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沙希ちゃんSS 沙希ちゃんの独り言

 第3のマネージャー(前編)


「ふわぁ、つっかれたぁ」
 最後の書類を書き上げて、あたしは机に突っ伏した。
「ご苦労様です、虹野先輩。はい、お茶入れましたよぉ」
 みのりちゃんが、コップにお茶を注いで、テーブルに置いてくれた。
「ありがとう……。あ、いけない! ネットをつくろわないと!」
「そんな時間ないですよぉ。あ、虹野先輩」
 書類を見て、みのりちゃんは一言。
「ここ、計算間違ってます」
「え? あ……」
 書類を見直してから、あたしは机に突っ伏した。
「あたしの1時間って……」
「あ、もう7時過ぎてますよ。そろそろ帰りましょう」
 あたしはその声に、時計を見た。
「そうね……」

 文化祭もなんとか終わって、いよいよ冬。
 サッカー部員もまた増えて、とうとう50人近くまでなっちゃって、あたしとみのりちゃんだけではどうしようも無くなってきつつあったの。
 それに……。
 最近、毎日こんな時間に帰ってるから、主人くんの夜練にも付き合えなくなってるの。
 でも、かといっておいそれとマネージャー増やすってわけにもいかないのよねぇ。
「虹野先輩?」
「え?」
 声を掛けられてみのりちゃんを見ると、心配そうにあたしを覗き込んでた。
「なんだか疲れてるみたいですけど、大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫よ。でも、最近忙しいよね」
「そうですね。どうして、マネージャー増やさないんですか?」
 聞かれて、あたしは苦笑した。
「確かに、マネージャーになりたいって人はよく来るんだけど……。でも、それほどマネージャーは甘くないって、みのりちゃんもよく知ってるよね?」
「そうですよね。最近の希望者ってホントミーハーな人ばっかりなんだから。マネージャーをなんだって思ってるのかしら。ねぇ、虹野先輩!」
 そう言ってから、不意にみのりちゃんはあたしの袖を引っ張った。
「虹野先輩、ちょっとちょっと」
「え?」
 あたしが訊ねると、黙って窓の方を指すみのりちゃん。
 もうすっかり暗くなったグラウンドは、水銀灯で明るく照らされてて、サッカー部のみんなが最後の整理体操してるところ。
「あ、もうみんな戻ってくる頃ね」
「そうじゃなくて、校舎の方ですよ」
「?」
 言われて、土手の上(サッカーグラウンドって、校舎よりも低いところにあるのよね。で、その間の坂をみんな“土手”って呼んでるの)を見上げると……。
「あ、今日も来てるんだ」
 そこには、制服の女の子がじっとサッカー部の練習を見おろしてた。あんな所、寒いと思うんだけどなぁ。
「谷巣さん、今日も来てたのね」
「ここのところ、毎日ですよね」
 うんうんとうなずくみのりちゃん。
 あの娘は1年生の谷巣さん。夏頃からかな、よくサッカー部の練習を見に来てるの。何だかいつも、気がついたらそこにいるって感じで。
 何度か声を掛けてみたんだけど、その度に逃げちゃうのよね。最初はあたしが嫌われてるのかなって思ったんだけど、早乙女くんに聞いてみたら、すごく内気な娘で、あまりしゃべらないって話だから気にしなくてもいいんじゃない? って言われたのよね。
 その時にちらっと聞いたんだけど、なんでも谷巣さんって、サッカー部の人の中に気になる人がいるらしいって。
 でも、誰なのかな? まさか、主人くん……なんてこと、ないよね?
「あ、虹野先輩! 練習終わるみたいですよ!」
「いけない、蒸しタオルの用意できてたっけ?」
「ああー、忘れてたぁ!」
「いいって。最近マネージャーも忙しいもんなぁ」
「冷たいタオルも乙なモンだっぜっ!」
「本当にごめんなさぁい」
 いつもは、みんなの練習が終わったら、熱い蒸しタオルを用意してるんだけど、今日はうっかりしてて用意を忘れてたの。
 みんなはああ言ってくれたけど、でも……。
 ダメだね、こんなんじゃ。
 あたしがシュンとしてると、主人くんがポンと肩を叩いてくれた。
「ま、虹野さんや秋穂さんが一生懸命やっててくれてるのは、俺達も知ってるよ。いつもありがとさん」
 なんだか、主人くんにそう言ってもらえると、もっとがんばろうって気になるのよね。
 あたしは顔を上げて、大きくうなずいた。
「うん。がんばるね」
 でも、その翌日。
 あたしは授業中に倒れちゃったの……。
「過労ね」
 保健室のベッドで気がついたとき、そのあたしの顔を覗き込みながら、高橋先生はきっぱり言ったの。
「過労、ですか?」
