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沙希ちゃんSS 沙希ちゃんの独り言

 沙希、さんざめく


 それは、10月に入ったばかりのある日のお昼休みだったの。

 ピンポンパンポ〜ン
『2年E組の虹野沙希さん、2年E組の虹野沙希さん、至急生徒会室まで来て下さい』
「?」
 A組で主人くんや早乙女くんとお昼を食べてたあたしは、顔を上げた。
「なんだろう?」
「生徒会室ぅ?」
 思いっ切り嫌な顔をする早乙女くんと主人くん。っていうのも、先月の生徒会選挙で会長に伊集院くんが選ばれたから、なのよねぇ。
「虹野さん、伊集院の奴が何か変なコトしたら、すぐに逃げるんだぜ」
「早乙女くんったら。そんなことあるわけないじゃない」
 あたしは笑って立ち上がった。
「それじゃ、行って来るね。あ、お弁当箱は、食べ終わったら袋に戻しておいてね」
「ああ、気を付けて」
 手を挙げる主人くんに手を振って、あたしはA組を出たの。
 生徒会室なんて、毎月の部長会議の時くらいしか来ないなぁ。そういえば、伊集院くんが生徒会長になってからは来たこと無かったっけ。
 そう思いながら、あたしは生徒会室のドアをノックしたの。
「失礼します。2年E組の虹野です」
 そう言いながらドアを開けて、あたしはそこで固まった。
 な、なによ、この部屋って?
 なんだか、一流会社の社長室みたいになってるぅ! 床には絨毯を敷いてあるし、机も折りたたみ机じゃなくって黒い立派な木の机だし、折りたたみ椅子もソファになってるし……。
「虹野君、ご苦労」
 その声に、あたしは我に返ったの。
「あ、伊集院くん……。あたしに何でしょう?」
「まぁ、入りたまえ」
 一番奥の椅子にゆったりと腰掛けた伊集院くんが、軽く手招きする。
「あ、はい」
 あたしが部屋に入ると、独りでにドアが閉まった……んじゃない。
 ドアの脇に、黒服の人が二人いて、その人達がドアを閉めたんだ。
「ああ、気にしないでも結構。彼等は僕のボディガードだ」
 あたしの視線に気付いて、伊集院くんは笑うと、立ち上がった。
「まぁ、掛けたまえ。安物のソファで申し訳ないが」
「安物って……」
 あたしは絶句。だって、どう見てもこの革張りのソファ、安物には見えないよぉ。
 胸に手を当てて、三回深呼吸してから、あたしは伊集院くんに視線を戻した。
 そうよ、伊集院くんは伊集院コンツェルンの跡取りだもの。これくらい、どうってことないのよね。うんうん。
「で、何のご用なのでしょうか?」
「うむ。実は、間近に文化祭が迫っているのは、君も知っていると思う」
「ええ」
 文化祭は、毎年10月の第2日曜日を挟んだ土曜日から月曜日の3日間やるのよね。去年までは土日だったんだけど、今年から3日間に伸びたんだって。
 今年はどんなことやるのかな?
「で、その文化祭の実行委員長も僕が務めることになっている。ま、才能の有り余る僕にとっては余技に等しいがね」
 そう言うと、伊集院くんは、窓から校庭を見おろしながら、言ったの。
「それで、だ。例年のエキシビジョンマッチは君も知っての通り、バスケの3on3大会だ。しかし、今年は期間が伸びたので、もう一つ催しを入れる必要があってね」
 そこで言葉を切ると、伊集院くんはあたしをじっと見た。
「単刀直入に言おう。君に、その催しに出てもらいたいのだ」
「……あたし、ですか?」
 あたし、一瞬目をぱちくりさせて、それから自分を指してみた。
「そう、君だよ、虹野沙希くん」
「そ、そんな。あたし、運動は得意じゃないんです! それなら清川さんとか藤崎さんとか、あ、藤崎さんは最近忙しいって言ってたっけ。と、とにかくあたしより……」
「何か誤解してるようだな」
 伊集院くんは苦笑して肩をすくめた。
