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沙希ちゃんSS 沙希ちゃんの独り言
第
話
旅情編 その
沙希とカニ


北海道の風景(3) 函館朝市
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「ふわぁ」
洗面所で大きく欠伸しながら、歯をぐしぐしと磨いてると、後ろを清川さんが通りかかったの。
「よ、虹野さん。おはよう」
「ふぁ、ふぃふぉふぁわふぁん、ふぉふぁふぉお」
歯ブラシをくわえたまま返事すると、変な声になっちゃった。それでも意味は通じたみたいで、笑う清川さん。
「おはようさん。早いね」
「ん……」
とりあえず口をゆすいでから、あたしは振り返った。
清川さんは、トレーニングウェア姿で、タオルを首に巻いてる。
「もしかして、ロードワークしてきたの?」
「ああ。ちょっと函館山に登ってきただけだよ」
……清川さん、毎朝50キロ走ってるって、もしかして本当かもしれない。
「虹野さんは、今朝のオプショナルツアーに行くのかい?」
「うん、そのつもり」
「そっか。それじゃ途中で逢うかもね」
「あ、清川さんも行くの?」
「そ。んじゃ、あたしは着替えてくるから」
そう言って、自分の部屋の方に走っていく清川さん。
あたしは、腕時計を見た。
6時50分。
主人くんとは、7時にロビーで待ち合わせ。
それじゃ、あたしもそろそろ行きましょうか。
朝の冷たい空気を吸い込んで、あたしと主人くんは函館朝市を歩き回ってた。
「わぁ、カニが安い! 買って家に送っておこうかなぁ」
あたしは、財布の中身を見て考え込む。まだ2日目だもんねぇ。
でも、このカニは、このカニは……。
「虹野さん?」
ハッと気付くと、あたしは店先で座りこんで考えてた。慌てて立ち上がる。
「ごっ、ごめんなさい」
「いや、いいんだけど。カニ、欲しいの?」
「うん。でも、ちょっと予算の都合上……ね」
あたしは苦笑して、その後慌てた。主人くんが財布を出しながら、お店の人を呼ぶんだもの。
「すいませーん」
「はい、なんですか?」
お店のおばさんが、奥から出てくると、主人くんは、あたしが悩んでた毛ガニを指して言ったの。
「これ、宅急便で送ってもらえるんですか?」
「ええ、できますよ」
「それじゃ、これお願いします」
考えてみれば、主人くん、自分のために買おうっていうだけよね。もう、びっくりして損しちゃった。
なんて考えてたあたしの目の前に、宅急便の紙がにゅっと突きだされた。
「はい、虹野さん」
「え?」
「だって、俺、虹野さんの住所暗記してるわけじゃないからさ。電話番号なら判るんだけど」
「それもそうよね」
って答えて、自分の住所を書きかけたところで、はたと気付いた。
「ちょ、ちょっと主人くん! どうしてあたしの住所を書くの?」
「だって、虹野さんのカニだろ?」
お金を払いながら、主人くんは顔だけこっちに向ける。
「でも……」
「いいのいいの。虹野さん、毎晩、夜練に差し入れしてくれてるじゃない。そのお礼とでも思ってよ」
そう言って主人くんは笑う。
「それじゃ、これからもっと頑張って差し入れしないといけなくなるわね」
「期待してますよ」
主人くんはあたしの肩をぽんっと叩くと、お店から出ていったの。
あたしは、その肩にそっと手を置いて、ちょっとぽっとしてた。
「虹野さん、どうしたの?」
「あ、今行くね!」
呼ばれて我に返ったあたしは、あたふたと主人くんを追っかけた。
それから何軒かのお店を見てまわってから、主人くんが言ったの。
「そろそろお腹空かないかい、虹野さん?」
「そうね」
腕時計を見ると、午前8時。
「朝ご飯にする?」
「そうしよっか」
そう言い合って、意味無く笑っちゃう。
「それにしても、どこで食べようか?」
あたしが訊ねると、主人くんは腕を組んで言ったの。
「こういうのはね、地元の人の集まる場所がいいんだ」
「やっぱり、そうなの?」
「そそ。ほら、そこなんか混んでるみたいだよ」
主人くんが指したのは、魚屋さんが並ぶ一角にある小さな食堂。のれんには『いろは食堂』って書いてある。
わぁ。確かに、人の出入りが激しいみたい。それも近所の魚屋さんとか漁師さんみたいな人ばっかりだし。
「でも、あたし達が入ってもいいのかな? 漁師さん達の専用の食堂だったら……」
「それならそう言われると思うよ。それに……」
主人くん、苦笑気味にお腹を撫でた。
「実は、さっきからお腹が空いてさぁ」
「そうなんだ。それじゃ、行ってみましょう」
カラカラカラ
「いらっしゃい!」
引き戸を開けると同時に、明るい女の子の声が、おじさん達の背中の向こうから聞こえたの。
思った通り、そんなに広くない店の中は、ほぼ満席状態で、壁際に立って待ってる人もいるくらい。
その待っているおじさん達をかきわけるようにして、手ぬぐいを姉さん被りにして、エプロンをつけた姿の女の子が顔を出した。