「そ」
 あたしの熱を計って、クリップボードに何か書き込みながら高橋先生。
「話には聞いてたから、そろそろドクターストップかけようと思ってたんだけど……。ごめんなさいね、手遅れになっちゃって」
「いえ、でも……」
 あたしはベッドから半身起こした。……あらら、くらっとするぅ。
 そんなあたしを見て、高橋先生はあたしをベッドに寝かし直しながら言ったの。
「まだダメよ。とりあえず今はゆっくり寝れば回復するけど、こんな生活続けてると、しまいには身体が壊れちゃうわよ」
「でも……」
「最近、書類のミスが目立ってるでしょ?」
 ぎくぅ
 いきなりずばっと言われて、あたしはびっくり。
「そ、そうなんですけど……」
「それだけ疲れてて、作業能率が落ちてるのよ。虹野さんは責任感強いから、なんでも一人で抱え込んじゃうけど、それじゃいずれ自壊するわ」
「じかい……?」
「自分で潰れちゃうってこと。第一、サッカー部があの規模で、マネージャー2人なんて少なすぎるのよ」
「それは、そうかも知れないですけど……」
「とりあえず、まずはゆっくりと寝なさい。それが一番よ」
 言われて、あたしはベッドにもぐり込んだ。
「……はぁい」
 そう言った途端、自然にまぶたが重くなって、そのままあたしは眠り込んじゃってた。
「サッカー部のマネージャーが、必要以上の負担を抱えてるのは間違いないわね」
 3時間目が始まる前に目が覚めたから、高橋先生にお礼を言ってから、まず職員室に行ったの。
 そこで、館林先生に高橋先生の言ったことをそのまま言ったら、キッパリと言われちゃった。
 でも、必要以上って……。
「第一、部室の掃除やユニフォームの洗濯なんて、野球部とか陸上部じゃ部員が自分でやってるのよ」
「だから、あんなに汚くなるんですよ」
 苦笑気味に口を挟んだのは、たまたま通りかかった陸上部の顧問をやってる吉山先生。
 館林先生は振り返るとじろっと睨む。
「それは自覚が足りないのよ」
 ……それを言うなら、先生も自覚が足りないような気がするなぁ。
 あたしは、書類やプリントや採点しかけのテストが散らばってる机を見て、心の中で呟いてた。
 吉山先生も同じ意見みたい。じぃっと館林先生の机を見てる。
 あたし達の視線に気付いたの館林先生は、咳払いした。
「コホン。とにかく、サッカー部はマネージャーの数を増やすべし、よ」
「でも……。あたしの一存じゃ……」
「虹野」
 不意に後ろから声を掛けられて、あたし思わず飛び上がっちゃった。
「きゃ! か、賀茂先生?」
 サッカー部の監督の賀茂先生が、いつの間にかそこにいたの。
 賀茂先生は、苦笑した。
「そんなに驚かなくてもいいじゃないか」
「あ、す、すみません」
「それより、倒れたって聞いて驚いたぞ。虹野、新しいマネージャーを入れること自体は、別に悪くはない。むしろ必要だろう。ただ、問題は……」
「人選、なんでしょ? 賀茂センセ」
 館林先生はそう言うと、あたしの肩をポンと叩いたの。
「賀茂センセ、沙希ちゃんに任せてみませんか? こう見えても1年半以上マネージャーやってるんですから、新しいマネージャーを選ぶには一番適任だと思いますよ」
「え? せ、先生……」
「そうだな。それじゃ、虹野。新しいマネージャーについては、お前に一任する」
 賀茂先生は、そう言い残して歩いて行っちゃったの。
「マネージャーに必要以上の負担、かぁ」
 お昼休み。A組でお弁当を広げながら、主人くんや早乙女くんに館林先生や賀茂先生の言ったことを話すと、主人くんは腕を組んで呟いたの。
 早乙女くんが肩をすくめる。
「確かに、なぁ」
「でも、あたしは……そんなに負担だって思ってないんだけどなぁ……」
「虹野さんって優しいからなぁ。部員に頼まれたことは断らないだろ?」
「そうかな?」
 あたしは首を傾げた。
 早乙女くんがキッパリうなずく。
「ああ。例えばさ、前に前田の制服のボタンが取れたとき、縫いつけてあげたことあっただろ?」
「え? あ、うん」
 そういえば、そういうこともあったような……。
「一度それをやっちゃうと、部員のボタンのつくろいまでマネージャーの仕事になっちゃうんだぜ。マネージャーは裁縫屋じゃねぇだろ?」
「そうかもしれないけど……」
「秋穂さんにしてもさ、いやだって思っても、『虹野さんはしてくれたぜ』って言われると、やるしかないだろ?」
「みのりちゃんもさせられてたの?」
 思わず聞き返すあたし。早乙女くんはうなずいた。
「ああ。あの娘はあれで結構我慢強いから、『虹野先輩には心配かけたくありません!』って、虹野さんには言わないけどな」