「それくらいのことはこちらも承知している。無論、君はそんな事をさせようとはしていないよ」
「そ、それじゃ、なんですか? 歌うんなら、本職の藤崎さんがいるし、それにひなちゃんや彩ちゃんも……」
「ステージも確かに用意はしているが、虹野君に無理に歌ってもらおうとは思ってない」
「じゃあ……」
「君には、これに出てもらおうと思ってるんだよ」
 伊集院くんは、自分の大きな机の前に戻ると、そのうえに乗っていたちらしをあたしに見せた。
「……料理の、鉄人?」
「そう。きらめき高校料理の鉄人。君には、我が校の美食アカデミーが誇る鉄人として、出て欲しいのだ」
「……ええーーーーっ!?」
「……失礼しました」
「いい返事を、期待しているよ。はっはっはっはっは」
 伊集院くんの笑い声を聞きながらドアを閉めて、あたしは大きくため息をついた。
「虹野さん!」
「え? あ、主人くん」
 声に気付いて、そっちを見ると、主人くんと早乙女くんが心配そうな顔でこっちを見てたの。
「どうしたの? 二人とも」
「そりゃやっぱり心配でさぁ。なぁ、好雄」
「そうともさ」
 うなずき合う二人。それから、主人くんがあたしに訊ねる。
「で、何だったの? 伊集院の奴は」
「うん。実はね……」
「鉄人、ねぇ」
「あ、俺たまに見るぜ、あの番組」
 主人くんと早乙女くんに、歩きながら伊集院くんの言ったことを話すと、早乙女くんが言ったの。
「あたしは毎週見てるけど、でも無理よ。あたしにあんな事やれ、だなんて」
「別に虹野さんにそこまで要求してるわけじゃないんだろ?」
「主人くん、やった方がいいと思うの?」
 あたしは立ち止まった。
「あたしは……、他の人に見せるために料理してるんじゃないのに……」
「虹野さん……」
「あたしは、自分の料理を食べてくれて、その人が喜んでくれるといいなって、いつもそう思って料理してるだけなのに……」
 何言ってるんだろ、あたし。
 そう思っても、もう止まらなかった。
 あたしは叫んだ。
「あたしの料理は、見せ物じゃない!」
「虹野さん!」
 やだ。
 ほっぺたを涙が流れ落ちてきた。
 あたしはそれを制服の袖で拭った。
「ごめんね、主人……くん。ごめんっ!」
 そのまま、身を翻して、あたしは廊下を駆けだした。
「そんなことがあったんですか」
 放課後、あたしは図書室に来ていたの。
 今日は部活がない日。とは言っても、文化祭が近いから、文化部はみんな自主的に部活をしてるのよね。もっとも、未緒ちゃんは自分の分の準備はもう終わって、サポートとして残ってるだけだって言ってたけど。
 読書の邪魔してるのに、未緒ちゃんは静かにあたしの話を聞いてくれた。
「未緒ちゃんは、どう思う?」
「まず、主人さんには謝った方がいいと思いますよ」
 未緒ちゃんは苦笑して言った。あたしも苦笑した。
「それは、そう思う。八つ当たりだもんね」
「それが判ってるっていうことは、だいぶ冷静になれたって事ですね」
「……うん」
 あたしが肯くと、未緒ちゃんは真面目な顔になって、眼鏡の位置を直した。
「前にも言ったことがあると思いますし、冷たいとは思いますけど、でも、最終的に決めるのは虹野さんですよ」
「うん。でも、あたし、どうしよう?」
「客観的に言って、文化祭まであと2週間ちょっとしかないですし、こんな時期に虹野さんにそんな重要な役を頼むこと自体、こう言ってはなんですけど、かなり非常識だと思います」
 未緒ちゃんはそう言ってから、少し間をおいて、言葉を続けたの。
「でも、逆にチャンスなのかも知れません」
「チャンス?」
「ええ。虹野さんにとっての」
 家に帰ってきてから、あたしは部屋の電気もつけないで、ベッドに横になった。
 天井を見上げながら、未緒ちゃんの言ったことを思い出す。
「あたしにとっての、チャンス、かぁ……」

