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沙希ちゃんSS 沙希ちゃんの独り言

 沙希ちゃん決心する


「……」
 無言でドアを開けて、家を出た。
 もう何日になるのかな? こうして「いってきます」を言わなくなってから。
 今年のカレンダーは、最後の一枚に入っていた……。

 お父さんが東京の本社に戻ることに決まったんだって。
 そのこと自体はいいことなんだけど、でもそうなるとあたし達も東京に引っ越さなくちゃならないの。
 お父さんやお母さんは、東京に戻れるからいいんだと思うけど。
 でも、あたしは、小さいときからこのきらめき市でずっと過ごしてきたあたしにとっては、この街を離れるなんて考えられない。
 だけど……。
 通学路をゆっくり歩きながら、あたしは小さな声で呟いた。
「あたし一人の……わがままなんだって……。そんなことは……判ってるの」
 頭では、判ってる。あたしがうんって言えば、全ては丸く収まるってことくらい。
 判ってても……。
「どうかしたんですか?」
「え?」
 あたしは、はっと顔を上げた。
 お昼休みの図書室。あたしは、古文の宿題を未緒ちゃんに教えてもらってるとこ。
「ご、ごめんなさい。ちょっとぼーっとしてたみたいで。疲れてるのかな? あは、あはは」
「沙希さん……」
 未緒ちゃんの呆れたような声に、あたしはばっと手を合わせた。
「ごめんなさい! 未緒ちゃん、見捨てないでっ! 5時間目にあたし当たっちゃうのっ!」
「……いいですか? ここの“あらまほし”の係り受けがですね……」
「んーーー」
「ありがとう! これで虹野沙希はすくわれました」
 あたしは、未緒ちゃんの手をぎゅっと握った。
 未緒ちゃんは、眼鏡の奥の目をちょっと細めた。
「沙希さん、ちょっといいですか?」
「え? うん、いいけど……」
 立ち上がりかけてたあたしは、椅子に座りなおした。
「何なの?」
「沙希さん、何か悩みがあるんじゃないですか?」
「……そ、そんなこと……」
「ないようには見えませんよ」
 キッパリと言われちゃった。
「いつもと較べても注意力散漫になっているようですし、顔色も悪いですし、ため息も多いですし」
 ……よく観察してるんだ……。
「ちょっと……家庭内でね」
 しゃべっちゃった方が、いいのかな?
 ちょっと考えて、あたしはやめた。未緒ちゃんによけいな心配して欲しくないし。
「あたしが我が儘言っちゃったせいで、今家庭内断絶しちゃってるの」
「我が儘……ですか?」
「うん。……頭ではね、わかってるんだ。お父さんやお母さんの言う方が正しいって。ただ、納得できなくて、それで……」
「そうなんですか……。詳しくは聞きませんけれど……」
 未緒ちゃんは少し考えて、言ったの。
「どちらにしても、早く解決した方がいいと思いますよ。沙希さんだって辛いでしょう?」
「……うん……」
「一般論ですけれど」
 前置きして、未緒ちゃんは言ったの。
「決断を先送りすればするほど、辛いものになりますよ。早めのほうが、痛みも少なくて済みますし」
 ピピーーッ
「はい、集合ーーっ!」
 首に掛けたホイッスルを思いっ切り吹いて、みのりちゃんが叫ぶと、練習に散っていたみんなが集まってくる。
 全員が集まるのを見回して、賀茂監督は言ったの。
「全員いるな?」
「はい!」
 みんな元気よく答える。それを聞いてから、監督はノートを広げた。
「それでは、北里高校戦のスタメンを発表する」
 来週の練習試合。それが終われば2学期の期末テスト、そしてその後は冬休み。今年の終わり。

「いつ引越なんですか?」
「一応、辞令は来年から本社勤務ってことだから、今年中ってことになるかな」
「そうですか。それじゃ、年末にかかるんですね」
「年越しは引っ越してからってことにしたいな」