「本当か、好雄?」
 主人くんも驚いて訊ねてる。
「ああ。ちょっと待てよ」
 早乙女くんはいつものメモを出して、ぱらぱらとページをめくった。
「それでなくても、最近1年の新入部員が多くてな。ほら、2年の部員は虹野さんとも友達だからっていう気易さもあって、いろいろ頼んでるけど、それを見てる1年の連中の中には、それがマネージャーの仕事、いや、義務だってはき違えてる連中もいるみたいでなぁ」
「くそ、俺が知らなかったなんて……」
 主人くん、悔しそうに唇を噛んでる。キャプテンとして、責任感じちゃってるんだろうな。
 あたしも……。みのりちゃんがそんな目に遭ってるなんて知らなかったし……。先輩失格よね、これじゃ。
「って、おいおい、二人して深刻になっちゃってるんじゃねぇよ」
「ヨッシーのせいっしょ!」
 ばこぉん
 いきなり早乙女くんの後ろから現れたひなちゃんが、早乙女くんの後頭部をどつく。
「いってぇ、この朝日奈!」
「あによぉ」
 売店で買ってきたらしい牛乳パックのストローをくわえながら、ひなちゃんは言った。
「ま、それはともかく、マネージャー増やすんなら、あの娘はどう?」
「誰か心当たりあるの?」
「沙希も知ってるっしょ? 谷巣って娘」
 1年F組の教室を覗き込むあたし。
 えっと……。
「あ、虹野先輩!」
 知らない娘が、そんなあたしを見て声を掛けてきた。文化祭ですっかり有名になっちゃったんだなぁって、こういうときに思うのよねぇ。
「どうしたんですか?」
「えっと、谷巣さんって、いるかな?」
「谷巣さん? えっと……」
「谷巣さんなら、図書室にいると思うけど」
 別の娘が答えてくれた。
「図書室?」
「はい。毎日行ってるみたいですよ」
「ありがと!」
 あたしはくるっと振り返って、廊下を駆けだした。
 図書室に飛び込んで、ぐるっと辺りを見回す。
「あら、沙希さん。どうしたんですか?」
 ちょうど、カウンターのところで本を借りてた未緒ちゃんが、あたしを見て目を丸くしてる。
 あ、さっきの娘は、谷巣さん毎日図書室に行ってるって言ってたな。未緒ちゃんなら知ってるかも。
「ね、未緒ちゃん。1年F組の谷巣さんって娘、知ってる?」
「谷巣さん? ええ、知ってますけど」
 うなずくと、未緒ちゃんは振り返って指さした。
 そっちを見ると、谷巣さんがいた。何冊か本を並べて、広げたノートに何か書き込んでる。
 勉強してるのかな? それじゃ、邪魔しちゃ悪いなぁ。
 そう思って、谷巣さんを見てると、未緒ちゃんが後ろから聞いてきた。
「谷巣さんがどうしたんですか?」
「え? うん、実はね、ひなちゃんが、サッカー部のマネージャーにどうかって言ったから、ちょっと本人と話をしてみようって思って……」
「そういうことなんですか」
 未緒ちゃんはうなずくと、にこっと微笑んだ。
「適任だと思いますよ」
「え?」
「彼女、何を読んでると思いますか?」
 言われて、あたしはじっと目を凝らしてみた。
 あれ?
「未緒ちゃん、あれって、サッカーの本?」
「ええ。この図書館にあるサッカーの本はあらかた読んでしまってるんじゃないでしょうか? あと、栄養学の本とかも読んでるみたいですよ」
「そうなんだ」
 と、不意に谷巣さんが顔を上げて、あたし達の方に視線を向けた。
「あ、こんにちわ」
 あたしはぺこっと頭を下げた。谷巣さんも、怪訝そうな顔で頭を下げる。
 そのまま、谷巣さんの所に駆け寄ると、あたしは言った。
「あたしはサッカー部のマネージャーの虹野沙希なんだけど、谷巣さん、サッカー部のマネージャー、やらない?」
「私が……ですか? そんな、無理です」
 そう言うと、谷巣さんはノートを閉じて、本を片づけ始める。
「でも、よく練習を見に来てるじゃない」
「え?」
 一瞬、谷巣さんの手が止まった。でも、すぐに思いなおしたように本を積み重ねる。
「すみません。迷惑なら、もう行きませんから」
「あ、違うの、そうじゃなくて……」
「それじゃ、失礼します」
 それだけ言うと、谷巣さんはさっと歩いて行っちゃった。
「……ありゃ?」
「行って、しまいましたね」
 未緒ちゃんが、あたしに近寄ってきた。
 あたしはふぅとため息をひとつ。
「また、怒らせちゃったかな?」
「……怒っては、いないと思いますよ」
 未緒ちゃんは、谷巣さんの出ていった図書室のドアの方に視線を向けながら、言ってくれたの。
「そうかな?」
「ええ。多分……」
 あたし達は、しばらくそのままドアを見つめていた。

《続く》

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