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沙希ちゃんSS 沙希ちゃんの独り言

あたしがアイドル!?


「虹野沙希さんだね?」
 1月4日。御正月も終わって、いよいよ今日から、あたし達サッカー部も再始動!
 というわけで、ちょっと早めに学校についたあたしは、不意に後ろから呼び止められたの。
 振り返ると、ちょっと痩せた感じの、背の高い男の人が、そこにいたの。
「はい、そうですけど」
 思わずちょっと引き気味になって答えるあたし。
 そのあたしの様子を見て、その人は苦笑したの。
「おっと、失礼。怪しいものじゃないですよ。私は、王様レコードの芳川っていうものです」
 そういいながら、その人はコートのポケットから名刺を出して、あたしに渡した。
 その名刺には、こう書いてあったの。
  王様レコード 第3制作部
  プロデューサー
  芳川 太一郎
 王様レコードって、藤崎さんの所属してるところ、くらいしか記憶にないなぁ。どっちかって言えばアイドル系の強いところで、あたしの好きなロックとかは、あんまり出してないし。
「で、あたしに何の用ですか?」
 聞き返すと、芳川さんは笑みを浮かべた。
「藤崎さんは、無論知ってるよね?」
「ええ」
 こくんとうなずくあたし。
 芳川さんもうなずくと、あたしの目を見つめて言った。
「単刀直入に言おう。君には素質がある。藤崎くんと同じようにアイドルになってみないか?」
「……あたしが……ですか?」
「冗談じゃないさ。僕もそれほど暇じゃない」
「で、でも……」
 はっきり言って、頭の中はパニックになっていた。え? どうしてあたしがアイドル? だって、歌だって下手だし、別に可愛くもないし……。
「ま、その気になったら、そこに電話してくれるかな? それじゃ」
 芳川さんは、片手を上げて、スタスタと歩いていった。

「先輩! 虹野先輩!!」
「ひゃぁぁっ!!」
 耳元でいきなり叫ばれて、あたしは思わず飛び上がった。
 みのりちゃんが怪訝そうな顔をしてる。
「どうしたんですか? 校門にぼーっと突っ立って」
「え? あ、えっと……」
「あ、さてはあの小娘に何かされたんですか? もしかして、騙されて睡眠薬を嗅がされて、気がつくととても口には出せないような卑わいな写真を撮られていて、それをネタに脅されて、とても口には出せないようなあんなことやこんなことをされて、どんどん泥沼にはまっていってしまってるんですか!? 大丈夫、心配しないでくださいっ! この秋穂みのりが正義の鉄槌ゴルディオンハンマーを下してあげますっ!!」
「ちょ、ちょっとみのりちゃん。違うの、大丈夫よ」
「虹野先輩、大丈夫です。私は先輩が何をされていても、全然気にしてません。くすん、可哀想な虹野先輩……」
 みのりちゃんは両手を組んで涙ぐんでる。あーん、どうしよう?
「あれ? 虹野先輩に秋穂さん。なにしてるの?」
「……うげー、沢渡ぃ」
 今までうるうるしてたのが嘘みたいに、気分悪そうな顔をして振り返るみのりちゃん。
「せっかくいい気分だったのにぃ」
「あのな……」
「ほら、さっさと行った行った。しっしっ」
 軽く手を振って沢渡くんを追い払うみのりちゃん。
「わかったよ。でも、そろそろ時間じゃないのか?」
 そう言いながら、校舎にかかってる時計を指す沢渡くん。……って、ああーっ! もう練習が始まっちゃう!
「いっけない! みのりちゃん、部室まで走るわよっ!」
「はい、お供しますっ!」
 パタパタと駆け出すあたし達。一拍置いて、取り残されかけた沢渡くんが追いかけてくる。
「秋穂さん、待ってよ!」
「知りません!」
 ツンとそっぽを向くみのりちゃん。あ……。
 ドシィン
「ふぎゃ」
 ……よそ見して走ってたみのりちゃん。伝説の樹に正面衝突しちゃった……。あ、白目剥いちゃってる。
「秋穂さんっ! た、大変だ! 虹野先輩、どうしましょう?」
「頭ぶつけちゃったから、動かすとまずいかもしれないわ。沢渡くん、誰か先生を呼んできてくれる? 職員室に行けば誰かいると思うから。あたしはみのりちゃんを見てるわ」
「はいっ!」
 慌てて沢渡くんは校舎の方に走っていったの。