「おい、虹野?」
「えっ! あ、はいっ!」
 急に賀茂監督に呼ばれて、あたしは慌てて返事をした。
「はい、じゃないだろう? 当日のスケジュールは?」
「え? あ、えっと……」
 あたしが慌ててると、後ろから瑠美ちゃんがそっと紙を渡してくれたの。
「はい、これです」
「あ、ありがとう。えっと、11時に集合。ミーティング、準備体操をしてから、12時にキックオフですね」
「来年のユース戦につながる重要な試合だ。それだけに北里高校も本気でかかってくるだろう。だが、いつも通りにやれば問題はない。それでは、解散!」
「ありがとうございました!」
 部員のみんなは一礼して、さっと部室の方に走っていった。監督も、校舎に戻ってく。
 あたしは振り返った。
「瑠美ちゃん、ありがとう」
「どういたしまして」
 にこっと笑ってから、瑠美ちゃんは心配そうな表情になった。
「それより、身体の調子でも悪いんですか?」
「そ、そんなことないよ」
 あたしは手を振って、ひとつ大きく伸びをした。
「さぁて、と。部室の整理しなくちゃね」
「虹野先輩……」
「虹野せんぱぁい!」
 みのりちゃんが、グラウンドの向こうで大きく手を振ってる。
「ネット片づけるの、手伝ってくださぁい!」
「うん! 瑠美ちゃん、先にあっちからやろ?」
「はい」
 あたし達は、そっちに駆け寄っていった。
「はふぅ」
 一つため息をついて、あたしは靴に履き替えて、昇降口を出た。
 もうすっかり遅くなって、空は薄暗くなってきてる。
 ……帰りたく、ないな。
 最近、家に居づらいから……。
 あたしはもう一つため息ついて、鞄を持ち替えた。
 あれ?
 校門に誰かいる。誰だろ?
 あたしが近寄っていくと、校門にもたれてたその人が身を起こした。
 ……主人くん?
「や。虹野さん、よかったら、一緒に帰らない?」
「え? う、うん、いいけど」
「オッケイ。それじゃ帰ろうぜ」
 そう言って、主人くんは笑った。
 あたし達は、並んで歩道を歩いてた。
 ゴウッ
 もう辺りはすっかり暗くなって、時々通り過ぎる車のヘッドライトが、あたし達の影を地面に長く伸ばしては消えていく。
「……虹野さん」
 前を歩いてた主人くんが、不意に言った。
「え?」
「あのさ……」
 主人くんは振り向いた。
「何かあったの?」
「……」
 あたしが黙ってると、主人くんは前に向き直った。
「うまく言えないんだけど、最近の虹野さん、なんだか……らしくないんだ」
「らしく、ない?」
「うん。……何て言うのかな……。無理してるみたいに見える」
 そこまで言うと、主人くんは立ち止まって振り向いた。
「俺の思い過ごしならいいんだけど……」
「……ごめん……なさい」
 あたし、ぎゅっと拳を握って、その場に立ち止まった。
 顔を上げる。
「あのね……。あのね、あたし……」
「どうしたの?」
「あたし……」
 その時、昼休みに未緒ちゃんの言った言葉が、頭の中でリフレインした。

