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沙希ちゃんSS 沙希ちゃんの独り言
第

話
葉澄ちゃんが帰ってきた(後編)

そんなわけで、翌日のお昼頃。
プップー
車のクラクションの音が聞こえたから、窓から表の道を見おろすと、見覚えのあるミニクーパーが停まってた。
先生が迎えに来たんだね。
あたしは、部屋から出ると、ドアに鍵をかけてエレベーターに乗り込んだ。
ミニクーパーに駆け寄ると、やっぱり思った通り、先生が運転席から手を振ってた。
あたしは助手席のドアを開けて乗りこむと、頭を下げた。
「すいません、先生。葉澄ちゃん、ご迷惑をお掛けしませんでした?」
「そんなことないわよ。夕べは千晴の部屋に泊めたんだけど、今朝になったらなんだかすっかり仲良くなっちゃっててねぇ」
そう言ってからクスクス笑う先生。……なんだかすごくイヤな予感。
「せ、先生。それって……」
「おっといけない。沙希ちゃんのお母さんを迎えに行かなくちゃ。早くベルト締めて」
「あ、はい」
あたしがシートベルトを締めると同時に、先生は車を発進させたの。ちらっと時計を見る。
「やっばぁ、ちょっと遅れちゃったなぁ。沙希ちゃん、飛ばすわよ!」
「え? きゃぁ!」
言うと同時に、先生はアクセルを踏み込んだの。ぐぐっと加速するミニクーパー。
道路では法定速度を守って安全運転を心懸けましょう。
キキィーッ
駅前ターミナルで車を止めると、先生はさっと降りたの。それからあたしに尋ねる。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫、です」
あたし、ダッシュボードに顔を伏せながら、なんとか答えたの。
「そう? それじゃ、あたしが沙希ちゃんのお母さんを迎えに行って来るから、沙希ちゃんは休んでて」
「あ、でも……」
「いいからいいから。ね」
そう言い残して、先生はドアをバタンと閉めると、小走りにコンコースのほうに走って行っちゃった。
あう……きぼちわるい……。
あたしは窓を開けると、そのままくてっとのびちゃった。
しばらくして。
「あら、沙希?」
お母さんの声が聞こえて、あたしは顔を上げた。
「あ、お母さん……」
「虹野さんにも関係があることなので、来ていただいたんですけど、ちょっと体調が悪いみたいなんですよ」
先生が言ってる。あたしは顔を上げた。
「大丈夫。さっきよりは楽になりました。単なる車酔いですし」
「大丈夫なの、沙希?」
お母さんが心配そうに聞くから、あたしは苦笑した。
「うん。心配ないよ、お母さん」
「なら、いいけど」
「お母さんも後ろに乗ってください。わたくしの家に参りますから」
「すみません、ご迷惑をおかけします」
そう言って、お母さんはミニクーパーに乗りこんできたの。最後に先生が乗りこんで、発車させた。
先生の家って、考えてみると初めてお邪魔するんだなぁ。
「さ、どうぞどうぞ」
「おじゃまします」
あたしとお母さんは、先生に勧められるままにお邪魔させてもらったの。そのまま居間に通される。
「それじゃ、葉澄ちゃんを呼んできますから、しばらく待っててくださいね」
そう言って居間から出て行く先生と入れ替わりに、お盆を持って千晴ちゃんが入って来たの。
「失礼します」
「あ、千晴ちゃん。ごめんね、いろいろ迷惑かけちゃって」
「いえ、そんなことありませんよ」
そう言って、千晴ちゃんはテーブルの上にウーロン茶の入ったグラスと、お菓子を持ったお皿を並べると、立ちあがってぺこっと頭を下げた。
「それじゃ、ごゆっくり」
「すみません」
お母さんが頭を下げると、千晴ちゃんはもう一度会釈して、居間から出て行ったの。
それを見送って、お母さんがあたしに尋ねた。
「沙希、今の娘ともお知り合いなの?」
「ええ。先生の妹さんなの。ほら、前に話したことあったじゃない。葉澄ちゃんと同じ部活の後輩って」
「ああ、それじゃ今の娘が」
お母さんがうなずいたとき、ドアが開いて葉澄ちゃんと先生が入って来たの。
「葉澄!」
お母さん、勢い良く立ち上がった。そのままつかつかっと葉澄ちゃんに近寄る。
「おばさん……。ごめんなさい」
小さな声で言う葉澄ちゃん。
「でも、あたし、やっぱり……」
「何度も言ったでしょう。あなたはまだ中学生なんだから、ダメですって」
「でも……」
「まぁまぁ、座ってくださいな」
先生の言葉に、お母さんは深呼吸をすると、ソファに座りなおしたの。
「それじゃ、どうしても葉澄ちゃんはきらめき市から離れたくはないと、そういうことなのね?」