「こぶが出来ただけね。心配いらないと思うけど、念のために救急車を呼んだほうがいいかもしれないわね」
 ちょうど職員室にいた高橋先生が来てくれて、みのりちゃんを診察してくれたの。あ、高橋先生って保健の先生なの。
「みのりちゃん、大丈夫なんですか?」
「脳震とうを起こしてるだけと思うわ。それから、沢渡くんか虹野さん、どちらでもいいから、賀茂先生にも知らせておいた方がいいわよ」
 そう言って、先生は校舎の方に駆け戻っていった。
 そういえば……。
 あたしは、校舎の壁にかかっている時計を見上げる。わぁ、もう10分過ぎてる!
「沢渡くん、練習があるでしょ。あたしがみのりちゃん見てるから……」
「いえ、僕が見てますから、虹野先輩、行って下さい!」
 沢渡くんは真剣な顔で言ったの。そのほうが、いいかな。このまま部活に行かせても、沢渡くんきっと練習どころじゃないだろうし。
「それじゃ、沢渡くん、みのりちゃんをお願いね」
 あたしは立ち上がった。

 あたしは、グラウンドを見おろせる土手の上まで走ってくると、息を切らせながらグラウンドを見回す。
 いた!
 サッカー部のみんなが、用具の準備してる。……ごめんね、ほんとはあたし達の仕事なのに。
 とと、それどころじゃないんだっけ。賀茂先生は……っと。いた! 体育倉庫の前!
「賀茂先生!」
 大声で叫ぶと、あたしは土手を駆け下りた。そのまま体育倉庫の前まで駆け寄る。
 賀茂先生は、あたしの方に向き直った。
「どうした、虹野? 新年早々遅刻とは……」
「いえ、そうじゃないんです!」
 あたしは、かいつまんで事情を説明した。あ、もちろん芳川さんの話は抜いて、だけど。
 そのときになって、救急車のサイレンの音がグラウンドまで聞こえてきた。

「みのりちゃん、何ともないみたいでよかった」
「そうだね」
 あたしと主人くんは、病院を出ながら、お互いにほっと一息ついた。
 練習が終わってから、みんなで押し掛けるのもなんだなってことで、あたしと主人くんが2人でみのりちゃんのお見舞いに行くことになったの。あ、主人くんはサッカー部のキャプテンだから、なのよ。ホントに。
 お医者さんによると、CTスキャン……だっけ? とにかく色々検査したんだけど、特に異常はなかったんだって。一応、今日一日は念のために入院するけど、明日には家に戻れるって言ってた。
 みのりちゃん本人も元気そうで、あたし達が病室にお見舞いに行ってみたら、沢渡くんをこき使ってたな。あはは。
「主人くん、今日も夜練するんでしょ?」
「その予定だけど……」
「それじゃ、お弁当作って行くね」
「楽しみにしてます」
 にこっと笑って、主人くんはうなずいた。
 あ、そうだ。
「ねぇ、主人くん。藤崎さんって、家にいるのかな?」
「詩織? 確か、今日はオフだって言ってたから、いると思うけど……。何か用なの?」
「うん」
 今日のこと、藤崎さんなら色々アドバイスしてくれるかも。なんたって現役アイドルなんだもんね。
「このまま行く?」
「うーん。やっぱり、一度帰って、着替えてから行ったほうがいいかな?」
「そっか。んじゃさ、詩織が家にいるかどうか、確かめておいてあげようか?」
「あ、お願いできる?」
「任せといて。んじゃ」
 主人くんは軽く手を振って駆け出していったの。

「どうぞ。散らかってるけど」
「あ、お邪魔しまぁす」
 あたしは、藤崎さんに案内されて、お部屋に入れてもらったの。
 わぁ、なんだかとっても普通の部屋だぁ。……だって、藤崎さんの部屋って、なんか特別な感じがしない? ねぇ?
「ちょっとその辺りで楽にしててね。今お茶煎れてくるから」
「あ、おかまいなく」
 あたしは声を掛けたけど、藤崎さんは軽く笑って1階に降りていったの。
 仕方なく、あたしはベッドに腰掛けて、部屋を見回した。
 あ、窓から主人くんの家が見える。そっか、お隣さんだもんね。
 あれ?
 タンスの上に、フォトスタンドが立ててあったの。あたしは思わず覗き込んでた。
 ……誰だろ、この人?
 若い……と言っても、あたし達よりは年上みたいだから、二十歳前後くらいかな? それくらいの齢の男の人が、笑ってる。
 主人くんとは全然違う人だったから、ちょっとほっとしたりして。
 あ、そういえば……。

