞なの」
 この前読んだお芝居? あ、そういえば、藤崎さんって演劇部だったんだよね。
「でも」
 真顔に戻る藤崎さん。
「虹野さん。自分を偽る必要はないと思う。でもね、虹野さんの明るさって、みんなの力になってるんだってこと。それは忘れないで欲しいの」
「あたしの……明るさ?」
「それにね」
 藤崎さんは悪戯っぽく笑ったの。
「ああ見えて、公くん、結構虹野さんのこと心配してるのよ」
「え!?」
 ドキッ
 心臓が大きく鳴った。
「この前も私のところに来てね、「虹野さんが元気ないんだ。何とかならないか?」ですって。ホントに、公くんったら、困ったらすぐに私に泣きつくんだから」
「主人くんが……?」
 ドキドキドキ
 どうして、こんなに胸が高鳴るんだろう?
「だから、元気出してね。それが、虹野さんの魅力なんだから」
「あたしの……魅力?」
「そ。それじゃね」
 最後にあたしの肩をポンと叩いて、藤崎さんは立ち上がったの。
 あたしも慌てて立ち上がる。
「あ、あの……」
「え?」
 振り返る藤崎さんに、あたしはぺこっと頭を下げた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 優雅にお辞儀して、藤崎さんは歩いていったの。
 その後ろ姿を見送りながら、あたしは正直、戸惑ってた。
 何故だかわかんないんだけど、藤崎さんとちょっと話しただけなのに、さっきまでの憂鬱な、どうして良いのかわかんなかったあたしが、どこかに行っちゃった。
 うまく言えないけど、……そう、答えが見つかった。そういう感じ。
 そして……。
 ♪生きることは 闘いに似てる
  背中向けた時が負けさ〜