「……」
先生の言葉に、コクンとうなずく葉澄ちゃん。先生はお母さんのほうに向き直った。
「お母さんとしては、やはり残しておくわけには行かない、と」
「ええ。沙希も一人ならまだやっていけると思いますけど、葉澄を支えて行くのはまだ無理だと思います」
お母さんはきっぱりと言ったの。
先生は、今度はあたしに視線を向けた。
「沙希ちゃんはどう思う?」
「どうって……」
「そうね。たとえばあのマンションで、葉澄ちゃんと一緒に暮らすことは出来る?」
「……」
あたしは少し考えて、ゆっくりと首を振った。
「お姉さま!?」
「ごめんね、葉澄ちゃん。でも、あたし、葉澄ちゃんの責任まで負っていける自信は……ないから」
「そ、そんな……」
「妥当な判断ね」
紐緒さんみたいなセリフを言って、先生は苦笑した。
「やっぱり沙希ちゃんは高校生だもんね。それにサッカー部のマネージャーだし……。葉澄ちゃん、これ以上沙希ちゃんの負担を増やすと、沙希ちゃんは倒れちゃうかもしれないのよ」
「それは困ります」
きっぱり言う葉澄ちゃん。
「だけど……」
「そこで、お母さん」
不意に先生はお母さんのほうに向き直ったの。
「はい、なんでしょうか?」
「葉澄ちゃんをうちで預かるって言うのはどうでしょう?」
「……えっ!?」
お母さん、あたし、葉澄ちゃんの3人が、同時に声を上げてた。
「預かるって……」
「つまり、葉澄ちゃんにうちに下宿してもらうっていうわけですよ」
にこにこしながら言う先生。
「そんな、ご迷惑をおかけするわけには……」
「実は昨日のうちに妹達には相談してありまして、みんな賛成してくれましたのよ。えっと……」
先生はポケットからメモ帳を出した。あ、あのメモ帳、昨日千晴ちゃんがなにか書いていたやつだ。
「2階の6畳間を葉澄ちゃんの専用のお部屋として提供します。食事は基本的に朝食と夕食付きで、一月3万円税込み敷金礼金なしでどうでしょう?」
「そんな、いくらなんでも悪いですわ」
お母さん首を振る。あたしも同じ意見。だって、月3万円なんて食費だけで消えちゃうんだもん。
先生は苦笑した。
「こちらのことなら心配無用ですわよ。葉澄ちゃんのことは前から良く知ってますし、ほら、袖触れあうも多少の縁と言うじゃないですか」
「でも……」
「それに、こういうことは本人の希望が一番優先されるべきじゃないかしら? 葉澄ちゃんは、どう? 沙希ちゃんの家じゃないけど、ここに下宿する気はある?」
「はいっ!」
葉澄ちゃんはいままでのしょぼんとした顔から一転、元気溌剌って顔で答えたの。
「私、それでもいいですっ。晴海おね……じゃない。館林さん、お世話になりますっ!」
そう言いながら、先生の手をぎゅっと握る葉澄ちゃん。
あたしはお母さんと顔を見合わせた。それから、お母さんは先生の方に向き直った。
「でも、私の一存で決めるわけには……。主人とも相談してみないと……」
「それはそうですね。それでは、決まるまでは、葉澄ちゃんはわたくしの方でお預かりいたしますわ」
先生はにっこり笑ってそう言ったの。
「え? でも……」
「葉澄ちゃんをあっちに連れ、こっちに連れ、じゃ大変でしょう? 交通費も馬鹿にはならないと思いますし」
「……」
ちょっと迷ってたみたいだけど、やっぱり“交通費”の一言が効いたみたいで、お母さんは結局葉澄ちゃんをとりあえず先生に預けることにしたの。
「……ってことがあったの」
「まったく、晴海ったら、けれん味がたっぷりなんだから」
帰りに『Mute』に寄って、マスターと舞お姉さんに事の顛末を報告したら、舞さんが肩をすくめて苦笑してた。
「ま、晴海らしいって言えばらしいかもしれないけど」
「で、その葉澄ちゃんは? いつもなら一緒に着いて来てるじゃないか」
「うん。なんか部屋の掃除とかいろいろあるみたいだったから」
「なるほどな。ともかく、沙希ちゃんも葉澄ちゃんもここに残れるってことだな。よかったじゃないか。これ、俺からのおごりだよ」
マスターが笑いながら、カウンターに座っていたあたしの前にコーヒーを置いてくれたの。
「ホント? ありがとう、マスター」
「いいって、いいって」
軽く手を振ると、マスターは舞さんに訊ねたの。
「そういえば、舞くんは正月はどうするんだい?」
「お正月ですか? 別にどこにも行かないですよ。って言うか、行けないですよって言うべきかな」
そう言って苦笑する舞さん。マスターも苦笑する。
「すまんな」
「いいえ。こっちも好きでやってるんですから」
……なんの事だろ?