「確かに、好きな人に、自分の作った料理を食べてもらって幸せになってもらいたい。それって素晴らしいことだと思います。でも、その沙希さんの言う「好きな人」は、ごく限られた、例えば自分の家族とか親しい友人とかその程度でしょう?」
「え?」
「もっと大勢に、幸せになってもらいたいって思ったことはないですか?」
 未緒ちゃんは、真面目に訊ねた。あたしは首を振った。
「考えたことも……なかったな」
「だと、思います。だって、沙希さんの目標って、沙希さんのお母さんでしょう?」
「……」
「それが一概にいけない、なんて言いません。でも、それ以外に目標はない、っていうのも良くないんじゃないでしょうか?」
「未緒ちゃん……」
「沙希さんの料理は、沙希さんの家族だけが独り占めしていいってものではありませんよ」
 未緒ちゃんはそう言って、悪戯っぽくウィンクして見せたの。

「コックさん、かぁ。考えたこともなかったね」
 暗闇の中で、あたしは呟いた。
 確かに、未来の幸せって思い描いたとき、そこにはあたしとその周りの家族しかいなかったような気がする。
 あたしはお母さんを目標にしてた、って言われても、これじゃ仕方ないのかな。
 うーん。よし、聞いてみようっと。
 あたしは自分にそう言うと、ベッドから起きあがった。
 階段を駆け下りて、台所を覗き込むと、ちょうどお母さんは、鼻歌混じりにお皿を洗ってた。
 あたしはそのお母さんに尋ねてみたの。
「ねぇ、お母さん」
「なぁに、沙希?」
「お母さんは、お父さんと結婚する前は、何になろうと思ってたの? やっぱり、普通の奥さん?」
「まさかぁ。私は、結婚する前は、洋裁の仕事をしようと思ってたのよ。ちゃんと資格まで取ったんだから」
 ……初めて聞いたな、そんな話。
 あたしは、食卓に座って頬杖をついた。
「それが、どうして?」
「お嫁さんになったか? そんなの、決まってるじゃない」
 お母さんは振り返って微笑んだ。
「もっといいものを見つけたから、よ」
「はいはい。幸せで何よりでした」
 あたしはそう言って立ち上がろうとした。
「私は今が幸せですぅ〜」
「はっ、葉澄ちゃん?」
 いきなり葉澄ちゃんが背中からのし掛かってきたの。
「ちょ、ちょっと、葉澄ちゃん!」
「ああっ、2ヶ月ぶり。みなさんお久しぶりですぅ! 私は元気に沙希お姉さま一筋です!」
 だ、誰と話してるのよぉ?
 と。
 トルルルル、トルルルル
「あら、誰かしら?」
 お母さんは、あたしと葉澄ちゃんの脇をすり抜けて、廊下に出ていったの。ちょ、ちょっと、助けてよぉ!
「お姉さまぁ、お風呂に入りましょうよぉ」
 あたしの耳に息を吹きかけながら言う葉澄ちゃん。
「ちょ、ちょっと、あたし汗かいてないし、その、ね」
「ダメですぅ。女の子たる者、身だしなみはちゃんとしておかないといけません」
 葉澄ちゃん、言うことは正論なんだけど、耳を噛みながらなんて説得力ないよぉ。あん、やだってば!
「沙希、主人さんからお電話よ!」
「え?」
 お母さんの声に、あたしは跳ね起きた。
「もしもし、お電話代わりました。沙希です」
「あ、虹野さん? ごめん、急に電話して」
「ううん。それより、どうしたの?」
 聞き返すと、電話の向こうで主人くんが一瞬口ごもった。
「あの、その、謝ろうと思って」
「あ……」
 そういえば、昼休みのあれ、まだ謝ってなかったんだ。
「ごめんなさい。あたしの方こそ、八つ当たりしちゃって……」
「いや、元はといえば俺が悪いんだ。虹野さんの気持ちも考えないで……」
「主人くん」
 主人くんの言葉を遮って、あたしは言ったの。
「あたしね、受けようと思うの」
「え? 受けるって、伊集院の?」
「うん。鉄人になろうと思う」
「そんな。伊集院に強制されたからって、なりたくもないものに……」
「ううん」
 あたしは首を振った。
「あたしね、一度やってみることにしたの」
「……」
 主人くんは大きく息をついた。そして一言。
「そっか。頑張れ」
「うん。頑張るね!」
 チン
 電話を切ると、あたしは大きく息を吸い込んだ。
「よし、やるぞぉ!」
「なんだか知らないけど、頑張って下さい! 私、一生ついていきますぅ!」
 いつ来たのか、葉澄ちゃんがうるうる目であたしを見上げていた。
 ……ちょっと、脱力しちゃったな。あははは。

《続く》

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