「あら、学生さんね。お二人?」
「ええ」
あたしがうなずくと、その娘はぺこりと頭を下げた。
「ごめんね。今だと、10分くらい待ってもらうことになっちゃうけど、いい?」
「10分だって。主人くん、どう?」
「それくらいならかまわないよ」
「すみません。それじゃ、先に注文をお願いします。あ、メニューは壁に貼ってありますから」
そう言われて、あたし達は壁を見た。札に書いたメニューがいくつか貼ってある。
「どれにしようか?」
「うーん」
あたしが訊ねると、主人くんは腕を組んでうなったの。それから、女の子に尋ねる。
「どれがお薦め?」
「どれも」
キッパリ言ってにこっと笑う女の子。
「それじゃ、せっかくだから、俺はこの海鮮丼を選ぶぜ」
「あ、それじゃあたしもそれにしようかな?」
「はぁい。それじゃ、ちょっと待っててねぇ。父さん、海鮮丼2つぅ!」
そう大きな声で言いながら戻っていく女の子。
それから15分後。
「おまたせぇ。さぁ、どうぞ」
やっとカウンターに坐れたあたし達の前に、ほかほかと湯気を立ててる丼が、ドンと置かれたの。
「!」
「す、すっげぇ」
目を見張るあたしと、感嘆の声を上げる主人くん。
だって、すごいんだもの。
大きめの丼の上に、でぇんと大きなお刺身。これは、鯛と鰤のお刺身ね。
そしてその左右に、これまた茹でたてのエビとカニ。とどめにいくらまで乗ってる。
おまけに、この香り。醤油みたいだけど、ちょっと違う。
これは……。しょっつる?
あたし、反射的に振り返って、壁に掛かってるメニューの札を確認してた。
だって、きらめき市でこれだけのものを食べようと思ったら、それこそ何千円かかるかわかんないんだもの。
メニューの札には、しっかりと書いてあった。
うにいくら丼…800円
海鮮丼…………600円
イルカ星人……680円珍味!
鉄火丼…………500円
ろっぴゃくえん!?
あたしは、も一度丼を見て、それから主人くんを見た。
「ん? 何?」
もう既に食べはじめてた主人くん、あたしの視線に気付いて箸を止めた。
「あ、うん。なんでもないってば。さ、あたしも食べようっと」
パチン
あたしも割り箸を割った。
「ありがとうございましたぁ」
女の子の声に送られて、あたしと主人くんは満腹になったお腹を抱えて、食堂から出てきたの。
「ふぅ。食った食った」
「ほんと、美味しかったね」
「で、これからどうする? もうちょっと見て歩く?」
言われて、あたしは時計を見てみた。8時40分。
「ホテルには10時集合、かぁ。ちょっと中途半端だね」
「正味、1時間くらいかな。自由に出来るのは」
主人くんが考えながら言う。
ふと、あたしは思いついた。
「主人くん、港に行ってみない?」
「港? そうだね、いいけど」
あたし達は地図を見ながら、歩きだした。
ヴォォォォォ〜〜〜
フィッ、フィィィィッ
汽笛の音が、港の中に響いてる。
なんとなく、異国情緒っていうのかな? いつもとは違う感じがする。
カモメやウミネコが、数え切れないほど飛び回る中を、大きな船がしずしずと通っていく。
函館港。青函トンネルが出来るまでは、青函連絡船の北海道側の港だったところ。
今も、何隻もの船が出入りしてる。
「海はいいねぇ」
波止場で、大きく伸びをして、主人くんが言ったの。
「そうね。何となく、大きくなったって感じがするね」
潮風が、あたしと主人くんの髪を撫でていく。
ぶるるっ
ちょっと、寒いかな?
あたしは、自分で自分を抱くようにして、辺りを見回した。
「虹野さん、寒いの?」
「ううん、大したことないよ」
そう答えてから、あたしは不意に視線を感じて振り返った。
「?」
そこには、ずらっと倉庫が並んでるだけ。
誰もいない……よね?
「どうしたの?」
「気のせい、みたい」
でも、確かに誰かがじぃっと見てたような気がしたんだけどなぁ。
「それじゃ、そろそろホテルに戻ろうか?」
時計を見て、主人くんが言ったの。
「え? もうそんな時間?」
あたしは、主人くんの腕時計をのぞき込んだ。
「うん。もうあと30分だよ」
そう言って、顔を上げる主人くん。
ドキッ
心臓が大きく、鳴った。
すぐ近くに、主人くんの顔があって、目がしっかり合っちゃって……。
ドキドキドキドキ
胸が高鳴ってる。
ボォーッ
いきなり大きな音で汽笛が鳴って、あたし達はぱっと左右に飛び退いた。
「そ、そ、そろそろもどろうよ」
「う、うん、そうね。あははは」
なんだか引きつった笑いを浮かべるあたし達。
ひゃぁ。
でも、ちょっと惜しかった……なんてね。
修学旅行2日目は、基本的にはバスで移動なのよね。
そして、札幌の夜はオプショナルツアーその3、なんだけど。
今度はなんなのかな?
そんなことを考えながら、あたしは車窓を流れる景色を、見るともなく見てた。
ブロロロローー
バスは、一路札幌に向かって走っていったの。
《続く》

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