あ、でも、そういえばもうすぐお正月なのかぁ。
あたしはコーヒーカップを片手にして、ちょっと考え込んだ。
今年のお正月は、ちょうど葉澄ちゃんが来たときで、のんびりどころじゃなかったのよねぇ。
今年はのんびりとしたいなぁ。うんうん。
なんて考えてると、不意に入り口のカウベルが鳴ったの。
カランカラン
「あ、いらっしゃいませ」
「ども。あれ、虹野さん?」
「主人くん……」
入ってきたのは主人くんと早乙女くんだったの。
主人くんは、あたしのコートの襟を見て、にこっと笑った。
「つけててくれてるんだ。ありがと」
「え? あ、うん」
あたし、かぁっと赤くなっちゃった。
コートの襟につけてるペンギンのブローチ。昨日、主人くんがくれたクリスマスプレゼントなの。
ちょ、ちょっと恥ずかしいな。
「お、虹野さん、そのブローチ、主人のプレゼントか? こりゃチェックだチェック!」
「こ、こら好雄! 変なことまでチェックするなっ!」
「そこのお二人さん。入り口でどたばたしないでくれないかぁ?」
マスターに言われて、2人は慌てて動きを止めて、ぺこっと頭を下げる。
「すみませぇ〜ん」
あたしと舞さんは、顔を見合わせて笑っちゃったの。
あたしの隣に主人くん、その隣に早乙女くんが座って、3人で冬休みの話なんてしてたら、あっという間に時間がたっちゃって、もう夕方になってたの。
「虹野さん、昨日から一人暮しを始めたばっかりだろ? 夕食とか大丈夫?」
主人くんが心配そうに訊くから、あたしはガッツポーズ。
「大丈夫。心配ご無用です」
「そうそう、虹野さんに食事の心配するなんて意味ねぇぜ」
「それもそっか。あ、マスター。勘定ここに置くね」
「毎度〜」
「んじゃ、虹野さん、またね。ほら好雄、行くぞ」
「おう。んじゃ虹野さん、この愛の伝道士早乙女好雄をお忘れなく」
「あ、ちょっと待って。あたしも帰るから。それじゃマスター、舞さん。また」
あたしは2人に挨拶して、外に出たの。
外に出てみると、いつの間にか白い雪がちらちらと振り始めてたの。
「ひぇ〜、雪かよ。冷えるはずだぜ」
「まったくなぁ。虹野さん、寒くない?」
「え? ううん、平気よ」
あたし達は、そのまましばらく並んで歩いてた。と、不意に早乙女くんがポンと手を打った。
「あ、いけね。優美にビデオの録画頼まれてたんだ。悪い、公、虹野さん。俺、先に帰るわ。じゃ〜なぁ〜」
そのまますたたっと走って行く早乙女くん。
「なんだよ、せわしない奴だなぁ」
「ホントにね」
あたし達は顔を見合わせてくすっと笑ったの。
それから、あたしは訊ねた。
「主人くん、今日の夜練はどうするの? 雪降って来ちゃったけど」
「ん? どうすっかなぁ……。シュート練習するのはやめとくか。足滑らすと危ないしな」
「そうね。それじゃ軽くランニングってところかな?」
「ああ。さて、それじゃ」
ちょうど曲がり角に来たところで、主人くんは軽く手を上げた。あたしは肩をすくめた。
「あたし、引っ越したんだけどな」
「あ、そっか。ごめんごめん。それじゃもうちょっと一緒に歩けるな」
「そうそう……」
うなずいてから、あたしははっとして、慌てて手を振った。
「ええっと、そうじゃなくて、ううん、そうなんだけど……」
「虹野さん?」
「え、あ、あははは〜」
怪訝そうな顔をする主人くん。あたしは慌てて話をそらした。
「そういえば、藤崎さんのCD、売れてるみたいね」
「え? ああ、らしいなぁ。なんだか俺も未だに実感沸かないけどな。まさか隣にアイドルが住んでるなんてなぁ」
「うん。あたしもなんだか、テレビなんかで見ても、あの藤崎さんに見えなくって」
「俺も。っていうか、俺なんて詩織の小さい頃から知ってるからなぁ。あの詩織がすまして歌ってるんだもんなぁ」
「悪うございましたわねぇ」
「へ?」
あたし達は、同時に素っ頓狂な声を上げて振りかえったの。
そこには、傘をさした藤崎さんが立ってたの。
「し、詩織? いつからそこに?」
「藤崎さんのCD売れてるみたいねぇ、って辺りから」
にこぉっと笑う藤崎さん。う、なんか怖いかも。
「あ、あたしこっちだから。じゃ主人くん、藤崎さん、おやすみなさぁい」
「わ、虹野さん、ちょっと……」
「はい、公くんはこっちねぇ。虹野さん、お休みなさいねぇ」
藤崎さん、主人くんの襟首を掴んで、あたしに軽く傘を振ったの。
あたしは、もう一度ぺこっと頭を下げて、家に帰って行ったの。
ごめんね、主人くん。
その日の夜練に、主人くんは目のまわりに青い痣を作って来ました。あたしは怖くて理由は聞けませんでした。
《続く》

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