「虹野さん、私……、好きな人がいるの」

「その人のために、私は決めたの。アイドルになって、輝いてみせるって。彼のために、そして、私自身のために」

 前に、藤崎さん、そんなこと言ってたっけ。それじゃ、この人が……?
 と。
 トントントントン
 階段を上がってくる足音が聞こえて、あたしは慌ててベッドに座りなおした。
 ドアが開いて、藤崎さんが入ってくる。
「お待たせ。……どうかしたの?」
 あたしが息を弾ませてたから、藤崎さんはきょとんとしてあたしに訊ねた。あたしは慌てて手を振る。
「ななんでもないんだもん」
「そ、そう? あ、どうぞ」
 藤崎さんはサイドテーブルに紅茶とクッキーを並べてくれた。
 この香りは……。
「ダージリン……じゃない。オレンジペコでしょ?」
「虹野さん、紅茶にも詳しいんだ。さすがだなぁ」
 藤崎さんにそんなこと言われると、照れちゃうなぁ。
「で、相談したい事って、なぁに?」
 サイドテーブルの、あたしの向かい側に座って、藤崎さんは訊ねた。
「ごめんね、せっかくのお休みなのに……」
「ううん。暇を持て余してたから。駄目よね、忙しいとゆとりが無くなっちゃって」
 苦笑する藤崎さん。
 あたしは、ティーカップをテーブルに置いた。
「あのね、実は……、今朝なんだけど……」

「芳川さんが?」
 藤崎さん、きょとんとしてあたしに聞き返した。あたしはコクンとうなずいて、ポケットからもらった名刺を出した。
「ちょっと、見せてね」
 藤崎さんは名刺を受け取ると、じっくりとひっくり返したりしながら見て、あたしに返してくれた。
「本物みたいだけど……。ちょっと待ってね。確かめてみるから」
 そう言って、藤崎さんは立ち上がった。電話機を取って、番号を押してる。
「……あ、もしもし、おはようございます。藤崎ですが……。ええ、藤崎詩織です。下柳さんお願いします。……ええ、そちらにいらっしゃるはずですが……。はい」
 そこまで言って、ちょっと待ってるみたい。
「下柳さん?」
 あたしが訊ねると、藤崎さんは受話器を手で覆ってあたしに答えてくれたの。
「あ、私のマネージャーしてくれてる人なの。……あ、もしもし、下柳さん? おはようございます、藤崎です。……いえ、そうじゃなくて、ちょっと確かめたいことがありまして、王様レコードの芳川さんと連絡を取りたいんですけど。……ええ、第3制作部の芳川さんです。……はい、お願いします」
 直接確かめてくれるみたい。やっぱり、頼りになるんだなぁ。
 あたしが感心してると、藤崎さんは一旦電話を切って、こっちを向いた。
「ちょっと待っててね。今捜してもらってるから」
「ありがとう」
「で、虹野さんはどうするの?」
「……え?」
「スカウトが本物だったとして、アイドルになろうと思ってる?」
 あたしはブンブンと首を振った。
「そりゃ、あたしだって普通の女の子だもの。芸能界に憧れたことだってあったわ。でも、藤崎さんを見てると、芸能界って大変なんだって判るし、それにあたし……」
「公くんのお世話はやめられないし?」
「うん……。あ……」
 はっと気付いて、真っ赤になると、あたしは藤崎さんを睨んだ。
「藤崎さん!」
「うふふ、ごめんなさい」
 笑って謝る藤崎さん。うーっ、なんか悔しいよぉ。

 結局、夕方になっても、芳川さんがつかまらなかったのか、連絡は来なかったの。これ以上遅くなっても仕方ないから、藤崎さんが調べておいてあげるって言ってくれたのに甘えて、あたしは藤崎さんの家を出たの。
 玄関先で、藤崎さんは悪戯っぽく笑って言ったの。
「でも、虹野さんが芸能界入りしないって聞いて、ちょっと安心してたりして」
「え?」
「だって、強力なライバルになりそうだもの」
 そう言って、藤崎さんは肩をすくめた。
「これ以上、ライバルが増えちゃたまらないわ」
「うん、あたしはライバルにならないから、安心してね」
 あたしは苦笑しながら答えたの。……もしあたしが芸能界に入っても、とても藤崎さんのライバルにはなれないなって思いながら。
 後日。
 本当に芳川さんが王様レコードの人で、あたしをスカウトに来たって判ったので、あたしは電話でお断りした。
 そして、その翌日から、3学期が始まったの。

《続く》

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