「決断を先送りすればするほど、辛いものになりますよ。早めのほうが、痛みも少なくて済みますし」

 決めるなら、早いほうが……。
 ポロッと、涙がこぼれた。それを見て、主人くんが一瞬驚いた顔をする。
「虹野さん……」
 あたし、なんとか笑おうと思った。
「あたしね、転校するの」
「転校!?」
 さっきよりも数倍驚いた顔をする主人くん。
「いつ? どこへ?」
「今年中に、……東京へ」
「東京って、だって、いや、でも……」
「だからね……、もうすぐみんなとはお別れなの……」
 と、
 主人くんが、あたしの肩をぎゅっと掴んだの。
「虹野さん、それ……本当?」
「冗談で言えるわけ……ない」
「……そう、なんだ」
 するっ。
 主人くんの手が、力なくあたしの肩からすべり落ちた。
 あたしは、一歩後ずさった。
「だからね、もうすぐ、主人くんとも……お別れなの……」
「虹野さん……」
「ごめん。今日は……ここからは一人にして……」
「……」
「じゃ、さよなら」
 あたしは、歩きだした。主人くんの隣をすり抜けて。
「虹野さん!」
 後ろで声が聞こえたけど、でも振り返らないで。
 だって、わかってたもん。振り向いたら、主人くんに抱きついて泣いちゃうって。
 だから……。
「ただいま」
 あたしは、ドアを開けた。
 ぱたぱたっと葉澄ちゃんが階段を駆け下りてきた。
「お姉さまっ、お帰りなさ……。どうしたんですか、お姉さま!?」
「え?」
「何で泣いてるんですか? 誰かにいじめられたんですか? うぬれぇ、あたしのお姉さまをいじめるとはいい度胸をしてるなぁっ!」
「や、やだ。なんでもないよ」
 あたしは、慌てて顔を拭った。やだ、ベットリ濡れてる。
「お姉さま、正直に言って下さい! 黙ってるとつけ上がるだけですよ! そのうちにどんどんエスカレートしていくんですから、早めに根こそぎ、このゴルディオンハンマーで光にしてやるしかないんですっ!」
 一人盛り上がる葉澄ちゃん、どこから出したのか大きなハンマーを振り回してる。
「もう、そんなんじゃないのよ。それより、お父さんはもう帰ってる?」
「まだですよ」
 ハンマーを肩に担いで葉澄ちゃん。そっかぁ、今日も遅いのかな?
「それじゃ、お母さんは?」
「台所で食事の用意をしてましたよ。……もしかして、転校のことで話をするんですか?」
「……まぁ」
「わかりました。この虹野葉澄、お姉さまのためなら覚悟は出来てます!」
 ドンと胸を叩く葉澄ちゃん。
 ……悪い娘じゃないんだけどねぇ……。
「お母さん」
 台所の入り口であたしが声を掛けると、お母さんは振り返った。
「どうしたの、沙希?」
「ちょっと、いいかな?」
「ちょっと待ってね」
 お母さんは、お味噌汁の入ったお鍋をコンロから降ろして、火を止めてからあたしに向き直った。
「いいわよ。何かしら?」
「転校のこと、だけど……」
 お母さんは微かにうなずいた。
 あたしは、静かに言った。
「あのね……転校しても……いいよ」
「!?」
 あたしの後ろについてきてた葉澄ちゃんが、思わず息を飲んだ。
「お姉さま!? どうしたんですか、一体!? あんなに嫌がってたのに!?」
 振り返ると、あたしは葉澄ちゃんの頭を撫でた。
「葉澄ちゃん、ありがとう。でも、もういいの」
「……本当に、いいのね?」
 後ろから、お母さんが静かに訊ねた。
 あたしは、葉澄ちゃんの頭に手を置いたまま、うなずいた。
「……うん。もう、もういいの。もう決めたの」
 キィッ
 神社の前で自転車を止めると、あたしは小走りに境内に駆け込んだ。
 薄暗い社の裏に回ると、やっぱり今夜も主人くんは練習してた。
「主人くん!」
 あたしが声を掛けると、驚いた顔で振り返る主人くん。
「虹野さん!?」
 あたし達は、欄干に並んでもたれかかってた。
「さっきは、ごめんね。びっくりしたでしょ?」
「ああ。まだ信じられないけど……。それで、話って、何?」
「うん。あのね……転校の話なんだけど、みんなには、黙ってて欲しいんだ」
 あたしは髪をかき上げながら言った。
「どうして?」
「うん。ひなちゃんや彩ちゃんや未緒ちゃんに、よけいな気を使って欲しくないの。あたしが転校するって決まったって知ったら、みんなきっと、あたしに気を使うと思うの。あたし、そんな事して欲しくないから……」
「でも……」
「お願い、主人くん……」
 あたしがじっと見つめると、主人くんは少し考えてうなずいてくれた。
「判った。誰にも言わないよ」
「ありがとう」
 あたしは、主人くんに頭を下げた。

《続く》

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