 鼻歌混じりに、包丁を走らせる。
 つつーっと。よし。
「相変わらず上手いですね、虹野さんの包丁捌き」
「やだぁ、未緒ちゃんったらぁ。お世辞言っても何も出ないよ」
 あたしは鯖を三枚におろしながら、まわりを見回した。
 プッシューッ
「あ、藤崎さん! お鍋噴いてる!」
「え? あ、きゃぁ!!」
「慌てないで、火を消せばいいの!」
「あ、うん」
 カチャ
 火が消えて、蒸気を噴きだしてた大きなお鍋が静かになる。ほっと胸をなで下ろす藤崎さん。
「あー、びっくりしたぁ」
「よし、これで終わりっと。未緒ちゃん、あとはよろしくね」
「はい。三杯酢につけて締めればいいんですね?」
「うん。十一夜さん、豆板醤取ってくれる?」
「これ? はい」
「ありがと。さぁて、やりますか」
 あたしはトレーナーの腕をまくった。
 目の前の特製のコンロには、中華なべが鎮座してる。今日のメインは回鍋肉(ホイコーロー)。
「虹野さん、大丈夫? 中華料理なんて……」
 心配そうに訊ねる藤崎さん。
 あたしは油を中華なべに入れ回しながら、うなずいた。
「家でもやってるから、問題ないと思う」
「でも、量がすごいのよ。100人分からあるんでしょ? 他の料理はみんなも出来るから、今まではよかったんだけど……」
「藤崎さんは?」
「あん、私のことはどうでもいいでしょ」
 ちょっと赤くなる藤崎さん。こう見えても、意外と料理は苦手なのよね。
「それより、中華料理よ! 100人分よ、100人分!」
「だって、下拵えはみんなに手伝ってもらって、もう終わってるじゃない。あとは火を通すだけなんだから」
「だからって……」
「詩織、沙希が出来るって言ってるんだから、ビリーブ、信じてあげましょうよ」
 彩ちゃんが横から口を挟んだ。
「でも……」
「ありがと、彩ちゃん。それに、こればっかりは技術のない人には危ないから」
 そう言うと、あたしは中華なべの取っ手に布巾を巻いて持ち上げると、油を捨てて、新しい油をお玉ですくって流し込む。
「さぁて、行くわよ!」
 今までごめんね、みんな。でも、今日のお料理は、ひと味違うわよ!
 夕食後。あたしは保健室に来てた。
「だからって、そんなに張り切らなくても良かったのに。はい、終わり」
 高橋先生は、あたしの右腕に湿布を貼ると、そう言って笑ったの。
「いいじゃないの。沙希ちゃんらしくて」
 今日は当番で学校に来てた館林先生が、あたしの頭をポンポン叩きながら言う。
「あたしはまだ清い体でいたいから、代わりにあたしの作った料理を食・べ・てってね」
「せっ、先生!」
 思わず右腕を振り上げかけた途端に激痛が走る走るぅ!
「あ痛たたたっ」
「虹野先輩っ、大丈夫ですか!?」
 保健室まで着いてきてくれたみのりちゃんが、心配そうにあたしを見る。
「へ、平気……じゃないかも」
「大丈夫。この秋穂みのり、ちゃんと虹野先輩の代わりはつとめて見せます! だから、心配しないで休んでください!」
 どんと胸を叩くみのりちゃん。うーん、こういうとき頼りになる娘がいると、心強いなぁ。
「それじゃ、お願いしちゃおうかな。って言っても、今日は……。あ、そうか。明日の打ち合わせがあったんだ」
「8時から、第2会議室でしょう? わかってますって」
「でも、もう7時55分……」
「え? わきゃぁ! それじゃ、行って来ます! 虹野先輩、お大事にぃ!」
 みのりちゃんが保健室を飛び出してく。
「それにしても、中華なべを振って腕を痛めるとは、沙希ちゃん、修行不足ね」
 高橋先生は、ノートに何か書き込みながら笑ったの。
「あーん、もう。笑わないでくださいよぉ」
「それより、明日の打ち合わせって、肝試し大会の?」
 わくわくって感じで館林先生が訊ねた。あたしはコクンとうなずく。
 そう、明日は夏合宿の最終日。毎年恒例の「部活対抗肝試し大会」があるの。で、今日はその打ち合わせ。
「今年も、プロデュースはあのコンビなの?」
「あのコンビ?」
 高橋先生が館林先生に聞いたの。そっかぁ、高橋先生、去年はいなかったもんね。
「2年の早乙女−朝日奈コンビのことよ、高橋先生。去年の肝試し大会では、はじめて完走者ゼロっていう快挙を成し遂げたのが、当時1年生ながら責任者に抜擢された、あの二人なの」
「それじゃ、あの二人はディフェンディングチャンピオンというわけですね」
 高橋先生は納得したようにうなずいたの。
 でも、去年とは状況も変わっちゃったのよね。あのころは、あたし達周りも、ひなちゃんも、二人は恋人同士だって信じてたのに……。
 あたしとひなちゃんは、主人くんを巡るライバル同士になっちゃうし。
「あたしはよく知らないんです。誰が仕掛人かってことは、今日の打ち合わせで発表されることになってましたし」
「そっか。それじゃ、あたしもその打ち合わせに顔を出してくるカニ」
 そう言って、館林先生は保健室を出ていったの。
 チッチッチッ
 時計の音と、高橋先生がノートに何か書き込む、サラサラっていう音だけが、静かな保健室のなかで聞こえる。
 あたしは、ベッドに横になって天井を見上げながら、いろんな事を、取り留めもなく考えてた。
 割り切るしか、ないのよね。あたしが主人くんを好きだってことは、変わりないんだし。
 ひなちゃんがどう出ようとも、あたしはあたしなんだし。
 あたしに出来ることを、精いっぱいやれば、それでいいんだよね。
 ……よしっ。
 あたしは身を起こした。
 湿布が効いてるせいか、腕はさっきほどは痛くなくなってた。
「あら、虹野さん。もう大丈夫なの?」
 物音に振り返った高橋先生に、あたしは頭を下げた。
「はい、もう大丈夫です。ご心配をおかけしました」
「そう? それじゃ、あたしもそろそろ帰るわね」
 そう言うと、高橋先生はノートを閉じると、立ち上がった。
 そういえば、高橋先生、食中毒騒ぎの時は夜中だったのに来てくれたのよね。
 あの時のお礼も言わなくちゃ。
「あのっ、高橋先生」
「え?」
 髪を束ねていたリボンを解くと、高橋先生は振り返った。わぁ、ウェーブがかかった髪がさらっとしてて、すごく綺麗だなぁ。
 じゃなくて!
 あたしは頭を下げた。
「こないだの食中毒騒ぎの時は、ありがとうございました」
「いいのよ。これが私の仕事ですもの」
 そう言うと、高橋先生はロッカーを開けて、脱いだ白衣をハンガーに掛けたの。
 あたしは、前から聞こうと思ってたことを聞いてみた。
「あの、失礼なことかもしれないんですけど……」
「え? 何かしら?」
「その、館林先生の後任で、やりにくいと思ったこと、無いですか?」
「……」
 パタン
 ロッカーを閉めると、高橋先生は振り返ったの。
「わからないわ。私、ここの仕事が初めてだから、これが当たり前なんだって思ってる。でも、私の仕事に館林先生が口を出してきたことは一度もないわ」
「そうなんですか?」
「もちろん、私が聞いたら色々教えてくれるし、ときどき一緒に飲みに行った時なんかは、私の悩みも聞いてくれる、いい先輩よ」
 そう言うと、高橋先生はあたしにウィンクした。
「虹野さんも、ああいう先輩になるようにね」
「あ、はい」
 あたしはうなずいた。
 バタン
 屋上のドアを開けると、満天の星空ときらめき市の夜景がいっぱいに広がってたの。
 綺麗だな。
 つい何日か前、未緒ちゃんに相談したときは、景色なんて見てる余裕がなかったの。
 でも、今は素直にそう思う。
 涼しい風が、あたしの髪を揺らした。
 あたしは、フェンスにもたれて空を見上げた。
 星がまたたいてる。
「……よぉし、明日からも、頑張るぞ!」
 夜空に向かってそう言ったとき、星が一つ、流れた。
 そして、いろんな思い出を残して、夏合宿は最終日に入ったの。

《続く》
「LOVEサバイバー」
作詞:青木久美子 作曲/編曲:織田裕一朗
歌:HIT BOY

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